サーリアル・マージナル サンプル

第一章 密夜   〜マイディア・ヒーロー〜
第二章 甘痛   〜トゥルー・ナイトメア〜
第三章 錠前   〜ヒズ・クローゼット〜
第四章 支配者  〜インナーマン・ファーザー〜
第五章 淫堕   〜キス・イン・ザ・ダークネス〜
第六章 聖誕   〜ナーサリー・ライム〜
第七章 暁光   〜ブルー・スプリング〜


※海馬くんへの虐待シーン、過去のねつ造があります

第一章 密夜   〜マイディア・ヒーロー〜


 好意は明らかだったろう。
 瞳や手、指先や視線は互いの唇よりもよく語ってくれたものだ。
 ただ口にするのは、あまりに軽薄過ぎると思っていて、言葉には成らなかった。つまり、そのたったの一言が告げられないまま、数千年も想いは彷徨ってしまったというわけである。
 なんて馬鹿な男だ、と多くの他人や女たちは罵り、彼らを哀れむだろう。
 しかし、そのような生き方しか出来ない男だから良かった。そして、相手もそれがいいと思ってくれていると信じていた。
 けれど、そろそろいい加減にしないといけない。覚悟を決めるには、まさに打って付けの機会だったのだ。

「え……?」
 何度も想像してシミュレートしてきた筈でも、現実はなかなか上手くいかないものだ。先ほどまで、爛々としていた瞳がくるりと変わって一気に怪訝な顔つきになり、アテムに聞き返してくる。
「ああ。ええと……要は、オレ達はもう次の段階へ行くべきだと言って」
「次の段階だと? 貴様、何の話をしている?」
 疎いのはそれとなく察していた。『その類い』の事柄に関して、瀬人は興味が薄いだろうとは感じ取ってはいたが、ここまで来ると、絶滅危惧種の貴重さすらある。
「海馬、もっとオレと遊ぼうぜ」
「あ、……おい……っ」
 楽しいゲームをしていたい。心がふるえるような、体がときめくような、汗をかいて、血を巡らせて、痛みや苦しみさえも快感に変わる、そんな遊びが出来るなら。その方法をする準備は二人の身体には整っていて、求めているのだろう。
「ゆう……アテム……ッ!」
 驚きで開いた眼の黒目が大きくなる。今まで見たことのない表情をしている海馬はすこし怯えたようで、アテムにはとても可愛く映った。
 普段の彼とは、かけ離れすぎている顔つきは初心な少年のままだ。
 潤んで水膜を纏って光る眼球ごと、舐めとってやりたくなる。どんな風に泣いてくれるのか。きっと、もっとこれ以上に可愛くなってしまうのだろう。胸が逸る。
「海馬は何にもしなくていいぜ、じっとして……」
 唇を重ねようとして、アテムはそろそろと頭を落としていく。あと少しで触れる所、途端に喉元がきつくなった。
「ン……っ?」
 気が付くと、瀬人の手がアテムの動きを止めていた。細く開けた瞼の合間から覗くのは、冷静さを取り戻した海馬瀬人の仮面だった。面は何故か怒りに満ちていて、アテムへ闘志を燃やしている。
「貴様、ふざけた真似をっ!」
 喉元をきつく絞る手に躊躇いがない。力加減からして本気なのだと知り、アテムは身を引いた。
「……ッ!」
 両手を瀬人の手首にかけ、外そうと試みるものの、力は一向に緩む気配がない。
「あろうことか、このオレを手籠めようとしていたな!」
 首の骨ごと片手に閉じ込められ、そのまま押しやられる。上半身が浮き、後ろへ倒された。勢いづいてアテムの身が跳ねると、瀬人の手は首元から外れた。
「……っか、……は……っ」
 すぐに横を向き、アテムは咳き込みながら体を縮めた。
「この力量の差、体格の違い。今まで手加減をしてやっていたのだとよく分かったか」
「……クッ……フフ……」
「何が可笑しい」
 背を丸め、肩を震わせて笑うアテムが無性に気に食わなくて、瀬人は無理に自らへと顔を向かせる。
「海馬。お前、勘違いしてるぜ」
 寝転んだアテムの前髪が両に別れて、敷布へとつく。肩に置いたままの瀬人の手の甲に、アテムは左手を乗せた。
「まさか、オレが貴様の命を奪うとでも?」
「……な……」
