線上宇宙

 十三歳の秋に広い庭を駆け回ってダニーと遊んでいたジョナサンは、盛大に転んでしまいました。
 足首をひねって、芝生に額を打ち付けてしまったのです。
 額の傷は浅く、大したものではありませんでした。ジョナサンは回復の早い子どもでしたから、額の傷は痕にはなりませんでした。けれど、左の足首には十七歳になった今も、くっきりと痣が残っているのでした。
 お医者様が言うには、「痛みが無ければ心配は無い」のだそうです。
 ジョナサンの父様は、一人息子をとても可愛がって大事にしていたものですから、なんとかしてその痣を消してやりたいと頭を悩ませていました。ですが、親の心配などどこ吹く風。ジョナサン本人は、あまり気にしていませんでした。
「女の子じゃああるまいし、別にどうってことないよ」
 明るい笑顔の少年は、とうに父親の上背をこえておりました。立派に育ったたくましい体のそこかしこにはには、父様の知らない傷もあるのです。
 けれど、時折ジョナサンは裸足になり、左足首の痣を眺めるのでした。
 痣は年々濃くなっているように感じました。恐ろしくはありません。ただ、不思議に赤いその痣をジョナサンは、何かに憑か付かれたように彼らしくない目つきで、ぼうっとして見つめるのでした。


 ジョースター家は当主であられる、ジョージ・ジョースター卿と、その一人息子であるジョナサン、そして居候のディオという少年が住んでおりました。
 ジョージは、ディオに自分の息子と同じほどの愛情を注ぎ、家族として接しておりました。
 ジョナサンは、ディオを兄弟のように、そして友人のように接し、彼を父と同じくらいに愛しておりました。
 ディオはふたりのことをどう思っているのか……その心の内は誰にも明かされておりませんでした。
 ディオはジョージやジョナサンがディオに対して真っ直ぐ愛情を向けるのを、どこか余所見をして、居心地の悪そうな顔つきをするのです。
 世界の優しさと誠実さを信じている親子の二人は、いつも微笑んで曇りない瞳を輝かせています。
 ディオにとって、彼らは眩しく、歪んだ精神にはどこか胡散臭く見えるものでありました。
 二人の温かな心遣いは、時にディオにとって煩わしく、時にその真っ直ぐさに打ちのめされる気分になるのでした。
 誰がどう見ても、二人は「良い」人間でしたから、悪いことをしてきた人間からすれば、その違い、自身の汚さをまざまざと見せ付けられている……と感じてしまうものでした。
「ディオ」
 名前を呼ばれることが、ディオは好きではありません。名前を呼ばれるときは、叱られる時か、怒られる時か、何か面倒な用を頼まれる時、そんな記憶ばかりでしたから。
「今日は天気がいいねえ、ずっとこんな陽気ならいいのに」
 天気の話などディオは好きではありません。ずっと下を向いて生きてきたものですから、空なんて見上げたことはなかったのです。のん気に天気のことなど考える余裕もありませんでした。きっとジョナサンには分かりません。明日、生きることすら困難などとは。
「前にさ、そこ――庭の芝生で転んだっけ。ダニーとかけっこしてたんだ」
 二階にあるテラスの椅子に二人は向かいあって座っていました。午後のお茶の時間になると、ジョナサンはきまってここへディオを誘って、アフタヌーンティーをするのです。断る理由のないディオにとって、いつかジョナサンがこの日課に飽きてくれるのを待つばかりでした。
 昔話もディオは好きではありません。過去など、顧みる必要がないからです。過ぎた出来事ほど興味のないことはありません。ディオは読みかけの詩集に目を戻して、適当な相槌をうちました。
「おでこの傷は治ったけど、足の痣は消えないんだ」
 ジョナサンは、ディオに見せようと、ズボンのすそをあげました。
「ほら、見て。ディオ、これ。ねえディオったら」
 鬱陶しいジョナサンの呼びかけは、しつこく何度も名を呼ぶものですから、渋々とディオは本を閉じてテーブルの上に置きました。
「ね、すごいだろ」
 テーブルに頬杖をついて、ディオはジョナサンの左の足首を見てやりました。
 赤い痣が、ジョナサンの足首全体に広がっています。まるで足枷だと、ディオは思いました。
「痛むのか?」
 ディオが口を開いてくれたことに、見るからに喜びを瞳に映したジョナサンは、ぱっと顔をあげると、にこにこと頬を綻ばせました。
「いいや、今はなんともないよ。ふふっ」
「……何を笑う」
「嬉しいからさ!」
 眉間に深い皺を作ったディオは、口を曲げて黙りこくります。そんな様子を見ると、ジョナサンは益々笑みがこぼれるのでした。
「今の会話のどこに嬉しくなる発言があったんだ。……君って、変わってるって言われるだろう?」
「変わってるかどうかは分からないけど、ぼくはディオが心配してくれたのが嬉しいだけだよ」
「してない」
「痛い? って聞いてくれたじゃあないか」
「単なる疑問だ」
 素っ気無くディオは再び詩集を開くと、顔の前に本を広げてジョナサンの視線をシャットアウトしました。
 ジョナサンはディオの照れ隠しを可愛く思って、また頬を緩ませました。笑みは零れっぱなしでした。
「本当、……いい天気だね」
 ジョナサンはカップの温かなお茶を飲みながら、幸福そうにため息をつきました。
 言葉につられて、ディオは空を仰ぎました。新緑の映える薄い水色をした高い空には、小さな鳥たちが羽ばたいておりました。
 ロンドンの喧騒からは遠く、邸は森の穏やかな空気の中にありました。


