ステップアップラブ 1話

越前リョーマは時折、鋭い眼差しで徳川を捉えている。

その視線は、試合中に見せる目と似ているようで異なっていた。

その瞳をしている時、たとえ徳川がリョーマを視界に入れていなくても、何となく察するようになってしまった。

――ああ、またか。

心の中で呟く。

決して嫌ではないし、不快でもない。ただ、徳川には対処の仕様がなくて、どうしたって無言になってしまうのだ。

ただでさえ口数の少ない男だというのに、これではますます会話が減ってしまう。そうしたい訳ではないのに、徳川は正直戸惑っていたのだった。

「ねえ、徳川さん」

徳川の背中にリョーマの声が刺さる。

いつもと変わらぬ様子で振り向けばいいのに、身体が緊張して動かない。

「…………」

「ねえってば」

すぐそばにリョーマの気配を感じて、徳川は無意識に自らの掌を眺めた。体温が上昇している為、血色が良い。

「……大丈夫?」

左腕に感触が乗る。筋肉がぐっと強張った。徳川は首を傾けず、視線だけで左腕のあたりを確認した。

リョーマは自然と上目遣いになっている。驚くほど大きな眼が徳川をのぞき込んでいる。

――やっぱり、そうだ。

良いものでも悪いものでも、徳川の大抵の予感は当たる。徳川自身がコントロールしようとしても、予感は冴えるものであって自在に操れない。

リョーマの瞳には、勝負事に対する熱を帯びたぎらぎらとした炎が宿っている。

合宿所の夜、夕食を終え、それぞれが過ごせる数少ない自由時間。

今現在、自室には徳川とリョーマの二人しかいない。

それが好いている相手、ましてや『お付き合い』をしている同士ならば、年頃の青少年には当然の欲が湧くものである。

つい数分前まで、和やかに会話を楽しんでいたはずだった。

穏やかな空気の中、互いの仲を深める時間。

徳川にとってもリョーマにとってもそういった時間だったはずだ。

それがいつどこでリョーマのスイッチが入ったのかが、徳川には全く分からない。

普段、リョーマは感情の起伏がクールでゆるやかで、いつも眠そうにしている。唯一、リョーマの情熱が向かう先はテニスだった。

たったひとつでも、真剣に本気になれるものがある人間は強く、魅力的だった。

そんな所が徳川は気に入っていて、尊敬もしていた。

ただ、その情熱を向けられるのはコート上であって、ネットを挟まない今ではないのだと思っていたかった。

確かに、徳川からリョーマに交際を申し込んだのだった。正確には交際というより、好意を示したに過ぎなかった。それをリョーマは「付き合うこと」と解釈した。

間違ってはいない。

確かに好意を受け入れて貰うのは、人間として喜ばしい行いだと徳川も認めていた。

しかし、その先の段階まで考えが及ばなかったのだった。

十七年間生きてきて、物心がつく頃から高校生の今まで徳川は異性から――時には同性からも――散々恋心を向けられ、想いの丈を告白されてきた。

しかし、自分にはやるべきこと、やりたいこと、目標や夢があると言い、全て断ってきた。

それに他人に対して、ましてや異性に対して『特別な感情』を抱いた記憶が無い。

絶対に勝ちたい相手、負けたくない相手、自身が命をかけるほどのテニスでの他者に対する感情がいくらかはあるものの、 いわゆる恋愛感情とは無縁であった。

一般的に高校二年生ならば、初めて恋人ができる年齢であるだろうし、初恋が未経験でもおかしくはない。

ただ恋愛に無頓着であるあまり、誰かに対する「好き」の先を想像もしていなかった。事恋愛観においては非常に稚拙な状態であった。

おそらく恋愛観なら、リョーマの方がよほど年相応に考えている。

「座ったら?」

いつまでも黙って立ったままの徳川を、リョーマは座るよう促した。

引っ張る先は二段ベッドの下だ。

――ベッドの上…………。

「いや……椅子でいい」

机の前にある大して座り心地のよくない椅子に、徳川はぎこちなく腰かけた。合宿所の共用の椅子は硬くて評判が悪い。二年目ともなれば、合宿所に参加する高校生らはクッショ
ンなり座布団なり各自で用意するくらいだった。

