痛い十五、痛くない十四

 ぼくは何もしていなかったと思います。片付けられた部屋の中で、椅子に座って天井の模様をただ見ていただけでした。
「ジョジョぼっちゃま、晩餐の時間です」
「うん、今、行くよ」
 メイドは無断で部屋に入ることを許されてはいません。ノックをして、声をかけ、主がいいと言えば、ドアを開けられます。
 父さんは仕事の都合で、家に帰れない日が多くなりました。今まではぼくが小さかったから、出来るだけそばにいてくれたのだと思います。
 父さんは、「ジョジョにも兄弟ができて嬉しいよ、これなら私がいないときも寂しくはないな」と言って笑ってくれましたが、ぼくはちっとも面白くはなかったのです。
 重くなった腰を持ち上げて、ぼくは立ち上がり、部屋を出ました。
 ぼくの部屋の扉をたたいたメイドが、隣の部屋の前で立ちすくんでいます。
「……どうしたの?」
 何度叩いても、声をかけても、返事がないのだと、メイドの娘は言いました。彼女はぼくより、二つか三つ年上の子でしたが、ぼくよりも一回り細い手を小さく握って、困った顔をして肩をすくめました。
 隣人は留守だろうか。帰宅しているのは知っていたけれど、彼は父さんがいない日には、無断で出かけたりしています。勿論、父さん以外に彼を叱れる人などいませんし、ぼくも知らないふりをするしかありません。口を出したところで、返ってくるのは拳だけです。
 メイドの娘は、ぼくの目をちらりと見ます。父さんがいない家で、一番偉いのは形だけではありますが、『ぼく』なのです。
「もしかしたら、また居ないかもしれない」
 扉をもう一度ノックしてみても、やはり返事はありませんでした。
 別にいいじゃあないか、あっちだって、父さんがいなければ、好き勝手に過ごしているのだし、放っておけばいいんだ。
 ぼくはそう言ってしまいそうになって、口を閉じました。
 メイドの娘は、眉を下げて、そわそわと後ろを気にしています。彼女には他に仕事もあるのでしょう、遅くなれば、他の誰かに怒られるのです。
「ああ、……ぼくが連れてくる。だから、行っていいよ」
 娘は、ほっとして頭を下げると、足早に階段をかけ下りて行きました。


