神さまのたまご
一朝、目が覚めると、ディオは足の間にあるものを感じた。
あるものは、生暖かくて、小さくて、丁度自分のふとともの隙間にすっぽりと入っている。
半覚醒のぼんやりした頭のまま、ディオは布団をめくった。
「……なんだ、これは……。」
白くて丸い、手の平に乗る大きさの。
「たまご……。」
誰がどう見ても、それは卵であり、その姿かたちは卵でしかなかった。
ディオは、おぞましい思いが一瞬心の中に広がったが、恐れずに卵らしき物体を手に取った。
やはり、人肌の暖かさがある。今まで自分の脚の間にあったのだから、冷たい筈はない。
一体何なのだろうか。
朝食に出される予定であったゆで卵だろうか。何となくディオは卵を振ってみる。
中身はたぷたぷと揺れている気配がある。
どうやらこれは、『生』らしい。
たとえ、何かの手違いで、寝床に食料が紛れ込んだとしても、何故自分の脚の間、それも尻に近い部分、そして寝ている自分に気づかれず入れられたのだろうか。
それに、こんなに脆い筈である卵が何故割れずにいたのか、とディオは卵を手に乗せたまま考える。
しかし、ニワトリの卵はこのような大きさだっただろうか。日頃、目にしているものを改めて正確なサイズで述べろと言われても、はっきりとした数字は出せないが、見ているものへの違和感はある。
記憶違いでなければ、これはニワトリの卵より若干大きいのだ。
「いや、まさかな。」
ディオは無意識に、隣にまだ眠っている無駄に育った巨漢を見る。
大男は、ディオに背を向けて、その身に合わない静かな寝息を立てている。この男は、ディオが起こすまでいつも何時までも眠っている。
「フン、寝過ぎなんだよ、この阿呆。だからそんな馬鹿でかくなっちまうんだ。」
そろそろただのダブルサイズのベッドでは、長身の二人の男たちには狭くなってきている。いや、そもそも大男ふたりが同衾など普通はするものではないのだろう。
でもどうしようもないのだ。二人は恋人同士であるから、同じベッドで眠る。いたってシンプルな答えだ。
ディオは、この関係を仕様がないと思っている。同性同士で愛し合うほど、不毛なものはない。何と生産性の無い関係だと、軽蔑していた口だ。(とは言っても彼には、意中の女性が出来たことも無かった。女性だけではない。男性もだ。彼は人間自体を好きにはなれなかった。何より自分だけを愛して生きてきたのだから。)
無駄なことは何より嫌いだ。ディオは自分にとって意味があるものしか必要としないし、日々を合理的に生きていきたい。
隣で眠っている男は、いくら贔屓目で見たって女には見えないし、どちらかと言えば、ディオのほうが女に見える容姿だった。それも今では無理がある話だ。身長が180センチを過ぎたあたりから承知していた。どちらかと言えば、と言うくらいなのだから。
仕様がないのだ、この男に好きだ好きだと言われ、迫られ、ディオには断る術がなかった。理由が無かった。だから、こういう関係になったのも、全部相手の所為だ。
だから仕様がない、とディオは思っているのだ。
ディオは半裸の肌が冷たくなってきて、もう一度布団に潜り込んだ。卵は手の中にある。
男の背に、ディオは額を寄せる。熱の高い男の体は、いつも体温の低いディオにとって丁度いい温もりがある。
暑がりの男にとって、ディオの指先は気持ち良い冷たさなのだと言う。そういったところが、実に合理的だ、とディオは気に入っていた。
「まさか、……な。」
ディオは卵に問いかける。
おまえは一体なんなのだ?
