空想科学少年 サンプル

第一章 自戯 〜ソリタリィ・バイス〜
第二章 覚醒 〜イド・アウェイク〜
第三章 変革 〜メカニカル・アニスマ〜
第四章 帰郷 〜スウィート・セブンティーン〜



第一章  自戯 ソリタリィ・バイス


 記憶を取り出すという行為は、他人の目に触れられたくない思いまで呼び起こす。
 完全なる“武藤遊戯”を作り出す為に、必要な情報をデータ化するにあたって、瀬人は自身すらも忘れていた記憶を掘り返されていた。
 研究員たちは海馬瀬人が望む“武藤遊戯”が一体誰なのかが定かでは無かった。実際に戸籍上で存命の武藤遊戯は、高校三年生の童実野町民だ。
 だが、瀬人はその武藤遊戯は武藤遊戯であって、彼の望む“武藤遊戯”では無いのだと言う。
 容姿、口調、性格……過去の決闘の映像を見れば一目瞭然だった。確かに別人のように違っていた。それを見て彼自身を二重人格だと仮定する研究員もいた。瀬人は、説明をするのが面倒になっていた。
 武藤遊戯の中に、古代の王(ファラオ)の魂が存在していて、ふたつの人格を彼ら自身が切り替えている……などと言った所で瀬人が医師と面談する羽目になってしまうだろう。
 十七歳当時の武藤遊戯の身長、体重、手足の大きさ、顔の作り、肌の色、声紋……数字化できるデータは問題なかった。それらを元にして器だけの武藤遊戯は、一か月足らずで作り出されたのだった。しかし、現段階では質量を持たないただの立体映像でしかなかった。
「言わばこれはただの人形……」
 瀬人は、意思を持たない映像の遊戯に話しかける。大きな瞳は閉じられ、手は胸の前で組まれている。棺の中の遺体のような姿で沈黙している。
 データファイルのデフォルト名は【DUEL DOLL】と記されている。これは作り物の人形なのだと、強く意識するための名前であった。
「オレの、オレだけの……――か……」
 無意識に伸ばした手をビジョンはすり抜けさせ、遊戯の映像は乱れた。システムが不安定な証拠だった。瀬人はソリッドビジョンのスイッチを切ると、研究室を出て行った。


 海馬コーポレーション内の研究施設には、社長のみが使用出来る部屋が数室ある。
施設内のドアは全てカードキーで制御されており、瀬人専用の白のカードキーは全室解除可能だ。
カードは社員、研究員の階級ごとに色分けがされており、上の立場ほど、出入り可能な部屋は多い。
 白を頂点とし、モクバ及び重役が赤、階級ごとに青、黄、となり、最下である本社一般社員が持つカードは黒である。黒は施設の入り口までしか開けられない。研究施設を訪れる本社の社員は少ないので、使用頻度は低い。
 施設内の瀬人のプライベートルームと呼ばれるある一室は、社員共の間では通称「玩具部屋」と呼ばれ、社長の遊び場などど揶揄されていた。
 完全なる武藤遊戯を制作する為のDD計画《DUEL DOLL PROJECT》が始まってからは、瀬人はその玩具部屋に籠ることが増えた。
社内は、ほぼ全域に渡り二十四時間体制で監視カメラによる録画、録音がされているのだが、瀬人の私室には設置されていない。誰もその部屋の中で何が行われているのかは知ることは無い。

 残業中の社員の数名は噂に下世話な想像を膨らませていた。
「社長っつったって、まだ十八のガキだからなあ。俺が高三の時なんて、そりゃあアレばっか考えてたって!」
「おいおい、夜中のテンションで話すのやめろよ。ここの会話だって、上の連中に聞かれてるかもしれないんだぞ」
「平気平気。うおーい、社長さーん、聞いてっかー! 元気にマスかけよー!」
「馬鹿、マジで首になるぞ」
「フツーに考えてみろよ。社長サマがこんな夜中にまで社内に残ってるわけねえだろ」
「……それもそうだけどよ」
 下層の更に下っ端の社員の彼らは、デスクに夜食を持ちこんで、残った仕事をのろのろと片づける。口うるさい上司が不在なら、急いでも意味はない。どうせ帰りは早朝になってしまうのだ。尚更、彼らにやる気は出ない。
「まあ、あれだけガチガチに固められた生活してんだから、ちょっとは息抜きできる場所がねえと、やってらんねえだろ」
「ハハハ。そう考えたら、ウチの社長様にも人間味が感じられるな」
「高校生で社長なんて、すっげーアメリカンドリームな話だけど、案外カワイソーな子なんじゃねえの? 知らねえけどよ」
「知らねえのかよ」
「いやいや、俺たち一般市民には分かんねえ苦労があるんだって! ……知らねえけど」
「やっぱり知らねえのかよ。お前テキトーすぎるだろ!」
 最早、彼らの業務意欲は零に等しく、時間が過ぎるのを待つばかりなのだろう。薄暗い社内の一角に、笑い声が響いていた。

