milky!

 真っ平らで真っ白な、太陽に透かせば臓器すら見えてしまいそうな、
 肌だったのだ。

 ディオ少年は、自らの胸についてそう語った。
 ジョナサン少年は、残念なことにそれを拝んだことは無い。そもそも同い年の男の胸が見られないくらいで、残念とは如何なものだろうか。普通なら同年代の女子の膨らみかけの乳房のほうに興味があって当然だ。ジョナサン少年は、乳房……――否、おっぱいという俗受けする呼称にしよう――少女の未発達なおっぱいより、いつであったか劇場で見た女優の、背中や腹や脇からかき集めてきた脂肪の寄せ集め的巨大なおっぱいのほうが、魅力的に思えていた。
 つまり、少年は幼き年頃らしく「大きければ大きいほどいい」という単純かつ明朗な理由だけをこだわりとしていた。
 故に、おうとつの無い同性のおっぱい……――いいや、あれらはおっぱいなどと言っていいものではない――少年の単なる胸部に関しては、さらさら興味がない。そう、無かったのだ。
 だから、残念だとか、無念だとか、そう可哀想がる必要など一切ない。そう言い切れる。間違いなく、そうだ。そうなのだ。
 本当に、真実、これっぽっちも、爪の先ほどだって、悔いは無い! と、言うことだった。


 ラグビー部で活動するようになってから、ジョナサンとディオはますます筋肉質になり、日一日と逞しく身体を鍛え上げていった。二人の身長も差ほど変わりなく、腕や脚も同様に太く、がっしりしてきていた。
 互いに負けず嫌いな所があるので、日々のトレーニングは張り合うように行ってきた。部の先輩らには、毎日やるのは体によくないのだと注意されていたが、自分が休んでいる間に相手が僅かでも力をつけると思うと、うかうかしてられないのだ。
 よりその焦りが顕著であったのは、ディオの方であった。ジョナサンは元々の血筋からして、身長も体重もまだまだ成長過程に過ぎないと見込まれている。おそらく本人もそう自覚しているだろう。
 ディオは、どうだろうか。昨年と比べると、背の伸び幅が縮んでいる気がする。親の体格を他者に問われるのは許せないが、どうしたって両親の体躯の違いがディオの脳裏にちらつく。ジョースター卿に聞けば、ジョナサンの母は割に大柄であったらしい。ディオの母は痩せていて、いつも背を丸めていたからかもしれないが、人より小さく見えていた。
 それでも、同年者達と比べれば、ジョナサンとディオは頭ひとつ半ほど抜きん出ていて、その身の厚さも精悍な大人と遜色ないものだった。部の仲間も、そんなふたりにあらゆる意味で期待を寄せているのだった。
 ふたつ上の先輩たちは中には身長が二〇〇センチ近くある人もいる。他校に目を配れば、それ以上大きな選手もごろごろいるので、ラグビー選手に限っては珍しくない話だ。
 ただ大きければいいという訳ではないが、あるに越したことはない。ディオは今日も、胃の許容量をオーバーした食事を摂りつつ、練習に余念はない。
 ジョナサンはというと、基本的に「大きければ大きいほどいい」というある種の信念を掲げ、よく食べよく動き、よく眠った。彼にも彼なりのストレスは(主にディオ関連だが)あったが、生来根っこの部分が明るい精神だったので、あたたかい布団に入れば悩みなど思考から消し飛ばせたのだった。そういったところが、彼の身体をより健やか伸び伸びと成長させていく。

 練習着が、一週間で駄目になるような頃。
 ジョナサンは、ようやく気付いた。
 自分の目線がディオより数センチほど高くなっていることに。
 そして、僅かに見下ろすとディオの胴回りの凹凸加減が妙だと思った。
 自分の腰周りを手で計り、そこからディオにあわせるようにして、離れて目で測る。
 比べると随分細いようだ。もしかしたら、自分は太ってしまっているのではないかとジョナサンは不安になった。部の仲間にそれとなく聞いてみると「お前は確かにデカいけど、身長からしたら普通じゃあないのか」との答えが返ってきた。
 ……そうか。そうなのか。ならば、答えはすぐに出た。
「じゃあ……ディオが痩せてるのかな」
 そうジョナサンが呟いたのを聞いた仲間の一人が「スタイルの違いじゃあないのか?」と言ったのだった。すると、ジョナサンより大柄の先輩が頷きながら言った。
「ああ、そうかもな。ジョナサンはフォワード体型でディオはバックス体型と言ったところだからな。ジョジョは、実際パワータイプだし、ディオはスピードタイプだろう? 使う筋肉が違ったり元々の体格や骨格の違いだ」
「そうか……なら……」
 いいんです、と言いかけたときには、もう彼らの話題は別のものになっていた。
 腰が細いから、腿や胸が相対的に太く見えるだけなんだろう。
 ちらと横目で見た尻に関しては、ジョナサンは首を振って記憶から消した。男の尻をじろじろ見ていただなんて! 他人にはおろか、自分にだってそんな事実を知らしめたくはなかった。そして、ジョナサンはすぐに忘れた。

