アムリタ サンプル

第一章 信仰  〜プラヴァーハ・ニティヤ〜
第二章 崇拝  〜イーシュワラ・ケーヴァラ〜
第三章 忠誠  〜パリプールナ・ガルバ〜



第一章  信仰 〜プラヴァーハ・ニティヤ〜


 瀬人は、愛する者を失った瞬間から、神の存在を一切否定する子供になってしまった。
 どれほど祈り縋っても、助けの手を差し伸べてくれない神など信ずるに値しないと悟ったからだ。
物心がついた頃、弟が生まれた頃。
――五歳、母を喪った年。
 彼の幼い心を砕くには十分過ぎる絶望だったろう。




炎の蒼い目は、今は固く閉じられている。時の流れを止める冥府の中で、彼はまさしく死んだように眠っていた。
指先が動かなくなるまで続けられる決闘は、終わらない遊びに思えた。永久のゲームがここにはあった。
もし瀬人の行動を止められるとしたら、自分しか居ないのだろう、とアテムは考える。
「来るな、と言った所で、無駄な気がするぜ」
 寝台に横臥する男の顔を覗き込み、アテムは呟いた。彼の生命の安全は保障されていない。いつ、何があってもおかしくはないのだ。アテムも、瀬人もその虞は認めている。そして全て承知の上で、瀬人は此処へやってくるのだ。自身の意思と意志によるものだった。
伸びた前髪が瀬人の顔に影を作り、暗い表情に見せていた。
 肌に触れないように気を遣いながら、指先で前髪を退けると、日焼けとは縁遠い額が現れた。普段隠れている眉は、整っていて細い。眉間には皺が寄りやすいのか、薄らと筋の跡が見える。
「ふうん、こんな所にほくろがあるんだな」
こめかみに小さな黒子があった。よく目を凝らさなければ分からないものだ。何だか可笑しくてアテムは声を出さずに笑った。
 瀬人の身長は高いので、こうして間近で観察する機会はそう訪れない。傍目からは若い肌をしているが、年相応に荒れている。更にまじまじとよく見れば、口元には髭が生えかけていた。
「へえー……」
 どんな感触がするのだろう。ただ素直な興味が湧いた。しかし、過敏な瀬人のことだ、触れたらすぐに目を覚ましてしまうに決まっている。アテムは触れるか触れないかの微妙な距離を保って、手を迷わせていた。
 自分には髭は生えない、これからも生える予定は無い。
 そう考えると、余計に好奇心がそそられる。
「少しだけ」
 囁いて、人差し指の腹を瀬人の唇の際に乗せ、軽く撫でてみた。ざりざりとした、鋭い感触。奇妙な手触りがある。
「……何をしている」
 案の定、瀬人は目覚めてしまい、即座にアテムの手首を握り捕えた。
「いいや、何も? まだ寝てていいんだぜ」
「何もしてない筈は無かろう。どうして貴様のこの手がオレの顔にあったんだ」
 寝起きの声は一段と低く、不機嫌な色をしている。
 気怠げに半身を起しながらも、瀬人はアテムの手を放さない。
「何をしていた、正直に言え」
 尋問さながらに瀬人は問い詰める。アテムは顔を横にして、手首を引いた。逃れようとすると、瀬人は握る手をますます固くさせた。
「よもや、このオレに言えぬ真似をしていたのか?」
「大したことじゃないぜ」
「だったら、言えるだろう!」
「痛……っ」
 腕を引っ張ると、アテムの身ごと倒し、瀬人は息と声を荒げた。
「隠し事など、……誰が許すものか!」
「大げさだぜ、海馬」
 更に手首はきつく握られ、腕輪は軋む音をさせる。
「髭」
「……髭?」
「生えかけてるから、触っただけ。手、放せよ」
 白状しなければ、いつまでもこのままでいるつもりだろうと踏んで、アテムは早々と諦めた。
 納得し難いという困惑した表情を浮かべながら、瀬人は手を緩めた。そして、右手で自身の顎を摩る。
「ああ、確かに」
 アテムは握られていた手首を確認した。腕輪が食い込んだ跡がくっきりと残っている。あのまま骨を折られるかと思った。
 隠し事、秘密、沈黙。瀬人は極端に、アテムのそれらの行動を嫌う。勿論、理由は分かりきっていた。
