楽園までもう少し

 ディオがジョースター家に養子になった本当の理由は、卿はディオを後継者にするつもりで引き取った、らしい。本人の口から聞いていないので、確証はない。
 1880年代、イギリスの法には養子制度はまだ無かったが、ディオにジョースターの姓を名乗らせ、世に出させてしまえば、社会は彼をジョースター家の一員だと認めてくれた。顔や髪色、どう見ても実の親子とは思えなくとも問題はない。それほどにジョースターの名の力、もとい卿の権威は強かったのだ。何故そうまでして、血の繋がりも何も無いディオという少年を自分の跡継ぎにさせようとしているのかは、卿の人生の話になる。この話はわざわざ語る必要は無いだろう。
つまり卿にとって、ディオという少年は、自分の一人息子と同じくらいに大切な存在であるということだ。


 雪の多い、とても寒い冬の朝だった。幼かったディオは、一通の手紙を持たされて、ジョースター家の門を叩いた。
 はじめ、乞食の子だと思った召使いは、みすぼらしい身なりの幼子を追い出そうとした。しかし、かじかんだ手に持たれている手紙の封には、見慣れた紋章があった。召使いは、怪しみながらも子どもを卿に会わせたのだった。
 手紙はいつか、命の恩人であったブランドー氏にあてたものであり、卿の書いた手紙のほかに、薄汚れた紙切れが入っていた。文面には卿への日ごろの感謝と、遺書ともとれる内容が書かれていた。そして、目の前にいる子ども、ディオのことをよろしく頼む、と書かれていた。
 ぼさぼさの髪に隠れたやせた顔に、卿は手袋を取った手で触れた。
 冷たくなった頬は、撫でられるとにっこり微笑む。卿は子どもの年を尋ねた。声を出さない子どもは、実に小さな手の指を折って卿に見せた。親指が曲げられている。四つ、と子ども、――ディオは答えた。
「そうか、なら私の息子と同じ年だな、きっといい友達になれる。仲良くしてくれると嬉しいのだが……。」
 出来るかね、と卿は首をかしげて見せた。ディオは、生えかけの歯を見せて笑った。