 練習着が一週間でだめになるとは。
 わけは二つだ。
 泥まみれ、汗まみれで、洗ったとしても使い物にならないという意味だった。
 ヒュー・ハドソン校の彼らは、ほとんどが上流階級の出であったので、練習着くらいいくらでも用意が出来るからだ。例えまだ使えたとしても、新しいものに着替える。たった一枚のシャツにすら色々な思惑が飛び交っているものだ。
 もうひとつは、日々成長し続ける彼らの肉体に合わなくなる、という意味がある。
 一週間で駄目になるというのは、少々大げさかもしれないが、あながち嘘ではない。身体に合ったサイズで作られているうえに、激しい活動をするのですぐに破けそうになるし、実際に生地にダメージを負う。メイドか下級生にちまちまと縫い繕ってもらってもいいが、やはり新しいものに変えることが、彼らの正義だろう。
 そして、そんな今日もジョナサンは走っているディオのシャツのおうとつが気になった。
 胸の下に影が出来ている。影はもう夕暮れの色をしている。橙と赤をブレンドしたような濃い色だった。
 影が一段と深まれば、あたりも見えなくなって今日の練習は終わりを迎える時分だ。
 部長の呼び声が後ろから聞こえて、「ああ、今日は早く終わるのだな」とジョナサンは、移ろいでいく陽の形を目に宿しながら思った。

 兄弟だからと言っても、ディオはジョナサンを待ったりはしないので、自分はさっさとシャワーを浴びて着替えて馬車に乗り込んでしまう。それなのに、あまり待たせるとジョナサンはディオに叱られるので、出来うる限りは急いでいる。
 大体、片付けがあったりとか、誰かに話しかけられたりとか、ほんの数秒の積み重ねが、最終的に数分のタイムロスが生じさせるのだった。
 ああ、また今日も同じタイミングでロッカールームに入れなかった。
 ろくにシャワーも浴びずに、ジョナサンは着替えて濡れた髪を揺らしながら走るしかなかったのだった。
 不機嫌に足を組み直すディオが浮かんだ。これでは、また文句を言われてしまうな……。そんなことが日常であり、平和だった。今のところは平穏だったのだ。
 ジョナサンの胸の内も、ディオの『胸』も。



 変化とは、日々起こっているものである。それに対し、注視できているか、そうでないか。
 ジョナサンは後者だ。劇的な変貌があってから、彼は思い返す。勘は鈍いほうだ。
 たとえば、共に暮らす家族とて同じことが言える。

 馬車に乗り込むと、乾ききらぬ髪を後ろに撫で付けて、ジョナサンは垂れる雫を静かに手で払った。
 皮肉めいてディオが「おや、これから夜会かい?」と尋ねるので
「そう。ジョースター邸で晩餐会さ」と答えた。
 慣れたやりとりだった。何がそんなにおかしいのか、大抵ディオは笑うのだった。どうやら彼のお気に入りのフレーズらしい。ジョナサンはちっとも面白くなくて、唇が真っ直ぐになるばかりだった。
 向かいに座っているディオは、腕を組んで揺れる腹を押さえる形にしている。
 しばらくして二人が黙り込むと、車内には馬の足音と車輪音だけが占めた。
 校内や邸内でも常にそばで過ごしていれば、話すことがなくなることくらい多々ある。二人でいるときほど、静寂を感じる。こんな車内では、互いに顔を背け合って景色を眺めるか、ディオは本を片手にして自分の世界に入り込むのだった。話しかける必要性も、隙もあったものではなかった。
 今日は、本を持ち合わせていないようで、ディオは首を真横にして腕を組んだままでいた。
 ジョナサンは、窓の外よりも正面のディオの組んだ腕の間に視線をやっていた。
 ジャケットの皺が、深い。きつく腕を胸の前で組んでいるからか、そこから作り出されている皺が深い。
 一度気になり始めると、ますますジョナサンは目が離せなくなった。シャツの皺、ジャケットの皺。谷、深い一本線。
「……何だ」
 流石にディオもジョナサンの不自然な視線に対して、声をかけてきた。
「あ、いや……」
 『別に』だとか『ぼーっとしてた』とか、いくらでもはぐらかせる逃げ道はあったのだが、素直すぎるのか、はたまた馬鹿正直というか、ジョナサンはぽろっと口から出してしまった。
「ディオ、太った?」
 空気が凍るというのは、実際にあるものだとジョナサンは身をもって知った。
 ディオが、ひく、と頬を痙攣させたのを見て「まずい」と思ったのも、後の祭りだった。
「どこを、どう見て、言ってるんだ……おまえは……ッ」
 怒気を存分に含んだ低音の声が、足元から絡みつくようにジョナサンの身を這い上がって、耳奥にたどり着いた。
「いや、……違う。そうじゃない。えーと、その、なんだろう、影。そうだ! 影が最近、濃くなったなって思って!」
 順序立てて話すという方法を運動場に置いてきてしまったジョナサンは、ただひたすら思いつくかぎりのままに喋り始めるので、余計にディオを苛々とさせた。
「ジョジョォ、何をわけの分からぬことを口走ってやがるんだ!!」
「ディオ、顔ッ! 顔がッ! 怖いよッ!」
 しばらくぶりに出たディオのコックニー訛りと、青筋が立ったこめかみに、ジョナサンは下手な作り笑いで対処するしかなかった。髪が逆立っている。ディオの金髪が怒りの度合いによって猫の尾のように膨らむ。