現世との別れを一切告げなかったこと、そして黙っていたことに起因している。
本人からすれば、黙っていたわけでも、隠していたわけでも無かったが、結果的にはそうなってしまったので致し方ない。しかし、それが瀬人にとっての最大の悔いとなり、固執する訳となってしまった。
彼は人一倍、臆病なのかもしれない。硬質な精神とは、傍目からは頑強に見せるが、硬いが故に脆い性質を持っているものだ。その性質は金剛石によく似ている。
「髭、伸ばしたらじいちゃんみたいになるのか?」
「……? ああ、遊戯のじじいか。ならないな。あんな風には伸びない」
「なんだ、つまらないな」
「随分な言い様だな」
「髭を生やした海馬、見てみたかったぜ」
「どうせ、貴様は笑うんだろうが」
「フフ、そうかもな」
 アテムの目に映る瀬人が唐突に大人びて見え、ふいに切なさが降りてきた。横顔の瀬人が、ひとつ、ふたつ、年を重ねる。十七から、十八の年頃は大人にも少年にも見える曖昧な顔つきをしている。いつしか来る時の訪れが、やがて自分達の間に目には見えない距離を作り出すのだろう。
「貴様はどうなんだ」
「え?」
「オレにも見せてみろ」
「うぐ……」
 強引に襟首を掴まれ、瀬人の眼前まで持っていかれた。
 顎に指をかけられ、無理くり上向かせられると、アテムは瀬人のやり口に腹を立てた。
「やめろ、苦しい!」
 膝頭で脇腹を打ってやったが、瀬人は物ともせずに唇を歪ませた。
「ふうん……?」
 親指が唇の上側を往復して、アテムの肌の滑らかさを知る。ささやかな産毛がほんのりと生えてあるだけで、幼児同然の肌質をしている。
「おい、もういいだろ……。いつまで触ってやがる」
 つるりとした肌触りは離れ難く、瀬人は何度も指で触れていた。
 そして、少し乾燥している唇の柔さに気が付いてしまった。
「海馬……?」
 指が自然と唇の輪郭をなぞった。小さな唇が、瀬人の名前を呼ぶ。三音の唇の動きは飽きることなく、目にしていたい光景だった。
「どうした?」
不思議そうに見上げてくる目の大きさに、瀬人はらしくなく、どきりとした。唇も、鼻も、手も、指もどれも小さな作りをしているのに、瞳は自分の倍もありそうだ。瞬きをする度に、睫が揺れて風を送る。
「貴様が幼く見えるのは、その体躯だけでなく、目の大きさも原因のようだな」
「うん?」
「動物や人間は、小さく愛らしいものに対し、本能的に庇護欲を駆り立てられるよう、脳に組み込まれている」
「貴様の言わんとしていることはよく分からないが、き……気色悪いことは確かだぜ」
「勘違いするな。あくまで一般論としてだ」
 瀬人の腕から半身ほど離れ、アテムは膝を折り曲げて三角にして座った。衾を退けた瀬人は着ているシャツの首元を緩めている。
「十六にしては、発育不良だな」
 横目でアテムの総身を一瞥すると、瀬人は小声で言い捨てた。
「これから育つんだ!」
 誹りを聞き逃さなかったアテムは、手元にあった長枕を力いっぱい投げつけた。だが平然として瀬人は受け止めて、顔を下に向けた。肩が微かに揺れている。笑いを堪えている証拠だ。
「大体、発育って、赤ん坊に使う言葉じゃないのか!?」
「クク……そうだな。そいつは悪かった」
 瀬人は受け取った長枕をアテムに投げ返した。
「詫びるつもりがあるなら、それなりの態度で示して欲しいもんだぜ」
 アテムは投げ返された長枕に膝に乗せ、頬杖をつく。すると足先に瀬人の手がつかれた。体ごと寄せて、瀬人がアテムの顔に寄った。
「悪かった、と言っている」
 真剣な眼差しで告げられると、身が竦んだ。
「“ゴメンナサイ”も言えないのかよ」
「オレに言って欲しいのか」
「……もういいぜ。顔が近い」
 以前より――現世に居た頃より、或いは生きていた頃より、おそらく良い関係を結べているのだろう。互いが、互いを思う気持ちは、きっと友情と呼べるものだ。