卵は無言で、ディオの手の中にいる。
昨日の夜の二人の行為をディオは思い出して空想をする。
「まさか。」
久しぶりに、ディオがOKしたからか、とにかくしつこく愛された。
もういいと、充分だと、ディオは早々に切り上げて眠りたかったが、男は離してくれなかった。こんなことになるなら、もっと短い期間で許可してやれば良かったと、ディオは意識を失う前に後悔した。
別に行為自体を嫌っているのではないけれど、「体を許す」のが、癪に触るのだ。自分の知らない所を好き勝手に弄られて、耳元で愛を囁かれて泣かされるのが、この上なく腹立たしかった。このディオが、このディオが、何度も思い、そして幾度も行為中にそう言って喘いだ。今夜もそうだ。「このディオが何でお前なんかに……っ」
だからと言って、自分が抱こうだなんてディオは思わない。考えもしたくない。――誰があんな巨体を! 大体重くて、足を抱えるのも一苦労ではないか、向こうが好きだと言ってきたのだから、尽くすのは向こうがするべきだ……ディオは受け入れて「やって」いるのだ。させて「やって」いるのだ。自分がしたいなんて、言わないし、思っていない。
何度も、何度も、求められて注がれて、ディオは泣き喚いた。昨晩もそうであり、その前もそうだ。その前の前も、……忘れたけれど、多分そうなのだろう。ディオは思い出すのをやめた。
「それで?」
それで、卵はあるのだろうか?
どこから来たのか。コウノトリが運んできた可能性、……ばかばかしい。
ニワトリの卵は肛門から生まれるのを知っている。
じゃあ、これも、そうなのか。
「ぼくはニワトリじゃあない。」
人間が卵を産むわけ無いじゃあないか。
けれど、ディオは、卵を離せない。
愛しいもののように、柔らかく抱いて、暖め続けている。
二
「ふうん、君がそういう夢の話をしてくれるなんてなぁ。」
ジョナサンは、三度目のあくびをした。ディオの話が終わるまで、重たくなる瞼を開けて相槌を打っていたのだった。
誰かの夢の話ほど退屈なものはない。けれど、恋人の夢の話ならいくらでも聞いていられるのが、ジョナサンという男だ。
何の意味も持たない夢の出来事など、以前のディオなら無駄であるとして脳内から抹消していただろう。
ジョナサンは嬉しかった。
恋人は、変わっていく。ジョナサンという毒を少しずつ体に取り入れて、冒されていっている。ディオの体に入った毒は、胸や頭に影響を及ぼして、彼の思考や行動を変えている。
以前より、うんと柔らかい口調、穏やかな表情、そして何より恋人の自分にやさしくしてくれる。毒の効果は抜群のようだ。
「……夢、だと?」
「え?」
ジョナサンがディオを求めて、久方ぶりに愛したのはその前の晩で、夢は今朝の話なのだとジョナサンは思った。
今は、抱いた次の晩なのだ。
「いつそんな話をした?」
「……だって、そんな話、普通は夢だって」
ディオは、ジョナサンの腕の中からすり抜けて、毛布をかけたままベッドを降りる。
小さな本棚にある引き出しに手をかけ、ディオはハンカチにくるまれたものを持ってくる。
「おまえの目で確かめろ。」
ディオはまた元通りの位置に戻り、ジョナサンの胸の中でハンカチを差し出した。
すっかり眠気の覚めたジョナサンは、無理やり渡されたまるまったハンカチを両手で持った。
何故か妙に暖かく、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな弱さをジョナサンは布を隔てて感じた。
「これ……?」
ジョナサンは、怯えた目でディオを見た。ディオは顎をしゃくって、やれと合図する。
神よ……、とジョナサンは心の中で祈る。そして思い切ってそのハンカチをめくった。
「ああ!」
やはり、卵だった。
話の通りの大きさだ。どこからどう見ても卵であり、その姿かたちは誰が見ても卵でしかなかった。
「ディオ…………ッ!」
ジョナサンは卵を両手に乗せたまま、起き上がって口をぱくぱくと開閉して、それからがくりと肩を落とした。
「なんてことだ……ぼくは、てっきり……」
「さあ、どうしようか?」