 美意識において、このディオがジョナサンのような田舎貴族に劣るわけがない! とディオ自身は考えているわけだ。
 無神経に、「太った?」などとジョナサンに言い放たれたディオの腹立たしさ、怒りは計り知れない。
 そんなわけがあるか! これは筋肉だ! と即答出来たのなら、良かったのだったがディオはジョナサンに八つ当たりしている時点で、認めたも同然なのだろう。
 余分な肉、脂肪、……なんて、忌まわしい響きだ。
 だらしのない薄汚れた皮の下に、腐りきったぶよぶよの駄肉を蓄えている男の姿が思い出される。
 身震いがした。あんな醜い生き物と、同じ人間として区別されたくはない。ましてやこの身がそんな男の遺伝子から生まれただなんて吐き気がする。ディオは、全身の毛穴から汚濁した汗が噴出してしまいそうだった。
 ジョナサンは知る由もないのだが、とにかくディオにとって「太った?」というキーワードは禁句中の禁句だった。(ディオでなくとも、人に軽々しく尋ねるものではないが)
 「太った?」は、ちょっとだけ混乱していたジョナサンが、少し言い方を間違えたというのもある。
 正確には、「胸のあたりが、少し異様ではありませんか? 最近、胴囲と胸囲の差があるように感じます。身体全体を見ても、胸部だけが発達しているようで、少し不自然に盛り上がっているように見えます」……とジョナサンは申し上げたかった。かしこまりすぎて、逆に不審がられてしまうだろうが。

 喧嘩をするほどの体力もあまっていなかった。口げんかをするのも阿呆らしく、ディオがジョナサンの襟に掴みかかった所で、丁度邸に着いてしまったのもあり、不完全燃焼のまま二人の言い合いは終わりを迎えた。
 ただ、ふたりに流れる険悪な空気だけは、夕食が終わっても抜けきらず、ジョースター卿に怪訝な顔をされたのだった。
 ジョースター卿はやれやれと食後の茶を口にしながらふたりに向けて言うのだった。
「ジョジョ、ディオ、また喧嘩かね?」
 端からすれば、兄弟の仲を案ずる一言も「また仲違いをしようものならば、分かっているな?」という絶対的主君の警告に繋がるのだった。ジョースター邸の主人は、ジョージであり、ジョナサンとディオの父であり、主人とは王であり、父は家の規則そのものだった。
 余計な心配をかけたくないジョナサンと、あらぬ疑惑を持たれたくないディオはこんなときばかりは結託して、自然と口裏が合わせられる。
「そんなまさか! おとうさん、ぼく達、もうそんな子どもじゃあないんですから!」
 爽やかに笑顔を見せるディオの歯は嫌味なくらいに白かった。それがジョナサンには、非常にわざとらしく映る。
「そうですよ、とうさん! 今日は練習がちょっぴりハードで、ぼく達、疲れてたから表情が暗かったのかなァ!? ね、ディオッ!」
「そうだな、ジョジョ! 疲労でそんな風に見えたのかもしれないな!」
「「ハッハッハッ!」」
「なら、いいんだが……」
 コンビプレーを続けていくうちに、日常会話でも華麗にパスを繋げられるようになっていた二人だった。
 乾いた笑い声は、シャンデリアをおびえるように震えさせていた。