 もっと早くに、そう成れたなら良かった。しかし、ここまでの道程があったからこそ、アテムと瀬人は友好関係を築けたのかもしれない。後悔と過ち、すれ違いと対立。共に歩いてきた道は、曲がりくねったものだった。
「確かに上背は海馬には劣るが、力は負けてないつもりだぜ」
 瀬人の目の前に差し出した腕は、ぐっと力が込められると発達した筋力により盛り上がる。血管の筋が浮き出て、硬くなっていた。
「王も、狩りや戦に出るんだぜ。自然と体は鍛えられるんだ」
「まあ、多少はあるが。少々、肉をつけた方がいいな」
「……ン?」
「足も」
「あ」
 腕を取り、それから足を取ると、瀬人は鑑定するかのような目つきでアテムの身体を眺めた。
「細い」
 瀬人の手にはアテムの手首も足首も、一掴みで持たれてしまう。胴回りも片手で事足りてしまうかもしれない。
アテムは瀬人の手の中にある自分の体の大きさを実感する。瀬人から見たアテムの身がどれほどに感じられているのかが分かる。
「……でかいな、海馬の手」
「そうか?」
「やっぱり体が大きいと、他の部分も大きいのか? かしてみろ」
 瀬人の手を自らの手と合わせ、アテムはその違いに愕然とした。子供と大人だと、言い表されても仕方ない差があった。それから裸足の足を並べて、またもやその大きさに肩を落とす。
「なあ海馬、前より体でかくなってるだろ」
「さあ、どうだろうな。貴様が縮んだんじゃないか?」
「オレは変わってない。むしろ、相棒の体の時より、少しは……」
「少しは?」
「……いや、オレにもよく分からないな。明らかに違うと言えば、この肌の色くらいで」
「奴を介さない、肉体か」
 瀬人の人差し指が、アテムの足指の爪に触れ、そしてつうっと足の甲を撫で上げた。
「……ッ?」
 驚きとくすぐったさでアテムは足を跳ねさせる。今度はふくらはぎをなぞられた。
「引き締まった良い脚だ」
「……そいつはどうも……?」
訳も分からずに礼を言うと、瀬人は緩んだふくらはぎの肉を揉む。アテムは唖然としてしまい、瀬人の行動に驚くばかりだった。
「え……ッ、何を……」
「アテム」
「……うん?」
 名前を呼ばれ、アテムは顔を上げた。瀬人はアテムの片足を持ち、自らの手のひらに踵を乗せる。
「貴様のその名も」
 目と目が合った。ひととき、息が詰まった。真っ直ぐに自分を見つめる瀬人の視線は、アテムの全てを縛る。呼吸さえも奪われてしまいそうで、目を逸らしたくなる。
一瞬の隙も与えられない。同じように、強い眼差しで対抗するしか術はない。
「この身も」
「……か、海馬……」
 降りてきた手が、ゆっくりとアテムの肩を押し、そのまま寝台に寝かせられる。そして、体の上に瀬人が覆い尽くしてくる。重い影が落ちる。途端、視界が狭まった。
「真実、本物の貴様なのだと」
「……ッ、あ」
 戸惑うアテムの両手を、瀬人は導いて敷布の上に押さえつけた。倒れ込んだアテムの平らな胸の中に、瀬人は顔を潜らせた。
「オレにもっと教えてくれ……」
「ん……う」
「アテム……」
 胸の上に頭を傾け、瀬人の耳は心音を探した。やがて、求めた音は瀬人の元へ届き、その律動に聞き入った。
「海馬……?」
「オレを呼べ。貴様の声で、貴様がオレの名を」
「海馬……」
「ああ」
 目を閉じて声と脈動だけに集中すると、瀬人の瞼の裏に遠い記憶が蘇ってくる。生まれる前の、真っ暗で優しい世界に包まれる。
「アテム」
 温もりがある。鼓動が感じられる。人の命が、ここに確かに在ると、瀬人はその腕で、手で、耳で、肌で味わった。
 何一つ偽りではない。自分自身が得られるものが、現実であり、全てであると信じている。
「海馬……? なあ、眠るなら」
 目を閉じた瀬人がアテムの上衣を握りしめ、そのまま深く呼吸をし始める。全身が脱力し頭が預けられると、アテムは焦心した。
「寝てなどいない……黙っていろ」
「重いんだよ」