 瀬人は彼らの予想に反して、夜中の現在も社内の施設に残っていた。彼らの言う、“玩具部屋”に瀬人は居た。
 この部屋はモクバですら入ることが許されない。白のカードキーでしか開かない部屋のひとつであった。
 手元を照らす小さなライトのみがつけられた部屋の中で、瀬人は一冊のスケッチブックを手にしていた。
 古いスケッチブックは、まだ両親が生きていた頃に貰ったものだった。親戚の家や施設へたらい回しにされた時も、手放さなかったものの一つだ。
ページの中には幼い瀬人が描いた様々な動物の絵が残っている。母の字や絵もあった。ページの中で絵に対する感想や、幼少時の瀬人に強請られて描いたらしい絵があった。
 モクバも父親も知らない、瀬人と母だけの思い出であった。どうやら母はあまり絵が得意では無かったらしい。自信なさげに、ページの隅に小さく竜の絵があった。おそらく竜なのだろう……それほどの認識の実力であった。
 何故、今になってこの思い出に浸るのかが瀬人には理解出来ずにいた。
DD計画が始まってから、瀬人は久しぶりに絵らしい絵を描いた。それがきっかけのひとつだったろう。
 ペンを取り描いたのは、記憶の中に生き続ける遊戯(アテム)の姿かたちだった。海馬剛三郎は、美術に関する知識や審美眼は鍛えたが、瀬人自身にセンスを身に付けさせる教育は施さなかった。そのような力は経営者には不必要であるからだった。
 人物画は不得意だった。実在の人間よりも、想像上の生き物や風景のほうが、描いていて楽しかった覚えがある。人の顔は、特に上手く描けなかった。
 瀬人は遊戯の大まかな姿までは描けたが、顔に着手出来なかった。どんな表情を描けば良いのか分からなかったからだ。
 顔を失くしたままの遊戯の立ち姿が数点、スケッチブックの中にあった。他人が見れば、それは不気味なものに映るだろう。それこそ、本当に亡霊の絵のようだった。
 今の段階の瀬人には、その顔の無い遊戯が、心の中の存在であり続けている。
 資料ならいくらでもあった。ここにも写真や映像がある。それに、写真を見ずとも、瀬人の頭の中にはしっかりと遊戯(アテム)の顔が記憶されている。小ぶりな鼻や唇も、瞳の強さも、瀬人の視界に何度も入った全て。
 それでも、瀬人の手では描けない。睨み付ける顔も、仲間に見せた穏やかな視線も、挑戦的に煽る表情も、それらは生きた遊戯から作られる全てだったからだ。過去になってしまえば、瀬人の手でそれらを復元するのは、不快に思えた。
 手元にあるコントローラーを操作し、瀬人はビジョンを映し出した。青白く光る体、半透明に透ける肌、まさしく幽霊の遊戯だ。
「目を覚ませ」
 瀬人は手を伸ばして、語り掛ける。遊戯は口を閉ざしていた。
 思考、言語のプログラムは完成間近だった。あとはそれらを人形の遊戯にインストールし、目覚めさせてやるだけだ。正常に作動すれば瀬人の望む“武藤遊戯”はこの場に再び生を受ける。
 果たして、それが本当に求めている遊戯なのだろうか。瀬人は正しい解決口を探して彷徨っているのだ。
「亡霊はどっちだ」
 皮肉まじりに瀬人は己に言い聞かせた。口元から冷めた笑みが零れる。馴染みのある声が部屋の中にあったような気がしたのだ。
 それもまた、幻聴だった。