 自室に戻る頃には、ふたりはもう考えるのをやめていた。馬鹿らしくなったからだった。余計な揉め事は御免だ。それが二人の総意だった。万事解決である。
「じゃあ、おやすみ」
「………………」
 ジョナサンが部屋に入っていくディオの背に声をかける。返事はなく、気怠げに片手が上げられて、その振られる脱力した手を見送った。
「あー……浴室に行くのは……面倒だな」
 ジョナサンは、ろくに洗っていなかった自身の体を思い出して、部屋のドアを開けた。
 それぞれの自室には、簡易のバスルームがある。顔を洗ったり、手足を洗ったりする程度のものだ。上階にある浴室に比べたら狭いが、体を洗うだけならここでも構わなかった。湯が出てくるのに、少し時間がかかるのがネックなだけで、上の階までわざわざ行くことを考えると、ジョナサンはこちらで妥協してしまうほうが懸命だと思った。
 シャワーコックをひねると、しばらくは水だ。ぼんやりと待っているうちに湯気が上がってきた。ジョナサンは湯を頭からかぶり、そのまま全身を流して、肌に残っていた汗や汚れを落としていった。
 父の会社が異国から取り寄せたという石鹸を使ってとりあえず頭から足先まで、泡まみれにして、また頭から湯をかぶった。石けんは女性的な香りがした。その所為かいつもより綺麗になった気がしてジョナサンは、髪を拭きながら、ガウンを纏った。