ディオも起き上がり、隣に座り直してからジョナサンの肩を抱いた。ジョナサンは蒼い顔をして、ただひたすらに卵を見るだけだった。
「あ……ッ!?」
ジョナサンは大声をあげた。ディオはその声に驚き、思わず身をわずかに跳ねさせた。
「ヒビが……! あ、あ……!」
突如、ジョナサンは、らしくない非情な行動に出た。ディオは曲線を描いていく卵と、それから今まで見たことのないジョナサンの悲痛な顔が、ただ本当に珍しくて呆気に取られていた。
「うわああああああああッッ!!!!!!!」
――ぐしゃり
殻の割れた音だ。なんと軽やかな音だったろう。
「あ、」
ディオは、音とほぼ同時に声を出した。
ジョナサンの肩を抱いていた腕を外して、ディオはベッドの下をのぞいた。無残にも粉々に砕けて割れた白い卵の殻は、ばらばらに床に散らばり、中身は絨毯の上に広がった。透明の白身と、オレンジ色をした黄身は混じり合ってぐちゃぐちゃだった。
「ああ、ぼくは! ぼくはなんてことを! ディオッ、ディオッ、君も見ただろう……っ!?」
「お、落ち着けよ、ジョジョ」
はらはらと涙をこぼし始めたジョナサンに、若干戸惑いつつも、ディオは彼を宥めようと胸の前で手の平を振った。大きな瞳からは涙がとめどなく流れている。ジョナサンはディオに抱きついた。
力いっぱい抱きしめられて、ディオは「ぐえ」、とみっともない声をあげてしまう。
「ひびが……、卵にヒビが出来て……今にも生まれそうだったんだ! ぼくは……怖くなった……っ、それで、それで……!!」
そんなわけない。ディオは真実を語ろうと口を開くべく、ジョナサンの腕を外そうと試みる。
しかし、感情の高ぶったジョナサンの腕力には敵わなかった。怒りか、恐れか、何故こんなにもジョナサンは興奮しているのかディオには理解できなかった。
「ああ、ぼく達の卵になんてことをしてしまったんだ! ごめんよ……ごめんよ、ディオ。ごめんよ、可哀相なぼく達の赤ちゃん……」
「おい……ッ」
「ぼくはなんて馬鹿な男なんだ……いつかはこうなるって分かっていたのに、いざその時がきたら、ぼくはこの手で、……ああ!」
「おい、話を聞け、愚か者。」
「そうだよ、君の言う通り、ぼくは愚かな男だ! ……ああ、ああ! ぼくは、ベッドの下を見る勇気がでない!」
「いいから離しやがれッ!!!」
ジョナサンの顔面目掛けて、ディオは頭突きを食らわせてやった。高い鼻をへし折ってやるくらいの勢いでしたつもりだったが、どちらかと言うとディオの方が頭に痛みを感じているのだった。ジョナサンの鍛えられた肉体には急所が存在していないのかと思わせるほど、とにかく頑丈だ。
「この阿呆。見ろ!」
ジョナサンの寝巻きの襟をつかんで、ディオは無理やり床へ彼の顔を向けさせた。唇をかんだジョナサンは、かたく目を瞑っていたが、その気配を察しているディオは更にジョナサンの頭を床へ押しやった。
「おい、見たのか、それともまだ目を瞑っていやがるのか?」
ディオは乱暴にジョナサンの頭をぐいぐいと押す。黙ったままでいるジョナサンの様子が不気味で、ディオは手の力を緩めていった。
「ディオ……これは、一体…………。」
「……冗談だよ、冗談。……そこまで本気にするとは思わなかった。」
深いため息をついた後に、ディオは辛うじて聞こえるほどのごく小さな声で、悪かったな、とジョナサンの目を見ないで言った。
どこまでが冗談で、どこからが現実か、その境がジョナサンの頭には追いついていなかった。夢の話ではない、と言ったのはどこからだったのか。
「ヒビが……。」
「まだ言ってるのか。これは、キッチンからくすねてきた正真正銘のニワトリの卵だ。」
「でも、ぼくは、見たんだ……。」
「そんなわけあるか。夢精卵なんだから。ひよこも生まれない。君が見たのは……きっとまぼろしさ。」
話から妄想した結果、卵が孵ってしまう幻覚でも見たんだろう、とディオは呆れて言う。
ジョナサンは絨毯に散った卵の中身を見て、殻と共に手で掬い上げた。
片付け始めたジョナサンは無言だった。ディオはてっきり彼を怒らせてしまったと思って、気まずかった。だが、ジョナサンは鼻をすすって涙目で振り返った。目に怒りの表情は無かった。