 瀬人がはじめて触れたアテムの手は存外柔らかく、見た目通りの小ささであった。この手が剣を握り、争いの場へと投じてきたかと思うと、瀬人はやけに苛立った。
「やっぱり、何にも知らないんだな」
 手を退けて身を離すと、アテムは起き上がって瀬人に申し訳なさそうな瞳をしてみせた。瀬人は奥歯を噛みしめた。一番苦手な表情だ。その目を見たくなかった。
「それとも、そういう振りをしているだけか」
 アテムは瀬人の開いている膝に片手を乗せて、顔を近づけた。身を固くさせた瀬人の緊張がアテムには肌を通して感じられた。体温が高くなっていくのが分かる。
「おい、貴様……!」
「黙れ」
 余計なことを喋らせない為には、無暗に動く唇を塞げばいいだけ。男も同じだ。
 大きく開く瀬人の口は、アテムの唇には広すぎる。戸惑っている上唇を一度掠め取ると、瀬人は硬直し、身体は停止した。
「ん……」
 それから下唇を舌先で舐め、閉じた唇に唇を押し付けて、アテムは目を瞑った。視界が塞がると、急に温度や匂いに敏感になる。唇が合わさる微かな音さえも聞き逃さなくなった。
「あ……」
 塞いだ唇の中で瀬人はアテムの名を二三度呼んだようだった。震える舌は、細かく動き続けている。瀬人の舌をアテムは捕えて、自分の口内へと誘う。
 流れ込んできた唾を飲み込むと、瀬人は歯を閉じてしまった。すると舌は自らの牢に隠れてしまう。それでもアテムは歯列をなぞってやり、ふっくらした唇を何度も何度も重ね合わせるようにして口づけていく。
 わざと水音をたてると、瀬人は驚愕したらしく、アテムの腰を掴んだ。引きはがそうとしている。
「ん……んう……っ」
 ここでやめるわけにはいかず、アテムは瀬人の後頭部を抱きかかえるようにして両腕を回した。
「だめ……だ」
 擦れた口の端でアテムは言い、開いた眼で瀬人を見つめる。近すぎて相手の顔はぼやけていたが、瀬人も目を開いていたのが分かった。
「あ、……あ……」
 何度も瀬人はアテムを呼ぼうとしている。声を許そうをしないのは、他でもないアテム自身だった。
 頭を強く抱き寄せると、瀬人の髪は乱れた。何時如何なる時も整えられている髪型は、決して変化しない。その頑なな精神を表したかのような瀬人の髪を崩しているのは、自分なのだと実感すると、アテムの腰がわずかに揺らいだ。
「ん……ん……ぅっ!」
 瀬人の膝に乗りかかり、両足で腹回りを挟み込むようにして、体と体を密着させていた。
 下衣の中では、既に昂ぶり始めている。これだけ体を合わせているのなら、瀬人にも熱が伝わっているだろう。
 早く早くと、急かす気持ちが先走りすぎてアテムは、はしたないと知りつつも下腹を擦り付けていた。下着は湿り気を帯びている。
「ぁ……っ、はぁ……」
 互いに息継ぎもろくに行えず、無我夢中になって唇を交じらせていた。
 途中から瀬人は、諦めたかのように唇をほんの少し開いて、アテムの我儘な舌を迎えてくれていた。それが嬉しくてたまらなかったアテムは、更に淫らな音を立てて、瀬人の唇を味わい尽くしていく。
 ようやく唇が離れると、どちらともつかない涎れの糸が垂れて、離れた後もふたりの唇を結び繋いでいた。やがて糸は細くなり、ただの水滴となり落ちて行った。
「海馬……?」
「同じだろうが」
 手の甲で口元を拭いながら、瀬人は苦々しそうに吐き捨てる。アテムは自分よりも瀬人の口周りを気にかけて、濡れている顎先を拭いてやった。
「貴様はオレを殺す気だ」
「そうかもな」
 紅潮した肌は艶めかしく色づいており、瀬人の生白い皮膚は、すっかり赤くなってしまっている。アテムは両手で相手の頬を包み込み、汗でしっとりとしている肌を舐めるように触れていた。
「殺す、か。死ぬ気でここへ来たんだったら、海馬の命、オレのものだと言っても構わないだろ?」
「フン、なら貴様にくれてやってもいい」
 濡れて光るアテムの唇を、瀬人は親指の腹で乱暴に拭った。意味を含んだ動きをする唇は、瀬人の爪を噛み、指の先をくわえた。
「オレは人から貰ったものは、大事にする性分なんだ」
「どんな風に?」
「知りたいか? フフ、教えてやるぜ……じっくり、な」