 煩わしそうにアテムは瀬人の肩を押し、腕を外そうとする。気に食わないという、あからさまに機嫌を損ねた顔をして、瀬人は渋々首を持ち上げた。
 圧迫感から解放されると、アテムは息をついた。
「物質としての肉体なんて、ただの容れ物に過ぎない」
 アテムの衣の上から、瀬人は胸に置いた指先を腹まで辿っていく。布越しからでも熱が伝わってくる。
「重さも、感触も、熱も、肉体があるから持ち得ること。これは疾うに朽ちた筈の身」
 指の先にある、アテムの体を瀬人は指して言う。
「現世(うつしよ)で失せれば、幽世(かくりよ)で生まれる……。その反対もまた同じ。だから、この体も、海馬の体も、この世界では触れられるものとして存在している」
「……生まれる?」
「そうだ。向こうの死は、ここでの誕生」
 死が終焉だと決めつけるのは、片側の世界からの見方でしかない。冥界の王は語る。
 けれど、それを知るのは、世界を渡ったものだけの特権であると言い、瀬人は生きていながら、その真理に気付いた数少ない人物なのだと話した。
「オレの身体は、向こうにはもう無くても、ここには在る。本当の、本物のオレだと、海馬は知りたかったんだろう?」
 アテムは瀬人の手を取り、もう一度胸の上に乗せた。心臓の上の位置、命が続く音が脈々と響く。
「身体なんて……必要ないと思っていたのにな」
「どうして」
 ゆっくりとアテムは起き上がり、瀬人と向き合って座った。不自然な形で手と手を取り合っているのだが、緩く持たれた指をアテムは未だ振り解けなかった。節くれだった男の手なのに、赤子のように力ない。
「オレと貴様が対峙するとき、大事なのは己の魂であって、肉体など不要なものだった」
「手が無ければ剣は持てまいだろう?」
「いいや。……貴様にも見せてやりたい。新たなデュエルの世界を、ネットワークで繋がる時代を、な」
「魂は肉体が無ければ、動くことは出来ない。考えることも、闘うことも出来ないんだぜ」
 肉体があるから、魂が宿るのか。それとも、魂があるから、肉体が生まれるのか。因果性のジレンマの答えは出ない。
「フ……結局はそうなんだろう。それにしても、肉体は不便極まりない。ヒトの欲、生物としての雄の本能とは、実に厄介なものだ」
「なあ、海馬まだ眠いんじゃないか……手、あったかいぜ」
 力の抜けた指先を握り返して、アテムは瀬人の掌の体温の高さを珍しく思う。
「ここで見る夢とは、何だ?」
「さっき、夢でも見たのか?」
「どうだったかな……よく覚えていない。だが妙に、安らいだ気分になった」
「そうか」
 指と指が絡み合って、その内に瀬人の温度がアテムに混じり合っていった。高くも低くもない、心地良い温もりに変わる。
「貴様が何かしたのか」
「オレにそんな力は無いぜ」
「……同じだったんだ」
「ん?」
 アテムが拒まない限り、瀬人はいつまでも手を離さない。いや、離せない(、、、、)のだ。知らぬ内に芽生えた恐怖心は、自然と瀬人を行動させている。おそらく本人の自覚はない。
「お前の鼓動を耳にしている時。オレの名を呼ぶ時、こうして……貴様の肌に触れている時と」
「安らぐ……?」
「ああ。おかしいと思うだろう?」
「うん、変だぜ」
膝を抱えて座り、アテムは繋がれた手指を見下ろした。短い爪が、アテムの手の甲を掻く。幼子が手慰みにしている仕草のようにあどけない。
「まるで、オレのこと好きみたいじゃないか」
 口に出して言ってから、アテムは後悔した。言うべき言葉ではなかった。
「オレが貴様を好いているとしたら、それはおかしなことなのか?」
「……さあ、どうかな」
「変なのか?」
「オレに訊かれても」
「……貴様は、どうなんだ」
「オレ?」
「この手を、振り払わないのか?」
 持った手を上げて、アテムの視界へと運ぶ。繋がれている手が温かい。
「オレは、どっちでも」
「このままでもいいのか」
