ステップアップラブ 2話

 心の靄が晴れない時、人は体を動かすことを解消の手段とする。

 しかし室内での器具を使ったトレーニングは、余計に徳川の頭の中を曇らせた。

 脳内で自問自答が繰り返される。

 どうやら同じ動きを続けている所為で、思考も固まってきてしまったらしい。

「一度外に出るか」

 数分の休憩の後に、徳川はウインドブレーカーを羽織って、トレーニング施設を出ることにした。

 施設の中の調整された室温と違って、外気は冷たく喉を通った。

 敷地内に設置されている時計は夜九時を指し示す。自主練はそろそろ終わりにするべき時分だった。

「少しだけ走ったら終わろう」

 軽く屈伸運動をして、徳川はその場から走り出した。

 駆け出せば冷えた風が頬を刺した。熱を持った体には丁度良かった。

 約束してしまった来週の休みまで、あと数日。今夜が過ぎれば、またその日に近づいてしまう。

 朝、鬼と話した内容を思い出す。――いつ付き合いが始まって、いつ別れたか、はっきりしない――

 よくよく考えてみれば、自分たちも同じだと徳川は気づいた。

 自分から好意を示したのは間違いない。

 ただそれは、好意的に見ている、という内容の言動を、リョーマに向けて言っただけだと徳川は記憶している。

 明らかな告白をした覚えはなかった。

 好きだ、付き合って下さい、とは絶対に口にしていない。

 それがいつの間にかリョーマにとっては、付き合っている、ということになっていて、徳川は受け入れてしまっていた。

 そのあたりの考え方の差異は、リョーマ自身が米国よりの捉え方をしているのが原因だった。

 一般的に、日本であれば好意をよせる人物に対して告白なり、付き合ってほしいという意を、相手に直接伝えてから、付き合い、恋人関係が始まるというのが共通認識とされているだろう。

 対して米国では、付き合う前にデートや遊びを繰り返して、仲を深め、愛の言葉を交わすようになれば、恋人としての関係が出来上がるのが一般的のようだ。

 日本のように告白する文化が無いため、区切りが明確ではないだろう。

 リョーマからすれば、何度も練習に付き合い、試合を重ねることはデートと同意義で、ただ遊ぶよりも殊更お互いを知れる行いだったに違いない。

 自分の身を挺してでもリョーマを守ってくれた徳川と、自分の立場を顧みずに徳川を庇ったリョーマは、他人には理解できない絆が確かに生まれていた。

 傍から見ても、ふたりがお互いに好意的にみているのは明らかだった。それを当の本人たちが感じないわけがなかった。

 米国チームから戻ってきたリョーマに、徳川は以前の礼を述べるだけに留めるつもりだった。

 それが何故かいつの間にか、徳川はリョーマを好ましく思っているという話になっていったのだった。

――今、君は俺にとって、とても重要な存在なんだ――

 徳川がリョーマに伝えたのは、非常にシンプルな一文だった。

 ただその言葉を、情感たっぷりに、夕陽の差し掛かるコートの上で、優し気な目をして言われたリョーマからすれば、それはもう「付き合い」がスタートした瞬間だったと思っても仕方ない内容だった。