 贈り物の包み紙を剥がしていくような高揚感を持ち、アテムは瀬人が纏っている装備を取り払っていく。腕のベルトを外し、上着のファスナーを下ろそうとした時、手首を掴まれた。
「しなくていい」
「汚れるぜ?」
「替えならある」
「ふうん……」
 首元まで開けた上着のファスナーを元に戻し、瀬人は半身を起こして、向かい合ったアテムを正面に置いた。視線が搗ち合う。
「こうして」
 アテムは熱を上げている手のひらを瀬人の胸板につけてみた。布一枚を隔てた体が遠く感じる。こんなにも近くにいて、心細く思うのは服の所為かもしれない。
「触れ合うのは嫌なのか?」
「他人と接触するのは、不得意だ」
「ク……他人?」
 アテムは瀬人の言葉を拾い上げ、皮肉っぽく口角の端を上げて嗤った。
「何が言いたい?」
「オレとお前が友達だと言ったら、海馬は怒るだろう? なら、何と言い表せば気に入るんだ?」
 瀬人は押し黙ってしまった。あらゆる間柄の呼称が頭の中を巡っているに違いない。しかし、世界中のどんな表現を拾い上げても、今ここでの自分たちのものに相応しい言葉は、見つからないのだった。
「オレ、海馬を困らせたいんじゃないぜ」
 もう一度手を伸ばし、アテムは瀬人の頬を撫でた。数分の間に汗はひいてしまったらしい。乾いた肌の上を、手のひらがするすると滑る。
「喜ばせたいんだ」
 触れていた頬に親愛の情を示すように唇をつける。場所を少しずつずらしていきながら、アテムは頬に何度もキスをしていった。全ての肌の領域を侵略していくかのように、触れていく。
「ん……」
 瀬人が小さく吐息と声を洩らした。耳元をかすめる息が、あたたかく感じる。アテムは心音を速まらせながら、両腕を瀬人の肩に回す。
「海馬……っ」
 抱きしめて名を呼ぶと、瀬人の身体は分かりやすいほどに反応した。触れ合いに慣れていない腕は、抱き返す度量もなく、アテムの背の上で迷わせいた。
「海馬から、オレに」
 合わせていた体をわずかに離し、目の前で強請ってみせると、瀬人は不服そうに目を伏せる。
 アテムが肩を抱く力を強めると、瀬人は恐る恐るといった様子で顔を近づけてきた。
 緊張で硬くなっている唇は、真っ直ぐに一文字に閉じられている。それでもアテムには良かった。はじめての相手が自分なのだと知れる度に嬉しくなる。
「……ふ」
 肩から腕へ、アテムの熱を帯びた手が降りていく。腰回りを撫ぜて、腿の付け根をさすった。
「そんな……ことまで」
「海馬、口に集中しろよ」
 意識を散らせる瀬人の唇を叱るように甘く噛み、アテムは口づけを再開させる。
 右手はベルトの金具を取り、左手は下腹を捏ね繰るように撫でまわしていく。しかし、想像よりも鈍い手ごたえしか感じられなかった。ボトムの素材が厚いのだろうか、とアテムは手の力を強めてみる。
「おい……」
 金具が外れ、ボタンも取り、ジッパーを下ろす。中はぬくもっている。
「いい」
 下腹へ突っ込んだ手を、瀬人は抜き出して止めてしまう。アテムは口づけを中断して、視線を下から上へと泳がせていた。
「貴様は、そんなことをしなくていい」
「オレがしたくてやってるんだぜ」
「いいと言ってる」
 触れてみたアテムには分かってしまっていた。
瀬人の身体は、一切興奮していない。それどころか、萎縮しきっているような気配すらあった。
「海馬。男が無理なら、はっきり言ってくれ。取り返しのつかないことになる前に」
「いや、オレが言いたいのは」
「口づけても嫌がらなかったから、海馬も、オレと同じ気持ちでいてくれているんだと思ったんだ」
 勘違いをしていた自分が恥ずかしくなった。アテムは瀬人の膝から降りようとして、身を下げていく。
「アテム、オレの話を聞け」
「体のいい断りの文句なら、嫌だぜ。そんなのは子供の頃から聞き飽きてる。だったら、はっきり本音で言ってくれたほうがマシだ」
「オレが貴様に今更そんな取り繕ったことを言うと思うか?」
「気を遣ってる顔をしてるぜ」
 瀬人の膝から降りたアテムは既に傷心といった風な目をして、瀬人を指し示す。
 瀬人は首を横に振った。
「オレ自身の感情と肉体は切り離されている。貴様を拒んでいるんじゃない。ただ、オレの体はそういう作りなんだ」
「そんなの……オレ、よく分かんないぜ。じゃあ、海馬の感情って何だよ」
 好いた相手にいくら求められようとも、瀬人の体は素直に言う事を聞き入れはしないだろう。その自覚はあった。どうすれば解決するのかは、これからの課題だった。
 自らの前を隠すようにして、手指が恥じらいの仕草を見せている。そんなアテムの泣き出しそうになっている瞳には、瀬人はいくらかそそられるものがあった。後になってから、欲望の正体を知る事になるのだが、今はまだその前触れの尾を掴みかけているだけだ。
「オレの答えは」
 言いながら瀬人はアテムの腰を引き寄せて、やっとの思いで抱きしめた。そして、護るような口づけをしてやった。真摯な口づけは誓い立てに似ていて、神聖な行いのようだった。
「これだ」
 広がる視界の先には、不安定な心はどこに着地すればよいのかと惑っているアテムの表情があった。
「足りないぜ」
 言葉を補う為にこそ、肉体の交流があるのではないかとアテムは考える。しかし、一方的に押し付けられるものではなく、互いの協力で成立して初めて、出来る行為と知っている。
 ひとりでは行えないものなのだと分かりきっているから、途轍もなく寂しかった。

