ステップアップラブ 2話

 徳川は大した技巧も持ち得ていないので、ひたすらに傷付けないように、苦しませないようにと口吻に集中した。

 口の中を撫でる、抱きしめるように舌を包む。

 柔らかく抱いて、怖がらせないように穏やかに進む。

 徳川が動けば、リョーマは応えるように身体を震わせた。

 拒む様子がみられなく、強張っていた身体は次第に弛緩していった。

「……ふっ、あ……?」

 腕の力が抜ければ、そのまま腰も抜けた。全身の力が入らず、リョーマは徳川の胸板に崩れていった。

「あれ?」

 体を起こそうとしても、うまくいかなかった。不自然にふらついているリョーマを、徳川は片腕で支えてやる。

「その……、大丈夫かい?」

 頭上から尋ねられる声が甘やかだった。物言いは普段の徳川と変わらぬ礼儀正しさがあるが、語気に丸みがある。

「考えてたのより、…………だった」

 胸板に頬を寄せたまま、リョーマがぼそぼそと独り言のように言った。見下ろした少年の唇は濡れて、わずかに赤みが差している。

「うん?」

 よく聞き取れず徳川が相槌を打ってみたものの、リョーマは返事もなくぼんやりしている。

 ふいに口の周りが濡れているのを拭ってやりたくて、徳川は親指の腹でそっとなぞった。

「……ん」

 指で触れられる意味を、もう一度する合図だと勘違いしたリョーマが顎を持ち上げて目を閉じる。

「君が一回だけと言ったんじゃないか」

「いいじゃん。しようよ」

 とろんとした眼と上気した頬は、夢見心地の顔をしていた。肌が離れると、徳川は自分の顔が火照っているのを改めて実感した。

「いい加減もう帰らないと、今何時だ」

 言われて、リョーマがジャージのポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。手にすれば画面が点灯する。