「海馬が、そうしていたいなら……」
「オレに主導権を渡すと言うんだな?」
「そうとは言って……ッ!」
「貴様の方こそ、オレに気があるような素振りをしている」
「……な……っ」
 指摘されると、アテムは頬が火照るような錯覚がして、咄嗟に手を放した。実際、体温が上昇して、汗がどっと噴き出してきた。
「違うぜ! これは……その、驚いただけであって」
「アテム、オレに自由を与えるのなら……もう暫く、その身を寄越せ」
「う……」
 断りの文句ひとつ言い出せず、体も動かせず、アテムは伸ばされる腕を拒めなかった。
 瀬人がそうしたいのなら。望むのならば、叶えてやるべきだと、本音が理性に訴えているのだ。どちらもアテムの意思のはずなのだが、相反し、真逆の考えを主張してくるので、自身が一番混乱してしまっている。



「ちょっと待て!」
「今更、怖気づいたのか?」
「ちがう! こんなことしていいなんて、オレは言ってないぜ!」
「こんなこととは、何だ」
 寄越せと言われた手前、その身を寝台に乗せたままで任せていた。瀬人の手は恥じらいの動作もなく、アテムの上衣にかけられていた。
「服を脱がせようとしているんだろう!」
「そうだ」
 悪びれるず瀬人が即答するので、アテムは絶句してしまった。
「何の必要があって、するんだ!?」
「貴様、先刻の自身の行動を顧みてみろ」
「ええ……?」
 振り返ってみたが、これといって思い当たる節がない。瀬人は続ける。
「オレの寝込みを襲い、無抵抗のオレの肌に無許可に触れ、自身の好奇心を満たしたのだろうが」
「酷い言い草だぜ」
 その件に関しては、代わりに同じ場所に触れたのだから――半ば強引に。問題は終わったはずだ。
「ならば、オレも同様に好奇心を満たしても構わないだろう」
「オレが構う! 大体、何で脱がなくちゃいけないんだッ!」
「オレがしたいと思う事を、貴様は拒まないと言ったんだ」
「それは……さっきの手のことで、こんなことをしていいなんてオレは言ってないし、許しもしないからな!」
 アテムは上衣を掴んでいる瀬人の指を引きはがし、捲られかけていた裾を戻した。外套がないとなると、心細くなる。身を守る手立てが少なかった。
「直に触れたい」
「海馬……?」
 低い声は、悲痛に聞こえた。アテムは不安になって、呼びかけた。
「出来ることなら、貴様の心臓ごと、触れて、見て、確かめたい。しかし、それは不可能だ。だから、その心臓のある場所を、生身の体を、オレ自身の目で見ておきたい」
「さっき触って、聞いただろ」
「服越しにな」
「それじゃ、ダメなのかよ」
「どうやら駄目らしい」
 自嘲気味に乾いた笑い声をわずかに漏らして、瀬人は喉を鳴らした。
「どうやらって、他人事(ひとごと)みたいな言い方だな」
「理由も語らず、いきなり脱がせようとしたのは、不躾だったな。悪かった」
「理由を話したって……、していい訳にはならないからな」
「何故だ」
 よもや断られるとは思ってもみなかったのだろう。疑問がすぐに口を衝いて出る。瀬人は他者の感情の機微に疎い。
「むしろ、どうしてオレが素直に聞き入れるのかと思い込んでいるのかが、意味不明だぜ」
「…………もしかして」
「ん?」
「嫌なのか」
 あまりの鈍感さに、アテムは呆れかえった。ため息が盛大に出てしまった。
「だから、嫌だって言ってるだろ!」
「“嫌”とは聞いていない」
「じゃあ、今言ってやる。オレは嫌だ! 嫌だから、嫌だ!」
「……成程」
 強く反論されれば納得したらしい瀬人は一度体を起こし、寝台の下部に座り直した。
 ようやく、この無意味な問答から解放されるとなると、アテムは気を緩めた。しかし、瀬人はそう簡単に諦める男ではない。
「アテム」
「今度は何だよ……」
「折衷案を考えた」
「……せ?」
 その場に背を正して座る姿は、さながら武士のようだった。口調も相まって、より古風な様相である。