「やっ……嫌だ……オレだけ、脱ぐなんて」
 熱を治めるために、瀬人はアテムの下衣を取ってやろうとしていた。最初の口づけの時点で、瀬人の腹に主張するようにつけられていたのを知っている。完全に昂ぶっているのだ。さぞ苦しかろうと、瀬人は不憫だと思っていた。
応えられる体を持ち得ていない瀬人は、どう言い訳をしてもアテムを悲しませるだけだ。してやれることは限られている。
「捲るだけだ。脱がないでいい」
「あ……」
 向かい合っていた身体を逆に向かせて、瀬人はアテムを後ろから抱え込むようにした。幼子が親に抱きかかえられているような姿になり、アテムは嫌がった。
「海馬……ッ! オレ、自分で……」
「じっとしていろ」
 耳の裏で囁かれると、ずきずきと腰元に響いて身体が啼いた。下衣の裾から瀬人の手が潜り込み、薄く濡れている下着の隙間に指が入ってきた。冷たい指先が、発熱している先端に触れる。
「う……っ」
 指先で肉身ごと捕らえられると、アテムは大人しくなって身を縮めた。局部自体は瀬人からは視認できないが、芯を持ち、熱くなっているのは指で確かめられた。露がたらたらと零れ始め、瀬人の人差し指と親指をぬるつかせ始める。
「あ……っ、や……、手が……っ! 海馬……っ!」
 自分以外の誰かのペニスを手にする機会など早々訪れないだろう。力加減が難しく、瀬人は自慰の時よりも弱く握っていた。形や大きさは、思ったほど小さくはない。手の中に収まるが、それなりに大人に近い成長をしている。
「ん……っん……!」
 後ろから窺えるのは、耳元くらいだった。アテムが首を振ると、しゃらしゃらと耳飾りが音を奏でる。
 厚みのある小さな耳朶は赤く熟していて、舐めたら甘そうだった。耳の裏に目がけて息をかけてやると、アテムは半身をびくびくとさせて震えあがった。
「う……っ、ううっ」
 両手で口を塞ぎ、声と息を詰めているアテムは、瀬人の腕の中では一層小さく見えた。実際に体を丸めて、縮こまらせている所為でもあった。
 脱力しかけるアテムの身がふらりと前に倒れ込みそうになる。瀬人は胸を抱いている手で支えると、そのまま抱きしめながら共に横臥した。
「か、海馬……っ、海馬……」
「すぐ楽にしてやる」
 規則的な律動で摩ってやると、アテムは瀬人の指に手を重ねてきた。
「これ……っ、ん、んっ……。こうするの、海馬の、やり方っ、なのか?」
「オレの、やり方?」
 先端部を親指の腹で刺激してやりながら、絶妙な力加減で扱いている。アテムは瀬人の手を上から握った。
「いつも……、あっ、こうしてるのか?」
「そうだ」
「ん……っ、ん……ああ」
 アテムは反対の手を背後の瀬人へ伸ばして、服の袖を掴んだ。どこかにしがみついていたいのだろう。後頭部が瀬人の胸にこすりつけられる。
「なに、何を……考えてる……? 誰……?」
「オレのことはいい」
 訊かれても返答は浮かばなかった。返事の代わりに手を速めてやると、アテムは息を荒げていった。自然と足が開き、つま先の指が開いたり閉じたりを繰り返しているのが瀬人の目の前にあった。
「あ、あ……ッ! 嫌だ……! うっ、く……ぅう」
「貴様は、どうなんだ」
 限界は近そうだった。性器はふるふると身悶えて、アテムは上半身を反らしている。仕上げとばかりに、根元から激しく扱いてやると、アテムの腹筋がきゅうと硬くなった。
「海馬! 海馬だけ……海馬を……っ! んっ、んんうっ!」
 どんな想像をしてこの身を慰めていたのか、瀬人に関心があった。所詮、甘い幻想に過ぎないだろう。そんな行為は、夢の中だけにあるのだ。現実にはありえない。
 やさしく抱いてやれる男は、決して瀬人ではないと、瀬人自身が強く思っている。

