おまえのどれいのままでいい サンプル
序章第一章 不思議の地下
第二章 絆のリボン
第三章 禁じられた遊び
第四章 少年神話
登場人物
ディオ・ブランドー・・・・・・・貧民街生まれの少年
ジョナサン・ジョースター・・・・ある貴族の一人息子
ロバート ・・・・・・・・・・・UW内外で客の斡旋や勧誘を行う少年
マライア ・・・・・・・・・・・ショーガール兼、娼婦。通称・磁石女
テレンス・T・ダービー ・・・・・人形劇団の座長
花京院・・・・・・・・・・・・・異国の少年
ヴァニラ・アイス・・・・・・・・ディオを慕う青年
フィル・・・・・・・・・・・・・闘技場の少年
店主・・・・・・・・・・・・・・闘技場の店長
コオル・・・・・・・・・・・・・中年の画家
エンヤ婆・・・・・・・・・・・・UWのホテルの管理人
ジョージ・ジョースター・・・・・貿易を中心に働く貴族
母親は、六歳の時に病死した。原因は過労だったろう。栄養も足りていなかった。亡くなった姿は美しかった母の面影はなく、やせ衰えた骨と皮の、まるで老婆の死体だった。自分の分の食料を子どもに回す良い母親だったからだ。おかげで子どもは何とか飢え死にせずに済んだ。
父親は、この間死んだ。二週間? いや一ヶ月前だったか。覚える気がなかったので忘れた。丸々太って、幸福そうな顔のまま、苦しまずに逝った。
住む家は辛うじて残っていたので、とりあえずはその日暮らしが為の金が必要だった。自分一人の食い扶持くらいは稼げる。そうでもしなくちゃこの街で生きていけるわけがなかった。
「ディオー!」
振り向かなければ良かったと、ディオは後悔していた。ここ数日、この男につきまとわれている。
「よう、景気はどうだい」
「おまえが来てから悪化の一途を辿ってるよ」
「なあ、悪い話じゃあないだろ。いい加減イエスと首を縦に振ってくれよ」
「最初っから言ってる。その取り分じゃあ納得出来ない」
「でもよお、絶対おまえにとって悪い話じゃあないって。一回だけでも見に来てみないか? なあ、なあ」
「あんな所、入ったら最後だ。誘い込む時だけ甘い話を持ちかけて、いい条件をつけて、穴に落ちれば骨の髄までしゃぶろうってんだろ。分かってるんだよ」
「へええ、すっげえな。行ったことないくせに、随分詳しいじゃあないか」
「そこに入る人間は大勢いても、出てきた人間を一人もおれは知らない」
「逆に考えないか? シャバよりもずっと住み心地がよくて、出て行きたくないヤツばっかだってことかもしれないぜ」
「よく言うな。だったらロバート、おまえがおれにしつこくする理由は何だ? てめえこそ切羽詰まってんじゃあないのか?」
「そんなこと無いぜ。おれはおまえの身を案じてるんだ。最近、おまえはこのあたりじゃあ目立ってるからな。ヤードに目をつけられてる。今まではおまえの親父さんが生きてたから、お目こぼしを貰ってたんだぜ。知らなかったろ?」
「……は?」
ディオは足を止めて、ロバートの横顔を睨みつけた。他人から父の話をされるのは癪に障る。
「ほらな、その顔だ。知らなかったんだろ。姓ってのは案外大事なもんだぜ。おまえがごく当たり前に名乗ってるその姓だって親から貰ったもんだ。それがあるから、この地域でおまえの悪行は見逃して貰えてたんだ。何でだと思う? それはおまえの親父さん、親父さんの親父……つまりおまえの先祖ってやつがこの地域に根付いて、時間をかけて得た権利、それが継がれてるんだ。姓を継ぐってのは、そういうことだ。だけど、おまえは無力のままで、何の守りもないままで名前だけを継いだ。ただのガキになったってことなんだよ。そこいらにいる孤児と変わりゃしねぇ」
「べらべらとよく喋るやつだな」
「親のない子どもはな、苦労するぜ。何も守り盾が無いからな。今はまだいいかもしんねぇ。だけど、これからおまえはどうするんだ?」
「あんなクソ親父、居ないほうがましだね。むしろ死んで清々したんだ。おれがおれだけの為に稼いで生きるほうが、ずっと楽だ」
「そううまく行くわけねえだろ。今住んでる家だって、そのうち追い出されるぜ。いくら金払っても、ガキに部屋を貸してくれる場所なんて無い。年を偽っても無駄だ。背だって小さいし、顔つきでばれる。今の世の中、ただ年を重ねていない、それだけで何も出来ねえんだ。おまえは無力なガキなんだよ」
「今日はよく喋りやがるな。やっぱり焦ってるのか?」
「おれはむしろ、おまえがどうして頑なに拒んでるのかが分かんねえよ」
「やっと自由になったんだ。それを謳歌して何が悪い」
「こりゃ力尽くでも連れてくしかねえな」
ロバートは、見た目は十六、七歳ほどで、まだ少年らしさの残る顔つきに不似合いのスーツを着ている。顔には、古いものから真新しいものまで大小様々な傷が作られている。
ディオは自分の正確な生年を知らない。おおよそロバートより五つくらい年下の十二、三の年の頃だろう。
今から、おおよそ十年前。倫敦の“第七地区”と呼ばれる地域が、名のある貴族によって買収された。その土地は歴史のある建造物以外を覗いて、殆どが更地になった。住んでいた市民や店は、立ち退き金を貰って出て行った。金を握らせて、追い出した……という見解のほうが正しいかもしれない。しかし、貧民には大金だった。多数が喜んで住まいを明け渡した 新しく出来た第七地区は、きらびやかで、華やかな娯楽都市として生まれ変わった。着工から完成までの間は、たったの三年だった。
そして七年。街は上は王室から下は乞食まで、人々が夢を見て、誰もが童心に帰れる、楽しい素敵な空間として新たな倫敦の観光地となり、その名を馳せていた。
都市開発計画、新第七地区。市民の間では、通称『アンダーワンダー』と呼ばれていた。
