悲しみは〜
――書き下ろし冒頭部のサンプルです――一
「婚約……」
ディオは左手の薬指を見て、呟いた。
あの日、冷静になってからのディオは逃げるように大学に入り浸るようになった。朝早くに部活の練習があるからと言って出発し、課題をしていた、だとか論文に必要な文献が大学の図書室にしかない、だとか言い訳をあれこれ連ねて遅くまで居残っていた。心配するジョースター卿をよそに、ディオはまめに邸に連絡をして、何とかジョナサンと顔を合わせないように足掻いていた。
しかし、それも限界だ。体力的に無理があった。家へと向かう馬車の中で、ディオは次第に体調が崩れていくのを感じていた。
「お帰りなさいませ」
フットマンが馬車の戸を開けると、ディオはよろけて膝を折った。
「ディオさま……っ、どうなさったのですか?」
出迎えの執事やメイドが、ディオの体を支えている。
「ああ、いや……ちょっと眩暈がしただけだ。すまないが、肩を貸してくれないか」
上背のある男性使用人に声をかけて、ディオは身を持たれながら玄関へと進んだ。
ディオが明るい時間に邸に帰ってくる、と聞きつけたジョナサンは、あとで父に怒られるのも構わずに階段をすべり落ちるように駆け下りていた。ダニーも一緒になって走っている。
「ディオッ! おかえりなさ……っ!」
玄関ホールに辿り着いたとき、ジョナサンは驚きと衝撃で声も瞬きも止めてしまった。
ディオは、使用人に抱きかかえられる形でそこにいたのだった。
はじめに、心臓が動いた。それから息が吸えて、ジョナサンは動き出すことができた。
「どうしたの、ディオ……怪我したの?」
「いいえ、お怪我はありません。大丈夫ですよ、ジョジョぼっちゃま。ディオさまは、ちょっとお疲れになってしまっただけですからね」
乳母やが慰めるようにジョナサンに言い聞かせた。そばへ寄ろうとするのを使用人たちに阻められて、ジョナサンはその手から抜け出してディオへ向かった。
「ディオ……平気? 返事して」
使用人の腕にいるディオの蒼白い顔にジョナサンは小声で話しかけた。
「……平気だ」
わずかに開いた金色の瞳は、その中にジョナサンを映しこむ。
「ねえ、ぼくがディオの部屋まで運ぶよ、だから」
ジョナサンはディオから手を離すよう、フットマンの服を引っ張った。これ以上、他の誰かに触れさせておきたくなかった。
「ぼっちゃま、……わたくしがきちんとお部屋までお連れしますから」
多少、無理をすればジョナサンでもディオを担げるかもしれない。だが、大の男を抱えて、二階まで行けるかと言えば、自信は無い。
「でも、でも……」
誰かにさわってほしくない、それが嫌だ、と駄々をこねられるほど幼くもないし、かといって自分で運べるほど大人でもない。ジョナサンは自分の無力さが歯がゆかった。
「ジョジョ、いい子だから」
ディオの力ない手が、ジョナサンの頭を軽く撫でた。
「さあさ、ぼっちゃま。ぼっちゃまもお部屋に戻りましょうね。もうじきお夕食ですからね」
階段を昇っていくフットマンの背を、ジョナサンは恨めしそうに見上げることしか出来なかった。
「しーっ。ダニー、大人しくしてて。ぼくの部屋にいてって言っただろ」
子犬は尾をふってジョナサンの足にじゃれついている。ころころとした手足でジョナサンの足首にしがみついていた。
ジョナサンはディオの自室のドアに耳をあてて、中から聞こえてくる医者の声を探った。
「――養生して、様子をみましょう。君はあまり丈夫ではないからね」
「そんなことないです。……ただここの所、無茶しただけで」
「ジョースター卿にもお伝えしておきますからね」
「……はい」
部屋の中は見えなかったので、ジョナサンは声や物音で誰がどう動いているのかを想像した。靴音が扉まで近づいてきて、ジョナサンは隠れなければと、その場を右往左往した。
「……おや?」
間に合わなかった。医者によりドアが開かれてしまった。足元にいたダニーが嬉しそうにジョナサンのまわりを駆けている。ダニーに気をとられてしまったジョナサンはその場に座り込んでしまっていた。
「ジョジョくん。おにいさんなら、大したことないよ。病気でも何でもないから、部屋に入っても平気だよ」
医者はジョナサンに優しく告げると、連れの看護婦と共に廊下の先へと去って行った。
「ディオ……入ってもいい?」
一応マナーとして開かれたままの扉をノックして、ジョナサンは顔だけ見せてみた。
付き添いのメイドがディオを起こしている。ベッドの上からディオはジョナサンに手招きをしてくれていた。
「こっちにきてもいいぞ」
許可されると、ジョナサンは部屋の入り口でメイドにダニーを渡した。ディオは犬の毛が苦手らしく、ダニーがそばにいるとくしゃみが出てしまうので、極力近寄らせないようにしている。
「ごめんね、ぼくの部屋にいてね」
「では、何か御用があればベルでお呼びくださいませ」
ダニーはメイドに抱き上げられると、大人しくなって鼻を鳴らしていた。
ジョナサンはメイドが部屋を去るのを見送った。そして無事にドアが閉められるのを確認してから、ディオの待つベッドへ進んだ。
「〜〜〜〜ッ、ディオぉ……ッ!」
「お、い……、何だよ……」
ジョナサンが布団に突っ伏すと、埃がたった。ふかふかのかけ布団に顔を埋めて、ジョナサンは「ああ」とか「うう」とか呻いている。
「……わ、悪かったよ」
沈んだ頭の上にディオは手を乗せて、ぎこちなく髪を撫でた。
「正直に言えば、逃げてたんだ……どんな顔したらいいのか、分からなかったからな」
さらりとした子どもらしい髪質をしている。手櫛で梳かせば、指の隙間から髪が流れていく。くせがあるけれど、柔らかい。
「余計な心配かけたな」
ディオは身を屈めてジョナサンの頭にキスの音をさせる。ジョナサンには唇の感覚がなかった。恐らく、髪に口付けされたのだろう。
「ちがうよ!」
目元を擦りながらジョナサンは顔を上げた。強く手の甲で擦ってしまったので、目尻は赤くなっていた。
「ディオが、学校が忙しいのも勉強も部活も大変だってことも……知ってるよ。それは、いいんだ。ぼくが、ぼくが嫌だったのは、」
思い出すだけで、ジョナサンは拳に力が入った。誰が悪いわけじゃあない。そんなことは分かりきっている。それでも、苛立ちが治まらない。
「ぼくが、子どもだから……だから」
「だから?」
ディオが首を傾げた。肌は白いのに、唇は変に赤い。ジョナサンはそこから目を逸らした。
「ぼくが、ディオを、運びたかった……」
一呼吸のあと、ディオは身を震わせた。
「ハハハハ、なんだよ、それ」
「笑い事じゃあないよ! 笑わないでよ、ディオ!」
「す、すまん……くく……っ、おまえって本当……」
「何だよ、子どもだって言いたいのかい!?」
蒼白かった頬が、笑ったおかげか健康的になっている。
「違うよ。……おれが、好きなんだなって、言おうとしたんだ」
「え……っ! え、えッ!?」