「埋めなくちゃ。」
「は?」
室内履きから、外出用の靴に履き替えて、ジョナサンはディオを外へ誘った。ジョナサンの両手は塞がっているので、仕方なくディオは彼の靴の紐を結んでやり、上着を肩からかけてやった。ディオは寝巻きの上からコートを羽織って、靴を履き替える。
ドアをあけてやると、ジョナサンは廊下を進んで行った。
追いかける形でディオは背の後ろを歩く。何を考えているのか、ちっとも分からない。怒ってはいないのだろうが、ジョナサンのしたいことの意味が分からない。ディオはそれが不満だった。
庭のすみに立ち、柔らかい土のあるところにジョナサンはたまごを乗せた。そして、素手で穴を掘り、その中にたまごを入れて、丁寧に土をかぶせていった。
ディオはまだその後ろ姿を見ているだけだった。
「おやすみ、さようなら。」
胸の前で手を組んだジョナサンは、瞳を閉じて呟いた。
「……なんのつもりなんだ、ジョジョ。」
一通り、したいことが終わったジョナサンは、膝についた土をはらっている。立ち上がった瞬間、ディオはやっと声をかけることが出来た。
「お墓だよ。」
目の上の筋肉がピクリと痙攣するので、ディオは指先で押さえた。意味が分からない。妙なストレスで苛立ってくる。
「だから、それはただのニワトリのたまごだって言っただろ? ……おまえ、どうかしたんじゃあないのか?」
「うん……でも、」
両手を打ち鳴らして、ジョナサンは手についた土を軽く落としていく。乾いた音が夜の静寂に響いていた。
「嘘でも、冗談でも、これは確かにぼく達のたまごだったんだよ……。あのまま捨てるなんて、とても出来ないよ……。」
目の上の痙攣が突然止んだ。ディオは、深い深い、ため息をつく。白い息が顔の前にふっと現れて、すぐに消えた。
「ディオ……、言いたいことは分かるよ、ぼくは……、酷い人間だ」
ジョナサンは自分の本心を知って、己を恥じた。何より誰より、自身の醜さを嘆いた。そして次第に情けなくなって、気を落としていく。
「いくら、表面を取り繕ったって、肝心な時にあんな真似をするなら、ぼくという人間は高が知れている。だから」
「もういい!」
俯いたジョナサンは怒鳴られて更に下を向いた。195センチの体躯は縮こまっても、無駄にでかいままだ。
「おまえがどれだけ駄目で! 情けなくて! どうしようもない阿呆だと言うのはとうに分かりきっている!」
ディオは一歩近づく毎に、ジョナサンを責め立てていった。言われる度に、ジョナサンは身を小さくさせるように、落ち込むのが見て取れた。
「同じくらい、ばかばかしいほど甘いやつだってこともな。」
ジョナサンの目の前に立ったディオは、下を向くジョナサンのあごを取って持ち上げた。顔を上げたジョナサンは眼前のディオの微笑みに驚くだけだった。
「おまえが好きだよ、ジョジョ。」
突然、愛を囁かれ、口付けをされて、ジョナサンは団栗眼が落ちるんじゃあないかというくらい目を開いていた。
いつもキスをするのはジョナサンからだ。ディオは受け入れるだけ、たまに拒否もする。だから、ジョナサンがしたいという時しか、ふたりは口付けをしたことがなかった。
それなのに、ディオから口付けされたということは、つまり、ディオはジョナサンにキスがしたい気持ちがあるということだ。それは、だから、つまり。
「ぼくが……好き?」
「そうだ。なんだ、その顔は、不満でもあるのか。」
ディオに見せていた顔は、あんぐり開いた間の抜けた口と、大袈裟に下がった眉、目は困ったようだった。
「ぜんぜん! 無いよ! むしろ……その逆……。」
抱きしめようとしたが、ジョナサンは土で汚れた手を思い出して、そっと額をディオの頭に寄せるだけにした。ディオの髪のいい匂いがジョナサンの心地を良くさせた。
「……とりあえず部屋に戻ろう。手を洗ってくるよ。」
「ああ。」
明かりの下で寝巻きを見るとあまりにも膝の部分や袖が汚れているので、このままではベッドに入れて貰えないだろうな、とジョナサンは思った。手を洗って、部屋に戻ったら着替えることにした。
一足先にディオは部屋に戻っていて、すでに靴を脱いで、布団の上に座っていた。絨毯には、たまごの染みが残っていた。