 全ての電源が切られた玩具部屋で、人形は決して広くない室内を歩いた。
 虚ろな目を通して見る世界は、どこからどこまでが境界線か知らない。人形は、無い頭を使ってひとつずつ物を知ろうとする。
 これは、手。手がついているのが腕。手の先にあるのが指。歩くのは足。足がついているのは胴体。胸、肩、首……顔。
 人形は自身の顔を触った。口、鼻、頬、瞼、眉、額。指の腹で触れていけば、人形の視界には、顔の造形が計算され、形作られた。
 人の形をしている。私には手があり、足がある。顔がある。つまり目で見て、鼻で嗅いで、口で喋って、耳で聞くことができる。そうするために作られたのだ。
 人形は不慣れながらも、室内を歩いた。
 あれは机、あれは椅子。あれはコンピュータ、私の仲間、同類。あれは本、あれは紙、あれはペン。
 人形は指を指して、目に入ったものを確認していく。
 そして、あれは人。人間。私たちを作り出すもの。私たちが従事する対象。
 ひとり、男、人間。寝ている。眠り。人は眠る。生きる為に必要不可欠、人間の三大欲求の一つ。
『マスター』
 人形の無い頭に浮かぶ文字が内部コンピュータ上で読み上げられた。しかし、未だ言葉を話せる状態ではなかったので、わずかなモーター音がしただけだった。
 人形は眠らない、必要がないから。人形は疲れない、作り物だから。人形は人間に絶対服従、それが世界の決まり事だから。
 人形はレンズの瞳に眠る男の姿を焼き付ける。そして、名も知らぬマスターのことを何度も呼んだ。


 数日が経ち、ようやくデュエルドールのテストが行われることになった。
二、三日前にシステムに異常がみられ、原因発見と修復に時間がかかってしまったのだった。
先ほどから研究員たちは、冷や汗をかきっぱなしだ。スケジュール通りに計画が進まない現実に、瀬人は立腹しているからだ。
 ただでさえ、ここ何か月かの社長は機嫌が最高潮に悪かった。
事を穏便に済ませるには、滞りなくDD計画を完遂させるのが一番だと社員一同がそう決意していた……にも関わらず完成手前で失態をしでかしてしまった研究チームは、それはもう意気消沈してしまった。
 今はただ、余計な口を叩かずにひたすら素早くてきぱきと作業を行うだけだ。
「せ、瀬人様」
 チームのリーダーである白髪交じりの男性が、やや緊張ぎみに瀬人に話しかけた。他の研究員も顔を引き締めて後ろに並んでいる。
「準備は整ったか」
「は、はい」
 暈(くま)が目立つ瀬人の顔色は優れない。誰しもが認めているが、誰一人として忠告できる立場のものはいない。
普段よりもワントーン低い声が余計に周囲を怯えさせた。
「ようやく……か」
 席から立ち上がると、瀬人はテストルームへ自ら足を運んで行く。
 無人のテストルームは、一面ガラス張りになっており、室外から操作できるようになっている。
 ヘッドセットについたマイクで瀬人は研究員らに指示をする。
「さあ、起動させろ」
 操作室には、マイク越しの瀬人の声が響いた。リーダーの男性が頷き、起動のパスコードを打ち込んだ。すると、ビジョンの中の遊戯に電子の生命が吹き込まれる。
 瀬人の目が閃いた。待ち望んでいた瞬間が訪れる。目がかっと見開き、瞬きもせずに見守る。
「……うまく……いってくれよ……」
 チームの男性が白衣のポケットの中で拳を握って、ビジョンの遊戯を見つめた。他の研究員たちも、同じような真剣な顔をしている。皆の願いはひとつだった。
「……ぃ……」
 床に足をつけた遊戯は、組んでいた手を外し、ゆっくりと瞼を開けた。そして、目の前に立つ男を視野に入れ、小さな声で呼んだ。
「か、い、ば」
 人工知能は瀬人を“海馬”なのだと視認した。発音は危ういものだったが、瀬人はその事実に安堵を覚えていた。
「そうだ……遊戯」
「……ゆ、ぎ……」
 遊戯は海馬の声を聞いて、それ真似ようと発音する。だが、ぎこちない音にしかならなかった。
「フン。未完成のようだな……まあ、いい。貴様が遊戯であることは、このオレによって証明された。実験は成功と言えよう。諸君、ご苦労だった」
「……ああ、良かった!」
「はー……やっと。長かった!」
 操作室には研究員たちの緊張が解けた声が、それぞれ飛び交った。DD計画は、ひとつの区切りを迎えられたのだった。