『ちいさなみんなは六ペンスあればポケットいっぱい遊べるよ おおきなみんなは、いくらでも!』
張り紙に書かれた、道化師の絵が薄汚れている。謳い文句には、子どもから大人までが楽しめることを示唆していた。
ディオはこの地区に近寄ったことがない。父親がまだ生きていた頃、彼が足繁く通い詰めていたのを知っている。この場所は魅力的で、それでいて破滅的だ。
どれだけ金があっても、全て吸い尽くされてしまう。ディオの稼ぎも、この地の養分となっただろう。
「ここには初めて来たんだっけか?」
「ああ、だけど思ってたより地味だな」
「当たり前さ。ここは裏門だ。中で働くおれたちの入り口。おまえを客として招いたわけじゃあないからな」
「ふうん」
石造りの壁は堆く、牢獄を思わせた。外からは中の様子は窺えない。門は鉄で出来ていて、錆び付いている。番人が数人、屈強なローマの戦士のように、いかつい男達が立っている。
「ロバート、そいつは?」
ひとりの番人が腕を伸ばして、顎をしゃくった。
「新人さ。これからボスに顔を見せに行くんだ」
「へえ、磨けばものになりそうだ」
男は品定めするようにディオを頭から足の先まで眺めた。いやらしい視線だった。ディオは小さく舌打ちをした。
「おい、よせ」
ロバートは小声でディオを諫めた。
「むかつくって態度は外に出すな。愛想よくしろよ」
「何でこのおれが」
「嘘でもいいから笑っとけ」
二人は門番の男に気取られないよう話した。ディオは渋々承諾し、頬を引きつらせながら男に笑いかけておいた。
すると、男は目尻を下げてディオをうっとりと眺めた。信仰の対象物のように、崇める目つきだった。
ロバートは肩を震わせてその様子を見送った。門をくぐった後も、人工的に植えられている木々があり、まだ街の内部は見えてこない。
「……気味が悪い」
ディオは男のべたべたとした視線が身体中にまだまとわりついているような感覚に見舞われた。埃を払う仕草で、腕や肩をはたいた。
「あいつは、少年少女が好きなやつなんだ。だからおまえみたいなのににっこり笑いかけて貰うと、あんな風にデレデレしちまうんだよ。嫌われても損しかしねえ、得をしたければより多くの人間を味方につけることだな」
「変態に好かれたって迷惑なだけだ」
「その点は安心しな。セックスしたいわけじゃあないらしいから。見てるだけで満足なんだってよ。変わってるよなあ?」
「……詳しいんだな」
「この街の情報なら任せときな。何だって教えてやるさ」
「別に変態男の性癖なんて知りたくはないけどな」
「まあ、あの男の趣味なんて可愛いもんさ。そのうち分かる。ここは頭がイカれた連中がうようよしてる。まともな人間なんて、探すほうが苦労するね」
「ロバート、おまえもか?」
「おれか? そうかもな。自覚はねえけど」
「どんな性癖?」
「そっちの話かよ! うーん、そうだなァ……おれは普通に可愛いねえちゃんが好きだぜ。変な格好したりとかしない。普通の女の子と普通にするのが好きだよ。まあ、ちょっと勝ち気な子が好きで、罵られるのも悪くはねえなあ」
「……ああ、なるほどね。品が無いってことはよく分かった」
「おまえが訊いたんだろうが」
鬱蒼とした木々に囲まれた中に、小高い丘があり、その上にひとつだけ立っている教会に似た建物があった。神聖な場所に縁遠いごろつきのロバートが迷いなく入って行く。
「ここが?」
「ディオ、上だ」
一階には人は居なかった。作りは教会と同じで、いくつかの古びた椅子が並んでおり、奥にはオルガンと教壇がある。そして、真ん中には神像が祀られている。
「ロバート、おれはただ園内を見学に来ただけで、おまえのボスに会うつもりは」
「いいから、来いよ」
その場に踏みとどまっているディオの背を押し、ロバートは無理矢理階段を上がらせた。人が一人通るだけの狭い階段だった。隠し通路のようだ。
「こんなしけた場所にお偉いさんが居るとは思えないね」
「まあ、そう言うなって」
ディオが逃げ出さないようにロバートはしっかりと後ろについて歩く。窓が見当たらない。冷たくて暗く長い階段を登りきった。
目の前には、厚い作りの重そうな扉がひとつだけ現れた。ロバートはディオの肩越しにドアを叩いた。
部屋の中から返事があった。年老いた男性の声がした。
「ただ今、戻りました。例の少年を連れて来ました」
ロバートは先に部屋に入ると、背を正して挨拶をした。ディオは訝しげにロバートの後ろ姿を見た。
ディオの前には、黒の紳士帽子に軍服風のジャケットを身に纏った、小太りの男が立っていた。
「や、君かね。ロバートが言っていた……将来性のある若い芽とは」
白髪交じりの髭を指先で整えながら、ディオの顔を覗き込む。その目は無機質で、感情が読み取れない。
「ふうむ。格好は薄汚れているが、器量はよいな。ロバート、よくぞ連れてきた、褒めてつかわす」
「ありがとうございます」
「話を勝手に進められちゃあ困るな。おれはここで働くとは言ってない。強引にこの男に連れて来られたんだ」
ロバートを小太りの男の間に立ち、ディオは大げさな身振り手振りで否定した。
「ホホ。元気いっぱいだな、少年。なあに、園内を見て回れば、君のほうからお願いしたくなるに決まってる。ここは楽しいぞお。一生かかっても、遊び尽くせない場所さ。ホホ、ホホホ」
ゼンマイ仕掛けの人形のように、男はきりきりと動いた。そして変わった笑い声をあげて、髭を上げ下げした。ディオは、不気味な生き物を見る目つきで男を見ていた。
「所で団長、ボスは居ますか?」
ロバートは男に話しかけた。団長と呼ばれた男は規則的な動きで、くるりと振り返った。
「ああ居るとも。あちらの大窓から園内を眺めていらっしゃる。静かにな。粗相の無いようにな。失礼のないようにな。よいか、礼儀正しく、きちんとご挨拶するのだぞ」