「…………十時前」

 画面内のデジタル時計は、21時55分を映し出している。

 徳川は自分自身に呆れてしまった。

 早く帰らせるつもりで声をかけたくせに、ロッカールームで三十分近くもこの行いに耽っていたのだから。

「す、すまない……すぐシャワーを浴びて寮へ帰ろう」

「……うん、でもさ」

 リョーマの視線が下方へ集まっている。視線の先を辿れば、徳川の表情が一気に凍り付いた。

「これ、このまんまでいいんスか?」

 これとリョーマが指しているのは、不自然かつ歪にジャージを押し上げているある部分だった。

 足の付け根、身体の中央、下腹部。

 伸縮性の高い生地で出来た代表ジャージは、誤魔化しようもないくらい、はっきりとその輪郭を現してくれていた。

「ああ……いや、これは……その」

 例に漏れず徳川は前のめりになった。すでに見つけられているのだから隠しようもないのだが、一般的男性の反応であった。

「ふーん、徳川さんも……えっちな気分になったんだ?」

 今度は明確な意味を持って、リョーマが徳川の胸板に頬を擦り付ける。

 おおよそ十二才がするにはあまりに色を持ち過ぎている煽情的な目をして、リョーマが徳川に秋波を送る。

 その視線に徳川は負けそうになる。

「今、俺もって言ったのか。じゃあ越前くんも……」

 確かに、リョーマは『徳川さん《も》』と口にしていた。聞き捨てならなかった。

「だって、あんな風にされたらさ。……俺、ああいうキスがあんなにえっちだと思わなかったし」

 つい先ほどリョーマは独り言で――考えてたのより、凄いえっちだった――と呟いていたのだった。

 これまで本や話で見聞きし、映画やドラマで目にしたキスシーン。実際は、想像していた以上の快感と感動があった。

 自分が好きな相手と、相手も自分のことを好いているから、心地良いと感じられる。

「だから、……これって徳川さんが、俺でえっちな気持ちになった証拠でしょ?」

「そ……、それは……そう、だが」

 当然、否定はできない。だが自信満々に「はい、そうです」と返答するのも腑に落ちない。

「見ていい?」

「……だ、だめだ!」

 リョーマの手が徳川の太ももにそっと乗せられた。ほんの数センチ上れば、そこにはどうしようもなく布地を張らせる原因が在った。

「見たい」

「だめだ」

 咄嗟に徳川はリョーマの手を掴んで止めた。布越しでもリョーマの手に触れられるのが、徳川にはとてつもなく恐ろしかった。

「何で? 見たい。見せて」

「君は……っ、見るだけで済まないだろう」

 目にしたところでリョーマなら次は触りたいと言い出すだろう。言われるがままに訊いていたら、最終的にどうやって元に戻すか、までの過程を望まれてしまうに決まってい
る。