 この頃、学校が終わると、ディオは寄り道もせず、すぐに家に帰っています。
 天気もずっと曇りで、晴れも少なく、気温が低い日が続いて、外で遊んでいる子どももあまり見かけませんでした。
 ぼくもダニーがいれば、外で遊んだりしたものだけど、今はもういないから、庭に出る気分にはなれませんでした。
「ディオ? ディオ、いるかい?」
 声に合わせて、扉を少し強く叩きます。
 部屋からは物音ひとつ聞こえてきません。戸に耳を押し付けてみても、変わらずに静けさがあるばかりでした。
「やっぱり居ないんじゃあないかな」
 もし、部屋に誰も居ないのなら、今までの言葉は全て無駄な独り言でしかありません。そう思うと、虚しいやら、腹立たしいやらと、苛々してくるものです。
 ぼくは、部屋の主が居ないのなら、無断で部屋に入ったって、怒る人間もいないと思い、ノブを回しました。
 部屋は、あたたかい空気に包まれており、そして静かでした。
 薪が暖炉にくべられています。
「なんだ」
 暖炉のそばの、ふたりがけのソファーに横になって、薄いひざ掛けにくるまり、ディオは眠っていました。
 手には、読みかけの本を開いたまま持っています。
 しかし、彼はぴくりとも動きはしませんでした。
「ディオ」
 耳元で声をかけても、寝息すら聞こえてきません。
 ぼくは、青白い肌に、一抹の不安というものを感じました。
 思わず、耳をディオの胸元に寄せてみました。
 心音は、布越しにしっかりと生きている証拠を伝えてくれます。
「……よく寝てるなあ」
 その姿は、ぬくもりと、心音のある、精巧な人形にみえました。
 ディオは黙っていれば、本当に綺麗な顔と体をしている少年だと、ぼくは初めて実感しました。学校や邸や、街で、ディオと口をきいたことの無い人々が噂している内容は、見た目から想像されている美化された少年の、美しい理想でした。
 残念ながら、現実は、この可憐な唇からは下品で乱暴な物言いと、白い腕や、足からは、理不尽で粗野な暴力と、金色の睫毛に縁どられた目は、鋭く刺す眼差ししか、生まれてきません。いや、それらはぼくに対してだけだったような気もします。
 ぼくだって、人並みに、花や、芸術を愛でる心がありますから、やはり綺麗なものは綺麗だと思います。
 なので、意地悪で乱暴な彼の性格は嫌いではありますが、ぼくは、その見た目だけは、他の誰かと同じように、一等綺麗だと思えるのです。
「ふうん……こんなところにほくろがある」
 綺麗だとか、可愛いだとか、美しいものは、誰だって、その目で見て、眺めていたいものです。ぼくは、滅多にこんな機会はないと思って、ディオの顔や、肌や、体を間近ですみずみまで観察しました。
 見ているだけでは飽き足らず、ぼくは、少し彼に接近してみました。
 服や、ひざ掛けは、洗いたてのせっけんのいい匂いがしています。でもいい匂いはそれだけでは無いみたいだったので、ぼくは不思議に思って、その匂いを鼻で探りました。
「なんだろう、お菓子とか、花みたいに、甘いような……でも、そういうのとはちょっと違うような……」
 椅子の肘掛に手を置いて、鼻先をディオの肌をかすめる程度に近づけて、ぼくは鼻を鳴らして一番匂うところを見つけました。
 襟と、首の間からそのいい匂いはしているようです。
「なにかつけてるのかな?」
 大人の紳士たちは、髪や体に香水をかけているけれど、父さんや、紳士の方たちがつけている香りとは違っていました。
 ぼくはあの香りはすこし苦手でしたし、ディオのにおいは、もっと優しく漂って、かすかに届いています。
 ディオのほくろのある左耳に、ぼくの鼻が触ってしまいました。
「ん……」
 まずい! 起きてしまう! と、ぼくは焦って、体を離しました。だけど、ディオは目を覚まさず、軽く身動ぎ、首をかたむけただけでした。
 ぼくの鼻のすぐそばで、ディオのさらさらの金髪が、横切っていきました。
 ぼくの探していたいい匂いは、本当はディオの髪の毛から生まれていました。
 今度は大胆に、鼻を髪の中に入れて、香りを吸い込んでみると、柔らかい、優しい甘い匂いがより濃くぼくの中に広がっていきました。熟した果実や、満開の花畑を思わせる、いつまでも味わっていたくなるいい匂いです。
「きっと、髪の色がこんな蜂蜜みたいな、美味しそうな色をしているからなんだろうな」
 頬は、林檎の色をして、赤く温かになっていましたし、耳たぶも、桜桃の実のように色付き染まっています。
 ディオは、お菓子や果物で出来たお人形。髪は、蜂蜜を丁寧に細く糸みたいに伸ばして作られていて、白い肌の赤い部分は、果実の色で、白い部分はクリームで出来ていて、唇は、きっとルビー色になるまで煮詰めた真っ赤な苺のジャムで作られていて……。
「……あ、」
 ぼくは、多分、何も考えていませんでした。
 耳や、頬に、唇が触れて、最後に、柔らかくて、すこししっとりと濡れている、ディオの唇に唇でさわってしまいました。
  ごめん、と、心の中では謝りました。だけど、もう一度、そのまま唇が、同じところに触れて、今度は薄くあいた口の中に、ぼくは自分の舌の先をほんのちょっぴりだけ、ディオの小さい白い前歯にあてました。
 ディオの息が、ぼくの鼻の上に通っていきました。
 それから、一度、ディオは身を竦めると、くしゃみをして、閉じていた目を大きくあけて、目の前のぼくに向かって、嫌悪感たっぷりの表情をしました。
「このディオの部屋で何をしているッ!?」
 綺麗なお人形が目をさまし、体を動かし始めた途端、ぼくの目には、いつものディオにしか見えなくなりました。
 あんなに綺麗で可愛かった姿は一変して、険悪で底意地の悪そうな少年に戻っていったのでした。

おわり

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