その一瞬に命をかける

真田は立海に入ってから負けることは無かった。

手塚とも幸村とも戦っていなかったからだ。幸村とは流石にお互い練習くらいはするが、記録に残すような対戦は中学に入ってからは無かった。

だから、負けることは無かった。

自分が一番ではないことを知りながらも、皇帝と呼ばれてしまう彼がおかしかった。

彼は光の中に長く居すぎて、今は本当の姿が見えない。

「真田弦一郎、……」

十三歳になったばかりの彼には、少々荷が重すぎていた。新聞の中に書かれた名前、彼を賞賛する記者の独特な文章、視線がそらされた写真がひとつ。

黒い瞳、黒髪、焼けた肌、成長途中の腕は若々しく逞しい。

全国への道はそう遠くはなかった筈だ。

彼を邪魔するものなんてそうそう居なかった。

それなのに彼は今、震えている。

それなのに彼は今、汗が止まらなかった。体は熱いのだが、汗は冷たくて、腹の底が重たくて苦しい。

「くそ……っ、なんなんだ……これは」

手のひらを幾度も拭えど、じっとりとした汗が溢れてくる。自分の心臓の音が体中に響いて、今にも破裂しそうだった。

口の中は乾いていて、さっきから無理やり唾を飲み込んでいる。

誰にも悟られないように、真田は静かに呼吸を整える。

名前を呼ばれてしまう前に、なんとかしなくちゃいけない。

目を瞑って心を無にしようと、頑張ってみた。ぐちゃぐちゃとした悪夢は、瞼に焼き付けられていくばかりだ。

「真田」

「……え?」

呼ばれる予定だった声ではない人物が目の前に立っている。

「なんだ」

「真田……」

「お前はアップしなくていいのか、幸村」

「手をかせ」

濡れた手を差し出したくなかった。ラケットを握った指を強く握り直して、真田は目線を外した。拒否の意味をこめていた。

「あっ、……おい」

ラケットを握っていた手を勝手に掴み、幸村は真田の右手を両手で包んで祈るように組んだ。

幸村の手のひらは少し冷たくて、真田より少しだけ柔らかい。

「…………あ」

かすかに指に幸村の唇がふれて、真田は声を漏らした。

「真田弦一郎」

「………」

「勝ってこいよ」

「……ああ」

薄い唇が笑った。真田は純粋に幸村の笑った顔が好きだと思った。

顔が緩むと無駄な力は自然と抜けていた。

ラケットを握りしめ直すと、心は真っ直ぐ立ち直っていく。

振り向けば、ジャージを肩にかけた幸村が拳を見せた。応えるように、真田も拳を突き上げた。

コートには相手と自分しかいない世界、たったひとりで戦うために今、向かう。

今日初めて、真田はその場所が恐ろしいと思った。

だからこそ……きっと、これからもっと強くなれる。

その一瞬、間違いなく俺たちは命をかけて戦っている。