真面目で優等生の徳川はあまり多くの荷物を持ち込まない。

見かねた鬼は、ありあわせの布で作った座布団を貸してくれている。

徳川は居直ってリョーマと視線を合わせた。

立っているリョーマにわずかに見下ろされる形になる。

「ふーん、別にそっちでもいいけど」

相変わらずリョーマは挑発的な表情をしていて、何だか徳川は捕食動物のような気分になってきていた。

うさぎか、あるいは鹿か。それともねずみか。

影が落ちてきて、徳川の真上にリョーマの顔があった。

立ったままのリョーマが徳川の両肩を持つ。

「えちぜ……ん、くん」

いや、そんな、まさか。そんなはずでは。

単語が口から出てこないかわりに脳内でぐるぐると回っている。

「黙って」

顔が落ちてくる。

瞳が、睫毛が、鼻先が、唇が迫ってくる。

ふかふかとしたものが、徳川自身の感じやすい箇所にあたった。

「…………」

黙って、と言われたので徳川は口を閉じていた。

リョーマの唇も同じくぴっちり閉じ切っていて、まさに「唇が合わさった」だけのキスだった。

一秒、二秒、……何をすべきかと徳川が考えあぐねている間に、リョーマの吐息がふと漏れた。

そうして唇が離されたのだとはじめて知った。

「変なカオ」

開口一番に、徳川はそう言われてしまった。リョーマは少しだけ照れたように、指先で自分の唇に触れていた。

遅れて、徳川は全身の血流が一気に駆け上がってくる感覚に陥った。実際、顔面は赤く染まっていき、耳や首もとまで色が変わっていった。

キスとは、言葉として知っているし、海外生活の中で身に覚えもある。挨拶で人からされたこともある。それでも口唇にする行為は、恋人や夫婦がするものだと理解している。

付き合うということは、相手にとって自分が彼氏で、恋人であるということだ。

恋人とは、家族や友達とは違う。

「もしかしてさ、初めてだった?」

徳川の妙に初心な反応をみて、リョーマは面白そうに笑って訊いた。

肯定も否定もしない徳川の膝をリョーマは跨ぐ。それから、その身ごと徳川に乗せてきた。

「……ッ! 越前くん!」

その類の事柄にいくら鈍い徳川でも、この体勢が不健全であるらしいとは分かる。

「何?」

意味を含む微笑みが向けられ、徳川は逃げられないと分かっていても、背もたれに体をいっぱいに預けていた。

「キスもしたこと無いんだったら、しょうがないか」

リョーマは片腕を徳川の首に絡ませて独り言のように囁いた。

――何が仕様が無いんだ。何をしようとしているんだ。俺は一体どうすれば……!