 晩に、ジョナサンはやはり自分の左足を見るのでした。寝る前に必ず、ベッドの上に座り、素足をシーツの上に放り出して、ぼんやり痣を眺めるのでした。何時の頃からか、その一連の行いはジョナサンの日課になっていました。
 輪の形をした赤い痣は見事な赤色をしております。芸術的な美すら感じられました。
 そっと指先でなぞってみます。痛みは微塵もありません。
「……ん?」
 目の前が少しぼやけて、ジョナサンは目をこすりました。
 突然、半覚醒の時のぼうっとした視界が訪れたのです。ジョナサンは頭を振ってみたり、もう一度目元を擦ってみたりして、もう一度自分の視界を確かめました。
 滲んでいた世界が、ふっと元に戻って、目に見えるものがよりクリアーになっていました。絨毯の模様も、シーツのしわも、壁にある絵画の色も、どれもがジョナサンの目にはハッキリ見えていました。
 今までと何が違うのか、どう説明したらよいのかジョナサンには難しいことでしたが、今まで自分の目に見えていたものは何もかもが霞んでいたのではないかと、思われるほど鮮明でした。
 色鮮やかで、世界はとても小さく細かなもので出来ていて、全てが計算し尽くされている。そう、ジョナサンは感じておりました。
「なんだろう、こんなものあったっけ」
 左足の痣に、小さな糸くずがついています。
 取ろうとして糸を指先でつまむと、それはするすると伸びてしまいました。
 毛糸玉を落として、転がっていってしまうように、糸は床の上をころころと流れて進んでいきました。
「えっ? あ……っ!」
 ジョナサンは、思わず立ち上がっていました。胸がざわつきます。追いかけていかなければ、と思いました。
 何故なのか、どうしてなのかは、うまく言えませんけれども、見失ってはいけない「何か」だと心は感知したのです。

