ステップアップラブ 2話

「入江さんは何とも思わないんですか」

 外から帰ってきたばかりの入江は、私服のコートをハンガーにかけている。その背中に、唐突に疑問が投げられた。

「なんともって、何?」

 この数年の付き合いで、徳川の突拍子も無い会話には慣れたものだった。基本的に頭の中で考え過ぎる傾向が強い彼は、時に他者との会話が成立しない。

 特にこの合宿に中学生が増えてから、後輩たちと噛み合っていない様子を幾度となく入江は目にしてきて、何度もフォローに回ることがあった。

「……いえ」

 振り返った入江は、徳川の顔や仕草をよく観察した。

 徳川はベッドに腰かけたまま、考え事をするときにする癖、口元を手で覆って俯いている。話したいけれど、うまく言い表せない時によくしている姿だった。

「普通じゃない、ですよね」

 何故か申し訳なさそうな声色をしている。何に対して彼が罪悪感を持っているのかが、入江には分からなかった。

 返答は慎重にならなければいけないな、と入江は事を捉えた。

「徳川くんが思ってる普通って何だろう?」

「……え?」

「たとえば?」

 おおよその予想はついている。徳川が真に聞き出したい意味と、彼自身の悩みの本質。

「例えばですか。……俺には家族がいて、両親がいて、姉がいて、祖父母がいて、先祖がいます」

「……ん? うん」

 おや? 思っていた内容と違うなあ、と入江は首を傾げたが、そのまま徳川の独白のような話を続けさせた。

「だから、俺もその系譜の中にいるのだと」

 入江は部屋着に着替え、自分の椅子に腰かけた。

 徳川が言おうとしている内容は、思考を重ねながら言葉を選んでいる彼の表情から読み取れる。

「うーん、そうだな……。徳川くんにとって、お父さんやお母さんがいることって普通なんだよね?」

「ええ、そうですね」

「お父さんとお母さんがいて、キミやお姉さんがいる」

「はい」

 至って真面目な顔をして、徳川は返事をしている。

「普通であるって思うことに対して、何か疑問を持ったりする?」

「普通であることに疑問ですか?」

「そう。お父さんとお母さんがいることに対して、何か思うことってあった?」

「いえ、特には」

「そう、それだよ!」

 入江は、脳内で組み立てていた台詞を引き出せた自分にある種の快感を覚える。

 入江自らの回答を、徳川の口から言わしめたのだ。

「キミが最初に訊いてきた「何とも思わないんですか?」に対して、それがボクの答えなんだよ」

「特に何も無いってことですか」

「うん。そう。だって《普通》じゃない?」

「そう、なんですか」

「そうだよ。普通。だからボクは何とも思わない。キミがご両親に対して、好き合ってるなんておかしい! 家族であるなんて変だ! なーんて思いもしないのと同じさ」

 心のどこかで、偏見や体裁を意識していたに違いない。

 おかしい、変だ、という単語に対しての反応がみられたからだ。

 おそらく徳川が欲しかった答えを入江は出せたのだろう。

 その考え方は、決して入江が徳川に肩入れしたからではなかった。

 確かに徳川はかわいい後輩で、他の選手よりも贔屓している自覚はある。それでも、入江自身の持論として、自分が正しいと思った答えを導いただけに過ぎない。
 
 異性同士でも同性同士でも、互いが好き合っているなら何の問題があるのだろう。
 
 ここまで十代で達観している者は少ない。入江は特殊な方だった。

 恋愛をろくに経験していない徳川なら、今の状況を深刻に抱え込んでも仕方ないのかもしれない。

――きっと徳川くんのことだから、思考がぶっ飛んで越前くんの将来にまで悩んでいるに違いない……。きっと越前くんの方はそんな悩みなんて持ってないだろうにね。それより
も、もっと目の前の相手を見てあげればいいのに。

 頭に浮かんだお節介なアドバイスを呑みこんで、入江は頷いた。

 きっと今の徳川は一握りの安心感を得て、ほんのわずかに恋愛観を前進させたに違いない。

「生暖かい目で見守ろう、それが彼の為だ」、と入江は不自然な微笑を徳川に向けていた。

「何ですか」

「まあまあ、気にしないで。さて、よいこはもう寝る時間だったね。おやすみー」

 あまり入江の演技を見抜けない徳川でも、流石に作り込んだアルカイックスマイルを不審がった。誤魔化すように入江は部屋の電気を落として、早々にベッドに潜り込んでしま
った。