 湯浴みをさせられて、ディオは服も全て着替えさせられた。ディオは消毒されるように、何もかも洗われて、磨かれた。潔癖のメイドは、本当に消毒薬をかけてやろうとすら思っていただろう。それくらい幼いディオは汚れていたのだった。だが、元々の器量はいい、見た目だけでも立派に着飾ってやれば、王子にも劣らぬ麗しい気品あふれる姿となった。
 邸の三階に、ディオは召使いに連れられて行った。
 長い廊下を歩かされて、ディオはただでさえ疲れていたので、うんざりしていた。大人からしてみれば、何てことの無い距離でも、体の小さな子どもからしてみれば、ジョースター邸は、王様のお城にも、クリスタルパレスにも見えた。それくらい大きく感じていた。
 邸の奥、まるで隠すようにその部屋はあった。扉をノックすると、女の声で、どうぞと返事があった。
 促されて、ディオは先に部屋の中に入った。
 お伽の国、夢の中の世界、それからサーカスとトランプの王国がごちゃ混ぜになった、子どもたちの欲しいものなら、何だって揃っていそうな、子ども部屋だった。色彩は広い部屋の中で自由に舞っていた。
 ほんの少し薄暗いのだけがディオは気になったが、部屋にはあたりを埋め尽くさんばかりに世界中から集めたであろうおもちゃや人形、ぬいぐるみや本がいくつも置かれていた。
「ぼっちゃま、いらっしゃいましたよ。」
 乳母は、読みかけの本を閉じて膝に置くと、寝台の横の椅子に腰掛けたまま、布団の中の主を揺すった。ディオは、ふくらんだ布団の中、もぞもぞと動く人と思わしき物体をよく見た。
「はじめまして、ディオ。ぼくはジョナサン、ジョナサン・ジョースター。みんなはジョジョって呼ぶよ。君はなんて呼んだらいいかな。」
 中から芋虫のようにのっそり起き上がった色の白い、ふくよかな男の子が現れた。
 くせのある青みがかった黒髪を照れくさそうに撫で付けて、そして右手を出してくる。ディオとほとんど年が変わらないであろう子どもは、目を閉じて、屈託無く笑ってみせた。
「はじめまして、ジョジョ。ぼくは……ディオでいいよ。」
 不思議に思いながらも、ディオは差し出された右手を握ってやった。
「わ、本当に、同じくらいだ! 声も、ぼくみたいに高いんだ。わあ、手も、ぼくと同じ大きさだ! 君は本当に本物の子どもなんだね。」
 変なことを言うやつだな、子どもなんだから声も高いし、手だって普通だろ、とディオは不審がってジョナサンをじろじろ見回したが、そっと乳母が握手した二人の手を外したので、ディオは一歩後ろに下げられた。
「ジョジョぼっちゃま、あまり長く握ってはいけませんよ。」
「ごめんなさい、だってね、初めてだったから、つい。」
 乳母の方を見たジョナサンは、顔を向けても視線を合わせはしなかった。そもそも視線が無い。目を開けないからだ。
 ディオは、どうしてと聞こうとしたが、その質問の前にジョナサンは自ら言った。
「ぼくはね、目が見えないんだ。だから君はぼくが初めて会う子どもなんだよ、声もそう、初めて聞いた。ぼく以外の子どもが本当にこの世にいるんだってやっと分かった。すごく嬉しいな! ねぇディオ、君の他にもぼくと同じくらいの子どもっているのかい、何人? 何十人?」
「ぼく達くらいの年の子なんて、もっといるよ、何百人だって、何千人だって。」
「ええ、本当? すごい、すごい! 夢みたいだ!」
 無邪気な笑顔でジョナサンはベッドの中で跳ねていた。乳母が、体を心配そうに押さえると、少し咳き込んだジョナサンの背をさすった。
「あまり大きなお声を出してはいけませんとお医者様にも言われましたでしょう? ディオさまも、ごめんなさい、あまりぼっちゃまを興奮させないで下さいね。」
 知らなかったんだ、とディオはむっつり黙って、小さく頭を下げた。正確には連れ立っていた召使いの男に下げさせられたのだ。
「ディオ、じゃあまたね。」
 ジョナサンは手を振っていた。見えていないのに、その方は真っ直ぐディオに向かっていて、手を振り返そうとして、見えないのなら無意味だとディオは思ってやめた。

 ジョナサンの暮らしは、軟禁も同然だった。
 彼は、生まれてから一度も邸の外は勿論、自由に邸の中すら出歩いたことが無いと言っていた。
「そんなんじゃ足だって腐っちまう。」
 出会ってから7年が経っていた。ジョナサンとディオは10歳になる頃だった。
 最初は、ディオは何も分からなかったし、無知な子どもであったので、周りの大人が正しいものだと疑わずに生きて、この邸のルールに従って過ごしてきた。成長と共に、外の学校に通ったり、家庭教師などから別の世界を学んだりして、知恵と知識を身につけていけば、だんだんとこの家の方針がおかしいのだと気づき始めていた。ジョナサンが、どう思っているかはディオには分かりかねたが、鳥かごの鳥が空を知らないことをとても不幸だと決め付けていた。
「腐らないよ、見るかい?」
「そうじゃあないよ、たとえだろ、それくらい分かれよ、阿呆。別に君は目が見えないってだけで、足も手も、体は健康じゃあないか、ここの連中は過保護すぎるね。」
 コックニー訛りの強い、家庭教師から言わせれば「大変お下品」な口調でディオはジョナサンをまくし立てた。
「……だけど、」
「大人の言いなりになんてなるやつは、つまらない人間さ。」
 ディオはふざけてペンをパイプに見立てて、ふうと煙を吐く真似をした。
「でも……」
「行くのか、行かないのか?」
「……行く!」
 二人の体格は、そっくりだった。靴もサイズもぴったりだったので、ディオは何足もある革靴から、よく馴染んだ履きやすいものをジョナサンに貸してやった。外出用の靴ならジョナサンも何足か持っていたが、それらは殆ど新品であり、使った形跡が残ればすぐに他のものに知れてしまう。ディオはそれを恐れて、ジョナサンに靴と服を貸してやったのだ。
 冒険と言うには、あまりに規模は小さかったが、ジョナサンにとっては初めての外出であり、それは未知の旅だった。
 街へ行ってみないか、とディオは学校に通い始めた頃にジョナサンを何度も誘った。馬車に乗って行くほど、邸からは街まで距離がある。歩いて行けないことも無いが、途方も無い道のりだ。子どもの足なら半日以上はかかるだろう。
 街の中にディオの通う学校がある、そこには同じ年の子どもや、年上も年下も、それに女の子だって居るのだそうだ。女の子が学校に通うのも、そう珍しくはなくなってきたらしい。貴族の間では、今は女性も学ぶ時代だという派と、女性には余計な知識は不必要だという派に別れている。
 目が見えなくても、空気や音、匂いや、肌にふれる風、なにもかもが、こことは違うはずだ。邸の、部屋の中だけの、ちっぽけなジョナサンの世界を広めてやりたかった。
 それは、ジョナサンがディオに望んだことでは無かったが、ディオは大人の言いなりで、箱に入れられたおぼっちゃんのジョナサンに教えてやりたかった。この自分の手で、自分が彼を広い世界に連れ出してやりたかった。
 勝手で、押し付けがましい、願いだった。