「はあ……はあ…………」
 手のひらに放たれた精液を手拭で清めていると、アテムは恨めしい目つきで瀬人を見つめていた。脱力した手足は、寝台の上でばらばらに置かれている。
「文句でも言いたげだな」
「オレにだけ言わせて、狡いぜ」
「貴様の望むような答えは、生憎持ち合わせていない」
 一度射精してしまえば、いくらか気分も晴れるのだろう。アテムは暗い表情を見せることはなく、ゆっくりと起き上がり、淡々と着衣の乱れを直していた。
「嘘をついてほしいんじゃないぜ。そうやって誤魔化されるほうが、オレは嫌だ」
「嘘も何も。答えようがないものは、無い」
「言い辛い相手だっていうのかよ」
「違う」
「じゃあ」
 しつこく食い下がるアテムを退けるように、瀬人は声を強めて言う。
「特定の相手など、想像していない。処理はあくまで処理なだけだ」
「そうかよ……」
 言われると、瀬人らしいとも思えたが、やはりアテムには一抹の寂しさが残った。確かに、ふたりの思いは通じ合っているかもしれない。だが、セックスへの意識に差がありすぎる。
 どちらも経験値は、初心者の域を脱しない段階で、この先、どう振る舞えばいいのか正解が見つけられない。
「オレは、色んな……想像してたぜ。海馬で」
「例えば?」
 瀬人は、アテムの想像世界ではどんな振る舞いをしていただろう。胸焼けしそうな口説き文句を囁いて、理想的な紳士として描かれていただろうか。
「は、裸になったら、とか……」
「貴様はオレの裸体が見たいのか」
「……う、うん」
 瀬人は自らの服の前を握った。まだ覚悟が出来ていない。アテムの願望は叶わないだろう。
「それで?」
「卑怯だぜ。オレばっかりに喋らせて……海馬は答えないくせに」
「言っただろう。オレには答えが無いのだと。だが、貴様は、答えを持っているから、話せる。さあ、続けろ」
 褐色の肌は、色合いの変化が分かりづらいと瀬人は思っていたが、間違いだったようだ。
 赤みがさせば、きちんと色がつく。特に唇や目尻は顕著だった。
 口を噤んで、視線を彷徨わせている。滅多に見られない焦燥と困辱の表情だった。
 じっと眺めていると、瀬人の胸奥に得体の知れない情欲が湧いてくる。
 頭の中は、アテムらしくないと否定気味であるのに対し、身体は、むず痒さを覚える。
「だんまりか……? それとも、そこで終いなのか?」
 半身ほどの距離を保って座っている互いの間を、瀬人は詰めていく。敷布についているアテムの手を引くと、簡単に倒れ込んできた。
「オレは、貴様に何をした?」
「な、何って……」
「続きがあるんだろう。話せ」
「それは……」
 そばで見る羞恥の色に、瀬人は夢中になった。自分の言葉や態度、行動で、鮮やかに色づく肌は、目を見張るものがある。朱がよく似合うと、密やかに褒め称えたのだった。
「やっぱり、本物が一番いいぜ……」
 瀬人の胸板に頬を擦りよせて、アテムは目を閉じた。薄く汗をかいている額の生え際が目立った。拳をつくった両手が、瀬人の胸元に揃って置かれている。
「想像と比べているのか」
「ふふ……オレが考える海馬は、あくまでオレの頭の中で生きていて、望み通りにしか動かないし、言って欲しいことしか言わない」
「それをオレに望んでいるんだろう」
 少々理解不能な言動をしている。その理想と幻想の相手の話をしろと、瀬人は命じているのだが、アテムはすでに放棄していて、とろけた目つきで腕の中に潜っている。
「だから、本物が一番良いって思うんだぜ」
「何を言ってるんだ」
「ほら」
 瀬人の手を自らの胸元へ持っていき、鼓動を聞かせる。どくん、どくんと心音は鳴っていて、胸は呼吸と共に上下している。
「オレをこんな風にさせるのは、海馬だけなんだぜ……」
 腕の中で、柔らかく微笑み、身体を預けてくる。
 瀬人は抱きしめたくなる衝動と同時に、ふたたびアテムの首を絞めたくなった。
 愛憎は、表裏一体と言う。しかし、瀬人の凶暴さは憎悪ではない。
 紛れもなく、どちらの思いも、愛情と呼べるものだったのだ。