ディオは部屋に入ってきたジョナサンをちらりと見ただけで、特に何も言わなかった。なので、ジョナサンも黙ってクローゼットを開いて、着替えたのだった。
上着をハンガーにかけて、汚れた寝巻きを軽く畳んで、籠に仕舞う。室内履きに履き替えて、静かにベッドに腰掛けた。もう眠気はどこかへ行ってしまっていた。
「あのさ、」
口火を切ったのはジョナサンだった。
「なんで、急に、その……す、好きだって、言ってくれたの……?」
わざわざ聞くことでも無いのだろうが、ディオの口から話して欲しくてジョナサンは尋ねてみる。ディオは横を向いて頬杖をついていて、顔は見せないように髪で隠していた。
照れているのかもしれない。ディオに限ってそんなわけあるか、とジョナサンは思ったけれど、いつもよりちょっぴりだけ肌の色が濃く見えているのだから、自分に都合よく思い込むことに決めたのだった。多分恥ずかしいのだ、そうだろうと決めた。
今日、何度目かのため息をディオはつく。全ての息を吐き尽くして、軽く空気を吸い込むと、頬杖をついたままディオは視線をジョナサンに向けた。
「たまごを割ったから。」
短くディオは告げた。
「え、ええっ?」
ジョナサンもまた短く言って驚愕した。
反応を見て、ディオは面倒くさそうにして頬杖をつき直した。これからジョナサンが詰め寄ってくるのがディオには想像がついていたのだった。
「なんで? 変だよ! 普通は、き、嫌いになるものだろう? だからぼくは覚悟を決めてああ言って……なのに、ディオ……どうして君はっ」
案の定、ジョナサンはディオの肩を揺すって、矢継ぎ早に問いかけてきた。あまりにも強く揺すられたので、ディオは頬杖が外れてしまって、仕方なく顔から手を離した。
「ああ、変だな。ぼくはおかしいんだ。『普通』なら嫌いになるような所が、ぼくは好きだと思うんだ。悪いか?」
わざとらしく、普通、の部分を強調して、少し皮肉めいてディオは言う。
「悪いとか、そうじゃあないけど……でも、理由がわからないよ……」
「さあな。」
そっけなくディオは手の平を見せて、答えを曖昧にした。ジョナサンは、他人事のように言い放つディオの態度が気に食わなくて、ひらひらと扇いでいる手を取って両手にまとめて握った。
「大事なことなのに、なんでそんな風に言うんだよ、ディオ……ッ!」
「……、君が、」
ディオの小さな唇が戦慄く。振り絞るように、つらそうに言葉をディオは紡いでいく。
「……え?」
ジョナサンは、同じくらいの小声で聞き返した。
「君が最初に言ったんだろう? ぼくだって散々君に聞いたじゃあないか。何でぼくなんだ、どうしてなんだ、変だ、おかしい。どれも君に言った言葉じゃあないか。」
「最初って、」
坂道を転がり落ちる玉のように速さを増して、ディオの口からすらすらと科白が流れ落ちていく。呼吸のために区切られた言葉の間に、ジョナサンは返事の隙間を得た。
「君が、ぼくのことを好きだって言った時だ。そうしたら、君は言っただろう? 人を好きになるのに、理由なんて要らないって。それと、ぼくの今の気持ちも同じなんだよ!」
「………ディオ……」
息を吸ったディオはまた一呼吸のうちに言いたいことを放っていく。琥珀色の目に赤みが増していったので、ジョナサンは橙色に見間違えてしまう。白目が充血していた。
「たまごを割ったときの君が好きだと思ったんだ、過ちを悔いて泣く君が好きだと思ったんだ、ただのたまごの墓を作ってやった君が好きだと思ったんだ、ぼくの……ぼくの冗談を……、」
息が荒くなったディオは、言い終わる前に、はあはあと乱れた呼吸を落ち着かせようとして、喋るのをやめた。
ジョナサンは自分の全身が真っ赤になっていると思った。しかし、自分の手はいつもと変わらない肌色だったので、思い違いだと知った。
それでも、高熱病みたいに頭からつま先までが熱かった。汗が出ないのが不思議だった。
一生分の好きを聞いた気がする……。これから先、何年、何十年も、ディオから好きだと絶対に言われないとしても、今夜のことは決して忘れずにいよう。いや、忘れるものか。ジョナサンは、数秒前のディオの口から言い放たれた「好きだ」という甘い響きを、胸の中で繰り返し再生していた。