 いくらなんでも純潔の男には無理な話であった。

「なら……俺も見せるんだったら、いい?」

 隣り合って座ったリョーマの膝が、とん、と徳川の腿にあてられた。そのままハーフパンツから覗く腿が、ジャージ越しにくっつけられる。

「だ、ダメだ!」

 服越しにあてられる肌にすら、情欲が掻き立てられる。

 このままここに居たら、自分も相手も何をしでかすか分からない。
 
 瞬時に徳川は立ち上がり、リョーマも我欲も振り払ってずんずんと歩き出した。

「えっ、徳川さんどこ行くんスか」

「シャワーを浴びて、寮に帰る。越前くんも早く帰り支度するんだ」

 ロッカールームの隣には、少数の簡易シャワーブースがある。ほとんどの選手が大浴場を使用していて、リョーマも使ったことがない。

 徳川は脇目も振らずにシャワーブースに向かって行った。

「ちぇっ、もうちょっとだったのに……まあ、キスしてくれたから、いいか」

 余韻の残る唇にさわって、名残惜し気にリョーマは独り言ちた。

 今日はこれだけでも十分、むしろ上出来。

 肉体的な解消はせずとも、精神面はそれなりに満ちた。

 求めた分だけ、相手も欲を抱いていると知れたのは大きな収穫だった。



 汗で張り付いたジャージの上下を脱ぎ、下着も取り払って徳川はまだ水のままのシャワーを頭から浴びた。

 心頭滅却と唱えても、身体の熱が一向に下がらない。

 何をやっているんだ、俺は。何がしたいんだ、俺は。

 結局、自問自答の境地に舞い戻ってきてしまった。

 自制をすると決めた自分と、自戒せねばと律する自分。

 どちらも正しくリョーマを思う気持ちがある。その気持ちが故に、いとも容易くぐらつく自分になる。

 自制も自戒も、リョーマの言動によって振り回され、時に完全に倒されてしまっていた。

 何をやっているんだ。五つも年下の子に、精神を乱されている場合か。

「……ぬるい」

 自分自身にそう吐き捨てた。ようやくシャワーの温度が温まってきた頃だった。

「……そうっスか? 結構熱いと思うけど」

 突如、背中の真後ろで声が響く。徳川はぎょっとして、振り返ろうとした。

「あ、ちょっと、こっち向かないでよ、徳川さん」

 シャワーブースは簡易的な作りのボックス型で、選手は男子のみの施設のため、扉に鍵はない。

 足元も開いている作りの扉で、外から使用しているかどうかすぐに見分けられる。

「な……何故、ここに入ってくるんだ」

「いいじゃん、節水」

「それは良い心掛けだが」

 汗を流すのが目的で、長居する必要がない。もう十分に全身を流したからブースから出て良いはずだ。しかし徳川は動けずにいた。

「やっぱ徳川さんって、大きいっスね」

 背中に手のひらが当たっている。リョーマは徳川の背中を無遠慮にぺたぺたと触って、その大きさを計っている。

「俺とこんなに違うよ」

 言うと、リョーマは背後から腕を輪にして抱きついてきた。

「え、越前くん……っ!」

 濡れた髪の毛の感触が、徳川の背中の中央からやや下方にある。腕が腰に回されているのは意図的なものではなく、身長差によるものだった。

 未だに徳川の血流は下半身に集中し、上向いているのである。リョーマの腕が少しでもずれれば、ぶつかる位置にある。

「お腹、かたいね」

 嫌でも腹筋に力が入った。徐々に体を前傾にして、わずかでもリョーマの腕から遠ざけたかった。

「もう、いいだろ……、そろそろ上がりたいんだが」

「……わかった。でもまだこっち見ないで」

「見ないよ」

 腕が外され、背中に合わさっていた肌が離れていった。するとリョーマが一歩下がった気配がする。シャワーを止めれば、タイルに水滴が落ちる音がした。

「この合宿所の大きい風呂で、徳川さんと一緒になったことだってあるのに。……俺、今はすごい変な気分」

 それだけ伝えられた徳川は無言になるしかなかった。何も言えなかった。

 それから水気を含んだ足音が遠ざかって、リョーマが先にブースを出て行ったのが分かった。

 もう一度頭を冷やすべきだと、徳川は自分の顔面にシャワーの冷水をかけるのだった。

 たった数分でやけにひどい疲労感があった。

 徳川が着替え終わって、ロッカールームに戻ると、同じく着替えたリョーマが濡れた髪のままスマートフォンに向かっている。

「髪、拭かないか」

「んー……、うん」

 メッセージアプリを立ち上げて、誰かへの返信を打ち込んでいるらしかった。生返事からして、徳川の注意が耳に入っていない。

 首にかかっているリョーマのタオルを取って、徳川は甲斐甲斐しく髪を拭いてやった。

「徳川さんのこういう所が、しゅうとめみたいって言うんだっけ」

「そんなの誰から聞いたんだ」

「高校生の三年生の人たち」

 始めに言い出したのは、平等院だったと覚えている。

 細かに注意する様や口煩さ。良い意味でも悪い意味でも面倒見が良すぎる点を、一部の高校生選手が姑のようだと形容する。

「それはあまり言われたくない」

「そうなんだ? 母さんみたいってことじゃないの?」

「姑は、母親とは違う」

「ふーん……?」

 誉め言葉として呼ばれていないのは確かだと、リョーマは徳川の口ぶりから知った。

 思い返せば、「徳川くんってああいう所が姑みたいだよね」などの会話を耳にしたのは、徳川本人が不在の場面であった。

「これくらいでいいだろう」

「うん、どうもっス」

 粗方拭き終わった髪は、空気を含んで普段よりもふわふわとしていた。返されたタオルをバッグに詰め、リョーマはスマホをハーフパンツのポケットにしまった。

 リョーマから言われるなら「お兄ちゃんみたい」が良かったと、徳川はひそかに考えていた。

 しかし、残念ながらその願望は叶わない。

 リョーマは徳川に「兄」の関係を求めないからだった。

 あくまで恋人としての立場でしか、徳川のこと見ていない。かわいい恋人、かっこいい恋人。隣にいてほしい恋人。この先も一緒に進んで行きたい人だ。



 ロッカールームを出て、寮までの帰り道。

今更急いだ所でどうもならなかったが、のんびり歩いていても、後でコーチや職員に知られて叱られるかもしれない。二人は並んで駆けていく。

「とっくに十時過ぎたっスね」

「はやく寮に戻ろう。越前くん、部屋に帰ったら夜更かしせずすぐ寝るんだよ」

 やはり口を開いたら、うっかり小言のように注意してしまう。そういった所が、姑だと言われる所以だと分かっていても、これはもう性分なのだった。 

「そんなに気を付けて欲しいんだったら、徳川さんが俺と一緒に寝たらいいんじゃないスか?」

 からかい半分でリョーマは答えた。

 また徳川が呆れたり、あるいは赤面したり照れたりして、困ったという反応をしてくれるのを期待していた。

「そうだな。いずれそうする」

 予想外の返答をしてきたので、逆にリョーマが面食らってしまった。あまりに淡々とした口調で即答され、驚いて声も出なかった。

 今ここが夜道で良かった。この道に灯かりが少なくて良かった。

 徳川が急いでいて良かった、とリョーマは自分の頬をこすってしみじみ思った。