 とても幸せな子どもだった。
 両親の仲は睦まじく、恵まれた環境に、何一つ不自由のない生活だった。
 頼りになる父はよく息子を褒め、優しい母はいつも笑顔だった。
 子どもは父母を心から愛していて、尊敬していた。
 そんな子どもの人生は、弟が生まれてから一変する。
 母の死をきっかけに、いつでも家庭にあった微笑みの灯りは消え、父は見る間に憔悴していった。それでも父は子ども達を懸命に育て、よく働いた。けれど、父には心からの笑顔は戻らなかった。悲しげに曇らせた顔で、力なく目元を緩ませる。そんな印象の父であった。
 子どもは――瀬人は、母親と同じように笑うように努めた。やさしい笑顔を父と弟に向け、母の代わりに家庭に明るさを齎したかった。母譲りの思いやりの深さと、父の責任感の強さを受け継いだ瀬人の性格、それ故の行動だった。
 物心のつかない弟は、兄の笑顔をよく記憶していた。弟が赤ん坊の頃に、瀬人はたくさん笑いかけてやったので、とてもよく笑う子になってくれた。それは兄にとっての救いとなった。
 あんなにも強くてたくましかった父の腕が、ぞっとするほど細くなっていたのを、瀬人は最期まで誰にも言えないままだった。決して、子ども達に弱音を吐かず、父は最後まで素晴らしい人間として生き抜いた。しかし、その別れはあまりにも突然で、幼い子どもたちには、どうすることもできなかった。生まれて初めて瀬人は、自分の無力さを嘆いたのだった。
 心底愛していた人を、失った時。
 人間は容易く壊れるものだと悟った。
 なら、人を簡単に愛してはいけないのだろうか。
 人に、心を託してはいけない。
 一度でも奪われてしまえば、取り戻すのは苦労する。
 当時を瀬人はそのように覚えている。

「どうせ、ガキには分かんねえだからよ」
「うまく言いくるめたら、あとは知らんぷりでもしてればいいさ」
 大人が思っているほど、子どもは馬鹿でも愚かでもない。瀬人は周囲の人間をよく観察し、見極める力を蓄えていった。
 しかし、今まで自分達を守ってくれていた人は居ない。
 力のない人間は、ただただ搾取されるだけだ。
 力とは、何だ。腕力や、身体の強さ、目に見える価値も必要だった。
 力とは、知識だ。学校が教えてくれる科目だけが学びではない。世の中の仕組みや、人間の古くからの知恵、時には罪悪すらも味方になる。
 虐げられ、嬲られ、地面を這いつくばって、それでも生にしがみついて、瀬人は一つの物事から百を得ようと躍起になった。執念の根性が芽生えたのは、その年頃だったろう。
 おおよそ、十の顔つきには相応しくない影を携えて、海馬家の門を叩いた時分。
 まだその頃の瀬人には、繋いだ手のぬくもりがあったのだ。
 子どもの瀬人には、世界にとって正しいとされる愛情が、確かに存在していた。

「やあ、よく来てくれたね。瀬人くん、モクバくん。もう何も恐れることは無いよ。温かな食事、清潔な暮らし、それに最上級の教育を君たちに授けよう。必ずや私の期待に応えてくれると……信じているよ」
 新たな父となる男――海馬剛三郎は、贅沢な邸の門扉でにこやかに挨拶を述べた。
 初対面時に比べると、剛三郎の対応は幾分穏やかであった。瀬人は、ほんの少しだけ安心していた。やっと弟に不自由させることがないとなると、父の死後ずっと張りつめていた気を緩めた。
 はじめこそ、剛三郎は優しく、不気味なほどに兄弟に甘く接していた。欲しい物はすぐに買い与えられ、あらゆる身の回りの世話は使用人たちがみてくれる。
ふたりが通うことになった学校でも周囲の人々は、教師も生徒も皆親切であった。――後に彼らの優しさは全て海馬の根回しの結果だと知り、瀬人は人間不信がちになるのだった。――
 しかし、平穏な生活は一時的なものであった。
海馬家での暮らしに馴染み始めた頃。
 学校の定期テストが終了し、答案が返された。元より、勉学に励んでいた瀬人は、ほとんどの科目が満点であった。
 たったひとつ教科において、漢字の間違いでミスをしてしまったが、答え自体は正解だった。これならきっと大丈夫だろうと、帰宅した瀬人は自信を持って養父に答案用紙を渡した。
「瀬人、人はどうして間違いを犯してしまうのか、何故だか分かるか?」
「答えは合っています。漢字を間違えたのは、……」
「言い訳はいい!」
 書斎机を叩いた剛三郎は、それまでの他人に接する「海馬社長」としての面を外し、本性を現し始めていた。
 たった一つの過ちを目敏く見つけ出すと、答案用紙を絨毯に落として、瀬人を追い詰めはじめた。
 瀬人の膝が震え出す。窓のカーテンも、部屋のドアも、全てが閉じられていて一切の逃げ場が無かった。
「私はね、常に完璧を求めているんだ。欠陥品は、要らないんだよ」
「お……お義父さん……」
 剛三郎は引き出しを開けると、黒革の鈍い光を放つ鞭を取り出した。よく使いこまれていて、握りは男の手に馴染んでいた。
「海馬の名を貶める真似をするのなら、その分、お前は対価を払わなくてはならない」
 男は柄を握り、先端部の皮のチップを片手で打ち鳴らしている。ゆっくりと瀬人の立っている場所まで歩み出す。
「後ろを向いて、壁に手をつくんだ」
「ボクは……嫌です……。だって、テストは」
「そうか。ならば、代わりに弟に償ってもらおうか?」
 モクバの名前を出された途端に、瀬人は意思を凍らせた。それだけは、許されない。たとえ、相手が刃向えない養父であろうとも、絶対に瀬人は守りきらねばならなかった。
 全力で首を横に振り、瀬人はのろのろと壁際へ顔を向ける。
 なるべく時間を稼いで手を伸ばしたが、養父の無言の圧力に負けてしまう。
 壁に手をつき背を見せると、まず軽く服の上から一発打たれた。耐えられる痛みであると分かると、瀬人の緊張はわずかにほぐれた。
「背中を出せ、瀬人」
 命じられると、瀬人は心を殺して従った。精神と肉体を切り離せば、何も感じなくて済むと思ったのだ。
「そうだ。素直に言うことを聞けばいい。お前は頭が良いから飲み込みも早いな」
 白い背中を出すと、剛三郎は容赦なく子供の体に鞭を振り下ろした。
「……ッぐ!」
 背の真ん中に、一本の赤い筋が出来上がった。すぐに腫れ、皮膚内部に浅黒い血が滲む。
「ククク……幼子に折檻したのは私も初めてだよ。そうか、こんな加減で傷がつくのか……成程」
 剛三郎は独りごちて、笑いながら二度目の鞭を振った。
「……ぁぐっ!」
 漏らすまいとしていた声が上がると、背後では愉しげな養父の笑い声がして、瀬人は壁紙に爪を立てた。
「なんと心地よい悲鳴だ……いいぞ。女の嬌声とは違った趣がある」
 話ながら剛三郎は、二度三度と鞭を振るった。その度に瀬人は押し殺している声を無様に上げてしまい、悔しさで涙がこみあげてきた。断じて、痛苦で浮かべているのではないと、自らに言い聞かせながら瀬人は堪えていた。