 徳川の中では「今、君《という選手は》は俺《たち日本チーム》にとって、とても重要な存在なんだ」、と補完されていた。

 つまり元々、リョーマを好意的に見ていたのは徳川が先だった。

 しかし恋愛偏差値ゼロに限りなく近しい男が、年下の少年に対して好意を抱いたからと言って、すぐさま恋愛関係に結び付けられるわけがなかった。

 だが世の中における大抵の初恋は、落ちきってから自覚するのが決まりというものである。

 この場合、徳川は運の良い男だった。自分で自覚するよりも早く、相手から実を結んでもらったのだから。

 徳川はリョーマと付き合っている関係を成立させてから、恋愛感情としての好きだという気持ちを遅れながらも認識できたのだった。

 健康に問題なく生きてきている十七才の男子にとって、恋愛感情を自覚した途端に、身に起きる変化に対応しきれない。

 生理現象のそれとは違う、明らかな自身の欲の芽生えは、徳川でなくても、認めたくないと恥じるのかもしれない。

 触れたいと望んでしまうのを、間違いだと言い聞かせてしまう。

 そうして徳川が思考を打ち消そうとしていた中で、痺れを切らしたリョーマのあの行動は、きっかけと言い訳を作ってしまった。

 何もかも都合が良すぎる。

 だから徳川は煩悶し、今も足を動かし続けている。

 じっとしていたら、誘惑に負けるからだ。何かに没頭していたい。肉体を痛めつければ、余計な欲望に体力を割かなくてもよくなるからだ。



「……打球音?」

 静けさが勝る敷地内のコートから、ボールを打つ音が響いていた。
 
 音の硬さからして、対人相手ではないと知った。壁打ちをしているボールの音が連続して聞こえてくる。

 自然と音のする方向へ徳川は足を運んでいた。

 とっくに九時は過ぎている。こんな遅くまで一人で練習するような奇特な人物は、そう多くはない。

「越前くん」

 コート上で、ひとりの後ろ姿が見えてくる。特徴的な白のキャップ、彼しかいなかった。

 名前を呼ばれた少年の肩が揺れ、そのまま返ってきたボールを手で受け止めていた。

「何?」

 背中を向けたままで、リョーマは返事をした。
 
 どことなく愛想が無い気がした。

 素っ気ないような、ぶっきらぼうな声色だった。それが本来の越前リョーマらしい返事だったのだろうが、徳川がこんな対応をされたのは久しかった。

「自主練をするのはいいが、こう遅い時間は感心しないな」

「アンタはいいわけ?」

「俺は戻るところだ」

「あっそ。俺もう少ししたら帰るから」

 リョーマは手にしたボールを弾ませて、どう見てもまた練習を再開する動作に入っている。

 一度も振り向かない。徳川を見ようともしない。普段とは違った様子に、徳川は彼を放っていられなかった。

「越前くん」

 もう一度名前を呼び、徳川はコートへ降りて行った。リョーマは返事もせずに壁に向かっている。

「……うわ!」

 リョーマが打とうと狙いを定めたボールを、徳川は手で掴んで止めた。そこでようやくリョーマは徳川の顔を目に入れたのだった。

「何するんスか」

「もう止めないか。何時だと思ってるんだ」

「九時半ぐらい」

 どうやら時間は把握しているようだった。時計は敷地内の至る所に設置されているし、スマホも持参しているのだろう。

「寝るのが遅くなるのは良くないよ」

「徳川さんだって」

「俺は戻る所だって言っただろう」

「だから俺ももう少ししたら帰るって言ったじゃん。先帰ってよ」

 リョーマは不自然に徳川から顔を逸らして、予備のボールに手をかけた。放っておいてくれ、と言わんばかりの荒れた行動だった。

「越前くん、練習のしすぎも体に毒だ。君くらいの年齢なら、睡眠は十分にとらないと……」

「さ……! 触んないで!」

 リョーマの腕に徳川の手が触れた瞬間、火の粉を振り払うかのように扱われた。

「……すまない」