団長は首をかくりと動かし、部屋を仕切っていた分厚いカーテンを開いた。すると、視界が一気に明るくなり、ディオは眩しさに目を細めた。
大きな窓は、部屋の四隅ぎりぎりの所までガラスが張られていた。いきなり外に出たのかと錯覚するほどの開放感がある。
男性が一人、窓の前の椅子に腰掛けている。
「……ロバート、君の話はよく聞いているよ。君はよくガンバっている。わたしも嬉しいよ」
男性は、窓の外を見たままで声をかけてきた。落ち着いた声は低く、品のある話し方だ。こちらから顔は見えないが、声質から察するに、四、五十代あたりと思われる。
「ハイ、ありがとうございます!」
ディオはロバートの横顔を見た。先ほどよりも緊張した顔つきになっている。薄らと汗もかいているようだ。確かに、あのおかしな小太りの男と比べて、この中年の紳士には威圧感があった。
「隣の君は、名前は何と言うのかね?」
「ディオ……」
「ファミリーネームは?」
あえて言わなかったのだが、尋ねられてしまったのなら仕方なかった。ディオは一呼吸おいて答えた。
「ブランドー。ディオ・ブランドーです」
思わずディオは丁寧な言葉遣いになった。敬える相手に対しては、自然と口から敬語が出るものだ。決して、あの団長に口酸っぱく忠告されたからではない。
「君がディオ・ブランドー……。お父上のことは、残念だったね」
「知ってる……んですか?」
「ああ、知っているよ。君のことも知っている。顔を見るのは、初めてだがね」
「あなたのような上流階級の方が、どうして底辺労働者の男の子どもの事を知ってるんですか」
「おい……ディオ、口を慎めよ」
ロバートはディオの肩を叩いて注意した。だが、ボスはロバートを制止するよう手で合図した。ボスからは、窓に映る二人の様子が見えているらしい。
「君は下がりなさい。ディオくんと二人で話したい」
「……ハイ」
ロバートは命じられるがままに、カーテンの向こうへ消えた。ディオはますます居心地が悪くなった。
「よく来てくれたね」
紳士は立ち上がると、こちらに振り向いた。ディオは柔和な印象を抱いた。今まで出会ってきた誰よりも優しげな顔をしていて、それまで感じていた威圧感が消えた。
「……はい」
手袋をした右手が差し出され、ディオは遠慮がちに握手をした。
「ここに来てくれたからには、君に無意味な苦労はさせないつもりだよ。ここの外は、ひどい有様だろう?」
「……何を基準にしてそう仰るのかは……お、ぼくには分かりかねます。あなたは、さぞご立派な地位の方でしょう。あなたから見れば、こちらの生活はどこも酷いものだと思いますけど」
「わたしは君がどんな生活をして、どんな風にお金を稼いできたのか、知っているよ。そして、これからどんな風に生きていくのか、どんな人生を歩むのかが想像がつく」
「貧しい人間の行く末なんて、たかが知れてると?」
「……そうだね。そういうことだ」
「馬鹿にしやがって!」
何か手にするものがあったなら、ディオは紳士に向けてぶつけてやりたかった。見下されている。同情されている。ディオがこの世で忌み嫌う行いだった。
「ディオくん、君は分かっているはずだ。理不尽な目にも沢山あっただろう? この園の中では、君たちの人権が守られている。不当な扱いは受けない。君たちだって、安全で豊かな生活を送る権利があるんだ」
「おれは……飼い犬になんてならない。誰かの命令に従うつもりもない」
「違うよ。君は君のためだけに生きていい。まずはこの場所で一から始めてみるんだ……さあ、おいで。わたしと一緒に、この街を、この国を、この世界を、……見てご覧」
紳士はディオを窓辺へいざなった。白い空が見えた。灰色混じりのいつものロンドンの空だ。白さが目に染みた。
「ここがわたしの、アンダーワンダーだよ」
この教会は、第七地区“アンダーワンダーランド”が一望出来る場所だった。森に囲まれた、閉鎖された空間。その中は、おもちゃ箱をひっくり返したような色彩と、様々な光にまみれた遊園だった。
園の中心部には、赤と黄色のテントがある。その外には、一輪車や大玉に乗ったピエロが風船やキャンディを子ども達に配っていた。
大人の男女が回転木馬ではしゃぎ、宝石やお菓子の景品が並んだ射的と輪投げに人が群がっている。ワゴンには、サンドイッチや紅茶が並び、花の咲いた広場で人々が楽しそうに食事している。
賑やかで明るい場所もあれば、暗くてよく見えない建物が並ぶ所もあった。だが、ディオが住んでいる街とは違い、人々の持つ空気が生き生きとしているのが、遠いこちらにも伝わってくる。
「どうだい? 感想を聞かせてくれないか」
「ただの……娯楽場だ。おれに何の関係があるっていうんだ」
「ここには夢がある。むしろ夢しか無い! 君だって、夢を見られる。希望が持てる」
「遊びに来る人間とは違うんだ。おれはここで働かされるんだろう」
「ここからじゃあ見えない場所も沢山ある。君の力や、君のしたいこと……君が輝けるよう、わたしは考えているつもりだよ。……ロバート!」
紳士が手を打つと、カーテンのすぐ裏で待ち構えていたロバートは返事と同時に現れた。よく躾けられた忠犬だと、ディオは皮肉交じりに感心した。
「ディオくんが望む場所に案内してあげたまえ」
「ハイ! さあ行くぞ、ディオ」
ディオはまたロバートに腕を引かれて連れられた。団長は相変わらず、きりきりと首を回して、にこやかにこちらに手を振っていた。
登ってきた階段を足早に下り、元来た道の反対を進む。二の腕を掴まれたままのディオは足がもつれそうになった。
「おい……ちょっと待て。逃げたりしないから腕を離せ!」
「……本当だな?」