 鞭痕で背の全面が赤く染まり上がる頃、ようやく解放された。絨毯には瀬人の汗が染みとなって、いくつかの模様を描いている。
「お義父さんは……ボクが……嫌い……なんですか?」
 その場に座り込んだ瀬人は、そう呟いて尋ねた。鞭にこびりついた血を手入れ布で拭き取りながら、剛三郎は瀬人に笑いかけていた。
「いいや。私は、私なりにお前を愛しているよ。この行いは、愛だ。そう、類い稀なる愛情の証だよ」
 言われて瀬人は、愕然とした。何と迷いなく朗々と話すのだろうと目を剥いた。真っ直ぐに瀬人を見ている剛三郎は続けて言い聞かせる。
「動物……たとえば、馬だ。ひとを乗せて走る馬を浮かべてご覧。乗った者は、早く走れと馬に鞭を打つだろう? それと同じことだ。私はもっともっと瀬人に頑張って欲しいから、お前をこうして励ましているんだよ。わかるね?」
「でも……お義父さん、ボクは人間で、言葉が分かるのに」
 瀬人は服を下ろそうとして、シャツが傷にあたった瞬間に、顔を顰めた。あまりの痛みに服が戻せなかった。
「言葉よりもっと伝わるだろう? ……私の愛の熱が、この鞭から」
 剛三郎は恍惚として語るのだった。彼もまた、父からそうされてきたということを。そして父の父も、同じであったということ。
 そして、それが唯一の愛情表現であることを、誇らしげに瀬人に聞かせる。
 自分は正しく、自分達の方法こそが至高だと、瀬人にも教えているのだ。
「さあ、瀬人。お前には、とっておきのプレゼントをあげよう」
 剛三郎は手のひらの中に小さな箱を持っていた。紐を解き、中身を瀬人に見せてやる。
「これでようやく私の息子になれる。……お前が望んだ、海馬家の人間にな!」
 鞭と同じ黒革製の太い首輪が瀬人の首に取り付けられた。
 留め具には鍵がかけられ、瀬人が外せないようにさせられる。
「お、義父さん……どうして、ボクに首輪をつけるの……!?」
 震える手で首輪を触り、瀬人は浅く呼吸を繰り返しながらも問いかけた。
「この首輪は犬や猫と同じ意味だよ。誰かの所有物だということ、主がいることをお前が自慢する為ものだ。首輪もまた、愛情の証のひとつなんだよ。瀬人が私の最愛の息子だという証明だ」
 先ほどまで鞭を手にしていた右手が、まるで本当の父親のように優しく瀬人の頭を撫でる。痛みを与えた手が、今度は優しさを植え付けてくるのだ。瀬人は瞬きもできず、目の前の悪魔のような男を凝視し続けている。
「でも、お義父さん……お義父さん、ボクは、ボクは……」
「フフフ……ハハハ……」
 瀬人は首輪を外そうと手をかけたが、引けば引くほどに首が絞めつけられて苦しくなった。顔中に汗が噴き出してきて、歯の根が合わなくなってきた。がちがちと歯が鳴り、瀬人は養父から逃れようと後ずさる。怯えきっている瀬人に、剛三郎は愉快だと笑い声を投げかけている。
 やがて男の笑い声は渦となり、瀬人の身を雁字搦めにしていく、養父の呪縛が刻み込まれた瞬間だった。
「私の息子……瀬人……愛しているよ……ハハ、ハハハ、ハハハハ」