「……おやすみなさい」

 部屋が暗くなったので、否応なしに徳川も横になった。

 明日も早い。目を閉じれば、すぐに眠りの時間が訪れるはずだった。

 先刻までここにリョーマがいた。このベッドの上にいたのだった。徳川の上に乗って。

 思い出してしまった瞬間、鼻腔にリョーマの香りが蘇ってくる。

 記憶に刻まれた感覚は、意識するとより強く再現された。

 声や肌の温度や、表情のひとつひとつが徳川の中で思い出されていく。

「……はあ」

 疾うに視界は闇の中でも、思わず徳川は自らの手で目元を塞いだ。ため息が出て、ずんと体が重くなるのを感じた。

 そういった意味で見ているのは、一体誰なんだ。

 自分が一番下心を持っているんじゃないか。

 徳川は自制の利かない肉体に怒りを覚えながら、ひたすら鎮まるのをじっと堪えるばかりだった。

 相部屋で自涜をするほど、浅ましくはない。




 短い睡眠を繰り返した後、徳川はいつもより早く目が覚めてしまった。

 ほとんど眠れていない。身体に疲労感が残っている。頭も冴えない。

 しかし日々のスケジュールはきっちり決められていて、目覚めたならいつも通りこなすだけだ。

 入江はまだ眠っているのが、寝息から分かる。

 起こさないように静かに身支度を整えて、徳川は朝のランニングに出発した。

 早朝のランニングに励む者は少なからずいる。

 大体は決まった選手が目につく。軽く挨拶を交わしながら走っていく。

「徳川」

 十分ほど走っていると、後ろから聞きなれた声がかかった。

「鬼さん、おはようございます」

「おう、おはようさん。今日も早いな」

 追いついた鬼が徳川の隣に並んだ。

 鬼は決まった曜日だけランニングをしていて、走らない日はそばの山でのトレーニングをしていると聞いている。

「入江はまだ寝てるのか」

「はい」

「あいつ夜型なの直そうとしないもんな」

「遅くに外出していますから」

「まあ別にいいんだけどよ」

 二人が隣り合って走り出すと、自然と入江の話題になる。

 三人の仲が良いため、誰か一人が欠ければ話題の種は足りない人物になりがちだ。

 そうしてしばらく談笑しながら走って行った。

 汗をかいて、体温が充分に上がった頃、徳川は一呼吸置いてから声をかけた。

「鬼さん」

「なんだ?」

「今、付き合ってる人はいますか?」

「……なんだぁ⁉ ど、どうした徳川」

 驚いた勢いで鬼は転びそうになった。おおよそ徳川の口から放たれる疑問として、一番らしくない問いかけだった。

「お前さんからそんなこと聞かれるとは思わなかったぜ」

「驚かせてすみません」

 走りながら徳川は真剣な眼差しで鬼に謝罪する。

 冷やかしや軽口を言うタイプではないと、鬼は徳川をそう判断している。

 表情はいつも通りの徳川で、疑問も真面目に尋ねたものだろう。ここは正直に答えるべきだと鬼は考えた。

「今はいない」

「昔はいたんですね」

「……まあな」

 男二人並んでランニングしながらする話ではないだろうと、鬼は背中がむず痒くなったが、おそらく徳川が尋ねたいのはもっと違う話なのだと察する。

「どのくらいお付き合いされてましたか」

「どのくらいか、……どうだったかな」

「覚えていない?」

「いや。いつ付き合い始めて、いつに別れたか、はっきりしない」

「そういうものですか?」

「昔からの連れだったからな。気づいたらそばにいて、俺がこっち来る時に、な」

 鬼の横顔は笑っていたが、徳川はあまりに無配慮だったと自身の言動を悔いた。

「……すみません」

「謝らなくていい。……俺がテニスを選んだから。それだけのことよ」

 これ以上尋ねるのは憚れる気がして、徳川は口を噤んだ。

 その気配を悟って、鬼は徳川の背を軽く叩いてやった。

「お前にしては珍しい話をするから驚いたが、何か俺に訊きたいんじゃないのか?」

 鬼の大らかさを表したような笑顔に、徳川は困った風に眉を下げて微笑する。視線が下がり、声のトーンが低くなる。

「あの……平均的な日数として、たとえば手を繋ぐのは大体付き合ってどのくらいなんでしょうか」

「平均的な日数かあ」

「一週間くらいでしょうか」

「一週間……? いや、それはまあ……人によるんじゃないか」

「そうですか」

――気になる相手でもいるのか? それとも、そういう仲の奴がいるのか?