ロバートはディオの顔を見る。不機嫌そうないつもの仏頂面だった。ロバートはひとまず腕を掴んでいる手を外した。
「何が何でもって、感じだな。妙な奴らだ」
「おれだって……分かんねえけどな。確かにおまえの見た目はいい方だろうけど、おれからしたら大したことはねえ」
「何だって?」
ディオは自分を蔑む発言には耳聡い。ロバートのすねを軽く蹴ってやった。
「いや、おれの意見なんてどうでもいいんだ。ボスがどうしても、おまえを引き入れたいってのは、さっきの会話で痛いほど分かった。盗み聞きするつもりじゃあねえよ。聞こえてきたんだから不可抗力だろ」
「会ったこともないのに、なんでおれを知ってたんだ。それに……」
「親父さんのことか」
「……あいつの話はしたくない」
「おまえの気持ちは分からなくもない。……まあ、いい。こっちだ」
園内をぐるりと囲むように木々は揃っている。やけに鮮やかなグリーンが毒々しい。
外側から回り込んで、ロバートは道を進む。賑やかな音楽に混じって人々の笑い声が聞こえてくる。木々の隙間からも、中の様子が垣間見える。
「あの小太りの男は何だ? 団長とか言ってたろ」
「ああ、サーカスの団長だよ」
「ふうん。サーカスか」
「誰も本名は知らないんだ。だからハンプティ・ダンプティって呼ばれてる」
「確かに。顔も腹もまん丸だったな」
ディオは初め、あの男がボスなのかと思っていた。出来損ないのくるみ割り人形のような動きをしていた、おかしな笑い方をする髭の男。
「Humpty Dumpty sat on a wall,Humpty Dumpty had a great fall.All the king's horses and all the king's men Couldn't put Humpty together again」
ロバートが口ずさみ歌った。子どもの頃に聞いたことのある遊び歌だ。卵のように丸い顔と体、そして細い手足をしていた。
「ディオ。おまえが上から見たのはアンダーワンダーのごく一部に過ぎないんだ。明るくて、きらきらしていて、賑やかで良い匂いのする所だけじゃあないんだ」
「もっと汚くて、ずるくて、うるさくて、みすぼらしい? 今更そんなものじゃあ驚かない。差ほど外と変わりないじゃあないか」
「そうかもしれないな。でも、ただの花街とも違う。ここはもっと刺激的で、もっと楽しいぜ」
細い小道を抜けると、そこは表とは全く雰囲気が違っていた。
華やかで派手な印象のある表側と真反対で、黒を基調とし洗練された街並みが広がる。外灯の数は少なく、夜になればかなり暗くなるだろう。
「ここだ。先に入れ」
看板には、「The Lion and the Unicorn」と書かれている。木で作られた簡素な扉を開く。
いきなり飛び込んできたのは、血の匂いだった。次に汗の匂いが鼻についた。
ディオは店内の少年たちから無遠慮な視線を一身に浴びせられた。中にはディオより年下であろう幼い男の子もいる。
彼らは、一体何をしているのだろうとディオは店の中を見回す。
「ロビー! 久しぶりだね」
店の奥からやってきた、茶髪の少年が親しげにロバートに話しかけてきた。彼は唇の端を切っていた。
「……あれ? この子は新しく入った人かな」
「ああ、今日は見学しに来たんだ」
「やあ、ぼくはフィル。よろしく」
「……ディオだ」
人なつっこい笑顔を見せる少年は、ディオとそう変わらない年齢のようだ。手には包帯が巻かれている。近くで見れば目元には痣があった。殴られた痕だとすぐに分かった。
「ロバート、ここは……」
「少年闘技場だ。今も試合はやってるみたいだな。見に行こうぜ」
店の奥の部屋には、家具や物は一切なく、ただのがらんとした広場がある。その中心に少年がふたり向かい合って立っている。小柄な青年が一人、間に立っている。周りの少年達は皆、上半身が裸か下着同然の薄手のシャツを身につけているだけ
だ。その中で青年だけが、グレーのジャケットコートを着込んでいて、その場では浮いている。どうやら彼は審判らしい。
「上を見てみな」
ロバートに言われ、ディオは見上げた。二階から上はが吹き抜けになっていて、そこには観客らしき人々が食い入るように階下の闘技場を見ている。
「みんなどちらが勝つか賭けてるんだ」
「すごい熱気だな……」
ディオは真剣な眼差しで、殴り合う少年たちを見つめた。拳は素手で、グローブはつけられていない。頭部や顔を守る防具もない。ただの殴り合いだ。街でのケンカと何ら変わりがない。
短髪の少年が、黒髪の少年の髪を引いた。そのまま自分の方へ引き寄せて、頭突きを食らわせる。二階から歓声がわく。いいぞもっとやれ、血を見せろ、汚ねえぞ、やり返せ! 様々な怒号が飛び交った。
「汚いもきれいもあるもんか。ここに反則なんてねえ。ルールは無制限だ」
ロバートは笑って言った。ディオは口元が歪むのが分かり、思わず自分の手で唇に触れた。笑みがこぼれる。
サーカスの団長や、あのボスが言っていたことが分かる気がした。ここは楽しい、ここには夢がある。
「なあ、ロバート」
ディオは隣に立つ少年に訊いた。
「殺さなければ、何をしてもいいんだろう?」
「そうだ。観客はより惨いやり方を望んでる。……おまえならきっと期待に応えられると見込んでるんだろう」
「それは見る目があるな」
「そうと決まれば早いうちがいい。教会に戻って契約書にサインしてこい。場所は分かるな?」
「ああ」
ロバートは監視の役目を終え、ディオを解放した。店を出てディオは歩き出した。夕暮れの迫る街並みには、濃い影が落ち始めている。ガス灯が点けられていくのを眺めながら歩いた。外の花街と同様に、足を出した商売女や酔っ払いの男が連なって道を行くのも見える。子ども達が菓子をこぼしながらふざけあっている姿もあった。