 糸らしきものは、布にインクの染みが広がっていくスピードで、廊下を進みます。追いついたジョナサンは、そのすぐ後ろをついて歩きました。
 邸の中でも普段なら靴を履いているのに、ジョナサンは素足のままで歩いていました。靴を履く手間すら惜しかったのです。一瞬でも目を離してはいけないと、やはり何故か強く思ったからでした。
 糸は、ジョナサンの痣と同じ赤い色をしていました。新鮮で健康な血色をしています。
「一体どこへいくんだろう……?」
 廊下を進み、階段を下ります。一階では、見回りのフットマンがちょうど使用人棟へ帰っていく後姿が見えました。ジョナサンは、彼に見つからずにすんだことを、ほっとして胸を撫で下ろしました。
 夜中に裸足で、邸を目的もなくうろうろしていたのだと知られては「夢遊病」なのではないかと疑われて、また要らぬ心配を父にかけてしまうからです。ジョナサンとて、過保護な父親に迷惑はかけたくないのです。
 糸は邸中をうろうろと何かを探すように流れました。生き物のように意識をもってクネクネと糸は彷徨い続けて、やがてある場所に辿り着くのでした。
 ドアの前に着いた糸はするすると扉の下をくぐっていきました。
「なんだ、元に戻ってきたんじゃあ、……」
 ジョナサンは自室に帰ってきたと思ってドアノブを手にして、はっと気がつきました。ここはディオの部屋のドアでした。ジョナサンの部屋は隣です。全く同じ形の戸でありましたらから、間違えるのも仕方ありません。
 ジョナサンは躊躇いました。こんな夜遅くにいきなり訪ねるのはマナー違反だと思うからです。しかし、ジョナサンの目に見えている糸は、今も流れに流れて動き続けているようです。もしもこれをディオが目撃したら、さぞ驚くでしょう。
「きっと、ディオなら……」
 とりあえず踏み潰すかもしれない……ジョナサンは安易に想像できるディオの様子に鳥肌を立てました。
「これがぼくの一部であるとするなら、そんなことされたら痛いかもしれない!」
 ジョナサンは戸をノックすると、返事より先に思い切って扉を開けました。
 扉を開けると、小さな前室があります。糸は暗い部屋の中を這っておりました。本部屋の戸を開けると、室内は暗くディオはもう床についておりました。
「良かった……のかな?」
 息を潜めて、足音を立てずにそっと暗闇の中を探りました。糸は一体どこへ迷い込んでいるのでしょうか。
 ディオの寝息が聞こえてきました。カーテンから漏れている月の光で、部屋の中がほんの少しだけ見えてきました。
「……あ」
 声がこぼれて、ジョナサンは思わず自分の口を塞ぎました。糸はディオの寝台をのろのろと這い蹲っています。
 静かに寝台へ歩み寄り、ジョナサンはディオと糸の様子をそっと見下ろしました。
 やがて糸はディオの白い首にくるりと巻きつくと、蒸発していくように、糸は肌に染みていきました。
「うう……ん」
 ディオが息苦しそうに首をかきむしったので、ジョナサンは困りました。
 ――どうしよう、このままディオが死んでしまったら!
 首に絡んだ糸がディオの息を止めているのではないかと、ジョナサンは思ってしまったのです。
「ディオ! ディオ……ッ!」
 ジョナサンは慌ててディオを起こして、首についた糸をもぎ取るように白い首筋を触りました。
「ぐ、うえッ、……うぅっ、なん……なんだっ?」
 目覚めたディオは、状況がうまく飲み込めません。涙目になったジョナサンは息をしているディオを確かめると、ああ良かったと胸を撫で下ろし、やがてそのまま寝入ってしまったのでした。
 重い体に圧し掛かられ、ディオは大変迷惑でした。何度もジョナサンを叩きましたが、一向に眠りから醒める様子はなく、いつかディオは諦めたのでした。

 翌朝、メイドたちは共寝する兄弟の姿に微笑み、ふたりを優しく起こしてくれました。
目覚めた二人がどのような顔色をしていたかは、簡単に想像出来ますでしょう。
 顔中を真っ赤にして、片方は怒っていましたし、片方はあれこれと言い訳を申しておりました。とても仲睦まじい光景でありましたから、その話は父様の耳にも届いたのでした。