 人形の遊戯は思考こそ遊戯(アテム)ではあったが、アウトプットするための動作や会話能力は、生まれたての赤子同然だった。 
データであった頃の遊戯のプログラムは、研究員に任せられたが、人の形へ移してしまうと、瀬人は異様なまでに遊戯に執着した。他者に触れさせたくないと思ってしまったのだ。
 一日の中で自由に使える時間は瀬人には限りがある。やるべきことが多すぎたが、それも自分が選択した結果だ。
 遊戯のビジョンは、足元にある極小投影機によって、実体化しているように見せられている。投影機は人工知能と連動しており、体の動きに合わせて自動的に動くようになっている。人と変わらぬ自然な動作は、映像であることを見る者に稀に忘れさせるほどだ。
 瀬人は研究施設内の最上フロアのみ、遊戯を自由に行き来させることにした。人々の動きや会話、やりとりを実際に体験させることにより、より人間らしい知識を得させるためだった。
 ただし、全社員、及び研究員らに言い渡されたのは、“武藤遊戯”との許可なき接触を禁ずる、との命だった。
だが、中身は瀬人の知る限りの遊戯であるがために、躊躇いもなく、人々に話しかける。
「なあ、なにしてんだ?」
 少し舌足らずに発せられる声は、容姿よりも幼さが目立った。女性の研究員は、返事をしそうになったが、曖昧な笑みを浮かべて、モニターを指さした。
 彼女は、デュエルドールのビジュアルデザインを行っている。遊戯の顔を作ったのも彼女だった。
写真や映像を元に、瀬人の求める遊戯の完璧な造形を一任されたのだ。直接、社長から褒められはしなかったが、他の社員曰く、かなり満足しているだろう、と人づてに聞き、ほっとしたものだ。
そんな自らが手がけた人形が、無邪気に話しかけてきている。彼女の中に喜びが募る。
モニターを覗く横顔は美しかった。本物の武藤遊戯よりも、……と思ってしまうだけで社長の逆鱗が飛んできそうだったので、彼女は首を振って思想を飛ばした。
始めて写真の彼を見たとき、きれいな少年だと彼女は思った。
強い意志が感じられる目が特に目立っていたので、瞳を作るのに一番時間と手間をかけた。今、その瞳が輝きを宿している。
美醜に関しては人それぞれ好みがあるのだろうが、十七歳とは、ひとの人生の中でどんな人間も瑞々しく綺麗な時代なのではないだろうか。
 若い、ただそれだけで、他の人々は羨み、憧れるのだ。誰しもが経験し、持ち得ていた時代。しかし、儚く過ぎ去ってしまうものでもある。だからこそ、十七歳は綺麗だ。
「オレと、おんなじ」
 少年の横顔が陰りを見せて呟いた。そして、女性へと振り返り、じっと目を見つめた。女性は黙って視線の攻撃を受けていた。
「ひとの…………」
 それ以上、少年は何も語らなかった。興味を無くしたのか、その場から去って行った。足音の代わりにベアリングが転がる音がしていた。

 瀬人は遊戯に、宿題を出していた。今までの海馬と遊戯の決闘レコード、映像、デュエルの流れを記録したノート、そして遊戯のデッキ。それらはデータとしてはディスクにインプットされていたが、遊戯の精神構造までは把握出来ていなかった。
「その目で見て、その頭で考えろ。そして、貴様自身が悟れ。決闘とは、言葉や数字では、全てを表せられないものだ」
 別れ際に瀬人はそう遊戯に言い渡していた。
瀬人自身の手から貰い受けたアナログな情報源は、電子生命体の遊戯には奇妙に映った。だが、そこにある思いは、機械の心にも感銘を齎すものであったのだ。

 まるで自分をとても大切にされているかのような、そんな瀬人の熱い気持ちが伝わってきた。
「か、い、ば」
 名前を口に出してみる。まだ上手く言えない。映像の中で、遊戯自身は、いつも大きな声ではっきりと、海馬の名を呼んだ。ほとんど叫びに近いような、時には彼を諌めるように、遊戯は海馬の名を繰り返して呼んでいた。そして、瀬人も同じく、遊戯の名を口にしている。
自分が呼ばれていると、遊戯には分かった。遊戯がオレで、オレは遊戯なのだと、次第に思えるようになった。最初から、そうなのだと、データ上では書き込まれていても、機械の心は追い付けない。
作られた意思は、人の思いや言葉によって育っていく。遊戯は自身を遊戯なのだと思い込むようになってから、初めて人になれる。