陰気で気分が塞ぐ霧の街とも違い、ここは非現実的な場所に思えた。
教会へ着いた頃には、もうあたりは夜の気配にまみれていた。
ディオが扉を開く前に、自動的に戸が引かれた。
「……ッ!」
ディオの前には長髪の若い男が立っていた。彼は恭しくお辞儀をすると、道を空けた。無言のままの男は、眉ひとつ動かさずじっとしている。
「……入ります」
ディオは、奥にいると思われるボスに声をかけた。男は静かにドアを閉めた。ディオがカーテンを開けようとすると、背後に立っていた男が一歩前に進み、仕える従者のようにカーテンを開いた。
「何だ」
ディオは男のうつむいたままの顔を不審がって見た。しかし男は目も合わさずに、ただディオの行く道をあける手伝いをする。
「いいえ。どうぞ」
涼やかな声で男は言った。長い前髪が彼の顔を隠していた。
ボスの部屋は、すっかり暗くなっていて、明かりは机にランプがひとつあるだけだった。外の風景は昼間とは違う、別の表情を見せていた。ガス灯の光は計算されたように配置されていて、星の瞬きのように輝きを放っていた。
「君がひとりでここへやって来たということは……もう決めたのだね」
見透かしていると言わんばかりにボスは一枚の紙を引き出しから取り出した。
「ここで生きるための約束事が書かれている。よく読み、理解し、納得が出来たなら、サインしたまえ」
ディオはペンを取って、名前を書いた。ブランドー……、名字を記入する手がぎこちなく動いた。
「読まなくても、大体は分かる。……それでもいい。おれは自分の意思でここを選んだんだ」
「これで君とわたしは家族も同然だ。なかよくやっていこう、ディオくん。そして、ここをより一層良いものにしていこう」
「そうですね。……頑張ります」
ボスは、ディオの両手を取ってがっちりと握手をした。ランプに照らされる笑顔には嘘がないのに、不気味に映った。
そうしてディオはこの日から、アンダーワンダーの住人となった。
アンダーワンダーには七つのエリアに分けられている。
赤の女王、白の王、灰の姫、青の騎士、緑の兵士、黄の道化、黒の城。
ディオのいる「ライオンとユニコーン」は、“緑の兵士”にある。
園内の中心部にあるサーカスのテントは、黄の道化、子ども達が大勢集まるお菓子の店や遊び場は、青の騎士。
その三つのエリアが、最初に許されたエリアだった。あとの四箇所はボスに「君がもう少し大人になったら行けるようになる」と言われた。他の子どもに訊いてみたが、正面からは行けないが、いくらでも方法はあるとのことだった。
赤の女王は娼婦街、白の王は賭博場、灰の姫は宿場、黒の城は競り場。
「競り場?」
「いわば闇市だ。何でも売ってる。物でも動物でも、この世に存在するものなら何でもありさ。それに出所の分からないものも買い取ってくれるらしいよ」
フィルはディオの疑問にすらすらと答えた。しかしそんな彼も、まだ全ての地に足を踏み入れたわけではないようで、発言には憶測ととれる内容も多々あった。
賭け試合は、昼夜を問わず行われていたが、ディオは一週間の練習時間を与えられていた。元々、腕には自信がある。練習などしなくても、勝てる見込みは充分にあった。
その間、ディオは周りの人間との交流を深めながらアンダーワンダーについての情報を集めていた。
ボクシングの試合といっても、グローブはつけられないので、少年達は手に布を巻いていた。拳を強く握りすぎると、爪で手の平に血が滲む恐れがあるので予防の為と、ないよりかはいくらかましという程度の防具だった。
それに日常的に手に包帯を巻いておけば、自分たちが「ライオンとユニコーン」のファイターであることを他に示すことも出来るからだった。
ここで幼い少年たちが出来る仕事には限りがある。その中でも順位をつけるとしたら、闘技場で賭け試合をする少年達は上位に置かれる立場にある。彼らにとって、腕力こそが権威の証明だった。
フィルはとても親切だった。まだ擦れていない純真さがあった。ディオはさして興味は無かったが、フィルが勝手にべらべらと話したので彼の過去を知った。元々は中流の家庭の生まれで、ボードスクールにも通っていたらしい。だが、このまま父親の仕事を継いで働いて生きていくことに希望が持てなくなり、家出をしたのだと言う。そしてたどり着いたのがここだった。
「ここはすごいぜ。毎日がスリリングだ。学校で教えてくれないことだらけだよ。ぼくはここに来て本当に良かったと思ってる。ディオだって、きっとそう思うに違いないね」
「それはどうかな」
教えられた通りにディオは手に包帯を巻いた。新品の真っ白な包帯は、馬鹿にされると言われたので、フィルに使い古しを貰った。
「君はここで満足なんだろう?」
フィルは頷いた。何の不服も無いという目をしている。
「おれはあくまでここは通過点だと思ってる」
「……通過? 何言ってんだい。入ったばかりのくせして」
フィルは、まだ高さの残る声で子どもらしく笑った。
「そう、まだ夢の入り口さ。おれの目指す場所は……」
ディオは視線を上げた。フィルはディオの見る方向を探った。店の二階を睨んでいるようにも見えたし、その向こう側の、フィルには到底想像もつかない高みを目指しているかのようだった。
ディオの初試合は、圧倒的な強さを以てして、勝利をおさめた。
相手は年上らしい、体格のいい少年だったが、持ち前の俊敏さで相手の攻撃を躱し、顎を狙い撃ちにして、一発で沈めた。
図体がでかいだけのでくの坊だったとディオは腹の中で悪態をついたが、決して口にも顔にも出さなかった。ロバートの言う通り、無闇やたらと敵を作るのはよろしくない。