「オレは、貴様の肌に直に触れたい。そして目で見ておきたい……が、貴様は服を脱ぎたくない」
「うん」
「なら、オレが裾から手を入れればいいのではないか?」
「ん……?」
 折衷、と耳にした時点で、おおよその予想はついていたが、アテムは首を捻った。ひとまず瀬人の話が終わるのを待った。
「それならば、服を脱がなくても済む」
「……え? いや、海馬」
 確かにそうなのだが、そのまま意見を押し通されてしまっては困る。勢いのまま瀬人が動き出す前に、一度手を挙げた。
「何だ、この期に及んでまだ注文を付ける気か」
「待て。何で触ることが前提になってる」
「それが最優先事項だからだ」
「じゃあ、オレの最優先は、触られたくない、だ」

「……なら、脱げ」
「嫌だぜ!」
「だったら、触らせろ」
「それもダメだぜ!」
「……あれも駄目、これも嫌、我儘が過ぎるぞ!」
「何で貴様が怒るんだよ! 怒りたいのはこっちだ!」
 穏便に済ませようと、お互いが気を配っていたはずだった。しかし、意見がすれ違えば、元来争いが起きやすい性分であるからして、次第に声が荒々しくなり闘争心に火がつく。一歩も引かぬという頑固な精神が現れ始める。
「どうして貴様が怒る! 何に対して、怒りを感じているんだ! 説明してみろ!」
「それは、海馬が勝手に決めつけて、オレが嫌だって言ってるのに、強引に進めてくるから」
「無理強いなどしていない。貴様が拒否すれば、オレは止めているだろう」
 正論であった。アテムは逆立った毛が鎮まっていくのを感じる。
「それは、……まあ、そうだが」
「貴様が怒るのは、オレにつられているだけだ」
「海馬が大声を出すからだぜ」
「ふん」
 両者共に怒鳴り声を出して、場の流れに任せていると、互いにつられてますます昂ぶってしまう。
「これでは外にまで聞こえてしまうな。あらぬ疑いをかけられるのは困る。廊下に兵士が待機していた……勘違いでもされて寝所へ駆けつけられては、たまったものではない」
「オレだって迷惑だぜ」
「仕方あるまい」
「うわ……っ」
 半身を起こしていたアテムの真横に、瀬人は体ごと寄せ、耳元に唇を近づけた。
「小声で話してやる」
「……ッく」
 咄嗟に耳を押さえて、体を縮めたが瀬人は容赦なく話し続けてくる。
「どうした?」
「……んっ」
 瀬人が言葉を発する度に、アテムの耳の中に息がかかった。耳朶をかすめる吐息に、背筋がぞくぞくとする。
「離れるな、聞こえづらくなるだろう」
「や……」
「また“嫌”か?」
 反射的に首を背けると、肩を持たれて引き寄せられてしまった。差ほど強くない力だ。しかし大きな掌がアテムの肩口を包んでいて、逃すまいとしている。
「や、やだ……ッ、そこで……しゃべ、るな……!」
「嫌々ばかりだな、貴様は」
「んぅ……ふっ……」
 上半身はぴったりと密着させられている。耐えられなくなり、アテムは足を使って少しずつ体の位置をずらしていった。
「おい、ずり下がるな」
「き、聞こえてるから、そんな……近くなくていいっ」
「オレが話し辛い、戻れ」
「……うう……っ」
 脇の下に腕を入れられて、また体は元の場所に戻された。どうしてこんなに側に寄られなくてはいけないのかと、抗議してやりたかった。だが、まともな思考が働かなくなっていて、嫌だ、くらいしか口に出せない。瀬人の囁き声は、アテムを酔わせる媚薬のように感じられた。強い効能があるらしい。
「前を向け」
「へ……?」
「こうだ」
 横抱きにされていた体をいとも簡単に反転させられ、瀬人の胸板に背中を預ける形になった。アテムの身はすっぽりと瀬人の体に収まってしまう。
「な、なんだよ……この格好」
 アテムの腹のあたりに瀬人の手が回ってくる。そっと置かれた手がぬくい。緊張で肩から下が強張った。
「正面を向いているから、やり辛かったんだ。これなら、自然に出来る」
「……え……ッ! ちょ……ッ、海馬!」