先程から徳川は赤くなったり青くなったりと忙しい。

表情こそ大きく変化はないものの、心情は読み取れる。

今はきっとすごく困っているに違いない、とリョーマは踏んでいて、相違なかった。

「別に急に取って食べたりしないよ。そんなに怯えなくてもいいじゃん」

「取って……食べる……?」

深読みに裏読みを重ねて、言葉の意図を組めずに、徳川はただリョーマに言われたことを繰り返すだけになってしまう。

「落ち着いてよ、徳川さん」

「落ち着けと言われても……ひとまず退いてくれないか」

リョーマの身体に触れるのを躊躇って、無理に降ろすことも徳川には出来なかった。

何だか怖かった。キスをされてから、余計に徳川は自分からは触れられないと思ってしまった。自分の手が相手の体に触れることが、欲の意を持つのと同じに思えたからだ。

欲望の詳細を頭の中に描くのは何とか踏み止まっている。具体的なイメージを想像するのも、後ろめたかった。

「やだ」

「……やだじゃない。子どもみたいなことを言わないでくれ」

「いいじゃん、俺あんたより年下なんだし」

「その理屈が分からない。座るならここじゃなくてもいいだろう」

目をそらしてしまった徳川に、我儘は通用しないようだった。

「じゃあ徳川さんも別の所に座ってよ。だったら、おりてもいいよ」

「……いいよ。降りてくれ」

口に出してすぐに、徳川は嵌められたと気づいた。早々に膝から降りたリョーマは勝ち誇ったように笑う。

「じゃあ、こっちに座ってよ」

リョーマが指定してきたのは、やはり下段のベッドであった。

徳川という男は、融通が利かない性分である。

他者に対しての生真面目さもさることながら、勿論自分自身に対しても、誤魔化しや嘘がつけない性格をしている。

会話上の軽いやりとりであっても、約束をしてしまったなら、反故にはできなかった。

その性格を知った上で、リョーマはけしかけたのだった。

「座ればいいんだろう」

先にベッドのふちに腰かけているリョーマに向けて、重々しく言い、緊張感のある足取りで徳川が進み出す。

普段使いなれている、何度も夜を過ごしてきた寝台。

見慣れた日常の部屋の中にいるリョーマは、今の徳川にとって不自然な存在だった。

体ひとつ分、離れた位置に徳川はすぐ立ち上がれるように、浅く座った。

「……遠いよ」

不満を漏らしたリョーマは座ったままの体勢で、ベッドの端にいる徳川に寄った。

またしても逃げ場のない徳川は、ベッドの柱に身を傾けるしかなかった。

「あのさ、徳川さん」

「な……何だい?」

「俺のことキライなわけ?」

徳川の心臓の中心を針で刺されたみたいな衝撃が、ずきんと痛みを与える。

肉体的な痛みと、精神的な痛みが混同して、傷も無いのに血が流れ出る感覚があった。

「き……、嫌いなものか! なんでそんな……」

「だってさ、俺が近づくと避けるじゃん……今日だけじゃないよ。前から……わりとそうだったし」

徳川は心底申し訳ないと、謝りたい気持ちで一杯になっていた。けれどその為の言葉は、その場しのぎの軽々しい謝罪にしかならないと思った。

『ごめん』と言ったところで自分の保身にしかならない。

「今も、嫌だって思ってる?」

ずっと徳川の目を見て話していた自信のあるリョーマは、もう居なかった。少し目をそらして、俯く姿は寂し気な少年だった。

正直に素直に、真っすぐに伝えてくれていた感情を、遠ざけようと避けようとしていた自分に徳川は恥ずかしくなった。

経験がないから、自分の情と欲望を認めるのが照れ臭かったから、自信がないから。いくらでも言い訳できる自分に腹が立つ。

「嫌だと思ったことなんて、一度だって無いよ。俺は……その」

俯いていた顔をあげて、リョーマはもう一度徳川の目を見つめる。そのまま黙って耳を傾けている。

「君が……そういった意味で、俺を見ているなんて思いもしなかったし、だからとても意識してしまって、うまく立ち回れなかったんだ」

「そういった意味って?」

言葉を濁す徳川に対して、リョーマが詰め寄る。寂し気だった表情はすでに消えかけている。

「それは、その」

「どういうこと? 何?」

「その……だから、さっきみたいなこととか」

「さっきみたいなことって何? どれのこと?」

答えに詰まる徳川に勢いでリョーマがぐいぐいと迫っていく。体ごと寄せたリョーマの片手が、徳川の太ももに乗せられた。

「……キス、しただろ……。そういうことは、そういうことだ」

何故こんなことを言わされているのだろう、と徳川は羞恥心にまみれている。

「キスだけじゃないよ」

徳川の肩口にリョーマの頬が触れた。

「それ以上だって、俺はしたいけど」

必死に徳川が押し込めていた禁忌の想像を、現実のリョーマは平然と超えてくる。

「君には、まだ早いよ」

「そう?」

徳川の太ももに乗るリョーマの手の熱が、布越しに伝わってくる。触れられている部分に意識が集中した。

「興味本位とかじゃないし、俺は遊びでなんかしないよ」

「そう……か。それは良いことだと思うよ」