貧民街で鍛え上げた彼の技巧は、戦いを生業にする少年等にも通用することが分かった。ディオは一躍ヒーローとなった。
少年達の羨望も、賭けに興じる大人達の注目も集めた。
しかし勝ち続けるだけでは、儲けにならないと知っていたディオは、観客の誰もが読めない試合の展開を見せつけた。時には負け、時には吐き気を催すほどの残虐的な勝ち方もした。
ディオは決して、背に傷を付けさせない拳闘士だった。子どもらしい丸みのある輪郭に、鋭い目つきが不釣り合いだった。
強さと逞しさに共存する、少年らしい繊細さとあどけなさには、今まで格闘技に興味の無かった人々をも惹きつけた。
「“ライオンとユニコーン”にきれいな男の子が入ったそうじゃない」
「綺麗なだけじゃあない。とびきり強い! おれはいつもあいつに賭けてるぜ」
「でも、ずっと勝ってるわけじゃあない……相性が悪いやつには負けることもあるし、ヤツの気が乗らない日には不戦勝だってある。むやみやたらとディオを信じて全額賭けるのは頭の悪いやつのやり方だ」
「血なまぐさいし、乱暴な闘技場なんて、わたくしは嫌でしたけれども……あのディオという少年は、女から見ても惚れ惚れいたしますわ。彼の姿を拝見するためだけにこちらに足を運んでおりますの」
それまで“ライオンとユニコーン”は特別売り上げが悪いわけでは無かった。満員になる日もあれば、客がまばらな日だっ
てあった。園内のどの店にも同じようなことが言える。
だが、ディオが来てからは比べものにならない程、上がったのだった。店長はディオのご機嫌取りで忙しい。他のファイターがいるのにも関わらず、ディオを特別扱いした。けれど、一人として彼らは文句を言わなかった。
妙に魅力があるのが、ディオという少年の不思議だった。
フィルもそのうちの一人だった。ディオと試合をしたことがある。全く敵わなかった。悔しいとは思ったが、憎いとは感じなかった。
ディオがきてから店の雰囲気が良くなった。むしろ仲間同士の信頼は篤くなった。ディオを中心にして、皆が一丸となる。
口々に、「ディオ」「ディオ」と呼んだのだ。店自体の売り上げが良ければ、少年達の待遇も良くなる。貰える報酬が増えれば、欲しいものが買えるし、うまいものも食べられた。
やがて、ディオを信仰するような者まで現れるようになった。店内にも、店外にも信者は増え始めた。
一ヶ月という短期間で、ディオは見事に一帯を掌握してみせた。
「よう、景気はどうだい、ディオ」
いつもの口癖で振り向かなくても誰だかディオには分かっていた。
「やあ、ロバート。ンー……まあまあだな」
「よく言うぜ! このアンダーワンダー中、おまえの噂で持ちきりだっていうのによ」
「ふふ、こんなの序の口さ」
「ははは、その意気だとあっという間にこの店も乗っ取られちまうなあ!」
ディオの試合はライオンとユニコーンにとって、一日の目玉になっていた。ヒーローを安売りしては、価値が下がると店長は思い、ディオの出番を減らした。
おかげでディオの自由時間は増えた。未だアンダーワンダーの園内を行き尽くしてはいないし、やりたいことも沢山あったから、有意義に使うことにした。
「こんな小さな店、興味ない」
「身の丈に合わない望みは持たないことだ」
「なら、このディオに相応しいものは、何だと思う……?」
“緑の兵士”の道から、ディオは丘の上を指した。指の先にあるものは、教会だった。
「おいおい……、おまえってヤツはとんでもねえ野心家だな」
「フフッ……冗談だよ」
ディオは小悪魔のような妖艶な笑みを向けた。流石のロバートもその顔には一瞬、動悸がした。その気が無くても、惑わされる。得体の知れない魔性の持ち主はいるものだとロバートは恐れを覚えた。
「『ここ』も、おれにとってはただの足掛かりさ」
ディオは風に言葉を紛らわせた。
「……何か言ったか?」
先を歩いているロバートは聞き返したが、ディオは貼り付けた笑顔のままで首を横に振った。
ロバートは園内を見回りながら、人々に声をかけていく。知り合いも多いようだ。彼は園外の勧誘も行っているので自由に外へも行き来する。初日にボスの部屋に行った日も同じ印象を抱いたが、ロバートは犬なのだ。このアンダーワンダーのトップの忠犬であり、番犬でもある。他から見れば、ディオとは親しげに世間話をしているようだったろう。あれも彼の仕事の一環で、何かしら怪しげな行動をみせれば、彼は上に報告をしに行くのだろう。監視役でもあるのだ。
それは、アンダーワンダーを守るためでもあり、困っているものがいれば助けるという役目も担っている。
ディオにとって煩わしいヤツではあったが、毒にもならない人間ではないことも分かっていた。
見た目がまだ幼いディオは、行ける範囲は限られていた。いくつかの抜け道や手段は心得ていたが、まだ陽の高い内はチルドレンエリアを徘徊した。
見るからに裕福そうな太った子どもから、滅多に連れて来て貰えないのか瞳を輝かせてあたりを見回す中流家庭の子どもまで、年齢や立場は様々だった。あまり多くはないが、ディオと同じような貧民街からやってきた子どももちらほらと居る。
これと言って変わった様子はない。ディオは中心部の黄の道化までやってきていた。
サーカスのテントからは、音楽隊の鳴らす明るくおかしなメロディーが流れている。たまご男の団長も、にこにこと子ども達に芸を見せているようだ。団長の持っている銀の輪から、大きなシャボン玉が作られ、子ども達が声を上げた。
団長が手を横に動かすと、輪からは次々にシャボン玉が飛んで行き、上空に幻想的な光景を生み出していた。
風に乗ってふわりふわりとシャボンの泡が浮いては、消えていく。
ひとつの小さな泡が、空へ放たれた。数秒で消えるはずのシャボン玉は風に乗って、空へと舞い上がっていく。