 行動の原因が読めず、反射的に徳川は謝っていた。

 ばつが悪い顔をしたリョーマは、手にしていたボールを籠の中に投げ落としたのだった。

「徳川さん、何で今来るんスか」

「偶然、通りかかったんだ」

「今一番イヤなのに」

 苛立ちからリョーマはシューズで地面をざらざらと蹴っている。視線を下にして、ラケットで自らの腿を叩いていた。

「俺は君に何かしたか?」

 思い当たる節が徳川にはなかった。

 二十四時間前まで、膝の上で乗ってきて、あれやこれやと徳川を翻弄していたのが嘘のようだ。

「してないっスよ。でも今はダメ」

 何一つ理由が分からないので、徳川は混乱し、非常に困っていた。

「……俺は君に何もしていないんだね?」

「そうだけど。でもしてないから、ダメなのかも」

 リョーマの返答は謎かけにしか聞こえなかった。徳川の眉間にはひとすじの皺が入った。

 徳川は何もしてはいないけれど、何もしていないからリョーマにとってはいけないこと、とは。

「もういいや。片付けて帰る。徳川さんも帰っていいよ」

 興ざめしたのか、リョーマは散らかったボールを拾って籠へ戻した。本格的に帰り支度を始めたリョーマを眺めて、徳川は今も問いかけの答えを考えている。

「まだ何か用?」

「いや。だがもう遅い。年長者として君を部屋まで送る」

「……年長者ね」

「何だい?」

「そこはさ、もっと言い方あるんじゃないスか?」

 コートの隅に置いていたジャージを拾って、リョーマは不満を漏らした。

「他にあるのか」

「徳川さんは俺のなんなの?」

 隣に立ったリョーマが徳川を見上げた。汗の滲む肌が、つやつやとしている。

「……何とは」

「もういいよ」

 ただでさえ機嫌がよくないリョーマは、昨日とは打って変わって徳川に極めて冷たかった。

 それからすぐに歩き出したリョーマの後に、徳川は続いた。

 どちらにせよ、徳川も着替えるつもりだったので目的地は同じだった。

 ロッカールームに着いても、徳川は先ほどの問いかけが謎のままですっきりしていない。

 すっかり無言になってしまったリョーマは、徳川と離れた位置のロッカーを使用していた。

 ただ相変わらず徳川から見て様子はおかしかった。いつもなら、着替えに数分もかからない。

 それなのに、いつまで経ってもリョーマはロッカールームの長椅子に座って、シューズの紐をのろのろと直している。

 ――観察眼のある入江さんや種ヶ島さんだったら、越前くんがどうしてああなったのか理解できるのだろうか。

 離れたところから見ていても、徳川には分からなかった。

 年下の扱いに慣れていない。本当に自分に弟妹がいたなら、もっと上手く立ち回れたのだろうか、と徳川は朧げに想像する。

 リョーマに冷たくあしらわれても、徳川には声をかけるくらいしか手段が見つからなかった。

「越前くん」

「……っ、何?」

 突然、視界が暗くなったリョーマは顔を上げた。目の前に立った徳川がリョーマを見下ろしている。

「汗は拭いた方がいい」

 被ったままのリョーマのキャップに手をかける。濡れた前髪が額に張り付いていた。

「いいってば、自分でやるから」

 徳川が手にしたタオルを奪い取ると、リョーマは乱暴に頭や顔を拭いた。

「もうこの時間だと大浴場は閉まってるから、そこのシャワーブースを使うといい」

「言わなくても分かってるよ」

 タオルに顔を埋めたまま、リョーマが返事をする。

 このままでは徳川も帰りたくても帰れない。何がそんなに気に食わないのか、見当がつかないのだった。

「越前くん、どこか体調が悪いんじゃないか? それと夕食はちゃんと食べてきたのかい」

 徳川はリョーマの隣に座って、なるべく穏便に声をかけた。純粋に心配で尋ねたのだった。

「……あのさあ、俺、子どもじゃないんスから」

「だったら、どうして」