 整えられたベッドの上に倒れこんで、あとは数秒待てば、すぐに朝。そんな快眠生活を送っていたジョナサンにとって、普段ならばあるはずのない違和感がやってきた。
 何か、変だ。
 目を閉じても、睡魔が来ないどころか、最後に見たディオの後姿が瞼の裏に浮かぶ。
 どうしたことだ。一体何故だ。広いベッドの上でジョナサンは一度、深呼吸をして手足を大きく伸ばして、体中を安心させて、気持ちを落ち着かせてみた。
 だが、一向に瞼の裏に焼きついた姿は消えなかった。
「……そういえば、ぼく、ディオにちゃんと謝ってなかったな」
 つい口にしてしまってからは、もう止めどなくジョナサンの後悔の念が自身に圧し掛かってくる。その重さに耐えかねて飛び起きてしまった。
「こんなんじゃだめだ。それこそ、らしくないじゃあないかッ! 紳士らしくない……思い立ったら」
 即、行動だ。ジョナサンは、寝巻きの上に厚手のガウンを着込み、室内用の靴を履いた。
 大股で歩けば、ほんの五歩で隣のディオの部屋だった。意気込んで来てはみたものの、既に休んでいたら? そして鍵をかけていたら? もしくは、謝ったところで火に油を注ぐ結果になったら? ドアノブに手をかけた瞬間に過ぎり始めたあらゆる「もしも」にジョナサンは固まってしまった。
 しかし、ここで迷ってどうする。ええい、ままよ! とジョナサンは扉に体当たりする勢いで戸を開いた。
「ディ……ディオ! さっきは!」
 夜中だということを忘れて、ジョナサンは声を張り上げてしまっていた。薄暗がりの部屋に、はっとして語尾は小さくなっていった。
「さっきは……」
 瞳を瞬かせると、状況が飲み込めてきた。どうやらディオはもう床に着いているようだ。
「お、お騒がせしました……」
 起こしてしまう前に、そっとジョナサンは退却しようとした。つい口調がおかしく、かしこまってしまうのは最近の癖だった。出来るだけディオを穏便にやり過ごそうとなると、まず言い方から変えたらいいのでは? と練りに練った結論だったが、あまり意味は成していないようだ。言い慣れない口調は芝居がかっていて、変なのであった。
「…………ウ」
 扉を閉めようとしたそのときに、苦しみを堪えるディオの小さな吐息が漏れ聞こえた。
 閉じかけた扉を全開にして、ジョナサンは自分の耳を疑いもせずに部屋の奥へと進んだ。
「ディ、オ……?」
 贅沢に造られた装飾過多のベッドの端に、毛布や布団にまるまった人らしき物体が見える。もぞもぞと蠢くそれは、何かを耐えているように、左右に動いた。
「ディオ……? ディオ、だよね……ディオ?」
 布団の隙間に手を入れて、ジョナサンは捲り上げてみた。現れたのは、体を丸め縮めこませて、膝を抱えるディオの姿だった。額には薄っすら汗をかいているのに、肩が震えていた。
「どうしたの」
 偶然あたったディオの首筋に、ジョナサンは驚いて手を引っ込めた。とても熱かった。
「ディオ、君、熱があるのかい? 風邪でもひいてしまったのかな」
 捲くった布団を元に戻してやりながら、ジョナサンは不安げにディオを見下ろした。
「……違うッ」
 黙っていたディオは急に起き上がると同時にジョナサンの腕を振り払い、低く呻いた。
「これは、風邪なんかじゃあ……」
 ベッドサイドに置かれたランプでは、ディオの顔色は赤いようにも白いようにも見え、ジョナサンには判断がつかなかった。仕方なく額に触れ、自分の額にも触れてみたが、多少大目に見積もったところで「微熱」だった。
「でも、息が上がってるじゃあないか」
「こ、これは……」
「変だよ。まさか、何か違う病気とか? 流行病? 医者を呼ぼうか」
「…………くッ」
 ジョナサンは寝台に腰をかけて、下から覗き込むようにしてディオを窺った。
 咄嗟にディオは寝巻きの前を隠すようにして片手で持った。皺のよった寝巻きの影が、ジョナサンに違和感を思い出させた。
「……やっぱり、そこなんだろう?」
 そこ、と指されたのは、ディオが手で覆っている胸部であった。不自然で不可解な、そして不穏の元。
「見せて」
「見るなッ」
 無理やりにしなかっただけ、褒めてもらいたいくらいだとジョナサンはため息をついた。ここで一悶着でも起こせば、もう父親をはぐらかせはしないだろう。しかも、ここはディオの部屋だ。一方的に悪者にされる自分を、ジョナサンはすぐに想像できた。
「……じゃあ、ぼくは見ない。医者を呼んでくるよ」
 言い合いをしても埒が明かないとみて、ジョナサンは簡単に引き下がった。
「呼ぶな」
 しかし、立ち上がりそう提案したジョナサンを、ディオはしおらしくか細い声で止めた。しかも、ジョナサンの寝巻きを手で引きながらだ。
 まるで空想の中にしか居ない小さな弟のような仕草をしたディオは、自身の幼い行動を恥じて、すぐさま寝巻きを摘んでいた指を取ってしまった。だが、ジョナサンはその一連をしかと目撃していた。そして「ちょっとカワイイ」と思ってしまった自分自身に吹き出しそうになったのを、鍛え上げた腹筋を使って我慢した。
 いつもだったら、そんなことをしてくるディオを、恐れるか、疑うか、のどちらかであった。そう思わなかったのは、今のディオは実際苦しんでいるのが事実であるからだろう。本当に困っていると知っているから、素直さにジョナサンは心惹かれてしまったのだ。
「医者に診られるくらいなら、おまえのほうがマシだ」
 観念したのか、諦めたのか、そのどちらでもあるのか、ディオは頑なに閉じていた寝巻きの合わせを開き始めた。釦がひとつ、ふたつ、外されていく。
 胸のあたりの、普段隠されている肌は、きっと誰より白いんだろうな、とジョナサンは無意識に思った。火の小さな明かりの中では、その白さを確認できない。真っ白なシーツですら橙に染まっている。
「……ハア」
 三つ目の釦を外すのをやめ、ディオは気だるげに横になった。僅かに見える生肌には、くっきりと谷間の線があった。
「こ、これは」
 男を誘惑するために女性が奮起して人工的に作るあの線だ。でもディオは、背中から脇から腹から肉を寄せ集めなくても、その魅惑の谷が出来上がっている。
「何なんだい……?」
「何って、見たままだろ」
 ディオは相変わらず、気分が悪そうだ。
「本物?」
 線の上に指を置き、露出した肌に触れてみた。やけに熱くて、しっとりとしている。
「う……ッ」
「えっ、……痛いの?」
 顔を顰めたディオを見逃さなかったジョナサンは、ますます不安になった。これは尋常じゃあない。
「ジョジョォ、おまえ……分からんのか、張ってるんだよ」
「張って……る?」
「そこの机に、医学書がある。折り目のところを読んでみろ」
 肌を晒して、寒くなったのかディオはまた首元まで布団を持ち上げた。
 ディオの言うとおり、分厚い辞書のような本が一冊、机の上に乗っている。折り目の部分が下になって伏せられていて、今し方読んでいたかのようだ。
 そこには、ジョナサンの見知らぬ奇妙な病気について、事務的に書き連ねられていた。