ディオはそのひとつのシャボン玉を見守った。他の誰も気に留めない小さな泡のつぶが、静かに天を目指していく。
何故か自分を重ね合わせていた。あんな泡のようにやわではないが、たった一人で上に登っていく根性が気に入ったのだった。
空は今日も相変わらず灰色で、手の平よりも小さな泡は、やがて見えなくなってしまった。どこまで行けただろうか。
ディオは首を上にして、目を細めた。
「消えちゃったのかな」
すぐ後ろで声がした。思わずディオは声の主のほうへ向いた。
同じように首を持ち上げて、空を見上げる少年がいた。まさか自分と同じものを見ていた人間が他にいたとはディオは思いもしなかった。
「どうだろうな。もうおれには見えない」
「ぼくも、目を凝らしても見えないや」
お互いに同じものを探していた。しばらく黙ったまま上空を見上げていたが、ディオは首を元に戻した。
「……君、どうしてあんなもの見てたんだい」
ディオから声をかけた。少年はまだシャボン玉を探している。
「似てたから」
「何に?」
「ぼくにさ」
少年も視線を下げ、ディオのいる方へ向いた。正面から見た少年の顔は、白黒の絵のように色を無くしていた。虚ろに瞬きをする。
「ひとりぼっちな所が、ぼくに似てたんだ」
「違う」
ディオは否定した。あれは孤独ではないと言いたかった。
「たったひとりで上を目指したんだ」
「……そうなのかい?」
強い声で言い切ったディオに押し負けて、少年は目を丸くさせた。
「おまえ、こんな所で何してるんだ」
ディオは少年の身なりを見て悟った。そこいらにいる子どもの中にも、上流の家庭の子はいる。だが、この目の前の少年はそれらとはまた一段階上の人間だった。そんな地位の人間が一人で歩いていいわけがない。
「ええと……迷子、かな」
手には園内の地図が持っている。少年は歯切れ悪く言った。
「一緒に来ているものはいないのか。親や兄弟は?」
「とうさんが近くで仕事中なんだ。だからここには一人で来たんだ。君は?」
「おれはここで稼いでるんだ」
「ええ? 本当? だって君、ぼくと同じ年くらいじゃあないか」
「何にも知らないんだな。よく周りを見てみろよ。あのサーカスのテントの前。おまえよりも小さい子が、曲芸をしたりしてるだろう?」
「あ……ああ、本当だ。でもああいう子は特別じゃあないか。芸が出来る子だから」
「おれはそう見えないっていうのか?」
「君も何か特別なことが出来るの……?」
少年はディオの顔から体から、あちこちを見回した。変わった格好もしていない。労働者の服装だ。ただ手に巻いている布が気になった。少年の視線を感じて、ディオは袖を捲くる。
「おれは、これさ」
ディオは拳を作って少年の前に見せた。
「手……?」
「地図を広げな。ほら、ここだよ」
ディオは少年の持っていたガイドを開かせて、“ライオンとユニコーン”を差した。
「少年闘技場……君が戦うの?」
少年はディオを心配そうに見つめた。どうやら本当に何も知らない初心者らしい。もし、何度かここへやって来ているものなら、こんな新鮮な反応はしないだろう。その上、随分と世間知らずのお坊ちゃんのようだ。子どもが戦うことにも驚いている。
「案内しようか。せっかく来たんだから、色んな所を見て遊んで行ったらいい。どこも面白いぜ」
「う……うん」
「もしかして怖いのかい? お坊ちゃまは格闘技なんて野蛮だと思ってらっしゃる」
「怖くなんかないよ! いいさ、行くよ! 見に行く! 連れてってくれ!」
小馬鹿にして挑発すると、簡単に少年は誘いに乗った。ディオは、こんなからかい甲斐のある単純な人間はなかなかいないと笑っていた。
ディオは少年の右手を取った。ふっくらとした、穢れのなさそうな手だった。人を殴ってばかりいる自分の手がいかに硬くなっているかをディオは思い知る。苦労も、労働にも縁のなさそうな柔らかさだった。
「もっと早く走れよ、鈍臭いな!」
「き……君が、早いんだよ……ッ!」
腕を引いて木々の小道を走っていく。早く見せてやりたい。この少年に、教えてやりたい。ディオは逸る気持ちのままに駆け抜けた。
「……はあ……はあっ……」
「着いたぜ。ここだ」
息を切らせた少年は、店の前で膝に手をついていた。額には汗をかき、顔は真っ赤になっている。ディオは少年の辛そうな表情に思わず笑みを零した。
「大丈夫かい? 水でも持ってこようか」
「いい……平気だ」
強がる様子も良かった。ディオは口元を隠して、少年に笑い顔を見せないようにした。
表口の木戸を開ける。受付にはカウンターと客席への階段がある。対戦表が貼り出された板が壁に立てかけてあり、オッズがそれぞれの名前の横に書かれている。
「ディオ、出番はまだだろう?」
カウンターの中にいる店主がディオの姿を確かめると、声をかけた。
「客を連れてきたんだ」
「おまえさんが直接かい? お嬢さん方が泣いて悔しがるなァ」
少年はディオの後ろについて、店主にかるく会釈をした。珍しいものを見るような目で店主は少年を眺める。
「三階はあいてるかい?」
「ほとんど誰も使ってねぇよ。大したカードじゃあないからな」
二階は、通常の客が使う席で椅子も所々抜けている箇所もある。三階は、所謂上客のために用意されていて、それなりに整った席がある。身分によって区別しているのではなく、席代の金さえ払えば貧民でも入ることが出来る。
「行こうぜ」
「あ、お金は?」
「今日はいい。なあ、そうだろ、店長」
店主はディオの我侭は大抵許してくれた。行っていいと、手を軽く振って合図する。
「賭けるなら別だが、今日は見るだけだろう? もう始まってるぜ」
またディオは少年の手を取り、階段を駆け上がった。歓声や罵声が扉の向こうから漏れ聞こえてくる。