 その先を言おうとしたが徳川は黙った。

 だったら、どうして俺に素っ気ないんだ? どうして俺に冷たいんだ? 昨日とは違うじゃないか。

 あまりにも自惚れている発言であると、徳川は思い止まった。

「……いや、何でもない」

 タオルに顔を埋めたまま背中を丸めているリョーマは、普段の凛々しく立っている姿とは違って、心細い印象を受けた。

 手の届く、すぐ触れられる場所にいながら、徳川はその身を抱いてやれない。

 下心のある自分がリョーマに触れるのは、とても悪い気がするからだった。

「はあ……」

 大げさなため息をつかれて、徳川はその発生元に目をやる。

 タオルを掴んでいる手指がきゅっと握られている。指先にはあまり力が入っていないように見えた。

 しばらく徳川の視界の斜め左下にいるリョーマを観察していたが、一向に動く気配は感じられなかった。

 無理にでも着替えさせて、部屋に送り届けるべきか。このままではここで夜を明かしてしまう。

 どう動くのが最適かと徳川が思案していたら、リョーマの丸い後頭部が揺れた。

 それは見えているかのように狙いを決めて、徳川の片腕の元へ納まった。

「何だよ、平気な顔して。ムカつく」

「え?」

 不明瞭な呟きがわずかに聞こえる。口調こそ荒いものの、甘えた声だった。

「俺がアンタに今会いたくなかったの、何でか分かんない?」

「……いや、分からない。悪いが全く身に覚えがない」

 リョーマはタオルから顔を上げて、徳川へ視線をやった。汗で束になった髪がぱらぱらとリョーマの顔に流れる。

「次の休みのこととか、俺ずっとアンタのこと考えてむらむらしっぱなしだからだよ!」

「……えっ、……そ、そうか」

 リョーマが、がむしゃらに練習に励んでいたのは、トレーニングに意識を集中させていた徳川とほぼ同じ理由だった。

 感情による体温上昇が故に、徳川は汗をかきはじめた。

「なのにあんたは普通に先輩の顔して話しかけてくるし、俺のこと恋人だって言ってくれないし、その上子ども扱いするし。……ムカつく」

 それまで教えてくれなかった不満を一気に出して、リョーマは徳川の腕に体重を任せてきた。

 ひたすら文句を言われているのに、徳川の内から湧き上がってくるのは、可愛いという単純明快な感想だった。

 無意識的に手が伸びて、リョーマの頭を上辺だけ撫でた。

「やだ。汗かいてるから、やめてよ」

 腕に乗っていたリョーマの頭が、徳川の手を避けて逃げる。

 普段の徳川だったら、そこで止めてしまっただろう。

 今はほんのわずかに、一歩踏み出したい気持ちになった。

「少しだけだから」

「……やだ」

 徳川の大きな手がリョーマの頭ごと包む。体格の違いは、触れた時により強く感じる。

 汗で湿った髪が柔らかく指に絡んだ。すべすべとした感触の髪が指の間を通っていく。耳に軽く指先が触れ、やがて首筋に辿り着いた。

「やだ……駄目だって言ってるのに」

「ああ、これで終わりにする」

 名残惜し気に左手がリョーマの肌に吸い付いている。

「これじゃ、こんな時間まで練習してた意味、無いっスよ」

 首筋から頬へ渡った手のひらを、リョーマは目を閉じて感じ入った。

 空いている自分の手を徳川の手に重ねて、頬ずりをする。

 その光景を目にした徳川は動悸がした。心臓が大きく脈打つのが分かった。

 途端に抱きしめたい衝動に駆られる。必死に頭の中の自分が「ここはどこだ。俺は何をしている」と騒ぎ立てている。

 右手は拳を作って、皮膚に自分の爪が食い込むほどに握りしめた。痛みが理性を呼び覚ましてくれていた。

「ねえ徳川さん、ちょっとだけかして」

 そう言ってリョーマは徳川の左手を両手で握った。頬に寄せていた徳川の手を、口元に持っていくと、指先に軽く唇をつけた。

「……越、前くん……っ」

 愛おしむように指先に口吻た後、人差し指を唇に運んでいく。