「かい、ば」
「違う。“い”にアクセントをつけるんじゃない。海馬、だ。もう一度言ってみろ」
「かいば」
「そうだ。もう一度だ」
「かいば、せと」
「フルネームで呼ぶ必要は無い」
 夜になると、玩具部屋では瀬人による遊戯が遊戯になるためのレッスンが行われる。
「せと」
「下の名前で呼ぶな」
「かいば」
「そうだ。貴様は、オレをそう呼ぶんだ。それが遊戯の呼び方だ」
 幼児に教育を施すかのように、瀬人は様々な資料を並べて、床に座り込んでいた。遊戯は、それらに目を通したり、書類で遊んだりしながら、瀬人の話に耳を向ける。
見聞きしたことは絶対に忘れない。海馬コーポレーション製の優秀な知能は、どんどんと知識を蓄えていく。
「海馬」
 名を呼ぶ音が、漢字になったのを瀬人は感じた。
『気がする』だとか『感じる』とか、そういった曖昧な表現は嫌いなのだが、そうとしか思えなかった。
覚醒し、開口一番に発した“海馬”より、ずっと遊戯らしい言い方になっていた。
「いいか。貴様はオレと決闘をするために居るんだ。そのことを忘れてはならない。今はまだ、その段階にきていない。だからこうして、貴様は、遊戯であることを学ばなければならない。分かるな?」
「はい」
遊戯は素直に瀬人の言うことに従う。その真っ直ぐな眼や、姿勢が瀬人には憂鬱の種だった。
「……遊戯は、オレに『はい』とは言わん。『うん』、『ああ』、『そうだな』あたりを使え」
「うん」
 表情は無垢なもので、まさしく生まれたての顔つきをしている。何だか腐抜けた面構えに思えて、瀬人はため息をついた。
「オレが渡した映像や、資料はひとつ残らず見たのだろうな?」
「うん。見たぜ。全部」
「だったらもう少しは、遊戯らしい態度を取ったらどうなんだ」
 瀬人は遊戯の頬あたりをくすぐった。触れられはしないので、映像がすり抜けるだけだ。だが、遊戯は瀬人の感触があったように思えた。長い指が、頬をかすめるのは、きっと初めてのことでは無かったのだろう。覚えのない記憶が、遊戯の中に確かに在る。
「遊戯……じゃない?」
 瀬人が求める姿ではないと言われてしまったら、遊戯の存在意義がなくなる。途端に心細くなった。膝を抱え込みたくなる。だけど、きっとそうしたら、瀬人にとっての遊戯らしくない動きになるのだろうと、すぐに計算結果が出た。
「いいや。貴様はオレの遊戯だ……オレだけの、な」
 瀬人は足を崩すと、胡坐をかき、目を伏せた。瞳のレンズが、瀬人の身体状況を調べていく。体温、呼吸、脈拍……どれも異常はない。
 肌はいつも通りに青白く、目元の暈(くま)はすっかり色素沈着してしまって、わずかに浅黒い。
「海馬、ねむいのか?」
「いや」
 腕を組んだまま、瀬人は息を大きく吐いた。明らかな疲労の色が見られた。遊戯は向かいに座り、ただ黙りこくって、瀬人が言葉を発するのを待った。
 眠るとは、どんなことなんだろう。電源が切られるのと似ているだろうか。人間は自分の意思でオンオフできる。でもコンピュータはそうはいかない。ひとの手で行われる。それは神の仕事だ。
 電源が切られないなら、機械は延々と動き続ける。疲れも、眠りも知らないまま。
「海馬……おやすみ」
 口に出して言って初めて、遊戯のこの言葉が、今の遊戯だけのものだとメモリーが教えてくれた。そうだ。瀬人はこの言葉を、遊戯に言われたことが無いんだ。
「おやすみ……」
 自分だけの言葉が嬉しくて、遊戯はもう一度口に出して言った。もう既に意識を手放しかけている瀬人には、届かなかったかもしれない。それでもいい。遊戯は眠る男の顔をいつまでも眺めていた。