 夜中、召使たちが遅い夕食をとりはじめる頃、邸内の人が少なくなる時間を狙って、二人は裏口から外へ出ることに成功した。都合のいいことに、ジョースター卿は、出張でいない。こんなチャンスを逃すわけにいかなかった。
 通りに出ると、辻馬車を捕まえて、街へ向かった。ディオも付き添いなしで、子どもだけで出かけるのは許されていなかったので、内心は緊張していた。
「ディオ、……どうかした?」
「ん……、薄着で来たからかな、寒いだけさ。」
 握った手がかすかに震えていた。ジョナサンは、人の感情に敏感な子どもだった。見えない代わりに、察する力が人よりも強かった。特に心が通いやすい、年の近いディオの心情の変化には聡かった。ディオも、ジョナサンの思うことは、よく分かっているつもりだった。誰よりもそばにいて、よく話し、よく聞き、理解し、理解し合えているつもりだった。だから、ここで、不安がってはいけないのも知っていた。ディオは自分がジョナサンにとって頼りがいのある、兄貴分でいたかった。ジョナサンには、自分がついていなければいけない。じゃなきゃこいつは何も出来ないんだから。自分の存在価値を、相手に認められることで見出していた。

 街へ降り立った時には、すでに遅かった。
 子どもの考えなど、所詮稚拙であるということが証明され、ディオは大層悔しがる羽目になった。

「やあ、ジョジョぼっちゃん、それにディオくん。こんな所で何をしているのかな?」
「その声は、警部さんだね!」
 瞬間、ディオは、やられた、と思って、奥歯で苦虫を噛んだ。
 にこにこと人の良さそうな笑みを絶やさず、帽子を脱いだ男、――ジョナサンが『警部』と呼んだ男は、私服であったが紛れもなくヤードの人間だった。
 始めから、見張られていたのをディオは悟った。
「こんばんは、ぼく達は……学校に用があるだけです。それじゃあ。」
 ディオはジョナサンの手を取って反対方向へ歩き出そうとした。
「子どもだけで、こんな時間に学校へ行くのかい? それはいけないな、君たちだけじゃあ危ないよ。おじさんも一緒に行こうか。」
「結構です!」
 ディオは警部の申し出をきっぱりと断った。
「そういうわけにもいかない」
 警部はやはりにこにことした笑顔を顔面に貼り付けたまま、身を屈めて、ディオの耳元に手をあてて言った。ディオの身は警戒心で強張った。思わず、繋いだ手の力を強めてしまう。
「……ディオくん、分かっているね、この子はジョースター家の一人息子さんなんだよ、何かあってはいけない子なんだ、分かっていない、知らないとは言わせないよ。」
「……、誰に言われて来た。」
 子どもらしからぬ低い声でディオは警部を鋭く見据えた。
「君たちのお父様さ……、さあ! 冒険ゴッコはおしまいだよ、邸まで送ろう。」
 ディオは、警部の目を睨み続けていた。それでも、警部は朗らかに笑っているので、ディオはなめられた気分になってむしゃくしゃした。さあ、と言い、手を打つと、ジョナサンが音にびっくりして肩を上げた。
「えっ、学校は?」
 間の抜けた調子の声で、ジョナサンは警部の声がする方向に顔を上げて聞く。
「学校は昼間にくるといいよ、勿論ジョースター卿と一緒にね、今はもう遅い時間だ、こんな時間は学校には先生もいないんだよ。」
「そうなんですか、……あ、……ディオ」
 握った手を、ジョナサンは二、三度揉んで、合図する。きゅっと力の入った温かい手が、ディオの意識をジョナサンへ戻した。何か伝えたい時、感じた時、二人は、繋いだ手で合図して、確かめ合う。この時、ジョナサンは、ディオに「大丈夫?」と聞いていた。ディオにそれは伝わった。
「……分かりました、帰ります。」
「馬車なら向かいに待たせている、あれに乗って帰ろう。私もお供させて貰うよ。きちんと送り届ける約束だったからね。」
 どこから、見張られていたんだ。最初から……?
 違った。監視は今日に始まった話ではなかったのだ。ディオが学校に通う前から、ジョースターの子ら、無論、ディオもだが、彼らは厳重に守られている存在だった。勝手な振る舞いは許されない。箱の中には、ディオも入れられていたのだった。
 気づいた時には遅かった。箱は、子どもの力では到底壊せない、頑丈な鉄で作られて、幾重にも鎖が巻かれて、そして鍵がかけられていた。鎖や鍵には、ジョースターの名前がひとつひとつに刻まれている。
 ディオは箱の前で呆然とした。いくら引きちぎろうとしても、自分の手だけでは、鉄の鎖はびくともしないのだった。
 ジョナサンの目には見えていないので、結局、箱の中でも外でも、彼は変わりなく目を閉じて笑うのだった。
 後日、差し出がましい真似を、と言っている乳母の台詞が、自分に向けられた悪口だったのだと、大人になった現在のディオは知るのだった。