 噛むというには優しすぎる。唇の柔らかさは、細かい神経の通っている手指にはダイレクトに伝わる。自ら触れるよりも、もっと感じやすかった。

 唇に咥えられた指を動かせずにいて、徳川は間近で行われる愛撫をただ見入るしか出来なかった。

 湿った粘膜の感触が指のすぐそばにある。吐息は肌に吹きかけられる。時折洩れる甘い呻きは、青年の精神を揺さぶるには十分だった。

 リョーマがいくらその類の知識や情報を得ていても、実戦経験は皆無であるので、これ以上大胆にはなれなかった。

「ん……徳川さんも、汗かいてるんスね」

「あ、……ああ」

「しょっぱい」

 手にかいた汗が口に入ったのだと知らされて、徳川はどうしようもない感情が破裂しそうになった。

 徳川が衝動のままに動ける性分だったなら、とっくに貞操は捨て去っているだろう。

「部屋に早く帰れって、言わないんスか?」

「……言えるわけがない」

「なんで?」

「今はまだ、俺は帰れないよ」

 心臓が煩かった。体中の血液が急速に循環しているのが徳川には分かる。激しい運動をしていないのに、息が上がりそうだった。

「じゃあ……、徳川さんはどうしたい?」

 リョーマは徳川の左手を再び両手で握って、そのまま見上げた。

 どうしたい、の先が分からない。どうにかしたいという欲だけが頭の中に生まれている。

 自分の中にある情欲が体中を駆け回って暴れている。そいつを鎮めてやらなきゃいけない。そうでもしなければ、この動悸も荒くなる呼吸も、治まる気配がないからだ。

 目の前にいる好いた相手に対して、何かしたい、してやりたい、してしまいたい。だが具体的な案がひとつも見当たらない。

 何をすればいい。どうすればいい、どうしたらいい。

 手を握って、肌に触れて、抱きしめたら、その後はどうしたらいいんだろう。

 もっと特別に、この感情が表せられる何かがあるはずなのに。

「黙らないでよ」

「いや、俺は……違うんだ」

「困ってる?」

「いいや、違うよ」

 言葉以外で伝える方法があるはずだ。

 自分の好きだという気持ちの全てを、相手に伝えたかった。

「越前くん」

「うん?」

 強く握りしめていた右手を解いて、徳川はリョーマの長い前髪を梳いた。顔がよく見えるように、目にかかっていた髪を横に流した。

「……ん」

 髪先が目の中に入らないようにリョーマは瞼を閉じていた。その顔が徳川にはやけに幼気に映る。

「越前くん」

 今の徳川にとって、リョーマの名前を呼ぶことは、好きだと言っているのとほとんど同じだった。

 好きと言えない代わりに名前を繰り返し呼んだ。

 声に含まれる甘さから、リョーマにはそれとなく伝わっていた。名前を呼ばれるだけでくすぐったくて、嬉しかった。

 すでに互いの額が当たりそうなほど近づいていた。双眸が溶けて、ぼんやりと相手の顔だけが目に入っている。

「徳川さん、」

 リョーマが確認しようと口を開いた時、徳川は睫毛を伏せた。

「あ」

 ごく小さく開いた唇が、瞬間その人に塞がれた。

 濡れた感触が薄い粘膜ごしに伝わってきた。湿り気を帯びた口唇はしっとりとして滑らかだった。

「俺、もう……知らないっスよ」

 唇同士をほぼ触れさせたまま、リョーマが意味を成さない警告をする。

「……ああ、俺の所為にしていい」

 徳川がそれだけ言うと、許しを得たかのようにリョーマは唇に優しく噛みついた。

 縋る手が徳川の胸元を掴んで、自らの方へ引く。もっと、もっと来て欲しいと望む仕草だった。

 離された徳川の左手は、胸元に収まっているリョーマの肩に乗せた。

 抱きしめる勇気はまだない。

 容易く両腕で包める身体は、相手の肉体を簡単に拘束出来てしまうからだ。その差を自覚しているからこそ、恐ろしかった。箍が外れた
なら、相手を傷つける可能性が大いにある。