 瀬人はいつの間にか眠ってしまったのだと、目覚めてから知った。
 寝床に入った覚えはなかったのだが、自身の体はベッドに置かれていた。
「海馬、起きたのか」
「ああ……、今は何時だ」
「まだ明け方近く……四時前だぜ」
 数時間が経過していた。遊戯の話し方が、大分自然なものに進化している。海馬が眠る前の、あどけない喋り方ではなくなっていた。遊戯は自主的に学習し十七歳当時のままに近づいていた。
 遊戯は暗がりの中で、一冊の本を見ていたようだ。瀬人からはその本が何のタイトルかまでは分からなかった。
こちらからは遊戯自身には触れられないが、物質にはセンサーを通して、遊戯は軽量のものなら持つことが出来る。カードが持てなければ、デュエルが出来ないからだ。一キログラムまでなら最低限、手にすることが可能だろう。
「また家に帰らなかったと、モクバに叱られるな……」
「また?」
「ああ……あまり会社に泊まるなと言われている」
「心配してるんだ」
「そうだな」
 遊戯はベッドの端に座り、瀬人の顔を見下ろした。薄明りの下では、顔色は正しく判断できない。
「少し熱いな」
「分かるのか?」
「ん……? ああ。手に温感センサーがついてる。オレは出来るだけ人に近いように設計されているから」
 瀬人の額に手を翳した遊戯は、自身の機能を説明する。すると、瀬人は眉根を顰めた。
「人に近いなどと、二度と言うな! ……いいか、貴様は遊戯なんだ!」
「ああ……うん……分かって、る」
 人形であることを忘れたがっているのは、紛れもなく瀬人自身だった。たとえ触れられなくても、作り物であっても、目の前の遊戯を一番信じたいのは、他でもない瀬人なのだった。
 起き上がった瀬人は、明らかに機嫌を損ねたような態度をとり、そのままバスルームへ向かってしまった。
 遊戯は追いかけられない。水に触れたら、投影機がショートしてしまう。次にアップデートされる時には防水機能を付けて貰おう、と脳内のメモに記入しておく。

 ひとでなければならない。
 作り物の真実は仕舞っておかなきゃいけない。
 ひとでいなくてはいけない。
 オレを作ったマスターが命令したから。
 それを望まれているなら。
 ひとでいつづけなくてはいけない。
 現実に蓋をして黙っていよう、目を閉じていよう。

 遊戯はひとが眠る姿を真似て、瀬人のベッドに頭を伏して目を閉じてみた。自身のモーター音がしている。
遠くの音まで拾う高性能な耳は、バスルームの水音も鮮明に聞こえている。
瀬人はシャワーを浴びている。水の跳ね返る音で、瀬人がどんな動きをしているかも分かった。髪を濡らして、顔から温水を浴びている。目を覚ます為にしているのだろう。
 ここは夜明け前が一番静かだ。人も動物も眠る。虫も草木も眠る。起きているのは機械だけ。
遊戯は目を閉じると、他のコンピュータたちの微かな唸る音に耳を澄ました。この研究施設では沢山の機械たちが休まずに働き続けている。
 数分の後、シャワールームの戸が開かれる音がした。ぽたぽたと雫が滴っているようだ。瀬人は体と頭をタオルで拭いているらしい。遊戯は瞼を半分開いた。
「何をしている」
 瀬人の冷たげな声が遊戯の後頭部に突き刺さった。それくらいで傷付くほど繊細な作りはしていないが、心の距離を感じる声色なのは分かる。
「眠ってた」
 嘘だった。今の遊戯に眠る機能は搭載されていない。――そもそも機械にそんなものは必要ないのだ。
「……そうか」
 瀬人は張りつめていた気配を解き、何故か安心したように力を抜いた。
 ――ああ、そうか。
 途端、遊戯は納得した。人で在るべきだと望まれたのだから、人らしいことをすれば瀬人は精神的安息を得るのだ。
 この遊戯は遊戯なのだと思い込める。信じられる。……夢を見られる。
「そんな体勢じゃ休まらないだろう。眠るならきちんと布団に入れ」
「でもここ、海馬のベッドだ」
「貴様がそんなことに気を遣わんでいい……好きに使え。オレの家具が不服なら、明日にでも新しいものを用意させる。ただし今晩は我慢しろ」
「ん……じゃあ、海馬のたまの気まぐれってやつに、甘えるかな」
 遊戯は自分でも驚くくらい“海馬瀬人のための武藤遊戯”になりきれていると思えた。台本を用意されていたかのように、言葉がすらすらと出たのだ。これも教育の成果なのだろう。
「遊戯……」
「ん?」
 瀬人の濡れた前髪から、一滴の水が落ちた。それはシーツに吸い込まれていった。
「いや、何でもない」
 言いかけた言葉を飲み込んで、瀬人は正面に向き直った。遊戯は瀬人の言わんとしていたあの特別な言葉を、もう一度口にした。
「おやすみ、海馬」
「……ああ、そうだな……おやすみ」
 返事に期待をしていなかったので、返された挨拶は遊戯の胸奥に染みた。
 喜怒哀楽のどれにも当てはまらない。色で示すなら、赤みがかった薄い紫の気持ちが、ふわりと遊戯の身体全体を包んだ。
 ある筈のない心臓が、鼓動を速めるような感情が思考に宿った。動悸の代わりに、動く必要のない投影機のモーターが、うんうんと誤作動している。きっと動作と感情の回路がエラーを起こしているから、意味のない動きをしているのだろう。
 何故か瀬人に顔を見られたくなくて、遊戯はそっと布団の中に潜り込んだ。