 それでも、ディオは懲りたりしなかった。事ある毎に、ジョナサンを邸の外へ勝手に連れ出そうとしては、警部や、召使いや、卿の会社の部下、お屋敷抱えの教師ら……その他諸々の大人達に発見され、その度にこっぴどく叱られていた。いつしか、出て行くことを目的とはせず、ディオは大人たちとの鬼ごっこに楽しむようになった。ジョナサンは、どちらでも良かった。ディオと居れば、何でも本当に楽しかったから。普段はかしこまった大人達が大騒ぎする声も、ディオの心からの大きな笑い声も、今までにないくらいの全速力で道を駆け抜けたことも、冬の風の強さも、夏の緑の匂いも、全てがいつも新鮮だった。どれもが初めて出会う世界の出来事だった。
 ディオは、「ぼくが君に見せたいのはそういうのだけじゃあないんだよ、もっと沢山あるんだから」と不服そうだったが、ジョナサンの日々は満ち足りていた。
 本で聞き、空想しただけの世界が、ジョナサンの全身にぶつかってくるのだ。騒がしい街並みの音が、ガス灯の匂いが、靴から伝わってくる土の柔らかさ、膝にふれる草木のくすぐったさ、ディオはジョナサンに、聞いた音が何かを、ふれたものが何かを、必ず教えてくれた。世の中全部を知り尽くしていると言わんばかりの口ぶりに、ジョナサンは純粋に尊敬した。何を尋ねても、ディオは答えてくれた。たとえ、もし間違っていたとしてもいいのだ。ジョナサンの中では、ディオの世界が、ジョナサンの世界でもあったからだ。