三階のドアを開けると、別世界が広がる。
「……っわ」
少年はドアの前で立ち止まった。外の空気とは違った、血なまぐさい臭いに鼻をおさえた。
「ふふっ、やってるな」
ディオは少年の背を押して、前へ進んだ。下の会場がよく見える手すりの所まで少年を連れていく。
「うわ……」
縄が張られただけの簡易なリングの中で、未発達な肉体の少年らが殴りあっている。審判はただの飾りで、相手が根を上げるまで試合は行われる。負けず嫌いで、自尊心の高い、根性の座った悪餓鬼ばかりだ。どんなに痛かろうと、なかなか負けを認めようとはしない。気絶するまで戦おうとするやつもいる。
「やれ! もっと殴れ! 負けちまうぞ! それでいいのか! 悔しくないのか!」
劣勢なのは、白いシャツを着た赤毛の少年だった。足元が危うくふらついている。
背の高い栗毛の少年は、細身ではあったが、手足の長さを生かした戦法でリードしている。
二階席には客はまばらにいたが、どの男も声が大きく、乱暴な物言いで選手を煽る。少年は、怒声を聞くたびに体を強張らせて萎縮していた。
「君に言ってるんじゃあないんだぜ。そんなに怖がらなくてもいいじゃあないか」
ディオは隣に立って少年の肩を抱いてやった。まるで縋るように、少年はディオの腕に身を寄せた。
「あんなことしたら、あの子、死んじゃうよ……!」
「大丈夫さ。見てろよ」
赤毛が床に倒れこむ。だが、ダウンではなかった。しゃがみこんだまま栗毛の足をすくう。
「あっ!」
少年は展開に驚いた。
「逆転だ」
ディオは少年の肩から手を外し、手すりにもたれかかった。少年は、前かがみになって試合に夢中になっていた。
恐怖に混じる好奇心と興奮が、目の色を変える。ディオは下で行われる少年たちの戦いよりも、隣の人間の変化し続ける瞳の表情に興味があった。
ゲームは、赤毛の勝ちで終わった。赤毛の少年は、いつも自分をぎりぎりまで追いやってから本気を出すやつだとディオは知っていた。
「……凄かったなァ……」
試合が終了し、店内は清掃に入る。客の入れ替えを行うためだ。ディオと少年は一旦店を出た。
緑の兵士通りを歩きながら、少年はまだ熱っぽい目で感想を呟いた。
「学校で習うボクシングとも、町の喧嘩とも、全然違ったよ……すごい、本当すごいや」
「そりゃあ、そうさ……だって」
言いかけてディオは口を噤んだ。その先の答えを少年に聞かせるのはやめた。少年の通う学校や、住まう町には居ないのだろう。本物の殺気を纏ってきた人間など。ライオンとユニコーンの連中は、そのほとんどが貧民街生まれで荒っぽい性格ばかりだ。
そんな彼らだからこそ、危機迫るゲームを見せられる。いつだって死がすぐそばにある人間と、安全な暮らしをしてきた人間とは覚悟が違う。だがディオはその理由を話す必要はないと思った。
この少年は純粋に感動している。その余韻に浸らせてやるほうがいいとディオは決めた。
「君もあんな風に戦うのかい?」
「おれは、あんな無様な仕方はしないさ」
「ううん。そうじゃあなくて、あの試合に出てるってこと、なんだよね?」
少年はどこか不安げに尋ねた。ディオは頷く。
「そう、なんだ……」
「どうして?」
ディオは体を曲げて、下から見上げるように少年の俯いた顔を覗きこんで訊いた。目が合うと、少年は気まずそうに反らし
た。
「ううん。何でも。何でもないんだ」
「そうだ。おれの試合、見に来いよ。今夜の一番遅いゲームに出るんだ。おれの強さを分からせてやるから」
「夜の何時?」
「十時過ぎたあたりかな。前の試合が長引けばもっと遅くなるかもしれない」
少年は迷ったように眉を寄せた。
「ぼく……暗くなる前に帰らなくちゃいけないんだ」
足を止めて、ディオは腕を組んだ。見た目通りのいい所のお坊ちゃまだ。よく言い聞かせられているのだろう。約束や決まりごとなど破ったことのない良い子のつまらないやつだ。
「ああ、そう」
ディオは途端に冷めてしまって、少年に背を向けた。そのまま店へ戻ろうと足が進む。
「……待って!」
今度は少年がディオの手を取った。体温が高い手のひらはディオの冷たい肌には馴染まない。
「今日は無理でも、必ず君の試合を見に行くよ」
「必ず? 絶対? そんなの口だけだろう?」
ディオは手を振りほどいて、言い放った。そう言う人間ほど信用ならないと学んでいる。
「しばらくはロンドンにいる予定なんだ。だから毎日ここに来るよ。君に会いに来るよ」
あまりに真剣な眼差しで言うものだから、ディオは黙ってしまった。胸のあたりを無意識に掴む。心臓が鳴っているのが手のひらを通じて伝わってくる。
「あの店に行くよ。君の名前を探すから。……だから君の名前を教えてくれないか?」
「……ディオ。ただのディオさ」
店の看板にも、ブランドーの姓は書かせていない。疾うにディオは自ら姓を捨てていた。
「ぼくはジョナサン・ジョ……」
「ジョ?」
ジョナサンは、少し躊躇った後に続けた。
「ただのジョナサンさ。みんなジョジョって呼ぶよ」
「ジョジョ? 変な呼び名だな」
ディオが訊くと、ジョナサンは頭の後ろを掻いて答えた。
「ジョナサンって名前の子がもう一人学校にいるんだ。その子と分けるためにぼくはジョジョってあだ名なのさ。……昔っからね」
ジョナサンが姓氏を告げなかったことについて、ディオは気にかけないようにした。親の名で自分を語られたくない気持ちは、よく分かるからだった。
「よろしく、ジョジョ」
「ああ、こちらこそ。ディオ」
二人は向かい合って握手をした。微笑み、視線を交わす。この時から二人は「友達」になった。
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