 意図的に思考プログラムをシャットダウンしていると、やがて周囲の雑音が増えていくのが分かった。のろのろと顔を布団から上げると、どうやら始業時刻を過ぎているようだった。
午前九時半。研究所では、百数十名もの社員たちが働き始める時刻だ。
 瀬人は、とっくに玩具部屋を出て本社へ向かっている最中であった。
 この部屋に窓は二か所ある。それぞれ高い位置にあるので、部屋の内部は外から分からない造りだ。ひとつの窓は東向きにあり、朝日がよく差し込んだ。遮光カーテンが半分開いている。
 モバイルパソコンが机の上に置かれていた。瀬人が普段使用しているものとは違うようだ。電源がついたままだった。画面を覗くと、メモ帳が開かれていた。
 タイムスケジュールが分刻みで細かに指定されており、遊戯向けの宿題が記されていた。
「これを今日一日にやれっていうのかよ」
 寝たふりをしていただけの遊戯だったが、それなりの真似事でも、人間の睡眠に近い行動がとれた。瀬人が着替え、メモを打っているのにも気づかなかったのだ。
そして数時間後に、自動的に意識を回復させられたのだから、これはもう十分「睡眠」と呼んでいい行動だろう。

 海馬が遊戯に求めるものは、そう多くない。その中の最優先事項は、真の決闘者(デュエリスト)であることだ。
 施設内にあるテストルームでは、世界中のありとあらゆる決闘者たちのデータを使い、遊戯は日に何度も決闘を行う。
 瀬人の納得のいくデータが取れるまで、彼との決闘は行えない。始めこそ、遊戯は義務として決闘に向かっていたが、次第にそれ自体が『楽しい』と思えるようになってきた。その心理状態の変化を、研究員たちは分析する。
「気分が高揚してるようですね」
「よりレベルが高い相手との対戦のほうが、良い結果が出るみたいだな」
「まさに“武藤遊戯”そのものに成りかけている。このままなら瀬人様のお望みも近い内に叶えられそうだ」
「実在の人物のクローンは、法的には禁止されているんですよね……?」
 DD計画のグループの中で、若手に分類される青年が、ぽつりと漏らした。リーダーの男は「そうだ」と即答した。
「これはクローンではない。あくまで武藤遊戯をモデルにした人工知能生命体だ。生き物ではない。我々は決して法に反した行いはしていない」
「デュエルドールの次の段階は、質量を持たせるとあります。つまり、リアルな肉体を作ると言う事ですよね」
「ああ、もう完成はしている。あとは、それを組んでやるだけだ」
「それは、もう殆ど人間ではないでしょうか」
「いいや。違う。混同してはいけない。あれは、人ではない。ましてや人間のコピーでも無いんだ」
 若い研究員は、ガラスの向こう側で、くるくると表情を変える遊戯を、複雑な心境で眺めていた。彼は本物の武藤遊戯に会ったことがない。映像や写真でしか知らないのだ。
 一体、何が違うのだろう。あの遊戯に、体が与えられたら、それこそ本物と変わりないように思える。科学技術が発展するにつれて、人と人形との違い、境界線が曖昧になってきているのを、彼は静かに恐れていた。
「あれは我々の人形だ。人間の為に生まれ、人間の為に働く。それが役目であり、使命なんだ。全ては瀬人様の為に在る」
 青年は、淡々と作業を続けるリーダーの横顔を一瞥し、時計を見た。かれこれ三時間も決闘をし続けている。疲れは無いのか……感じるわけがない。
 人形が人の為に生まれ、人の為に働いているなら。
 なら自分はどうなんだ?