 13歳になる前、ディオは自らジョースター卿に申し出た。寄宿学校には通いたくない、と。
「何故かね?」
「ここから離れて暮らしたくないんです。」
「わたしも、わたしの父も、みんなあの学校に通ったものだ、ジョースター家の男子はずっと世話になっている。君にも是非そこで学んでほしいと思っているのだが……」
「学校に不満はありません、むしろぼくは学ばせて貰えることに感謝しています……けど、」
「……意地の悪い聞き方をしてしまったな……、分かっている。ジョジョだろう?」
「……はい」
「寮に住むことになるからな……、」
「…………ぼくは」
 寄宿学校を出て、大学に進んでも、やはり寮暮らしだ。合わせれば、その年月は約10年だ。一度学校に入学すれば、家にはなかなか帰る機会がない。きっと充実した生活が送れるだろう。学校への憧れ、魅力もあった。だけど、ディオはきっと後悔すると分かりきっていたのだ。
「わたしとしても、君たちを離したくは無いんだ。」
 俯いていた顔を上げて、ディオはジョースター卿のタバコの煙を目をやる。薄灰色した靄が、卿の顔を見えづらくしている。
 ふう、と息と共に煙を吐き出すと、卿は灰皿にタバコを置いた。
「わたしから頼んでみよう、……かわいい息子達のためだ。」
「……ジョースター卿……。」
 卿は、ペンを取り、真新しい便箋を一枚引き出しから取り出した。
 そして、ディオに向かって首を振った。
「『ジョースター卿』では無いよ、ディオ。君は今日から、わたしのことは『おとうさん』と呼ぶように、……いいね。」
「はい、……おとうさん。」
「そう、いい子だ。」
 思い返せば、もうこの頃にはジョースター卿はディオを後継者にしようと決めていたのかもしれない。
 ディオに自分のことを父と呼ばせるのも、ディオ自身にジョースターの姓を名乗らせ始めたのも、この年の時だった。


 大学入学前の社交の季節だった。
 学校の休みを使って、ディオはジョースター卿と共に、初めて親子として公の場に出ることとなった。

「ジョジョ、入るよ。」
 ジョナサンは元々生まれつきの体格が良かったが、成長期には、驚くべきスピードで更に背を伸ばし、異様なまでに身を厚くさせた。まんまるだった顔はすっきりとしつつ、精悍な顔立ちになった。
 好き嫌いなくよく食べ、よく眠り、ディオに連れられて愛犬のダニーの散歩と称して敷地を走り回ったおかげか、大きな怪我もなく、体そのものは全くの健康だった。
 どこに出しても恥ずかしくない、立派すぎるほどの青年になっていた。
「ディオ」
「君……またか。」
 それに、目が見えないジョナサンは退屈になると、よく室内で出来る運動をした。無心で取り掛かれる筋肉トレーニングは、ジョナサンの体と心を鍛えてくれた。心の中で数を数えるうちに、精神が統一されていく感覚になるのだとジョナサンは言った。
 今は、上腕を鍛える運動を、片手で行って汗を流していた。
「それ以上筋肉をつけてどうするんだ、またシャツをやぶいてメイドを泣かせるつもりか。」
「ははっ、そんな、たかが2枚じゃあないか。」
「シャツが3枚、ベストは1着、ジャケットは1着、両脇をやぶいた。」
「よく覚えてるね……。」
「ついでに、ジャケットの時はズボンの尻もやぶけていたな。」
「あはは、全然気が付かなかったよ。」
「君はいいかもしれないが、周りのメイドに悪いと思えよ。」
 ディオは、長椅子に浅く腰をかけて、足を組んだ。耳のいいジョナサンはディオの靴音や些細な動きの変化の音を感じ取って、ディオがどこに居て、どんなことをしているのか頭の中で描く。それと声の調子で表情を読み、感情を知った。
「……新しいコロンだ。」
 部屋の扉が開けられた時から、ジョナサンは香りに気づいていた。
 それが、ディオのものであるのかどうか、今分かった。
「ああ、……今晩、ある伯爵サマの晩餐会とやらに呼ばれてね……」
 ジョナサンと二人きりになれば、ディオは昔と変わらないコックニー訛りの喋りで話した。ジョナサンにとって、一番ディオらしい話し方だと思った。
「全く、面倒だよ、社交界ってのはさ! マナーマナーマナー……! エスコートに、ダンスに、……」
「疲れる?」
「ああ、……、嫌になるよ。」
 ぼくの代わりに、とジョナサンは心の中で思って、すぐに打ち消した。
 十何年と過ごしてきた自分の部屋では、ジョナサンはステッキが無くても、自由に動き回れた。立ち上がり、長椅子に向かう。ディオはジョナサンが座るためのスペースを作って、椅子の端に身を寄せたと、ジョナサンは気配で察する。
「もう、出かけるのかい?」
 ジョナサンはディオの隣に深く腰掛けた。顔が見えなくても、見ることが出来なくても、話す時は、声の方に顔を向けた。
「いや……、あと一時間くらいはある。」
 ディオは、懐の時計を見て言う。パチンと、金属がぶつかる音で、ジョナサンは懐中時計の蓋が閉められたのだと知る。
「いい香りだ、君によく似合ってる。」
 華やかであるが、派手すぎず、それでいて存在を主張する、ディオの性格を表した香りだとジョナサンは、パフューマーを褒めてやりたくなった。
「そうか、地味じゃあないか?」
「ううん、ディオにぴったりだ、今夜の君は素敵だよ。」
「……ふん」
 真っ直ぐな賛辞を、ディオは素直に受け取ってくれないが、ジョナサンには、それはディオが照れているのだと伝わっていた。声の甘さや、顔を背けたと思われる動きが、見えなくても分かる。人の動作は分からないが、ディオの動作ならジョナサンには分かった。こんな動きなら怒っているだとか、ああいう風に顔を向けたら照れている、とか、長い年月の中、ずっと近くに居て、ディオの喜怒哀楽を言葉や動きや声で、自然と学んでいったからだ。他の人間にも共通して言えることもあったが、定かではない。ディオのことだったら、いくらでもうまく答えられる自信があった。