 瀬人が海馬家当主となってからは、先代の気配が残るものは全て処分していた。
 それでも時折、悪夢となり現れては瀬人を悩ませる。
 憎しみの塔(アルトカラズ)という、海馬剛三郎の表面上の存在は消え去っても、未だに瀬人の心身には傷口が残っていた。アルトカラズは、あくまでも経営者としての剛三郎を象徴する物質に過ぎなかった。
 瀬人の精神を巣食う剛三郎は、父、家族として、そして、愛情としての姿を保っている。
 本当の父親の記憶は瀬人には今も在るのだ。真実の愛情を持っていた、優しく弱い父親が居る。
 しかし、それを上書きするほどの強烈な愛情が、幼い瀬人の脳裏には焼き付けられてしまっていた。
 傷の深さと共に、暗黒の感情は瀬人の血となり、全身を巡った。どんなに小さな傷口からでも、ひとたび悪意が入り込めば感染してしまう。それほどまでに剛三郎という毒は強大であった。
 そしてウィルスに対する抗体を、瀬人は幼すぎるあまりに持ち得ていなかった。


 自室の寝台で、瀬人はアテムを思い出す。
 胸の中で微笑んだ姿を、頭に浮かべるとたまらなくなった。
 今もまだ、この手にぬくもりは残っているようだ。
 抱きしめた時の姿形を、この腕は覚えている。そのような思いは、至って健全な青少年と同様であった。普通の男性であるなら、通常の観念ならば、焦がれる相手に対して大事にしたいと思いを抱くものだろう。
 しかし、瀬人は違っていた。
 思いが深まり強くなるほどに、乱暴にしたいという欲が湧く。加虐欲の自覚はごく最近のことで、誰にも言えずにいる。
 もし告白をするとしたならば、その思いを向けるたったひとりの相手。アテムにしか、言えないだろう。
 アテムだけに、解って貰えれば良いとさえ思う。
 だからこそ、瀬人は言えずにいた。
 拒まれたら、二度と誰にも心は開けないだろう。そのつもりも無くなる。――そもそも、アテム以外の誰かに打ち明ける意味も見出せない。――
 困辱で赤面したアテムが、また見てみたくなっていた。激しい気性の王者とは真逆の顔を打ってみたいのだ。
 途端に背筋がぞくりとした。願望を頭に思い描いただけで、瀬人は動悸がしてきた。
「はあ……」
 やがてその高揚感は、精神と肉体の線を繋ぎ合わせ、熱情を呼び起こしていく。
 今までただの生理現象として扱ってきた肉体の変化が、はじめて欲情の証拠として現れてきたのだ。
 瀬人は、がっくりと落胆しながらも、心のどこかで納得しかけていたのだった。
「これが、愛情と言うのか……?」
 冴えた思考の奥底で、ある男が頷き瀬人を後押しするように「そうだ」と答える。
 ボトムの前をくつろげて、瀬人は硬くなる欲棒をきつく握った。
 脳内では、肌を濡らしたアテムが瀬人に哀願している。
 嫌だ。ダメだ。お願い。彼は涙ながらに唇を震わせている。そんな無垢な肌を残酷に痛めつけ、悲鳴を聞くと、更に瀬人は快感を暴走させていく。
 力でねじ伏せ、抵抗のできなくなった体を、じわじわと虐めぬけば、やがて屈服したように頭(こうべ)を垂れる。
 ――ああ、その顔が見たかったんだ。
 前髪を掴みあげ、絶望に染まる顔に目がけて、瀬人は射出する。
 白の飛沫は赤茶に焼けた肌によく映え、汚辱に相応しい色合いとなった。
「は……っ、あ」
 出し切ってしまえば、急激に現実に引き戻された。
 手の中にどろりとした精液があり、いくらか溜め込んでいた為に白濁の色は濃く、どっぷりとした重みがあった。
「ざまあみろ……」
 事が終われば、罪悪感だけが瀬人に伸し掛かってきて、うんざりしながら、後始末のために起き上がるのだった。



第四章 支配者  〜インナーマン・ファーザー〜



第六章 聖誕   〜ナーサリー・ライム〜


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