 『少年期から青年期における女性化乳房、及び奇乳についての対処法』

「じょ、女性化……ッ? 君、女の人になってるのかい!?」
「なってないし、ならん」
 焦って振り返ると、ディオは呆れたように答えていた。目線を本に戻して、ジョナサンは細かな字を読み進めていった。
 珍しい症例ではあるものの、治らないものでもなければ、奇病という程でもなく、そこまで深刻にとらえなくてもいいもの、……だそうだ。ジョナサンが知らないだけで、実はディオと同じような症状を抱えている男性は多く居るのだろう。
 そして、奇乳について。
「乳腺が発達し……、いわゆる母乳と呼ばれる乳液が溜まり、胸が張る――……、ってことは、それって」
「……いちいち声に出すな、マヌケがぁ」
 ディオの胸の膨らみの原因がようやく判明し、安心しつつも、やはりジョナサンは戸惑うばかりだった。
「じゃあ……つまり、ここには、その、アレが……詰まってるってことなのかい?」
「そうだよ! だから、参ってるんだ……、ハァ……、ったく、何でおれが」
 ジョナサンが日中見たものは、見間違いでも勘違いでもなかった。おかしな凹凸は、確かにここにあって、存在しているのだ。
「対処法」
 ディオは、静かに言った。ジョナサンは心臓を跳ねさせた。ディオも、あの部分を読んだのだ。そしてジョナサンも、今さっき読み終えた。
「……女にでも頼むか」
「え、ええッ!?」
 思わず、ジョナサンは分厚い医学書を床に落としてしまった。どすん、と重たげな音が立った。
「おい、静かにしろよ」
「あ、いや、すまない」
 本を机の上に戻して、ジョナサンは再びディオのベッド脇に近付いた。そして、横になっているディオの顔を見下ろした。
「そりゃ……こんなこと、医者に頼むのは嫌かもしれないけど……、お、女って、誰に?」
「そういうこと頼める場所にでも行くさ」
「歩けないのに?」
 ジョナサンは見抜いていた。ディオは、起き上がって座っているのも億劫なのだということに。
「……なら、メイドにでもやらせるかな」
 下品に歪ませた唇から、歯が覗く。ジョナサンは眉根を寄せて、荒っぽくベッドに座った。
「そういう冗談、聞いてて不愉快だよ!」
「ジョークなんかじゃあないぜ。誰かしらやってくれるんじゃあないかな」
「ディオッ! 使用人はそんなことをするためにいるんじゃあないんだよ!」
「そういうこと……ね。そういうことって、何のことだい、ジョジョ? 具体的に教えてくれよ。おれは単に、病気を治す手伝いをしてもらいたいってだけなのになあ」
「……ディオッ、今困ってるのは、君自身で、ジョークなんて言ってふざけてる場合じゃあないだろうッ!」
 ジョナサンは気がつけば、寝台に手をつき、囲うようにしてディオを見下ろして叫んでいた。待っていたと言わんばかりに、ディオはジョナサンの手首を掴んだ。
「なら、君がしてくれればいいんじゃあないか」
「……え?」