 帯から上衣の裾を捲ると、出来た隙間に手が忍びこまれた。
 長い指が腹の皮膚を滑っていく。全身が総毛立った。体内は熱くなるのに、肌の表面は粟立つ。
「……っく」
「少しの間だ。辛抱しろ」
「……う……く」
 胸部は瀬人の左腕によって固定されており、体が前に曲げられない。布の下でまさぐられる手をアテムは不安げに見下ろすしかなかった。不自然な服のふくらみが、もぞもぞと動いて、その度に足の指に力が入った。
「ふ……ッ」
 堪えようとすればするほど、鼻から息が漏れる。体がいう事をきかない。意識をしないと、瞬きすらも上手く行えなくなった。
「力を入れているな?」
「……え」
「硬いぞ」
「あ……っ」
 五本の指が腹筋を確かめるように、ばらばらに動いていく。筋肉の溝を、指がなぞっては戻り、なぞっては線を描く。足の親指が二三度ひくついた。
「……う、いい加減に……しろ。貴様が触れたいと、言ったのは……」
 アテムは自らの手を衣の下に潜り込ませ、瀬人の腕を力任せにぐいと持ち上げた。
「ここだろ!」
 左胸の位置まで上げ、両手で押さえつけた。血流が速まる。その分だけ、心音も高まった。内部から打ちつけるように、心臓が存在を主張している。
「そうだ」
「あ……」
 沈黙が流れる。すると、瀬人の手を通して、アテムにも心臓の音が聞こえてきた。
 命のリズムが、ふたりの体を通っていく。それは瀬人の手から、全身をかけ巡り、そしてアテムの胸へと帰ってくる。
「オレが欲しかったのは」
「……海馬?」
「これだ」
 瀬人の手が肌へとめり込み、アテムの心臓を丸ごと掴む。流れる血の温かさが生々しい。震え動き続ける心臓は、うまれたての小鳥のように、瀬人の手の中に優しく包まれた。
 目を閉じると、そんな幻影がふたりの頭の中によぎっていた。
「もう、いいだ……ろっ!?」
 手のひらが左胸を隠すように置かれていた。それはゆっくりと離れ、指先だけが肌に触れていく。
 何かを探るようにして、瀬人の指がアテムの肌をするすると移動していく。
「なに……?」
「いや」
 訊いても瀬人は答えなかった。いつまでこうしているつもりなのだろうか。指は探索を続けている。同じ場所を指先が何度も回る。
「もういいだろ、海馬」
「まだだ」
「貴様の望みは叶えてやった、もう十分だろ」
「いいや、まだだ」
 ある一点を瀬人は往復している。まるで変化を待ち望んでいるかのように、しつこく指先がその一点を同じ動きで弄り続けている。
「……ん」
「おかしい」
「……何が」
 顎を持ち上げて、目線を上にすると、むっつりと立腹したような形相の瀬人が皺を眉根に寄せていた。
「貴様、やはり見せてみろ。おかしいぞ」
「は……ッ? 何でだよ! 見せなくてもいいから、触らせろと言ったのは、海馬の方だろ」
「……違う」
「何が違うんだ!」
「そうじゃない。貴様の体は、おかしい。あるものが無い」
 指先は未だアテムの胸をまさぐっている。何かを見つけ出そうとして、動き続けている。
「あるもの?」
「ああ」
「何を言ってるんだ」
「これだけ触れているのに、まったく感触がないとは、変だ。見せてみろ」
 上衣の表を引っ張り、瀬人は腹あたりまで捲ってしまった。形のいい臍が現れる。くっと、アテムが腹に力を入れると臍も同じくして僅かに窪んだ。
「だ、だから、あるものって何だよ!」
「……ち」
「ち?」
 なんとかして制止しようとしているアテムは、瀬人の両手を握っていた。本気らしい力が入っていて、そのまま上衣を破きかねない。鼻息が漏れると胸が上下した。
「乳首が無いと言ってるんだ!」
「……無い……?」
 ――何を言っているんだ、この男は。
 アテムの顔は語るよりも早く、その疑問を表情にして、瀬人に向けていた。



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