 大切にしたい、大事にしたい。常にその意識はきちんと頭の中に置いてある。

 相手に触れる強さや力加減を、腕や指に覚えさせる段階だった。

 ぎこちなく肩に触れる手のひらが、緊張でかたくなっている。指先がぴくりと動いて、無意識に力が入りそうになった。

「ん、……んん……」

 開いた唇が徳川の下唇を甘噛む。味わうように上下に動く粘膜が、ふにふにと当たる。

 昨日の触れただけの口吻とは違って、より相手を求めて口唇が動く。応える術を持たない徳川は薄く目を開いて、リョーマを窺った。

「……ふ……っ」

 鼻先に洩れた息がかかった。触れたままでは近すぎて、目の前の表情はぼやけてよく見えない。

 零れる吐息は熱っぽかった。そこで初めて、徳川は自分の息を止めていたことを知った。

「は……っ」

 詰めていた息を小さく吐き出すと、胸元を掴んでいたリョーマの手が徳川の顎へ伸びてきた。

 猫を愛でるみたいに指の関節を使って頤をさすりあげ、人差し指で下唇をつついた。

「ね、口開けてよ」

 やや躊躇ってから、徳川は唇の合わせをわずかに開けた。

「ん、う……」

 開いた唇に、小さい舌が侵入してくる。思わず徳川は目を見開いてしまった。

「……っ! 越ぜ……っ」

 引き離そうと、肩に乗せていた手に力が入る。リョーマは逃げる徳川は追って、そのまま首筋に抱きついてきた。

 生温くて、ぬるりとした感触がした。これ以上はいけないと、徳川は歯を食いしばった。閉じた前歯に気づいたリョーマは、一度唇を離
して、上辺を掠めるキスをした。

「徳川さん」

「……君は、どうしてこんな」

 言いながら徳川は口元を手で塞いだ。まだ温もりが残っている。見上げてくるリョーマは寂しそうな瞳をしている。

「気持ち悪かった? いやだった?」

 徳川は首を横に振った。逃げたくなったのは、未知への恐れでしかない。

 いつか関係の主導権を握られていると気づいたのは、リョーマの目の色がきっかけだった。熱と強さが、眼差しから感じられたからだっ
た。今、寂し気な表情をしていても、同じ瞳をしている。