服で覆われている徳川の肌から汗が噴き出してくる。露出している皮膚には汗は見られないが、実際は体温も上昇し、動悸がしている。

「コレも高校生の……三年生の人達から貰ったし」

リョーマはハーフパンツのポケットから何かを取り出して、徳川に見せた。

「……な……っ! これは……誰に!?」

「誰っていうか、三年の人達。誰からだろう。なんかいっぱいいたし、ポケットに無理やり入れられたんだよね。あ、鬼さんはいなかったよ」

個包装のブリスターパックに入った、どこからどうみても正真正銘のコンドームそのものだった。

実は、徳川も三年らに無理やりコンドームを渡されたことがある。今も引き出しの奥に仕舞ってあるはずだ。

それはリョーマと付き合う以前のことで、男子特有のセクハラ染みた悪ふざけのひとつだった。

「……はあ……まさか中学生にまでそんなことしてるのか……。今度注意しておくよ」

「ん、別にいいよ。だって、使うんでしょ?」

「え……っ」

「それとも使わないの?」

「…………俺が、か?」

「うん」

はい、と手渡され、徳川は反射的に受け取ってしまった。

リョーマのポケットに入れられていたからか、少し温かい――などと若干気味の悪い感想を徳川は抱いてしまった。

ブリスターパックには『サ〇ミオリジナル オモテ側』と明記されていた。

しばらく逡巡した後、正気に戻った徳川が手の中のゴムを見つめた。

「いや、使うとか使わないではなく。今すべきことでは」

「ああ、もしかして使い方知らない?」

五才も年下の中学生に性知識を教わるほど、流石に徳川も無知ではない。相手がいる行為に対して経験不足であっても、一般常識としての学びがある。

「俺がつけてあげるから、安心していいよ」

「そんなこと面倒みなくていい」

「せっかく覚えてきたんだけど」

結局リョーマに翻弄されっぱなしになってしまう。こんなやりとりもからかいの一種なのだ。徳川の反応をみて楽しんでいるだけに過ぎない。

徳川は仕方がないと思うことにした。

性への興味も、混じる冗談も、健全に成長している中学生男子なら当たり前のもので、止めたところで無駄なのだから。

「じゃあさ、つけるところ見せてよ」

「……え?」

「出来るんでしょ?」

「いや、越前くん、そういうことじゃない……」

「俺の前じゃ、イヤ?」

この尋ね方をすると、徳川が断りにくくなるのだとリョーマは学習してしまった。

「君が嫌ではない……、そうじゃなくて」

「俺じゃ勃たない?」

「………………」

明らかな絶句であった。

特別、徳川はリョーマに幻想を抱いていたつもりもないが、『弟のように思っている子』に淫らなことを言わせてしまった自分に嫌気が差した。

「そんな台詞、誰に教わるんだ」

「……ナイショ」

家庭環境的に、ポルノにオープンな父親がいる為、幼少期意味も分からずエロ雑誌やエロ漫画を目にしたものである。

そのいった情報は知らずにリョーマの中に蓄積されて、いざと言う時、まさに今がその時なのだが、つい口から出てしまうのだった。

少女が年上の男性を、自分じゃ相手にならないかと問い詰めた時の誘い文句だった。

リョーマもまさか自分が少女の立場になって言うとは、思いもしなかった。

「答えてくれないんだったら」

徳川は非常にバランスを崩しやすい座り方をしていた。浅く腰かけていたのが悪かった。

肩を押されると、徳川はベッドの布団の上に寝ころんでしまった。

「そこで黙ってじっとしててよ」

まさか自分のベッドの上で、リョーマの顔を見上げる羽目になるとは、徳川は夢にも思わなかった。

現実は、甘くて厳しく、都合が良すぎた。

「え、越前くん!」

慌てて起き上がろうとする徳川の腹の上にリョーマは跨った。この体勢は、先ほど椅子に座っていた時よりも危ない気がする。

「ダメ、黙ってじっとしててって言ったじゃん」

徳川よりもひとまわりも小さい手が、Tシャツの上をまさぐる。

「かた……これ筋肉?」

「越前くん、やめよう……本当に」

 刺激の強すぎる光景に、思わず徳川は顔を覆った。直視できない。脳内処理が追い付かない。

「頼むから」

 自ら手を伸ばせない徳川は、弱弱しく懇願するしかなかった。参った。こればかりは降参するしか術がない。

「何だよ、俺があんたのこといじめてるみたいじゃん」

「違うよ、そうじゃなくて」

 口下手で口数が少ない徳川の性分が招いた結果だった。

 言わなければ伝わらない。

 分からないからすれ違う。

 物事は俯瞰でみればシンプルだ。

「大事にしたい。俺は君を大切にしたいんだよ……こんな急くような風にしたくない」

 目元が腕で覆われていて、徳川の表情のすべては知り得なかった。ただ今まで聞いたことのない切ない声色に、リョーマは徳川の本心なのだと理解した。

「大事にってさ、待たされるってことじゃん。あんたは、俺からいかなきゃ何にもしないのに」

 十代にとっての年の差は、大人たちに比べたら、ひとつでも大きい。それが五才も離れていれば、その距離は遠く感じるものだった。追いつきたいのに、叶わない。