 こうして居られるのも、あとどれくらいなんだろう。二人は、同じ疑問を抱えている。
 今のこの時間も、そして、これから年を重ねて立場が変われば、――タイムリミットは迫ってきている。
 少年時代は幕を下ろしかけている。
 現実を忘れて、この子ども部屋にずっと居られたらいいとさえ、ディオは逃げるように考えることもあった。
 いつか、無理やり押し込められたこの鉄の箱から出て、鎖を解いて、外へ出よう。その時、ジョナサンも一緒に行くんだ。幼かった少年は、窮屈な鉄の箱から早く出たかった。
 なのに、年を重ねて、大人に近づけば近づくほど、鉄の箱は自動的に戸を開けて、今度はジョースターと書かれている鎖をディオの身に絡めたまま、箱の外へ追い出そうとするのだ。時は無情だった。
 ディオは箱の中で座っているジョナサンに手を伸ばすけれど、伸ばした手をジョナサンは見ることは出来ない。彼は、静かに座っている。

「ディオ……出かける前に、ひとつ、ぼくの頼みを聞いてくれないか?」
 意外だった。今まで、頼みなど言われたことが無かったからだ。ディオは、妙な間のあとに、なんだ、と聞き返した。
「ずっと、君を頭の中で考えてた。声の感じ、君の背丈、手や、体、……、ぼくの中では、想像のディオがいるんだよ。」
「へえ、そいつはちゃんとハンサムに考えてくれているかい?」
 ふざけてディオは言ったが、ジョナサンはそこなんだ、とディオに迫った。鼻息がかかるほど顔が近づいた。
「君の顔が分からないんだ。」
 無意識にジョナサンは手をディオの方へ伸ばす。ジョナサンの迷いのない手が、ディオの顔に近寄る。本当は見えているのではないかと思わされるくらい、真っ直ぐな手だ。
「ディオ……君の顔が知りたい……。」
「ジョジョ……」
 ジョナサンの切り揃えられた爪は整ったきれいな形をしていて、掌は同じ男から見ても大きく見えた。ゆっくり動いた両手が、ディオの頬に辿り着く。
「触ってもいいかい?」
「もう、君はぼくの顔にふれているよ。」
 少し笑ったディオの頬が、喋るとわずかに動いて直接ジョナサンの皮膚に振動を伝えた。