「そういうのは、まだ早い」

「今日は先にしてきたの、徳川さんじゃん」

 そこを突かれると、徳川はぐうの音も出なかった。論点がずれているような気もしたが、リョーマは構わず徳川にすり寄った。

「ねえ、させてよ、徳川さん」

 瞳の中に徳川だけを映しているリョーマは、甘えて口説いてくる。その眼、表情、仕草、声も、何もかもが狡いと思えた。

「一回だけ」

 良いとも悪いとも、徳川は言葉にしなかった。ただ目が合った。それだけでリョーマはもう一度口吻を始めるのだった。

 すでに虜になりかけて、夢中になっている瞳が徳川にはあったからだ。何をしても許してくれる自信が生まれる。

 リョーマが徳川の首筋を抱いて、自らへ引く。座っていても体躯の差がある為、徳川に屈んで貰う必要があった。

 リョーマの肩に乗せていた手を外して、徳川は長椅子に置いた。そうしなければバランスを崩してしまいそうだった。

「んう」

 始めは軽く唇が重ねられる。

 準備運動のようにもぞもぞと口唇が動いている。リョーマは丁度いい具合の角度を探している。時折首を傾けて、唇をつけたままで落ち着く位置を探っていた。

「……っは」

 一瞬のキスなら、息を止めていても問題が無かった。

 徳川は重なる唇の隙間から、たまに呼吸をするので精一杯だった。

 徳川は運動神経が良いと自負している。

 どんなスポーツも、そつなく熟してきた。自身の体の使い方が分からないなんて不器用な真似は、ありえなかった。それなのに、ただ息を吸って吐くだけで苦労する。

「ん、む……」

 リョーマがゆっくり口を開き、舌先を出した。最初は唇の表面を舐めてきた。

 途端、徳川の背筋がぞわりとして肌が粟立った。

 幼児染みた舌の動きは、背徳感を徳川の身に刻ませる。

 舌すら小さい。

 身体そのものが一回り以上も徳川より小さいのだから、当然それぞれの部位も肉体に見合ったサイズだった。

「……う……、っく」

 また覚えのある感情が湧き上がってくる。

 体の奥底から込み上げてくる強い衝動は、徳川の理性を粉々にしようとしてくる。

 力任せにリョーマを抱きしめたくなった。だがそうすれば、彼が痛がるのだと予想がつくから、徳川は拳に力を入れて自戒する。

「ん、……」

 小さい舌と唇が吸い付いてきて、ちゅっと音が鳴った。淫猥さが際立つ音に、リョーマは気分をよくした。

「ん……っ、んっ」

 何度も音が立つ。その度、顔の皮膚が痙攣を起こした。蟀谷の血管がひくつくのを徳川は感じていた。

 心拍音と連動して、胸が高鳴ると同時にあらゆる血管が浮き立った。

 昂奮しているのだと、頭の片隅でやけに冷静な自我が判断する。呼吸の荒さ、心拍の速さ、体温の上昇、脳内ではエンドルフィンが放出されている。

「ま、待て……」

 このままではまずい、と徳川はふらふらになる理性を奮い立たせて声を上げた。

 いくらなんでも、これ以上は駄目だ。無理だ。

 経験が乏しいため、過程を一段階進むだけで息切れしそうになる。

 徳川が急ブレーキをかける度、反対にリョーマはアクセルを全開にして突き進む。こちらが止めようと躍起になるほど、相手は積極的になってしまうのだった。

「待……っ、ン……ッ」

 再び口を開けば、隙が生じた。

 その好機を逃すわけがなかったリョーマは、伸ばした舌を隙間へ入れ込んだ。

 上下の歯の間に、舌先が入り込む。味を見るように舌先が、柔い粘膜をひと撫でした。

 侵略を許してしまった徳川はもう口を閉じられなくなった。今歯を閉じれば、リョーマの舌を噛んでしまうからだ。

「はっ……ぁ」

 互いの息が洩れる。にゅる、と粘膜が擦れる音が耳に届いた。

 触れていても物足りなくて、リョーマは焦燥感に苛まれる。その意思が手や腕に伝わり、徳川に強くしがみついた。

 足りない、もっと。もっと、くれなきゃ。

 リョーマの秘めた心情を徳川は知らずにいて、精神と肉体の方向性の違いによってばらばらになりかけているのを、何とか人間の形に留めているのに必死だった。

「……う」

 首の角度を変え、今一度リョーマが唇を深く合わせた。そうしてついに徳川の舌が捕まってしまった。

「……ん、……っ」

 徳川の頭を両手で離すものかとリョーマはしっかと抱き込んだ。口は閉じられず、頭も動かせず、徳川の自由は次々と奪われていくばかりだった。

「ん……んん」

 舌がゆっくりと口の中でまわる。自分の口内に他者の舌が存在していて、自分の意思とは全く別の動きをしている。

 敏感な舌の先と先があたると、快感の痺れが首筋から背筋に渡り、下腹部までじんわり響いた。

 つん、と尖らせた舌先が悪戯に徳川の口内ではしゃいでいる。徳川が微動だにしないのをいいことに、リョーマは奔放に振る舞う。

 舌腹をひと撫でし、飴玉でも転がすかのように上下左右にうごめいた。その度、くちゅ、と粘膜独特のぬめった音が発せられた。

 突然、長椅子に置いていた徳川の手が滑り落ちそうになった。手の平にじっとりと汗をかいていた。緊張と興奮によるものだった。

 熱を持っているのは、手の平だけではなかった。走っていたのはもうずいぶんと前なのに、汗が引くどころか全身は熱くなっている。

 リョーマも同様だった。徳川の頭や首に触れている手が熱い。どちらともない汗で肌が湿る。

「……ん」

 ふと徳川は名前を呼びたくなった。名前に満たない囁きが零れる。

 その代わりに、口内で舌が揺れる。自発的に動かされたのが分かって、リョーマは息を呑んだ。

 怯えたように引っ込んだ舌を追って、今度は徳川がリョーマを捕まえていた。

「……ッん、く……っ」

 唇も舌も小さいと知ってしまった。だから予想がついていたのだが、当たり前に口の中も狭いのだ。

 リョーマの口内に舌を入れた瞬間に、その余裕の無さに眩暈がした。

 これでは苦しいだろうと戻そうとすると、幼い唇に舌が挟まれた。行くな、と引き留めている。

「ふ……うっ、ん……っ」

 先ほどよりずっと息苦しそうな声が洩れ、徳川の頭を掴む手が震えている。