 誰かの為に生まれてきたと運命を信じ、社会や家族の為だと働き、命を繋ぐのだ。一体何の違いがある。
 自分も、人形と変わりが無いのではないか?
 自身で人生を選んできた筈だ。世界でもトップ企業の海馬コーポレーションに入り、今まで培ってきた頭脳は社会の発展、進歩の為に使われる。それも幸福の形のひとつであった。
 そのひとつの結果が、あのデュエルドールだ。
 あの人形が世間に発表されれば、また一段と海馬コーポレーションの株は上がるだろう。世界が新しい文明の扉を開く未来が見える。
 だが、どうしてか青年には、頭の中をよぎる不穏な二文字が拭い去れなかった。
――破滅――
 十数年前に流行ったSF映画を思い出される。誰しもが想像する近未来の地球。人間社会が機械に征服される陳腐な物語。使い古された題材だった。
 青年が恐れたのは、遊戯の変化だった。
 彼は、知能だけで武藤遊戯に成れたのではない。
 彼の中には間違いなく“心”が存在している。
 その事実に、誰も気づいていないのだろうか。そして、それが最も恐ろしいことだとも、誰も分かっていないのだろうか。青年は何も言えなくなってしまった。
 機械が心を持てば、人間は心を壊す。
 その事実に誰も気付けないのだろうか?


 午後は、メンテナンスとアップデートと行われると説明され、一旦遊戯のビジョンは切られた。知能部分だけに電源が入れられており、意識のみが残された。目も耳も口も無いので、ただ空間に意識が浮かんでいるような感覚だ。宇宙空間にぽつんと一人きりで居るような気分だ。
 周囲の声もしない。音も匂いも無い。ただ真っ暗な場所に意識が存在している。
遊戯は午前の決闘のことを振り返っていた。相手が強ければ、そして窮地に立たされれば、燃えた。瀬人と共にいた時にように、今の遊戯にはあるはずの無い心臓が跳ねるような思いだった。
 仮想対戦ですら、そう感じられるなら本物の瀬人と決闘をしたなら、どれほどの熱が身を焦がすだろうか。
 想像するよりも、遊戯の中の記憶が物語ってくれた。――正しくは、『海馬が作り出した』遊戯の記憶ではあったが。
「きっと熱い決闘になるぜ……」
 鼓動は知っている。求めている。欲している。
「海馬、待ってろよ」
 意識は瀬人の後ろ姿を描いた。バトルスーツに身を包んだ姿の瀬人が、道の先に佇んでいる。どこか寂しげな背中に遊戯は手を伸ばす。
 追いつけそうで、追い付けない。何度と名前を呼んでも振り返らない瀬人は、前へ前へと進んでいく。遊戯の足取りはだんだんと遅くなっていき、ついに息が切れてしまった。
「いや、これは海馬の記憶……」
 瀬人の中の最後のアテムの思い出……作られた幻想だった。
 ふいに悲しみが遊戯の中に押し寄せてきて、身体が重くなる。頭も、手足も、そして心も、透明の枷をつけられたかのように動けなくなった。足は地面に縫い付けられてしまい、前にも後ろにも行けなくなってしまった。
「これが海馬の……今の状態なんだ……」
 固まりきってしまった顔は、何の表情も生み出せない。涙すらも流れなかった。
 遊戯の記憶は、瀬人の過去の記憶と共存している。
 誰よりも、瀬人を理解出来る。遊戯は、そう確信した。

 そして、次に遊戯が目を覚ます時、彼には肉体が設けられ、またひとつ新たな進化を遂げることとなる。

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