 喉から出かかる質問を一旦押し込めて、徳川の問題に鬼はひとつひとつ答えていった。

「付き合う前から繋いでる場合もあるから一概には言えんが」

「そうなんですか?」

「友達だったとか幼馴染だとかあるだろ」

「確かにそうですね。」

 鬼は実体験の話を、一例として挙げた。

 昔からの連れとは、所謂幼馴染だった。物心つく前から一緒に育ってきた相手だった。手など、意識する前からいくらでも繋いでいたものだ。

「……だ、抱きしめたりとかは」

「それも友達だったらしてる場合もあるしな」

「一か月くらいでしょうか」

「どうだろうなあ」

 鬼は人の恋愛事情に詳しい方ではない。

 高校生ともなれば、周囲がそれなりに恋愛経験をしている。周りで付き合った、別れたの話は耳にするものの、事細かに詳細まで聞き出したりしない。

 誰がいつ何をしたかなんて、その人物がよほど惚気たい者でなければ詳しくは知りもしないし、聞いたところで右から左へと流れていくものだ。

「……鬼さん、あの……その先は、どのくらいがいいんでしょうか」

「先って、……あー……ええと、分かった、言うな」

 互いの目線は正面を向いている。

 鬼は横目で徳川を確かめると、その顔色はあまり見かけない色をしている。

 あれは照れているのではない。恥ずかしいことを聞いている自覚のある表情だ。

「以前見た雑誌には、たしか大体三か月って書いてあったな」

「三か月……」

 誰かが所内に持ち込んだ、男性向けのファッション雑誌にはそう書いてあった。

 ファッション情報の間に、恋愛や女性に関するアンケートやコラムが載っているページがあった。

 高校生や大学生の男子が、付き合っている人に関する意見や疑問や、不満や愚痴、たまに自慢が面白おかしく、誇張されて書かれていた。

 どこまで本当かどうかは定かではないが、アンケート結果は平均値がなのだから、それが一般的な感覚であるのは違いないと鬼は思った。

「でもな、結局一番大事なのは、付き合ってる同士の気持ちだから。どっちか一方だけじゃ成り立たないだろ。だから互いの気持ちが一番重要なんじゃないか」

 数字の情報も、他人の経験談も、あくまで参考にしかならない。

 平均を目指しても仕方ない。普通であることは、案外難しい。

「周りの人がどうかより、相手と自分の気持ちに向き合わないとな」

「やっぱり、鬼さんは大人ですね」

 鬼の言葉の奥には、誰かの受け売りではない、自身の意思による強さがあった。

 鬼が慕われる理由のひとつには、そういった心の強さがあると徳川は考える。

「何だよ、お前まで俺のこと老けてるって言うのか?」

「違いますよ。考え方が大人だって言ってるんです」

 鬼はおどけたように徳川の肩にぶつかってきた。少しだけ笑って徳川は鬼と顔を見合わせた。



 他者からの目を恐れている?

 一般的な普通に成りたがっている?

 何が正解かが分からないし、自分が本当に求めている正しさすら、どこにも無いのかもしれない。

 これだから不得手だ。

 人と人との関係が、決して得意と言えたものではない。

 家族や友人よりも濃く、より深く、自分の心も体も暴かれるような恋や愛の関係を自分が築くなんて考えもしていなかった。つい数か月前までなら。

 恋愛に夢を見るほど憧れていない。

 自分には全く無関係だった。情報も知識も、あえて取り入れる必要が無かった。

 十二才なら、十七才なら、どうするのが普通なのか。どうしたら正解なのか。

 真に正しい答えなんて本にもインターネットにも、誰かの言葉の中にも存在しないだろう。

 迷っている。悩んでいる。考えている。参っている。

 不穏な不安が、起きていても眠っていても、鉛のようにずっしりと重く、徳川の体の中心に埋まっている。

 それをどうにか少しでも軽くしたいと思うから、徳川は信頼のおける人と話して、訊いて、答えて貰っている。

 その人たちと話す時、意外な答えを得た時に、心の鉛は小さくなったり、どこかへ飛んで行ったりする。

 根本的な解決はしていない。それでも、自分が正しいと思う方向を探したい。

 それは相手を大事にしたくて、真剣に考えているからだった。

 リョーマはまっすぐすぎる思いを、真正面からストレートに投げてくる。

 それをまだ徳川は受け止めきれずに、よそ見をしたり、リョーマから逸らしてみたりしている。

 それらは幼さが目立つ行動かもしれない。徳川も向き合えない弱さを自覚している。

 体ばかり成長しても、心や精神が肉体に見合っていないのは重々承知している。

 徳川は風貌からして大人びていると思われがちだが、それでもまだ十七才だ。 

 分からないと迷っても当然で、勘違いや思い違いもしても仕方ない年齢だった。