 ディオは自分が壊れ物になったような気分で、瞳を閉じた。ジョナサンの手の中に包まれていると、今までないくらい気持ちが穏やかになった。
 両手が頬をしっかり抱き、ゆっくりと輪郭をなぞっていく。擽ったさで、ディオが身じろぐとジョナサンは動きを止める。じっとすれば、またジョナサンは指や手で、ディオの肌を確かめるように、触れていった。
 親指や鼻筋を通り、頬の盛り上がりを通り抜ける。
「笑ってみて」
 言われて、口角をあげてみる。頬の肉も一緒に上がって、ジョナサンは自分の顔とディオの顔を触ってその違いを何度も指に教え込んだ。
 閉じた瞼の上を指が触れる。睫の先を触られるとディオは声を上げそうになった。
 眉間と、眉を人差し指と中指がなぞる。
「あ、ここ、皺がよるね」
 ディオは怒った表情をしてみせたり、眉を上げ下げしてみせたりした。面白がってジョナサンはよく動くディオの目元の変化を楽しんだ。
 前髪は後ろに流してセットされていたので、額が出ていた。滑らかな肌を指の腹で摩って、ジョナサンは生え際からこめかみまでを測った。背の高さと比べるとディオの顔は小さいのかもしれないな、とジョナサンは自分しか比較出来なかったが、その大きさを想像した。
 指先が、ゆっくり、耳の前を通り、顎の骨を通り、親指は柔らかな唇に触れた。
 かすかに開いた唇は、しっとりして濡れた感触がしていた。
「ジョジョ……」
 ふいに名前を呼ばれて、指から感じる吐息と、唇の動きで、声と顔の形がジョナサンの頭の中で一致した。
 右手の親指が、厚みのあるディオの唇を何度も往復させて動く。
 親指が離れると、今度は人差し指がディオの上唇に触れて、唇の形を描いた。
 いつまでも、同じ動きで唇に触れている指が、急にディオは憎らしくなって、前歯で爪の先を齧ってやった。
 ジョナサンは驚き、指を引っ込めたが、ディオは、離れた手を取った。両手とも握ってやった。
 言葉はなく、ディオは手を二、三度揉んだ。
 ジョナサンは、応えて手を握り返した。
 ディオは、そっと顔を近づけて、ジョナサンの顔がぼやけるあたりで目を閉じる。
 唇と唇が重なり、二人は呼吸を止めた。
 手が強く握り返され、ディオは、一度顔を離す。一瞬さえ惜しむように、ジョナサンはディオの背を抱きしめると、再び唇を合わせた。乱暴に割り開かれた唇の間に、舌が入り、ディオは侵入してきたそれを吸った。
 手の合図と同じで、触れ合った所から二人の動きはお互いの思いを伝え合った。
 唇で食めば、もっと強く深く身を抱いて、側にいたいと言い合った。
 舌が絡まると、互いの肌に触れて、胸の中で名を呼び合った。
 目を閉じてディオは、ただジョナサンだけを感じた。

 残された時間を二人は、互いだけの世界で、言葉のない会話をし続けた。

「なあ、ジョジョ……。」
 唇を離したがらないジョナサンの襟足を引いて、ディオは声をかけた。百年ぶりに口きくような、掠れた声だ。
「……なに?」
 肌を密着させたがって、ジョナサンは鼻先でキスをする。猫の挨拶みたいに軽く鼻と鼻があたる。
「目を開けてみろよ」
 決して瞼があけられないわけではない、あまり光を入れない方がいいと医者が言ったので、ジョナサンは昔から目を開けてはいけないと親や乳母に口うるさく言われてきた。そうして生きていくうちに、瞼の開け方も忘れてしまった。どうせ、見えないのだ。開けた所で何の意味もない……。
「どうして……?」
「いいから、……」
 ディオは額をあわせて、ジョナサンの長くて黒い睫に触れた。震えた瞼の皮膚がおずおずと開かれていく。
「何が見える?」
 おかしい人だとジョナサンは自嘲気味に笑おうとしたが、ディオが尋ねる意味が分かって、何度か瞬きをした。
「君が見える。」
 ジョナサンの瞳は、じっとしてディオの顔を青い目に宿していた。そっとディオの頬にジョナサンの手が添えられる。
「そうだ、今君の目の前にはぼくしかいない……。君の目には、ぼくだけがいるんだ。」
 ディオを見つめる青い瞳は惑わずにいる。澄んだ深い色は、きらきらとしていた。
「君の目は瑠璃色だな。」
「瑠璃色?」
「宝石の名前、青い宝石……、青は空の色、海の色……」
 色のことはジョナサンには、どんな言葉で言い尽くしても、難しい問題だとディオは思った。空の澄んだ清清しい空気を、海の潮風の匂いを、ディオはジョナサンに伝える。
「それが君の瞳の色……」
 目を閉じて、ジョナサンは空想する。ディオのこと、空のこと、海のこと、瑠璃色のこと、自分自身の姿。
 青い世界の中、ジョナサンの体を涼しい風が撫でていく。ディオの声が心地よく耳に届いている。



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