 ジョナサンは、室内履きを脱いで、ディオの寝台の上であぐらをかいて座っている。ディオに、後ろを向いていろ、と命じられて大人しく待っているのだった。
 ――別にぼくじゃあなくてもいいじゃあないか。何でぼくが、こんなことをしなくちゃあならないんだ。引き返すなら今の内だ。でも……ぼくが断ったら、ディオはメイドの女の子の誰かにあんなことをさせるのか……それとも、本当にそういうお店に行って、女の人に……。いや、そのほうがいいのか……。いや、でもそれは何となく止めさせなくちゃいけないような……もし家族や学校の誰かに見られたりしたら、ぼくの責任もあるのかもしれないし。いや、でも――。
「おい、いいぞ」
「ハイ……」
 許しを得て、ジョナサンはそろそろとディオへ向き直った。そこには、半裸になったディオと、タオルらしきものがいくつか並んでいた。
「やり方は、ちゃんと読んだんだろうな?」
「一応、一通りは」
 医学書には親切にも図解つきで、初心者にも非常に分かりやすく説明させていた。しかし、ジョナサンは未だディオのその箇所を目に入れていない。
「さっさとしようぜ、夜が明けちまう」
「う、うん……」
 される側は、どっしりと構えている。する側は、身を縮めてもじもじとしている。普通は立場が逆ではなかろうか、ジョナサンは思った。
「じゃあ、あの……触るね」
「……ッ」
 ジョナサンは、ディオの胸へと手を触れさせた。
 思っていたより冷たい指に、ディオは肩をぴくりと震わせていた。
「ええと……こうかな」
 片方の手で、膨らみの下部を寄せ上げるようにして支え持つ。利き手の指で、乳首を摘んだ。
「……ツぅっ!」
「ごめん、痛かった? ……痛かったよね?」
「おまえ、加減しろよ……ッ」
「ん……今度は、ちゃんとやるよ」
 ジョナサンは読んだばかりの医学書にあった方法を思い出す。その中に、印象に残る一文があった。
 それは、――乳頭部は敏感である――だ。
「敏感……敏感……」
 顔を近づけながら、ぶつぶつと呟いているジョナサンをやや引き気味にディオは眺めていた。
 一度離した人差し指と中指で、また摘み上げる。今度は、感覚が無いくらいに繊細に行った。それでも指先には柔らかい、ふにりとした感触があった。
「……ッ、ん」
「平気そうかい……?」
「ああ……」
 声が上がる度にジョナサンは息が詰った。傷つけてしまったら、どうしようと恐る恐る指先を動かしていく。
 ほんの僅かに動かしただけでも、ディオは鼻にかかったような、苦しげな声を洩らすので、ジョナサンは気が気でなかった。
 出てくる部分も、よく揉まなければならないが、その前に、溜まっている胸の箇所自体をもよくマッサージしなければならないことに気がついて、ジョナサンは胸の肉を支えている手をゆっくり持ち上げ始めた。
「う……うう」
「苦しい?」
 訊いてみると、ディオは苦しげであるのに首を振っていた。にじみ出ている汗が、雫になっていた。
「これは?」
 下から胸の肉を寄せ上げて、ぐにぐにと指の腹で揉み解してみる。弾力があって、少し硬い。
「うぐ……、ぅ。つ、続けろ……」
「うん……」
 同じ動きを繰り返していると、少しずつではあるが、肉が柔らかくなってきた。肌が温まってきたからだろう。
 ジョナサンは、これならこの中身も出てきてくれるのではないかと思えた。そして、暫く動かしていなかった乳首のほうの指に意識した。
「……くっ」
 触っている方の胸の乳首はぷくっとして、指の腹で転がせるように丸く硬くなっていた。
 ディオはやはり我慢をしているときの表情をして、息も荒かった。何とかしてやりたいと思うものの、ジョナサンには機械的に指や手を動かすだけしか方法がなかった。
 出来るだけ、ジョナサンはディオと目を合わせないようにしていたのだが、相手を思うと何度も顔を確かめたくなってしまう。お人よしと呼ばれる所以は、ジョナサンは何かと人に同情しやすいという点であった。

 未だ混乱の最中にいるジョナサンが、つい顔をあげてディオの目を見てしまったとき、とうとう二人の視線が合ってしまった。そしてジョナサンは今、自分が手にしている肌を直視してしまった。
「…………うわ……」
 女性のものとは違う。けれど、男性の鍛えられた胸部とも違う。男らしく育った筋肉の上に、腫れたように膨らみが出来上がっていて、何だか痛々しい。そして、ジョナサンが指で摘んでいる乳首は、男のものにしては、色味が濃く、大きい。おかげでジョナサンの太い指でも摘みやすかった。
 橙色をした空間に、その胸の白さや、ぽっちりとした膨らみの赤さが浮かび上がっていて、ジョナサンはその気はないのに、頭がくらくらした。ディオなのだと思っても、おかしな気分になりかける。
「ぼく……ちょっと、一旦、休憩していいかな……」
「おい! まだ何もしてないだろ! おれだってもう休みたいんだよ!」
「うん……。ちょっとだけ、ちょっとだけ……頭冷やすだけだから……」
「こら、待てっ」
 ふらふらと立ち上がろうとするジョナサンの腕を引っ張って、ディオは再び寝台に座らせた。ジョナサンは、すぐにディオの胸を見る気にはとてもなれなくて、そのままシーツの上に顔面を沈めこませた。
「……ジョジョ、どうしたんだ。おまえ……まさか、眠いとか言うんじゃあないだろうなっ、そのまま寝るなよ!」
 頭上ではディオが文句を言い続けているが、ジョナサンはそれどころじゃなくなっていた。とにかく、鎮めなければ。精神と、肉体を……。
 眠気の全くの反対だ。
 うっかり興奮してしまったのだ。足の付け根にある、感情のレバーが完全にオンになってしまった。とにかく前かがみになり、尚且つ倒れこむ形の体勢を取り、誤魔化すしかなかった。