体も心も能力も、劣っていたくない。

子どもや年下扱いされるのが嫌いなリョーマにとって、大切にしたいというのは守られている感覚に似ていて、不満だった。

「越前くん……」

 腕を解いて、徳川は上半身を起こした。

 納得がいかないと口を結んだリョーマは、やはり弟のように可愛らしく映る。そう思われるのはリョーマには不本意なのだろうが、徳川は微笑ましく感じた。

「焦らなくていい。最初だからこそ、俺はきちんとしたい」

「それっていつになるの」

 訊いてばかりいる自分こそ、リョーマは幼いと自覚する。それでも答えを欲しがってしまう。

「……そうだな。来週の休みまで待ってくれるかい?」

 意外な返答だった。またはぐらかされるものばかりだとリョーマは予想していたからだ。

「午前中に自主練をする時間にあてるから、午後をあける。越前くんの予定はどうだい」

「練習するだけだし。あいてる」

「そうかい、良かった。約束するよ」

「……うん」

 日時が定められると、意識が強まった。

 奇妙な空気が互いの間に流れる。

「あのさ……徳川さん」

 今も徳川の上に乗っているリョーマが少し躊躇ってから訊いた。

「一個だけ、いい?」

「……? 何だい?」

 強引に事を進めようとしていたリョーマが、わざわざ了承を得ようとしている。徳川は向き直って背を正した。

「ぎゅってするのは、今はしちゃダメ?」

 自らキスをするのは恥ずかしくないのに、抱擁をねだるのはリョーマには照れ臭いようだ。

 思わず徳川は奥歯を噛みしめた。表情がゆるんでしまう気がする。

「……いいよ」

 まだ徳川は積極的に接触ができない。腕を開いて、リョーマを迎えた。

「……ん」

 徳川の膝の上に乗っているリョーマは、体を彼の胸板に預けた。それから両腕で体躯を抱きしめる。

「ねえ、俺だけ? 徳川さんもぎゅってしてよ」

「……う、……ああ」

 降りていた腕がおずおずとリョーマの背に触れる。

 人のぬくもりがある。まだまだ成長途中の華奢な体つきをしている。

 柔らかく抱きしめると、ふとリョーマの髪の香りが徳川に伝わってきた。

――まずい。

 じわ、と背中に汗をかく。この感覚が嫌な予感しかしなかった。

「越前くん……」

「もうちょっとだけ」

 眠そうな声をして、安心しきった風にリョーマは徳川に包まれている。

 反対に徳川は変化を悟られぬよう、細心の注意を払っていた。非常にまずいことになってきている。下半身に血流が集まっているのだ。

 血気盛んな年頃の男なら、身に覚えがありすぎる感覚だ。

――こんな時くらい自制が利いてくれ。

「越前くん……っ!」

 もうこれ以上は危険だと徳川が身を離そうとした瞬間。

「ただいまあ!」

 部屋の扉は開かれて、機嫌の良い声が響いた。

「……わあ……何やってんの、徳川くん」

 夜な夜な、サックスの練習に出かけている同室の入江が帰ってきたのだった。

「入江さん! いや、これは……!」

「おやおや……ええ?」

 リョーマはぼんやりしかける中で、聞きなれない声に気づき、振り返った。

 入江の視界の中には、ベッドの上で抱き合っている二人がいる。どこからどう見ても、言い訳のしようのない体勢だ。

「……あ、どうもっす」

「越前くん……、こんばんは」

 軽く会釈をし合って、挨拶を交わした。入江は状況を観察した。着衣に乱れはないと見え、未遂と決定づけた。

「じゃあ、お邪魔しました」

「えっ、ああ……気を付けてー」

 リョーマはまるで何事もなかったかのようにその場から立ち上がると、平然と部屋から出て行ってしまった。

 表情も声も態度も、いつもの越前リョーマだった。

「………………」

 残された徳川は唖然としていた。体勢は、リョーマが居た部分が抜けただけで保たれている。

「徳川くん……君さあ」

入江は口調こそ先輩らしくアドバイスを装っている。しかし眼鏡の奥ににやけた目があった。

「違います。本当に誤解です」

 我に返った徳川はベッドから抜け出て、入江の前に立つ。

「君たちが仲が良いのは分かってたけどさあ……」

 明らかに愉快そうにして入江は口元を隠す。

「わ、分かってたんですか……?」

 むしろ何故ばれていないと思っていたのかが、入江には疑問だった。

 誰が見たって、懇意にしているはばればれだっただろうに。

「やっぱり徳川くんもちゃんと高校二年生なんだなあ」

 後輩の年相応の姿が垣間見れ、入江は満足そうだった。

 ずっと気を張り詰めて徳川が生きてきたのを、わずかながら見てきている。

 いつか誰かが、徳川の心をいやすような、安心できるような人が見つかるといいなとどこかで入江は思っていた。

「まあ、場所と時間は……ちゃんとした方がいいよ。これは大真面目に」

「……はい」

 声色は急にトーンが下がって、先輩らしく入江は注意した。

 その正論に徳川は返事をするしかなかったのだった。