 ジョナサンはディオの部屋から追い出されると、裸足で自室へ戻りました。ぺたぺたと素足は床に音を立てております。左足に目をやりますと、痣が見当たりません。
「あれ?」
 見間違いかと思い、自室に帰ってから足をよくよく観察してみても、やはり痣はありませんでした。
「ねえ、ぼくの痣、消えてしまったみたいなんだ」
 メイドに声をかけて、左足を見せてみましたが「ジョジョぼっちゃま、足に痣なんてありましたっけ?」と言われるだけでありました。
 おかしいなあ、と首を傾けておりますと、ジョナサンは昨晩の不思議な体験を思い出しました。
「そうだ、ぼくの痣は……ディオの」
 朝食の時間になり、食卓につくと、ジョナサンはディオのことばかり見つめておりました。首を確かめようとは致しましたが、こんな日に限ってディオは首の隠れるスタンドカラーのシャツを着ているのでした。
「ジョジョ、今朝は寝ぼけてディオの部屋で寝てしまったんだって?」
 父様は二人を交互に見て笑いかけておりました。
「ぼくはとっても迷惑でしたけどね」
 ディオの言葉は丁寧でしたが、口調は荒く、ジョナサンを睨みつけました。
「大変けっこう、二人の仲が良いと私は嬉しいよ」
 父様は満足げに髭を撫でました。そんな二人に挟まれてジョナサンは何とも言えずに、スープをごくりと飲み干しました。


「ディオ、あの今朝は……その、ごめん」
 朝食が終わると、ディオはすぐに席を立ちました。時間が経てば余計に拗らせてしまうと思い、すぐにディオを追いかけて、ジョナサンは素直に謝りました。
「一体君が何を考えているかはどうでもいいが、自分の体重が何キロあるか知ったほうがいい」
 皮肉っぽくディオは言い捨てると、ジョナサンを振り返りもせずに立ち去ろうとしてしまうのでした。
「ちょっと、待って!」
 手を取り、ジョナサンはディオを引き止めました。
「首を……見せて」
壁際にディオを追い詰めて、ジョナサンは自分の腕で逃げられないように囲いました。
「な、なにを」
「いいから!」
 大声を張ると、驚いたディオが舌打ちしました。あまりにもジョナサンが真剣だったので、ディオは面倒くさそうに一番上の釦を外しました。
「これでいいのか」
 白い首には、痣がくっきりと浮かんでいるのでした。ジョナサンは、見覚えのある痣にしばし釘付けになりました。
「これは……ぼくの……」
 ぼくの痣だ。ジョナサンには分かりました。何故、自分の足の痣がディオの首に移ってしまったのかは分かりません。ですが、何年も目にしてきた色と形を間違えることはないのでした。
「ふれるな!」
自然とディオの肌へと伸びていた手を、ぴしゃりと撥ね退けられて、ジョナサンは身を離しました。
「いい加減にしてくれ、もういいだろ!」
 ディオは苛々として釦を止め直すと、踵を返しました。
「待って、ディオ! その痣は、昨日……」
「はあ?」
「だから、それは昨日、ぼくの痣が……君の首に」
「まだ眠りの世界から戻って来られないようだな」
 ディオは口をもごもごとさせているジョナサンの耳を引っ張りました。ジョナサンが痛がると、ディオは口角を片側だけ上げて笑いました。
「これはぼくが十三の時に父親から殺されかけた時に出来た痣だって、前にも言っただろう? こんな話そう何度もしたいもんじゃあない」
「え……? 十三の時……?」
 ジョナサンの痣も十三歳の時に出来た筈でした。同じように赤々として、四年たっても消えないものでした。

 ジョナサンの目に見えるものは、いつもと変わりはありませんでした。それどころか、どこも鮮明に見えているのです。窓の外の景色も、今まで以上に遠くまで分かるのです。
 だけど、いつもと同じ何かが、少しだけ違っていて、ジョナサンの知っていた世界とは別の場所なのではないか……と錯覚してしまいます。
 父様の好きだった煙草の銘柄が違うだとか。赤毛のメイドが栗色の髪になっているだとか。ダニーのしっぽが前と比べてちょっぴり短いだとか。
 ほんの些細なズレがあるとジョナサンだけが知っているのでした。
 そして、夜が訪れると、赤い糸がディオの首の痣から流れて、ジョナサンの部屋へやってくるのです。
 糸はジョナサンの左足首に巻きついていきました。
 夜毎に変わる運命は、誰にも知られず回転していくのです。


おわり

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