「おい、きさまぁ……ッ!」
 怒りが抑えきれなくなったディオは、顔をシーツに埋めているジョナサンの耳を引っ張りあげた。
「イッ! イテテテ……痛いよ、ディオ!」
「目が覚めたかァ、ンン?」
「いや、寝てたんじゃあないってば」
「じゃあ何してたって言うんだッ」
「な、ナニって……その……ぼくは……」
 両手で寝巻きを伸ばして、今度はジョナサンが隠すようにもぞもぞと落ち着かなくなった。
「…………お、おまえ、まさか……」
「ち、違うよ、違う違う! 違う!!」
 ジョナサンの下半身を見て、ディオは頬を引きつらせていく。弁明をしようとして、ジョナサンは両手を振り上げて膝立ちになった。
 しかし、その安易な行動が決定打になってしまった。
「あ……」
 しっかりとした証拠がディオの眼前に現れていた。
「お、おお、おまえ……ジョジョ……おまえ……これは……な、な、何を……お、おれの、体を触って、そんなこと考えて……」
 流石のディオも、この事態には狼狽えるしかないようで、いつもならすらすらと罵声が飛び出てくる唇も戦慄いていた。
「う……うう」
「ま、まあ……仕方ないよな……おれくらい整っていれば、男のおまえだって、その気になっちまうかもしれないよなあ」
 現実逃避の一環なのか、ディオはひとまず自身の見目の優秀さを褒め称え、ジョナサンの体の変化から目をそらすことにした。
「……ち、違うよっ」
「何だと……?」
 ディオは、ジョナサンが自身の容姿を否定したのかと思い、そちらに怒りの矛先を向けた。だが、ジョナサンは、困った風でも、脅える様子でもなく、真摯にディオを捉えていた。
「ぼくは……その」
 手の甲でジョナサンは自分の口元を二、三度拭いた。そして、乾いていた唇を舌で湿らすと、軽やかな動作で鮮やかにディオの唇を奪っていた。
 たった一瞬の出来事だった。
「す、すきだよ……」
「誰が」
 ディオは、唖然として答えた。
「君が」
「誰を……」
 まだディオは現実を受け止めきれていない。
「ぼくが」
「そう……か」
 口先では納得していても、脳内では答えが合致していない。ディオは、目が回りそうになって、背の後ろにあるクッションに体を任せた。
「……ぼくも、驚いてる。だって、さっき気づいたんだ。君が言っただろう。女の人に頼むだとか、メイドにやらせるだとか言っただろう。それに無性に腹が立ったんだ。それで、ぼくは……嫉妬してるって知ったから。それってつまりは……、ぼくは君が好きなんだってことに」
「も……、もういい」
 ずっとジョナサンは、ディオの膝あたりを見て告白をし続けていた。瞳を見続ける勇気もなく、その少し下の露出した胸元を眺めるのも下品だと思ったからだった。
「分かった……とりあえず、分かった。それで」
 ディオは顔を横に向けて、片手で頬を押さえていた。手で覆いきれていない部分が、色づいているようだった。
「この……おれの胸はどうしてくれるんだ」
 肌蹴たままの胸をディオは指して、ジョナサンを睨んだ。
「あ」
 しまった、と言い出しそうな顔をしてジョナサンは口を開けた。
「そんな下心のあるやつには任せられないな……」
「いや、ぼくはそんなつもりは」
 首の裏を掻きながら、ディオは鼻でジョナサンを笑ってやった。
「そんなものおっ勃てながらじゃあ、説得力がないぜ」
「これは……放っておけばいいから!」
「やはり、メイドにしてもらうかな」
「ええ! それは駄目だよ! ぼくが嫌だ!」
「おまえの我侭だろ! うわ、やめろ、抱きつくな!」
 自棄になったジョナサンは、飛びついてディオの体を包み込んでいた。怒られようが、怒鳴られようが構うもんか、という気持ちだった。てっきり、突っぱねられると思いきや、ディオは口先では嫌がってはいるものの、案外そのままジョナサンの胸の中にいるのだった。
「あ、名案がある」
「……聞きたくない」
 明るいジョナサンの声色とは反対にディオはむっつりと答えた。
「そうだよ……ディオもぼくのこと好きになってくれたら、一石二鳥じゃあないか!」
「なるかあ!!」
「……なってよ!」
 さらにぎゅっと胸の中のディオを抱き寄せて、それから、細い顎を持ち上げた。ディオはぎくりと身を固くさせたが遅かった。
「なるものか! ……ンッ、ぐ……ッう」
 すっかりジョナサンは浮かれてしまって、つい先ほどしたばかりの一瞬の可愛らしい口付けとは違った、もっと大胆なキスをお見舞いしたのだった。そして、もう一度、お願いをする。
「……好きになってよ、ディオ」
「ならない……!」

 鼻と鼻をくっつけながら、じゃれあうように言い合うふたりは、どうみたって恋人同士でしかなかった。



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