「分かったよ……、ありがとう、ディオ。」
「うるさい、何がありがとうだ! おまえに感謝されることなどしていない!」
「ぼくも君が好きだ。」
ディオは、ジョナサンが何故ディオを好きなのか分からないし、ジョナサンもディオが何故ジョナサンを好きなのかは分からない。
どこがよくて、どうしてなのか、答えを正確に言葉にして、分かりやすく文章にして相手に伝えるのも、それもひとつの愛情表現なのかもしれない。
けれど、人が思っている以上に、好きだとか嫌いだとか、特に恋に関しての思考の構造は、簡単に解析出来ないから、人は無様で格好悪くなってしまうのだろう。思えば、思うほどに。
それでも、人がいとしくて、愛さずにはいられない。
ディオのはじめの話には続きがあった。
暖め続けているうちに、たまごにはヒビが入った。まぼろしや幻覚ではない。本当に、たまごは孵ろうとしていた。
大切に抱えていたたまごを、ディオは、思わず投げたのだった。そして床に落ちたたまごは割れる。
しかし、中身は空っぽだった。白い殻がきれいに真っ二つに割れているだけで、雛もいなければ、白身も黄身もない。
孵ろうとしていたのは何だったか。
ジョナサンに愛され、好きだと言われ続けたディオが産み落としたたまごからは、何が誕生しようとしていたんだろう。
ディオが恐れたのは、愛情だ。ジョナサンから貰う愛、そしてそこから自分の心に育っていく『なにか』。
ディオが心で育てていたのはジョナサンへの愛だ、それがディオにとって恐れていたたまごの中身だった。目には見えない、姿も無い、だけど確かにそこにあると実感できるもの。
それが二人のたまごの正体だった。
三
はっきりとした夢をディオは見る。
鮮明な映像であったが、これは夢なのだと自覚していた。
あかるい、とても晴れた青空の広がる豊かな緑の野原の上に、長いテーブルが置かれている。王族一家が親族を招いて使っても、まだ席は十分に余りそうなくらい、長い。
どこからともなく愉快な音楽が聞こえてきて、遠くには子どもがはしゃいでいる声があった。
テーブルには、世界中の様々なお菓子が並べられていて、ティーセットが何人前も置かれている。カップに淹れられているお茶はまだ湯気がたっている。
子どもの声はだんだん近づいてきて、気が付いたときには、いつの間にかテーブルの周りに置かれた椅子に彼らは座っていた。
子どもは大勢いると思ったが、たった二人しか居なかった。
ひとりは、青みがかったブルネットで、前髪が真っ直ぐに切りそろえられている。ディオと同じくらい白い肌をしていて、金色の瞳を持ち、物静かだが、利口そうな子どもだった。
もうひとりは、輝くばかりのブロンドを長く伸ばして後ろで三つ編みに結っている。日に焼けた肌をしていて、どこか自信のある強気な瞳は蒼い色をしている。二人は揃いのリボンタイに、喪服のような暗い色の上下を着ていた。
印象が異なる二人であったが、懐かしさのある面差しがあった。よく見ると全く同じ顔の作りだった。
「やあディオ、こんにちは!」
ブロンドの少年は、さも知り合いかのような振る舞いで明るく声をかける。ディオは、声が出なかったので、手を振ってやった。
「こんにちは、ディオ、今日はとっても気分がいいね。」
ブルネットの少年は控えめに声をかけてくる。そして、いくつもあるカップから、イチゴの柄の入った可愛らしいカップに熱い紅茶を注いで、ディオに差し出した。
「君が気分がいいと、ぼくたちもすっかり元気さ。」
「それにね、こんないい天気なんてみたことがない!」
少年たちは、いくつもあるポットからいくつもあるカップに茶を注いでいく。ここには三人しかいないのに、まったくおかしなやつ等だと、ディオは紅茶を一口飲んだ。
「ああ、もうずっと昔は、毎日大雨と嵐と大雪と、時々曇りが1年にあるかないかくらいだったものね。」
「そうさ、それからずっと長いこと晴れなかった。ずうっと、ずうっと、ずうっとだ。でも今日はなんて快晴だろう! 空が青いってなんて素晴らしいんだろう! ねえ、ディオ、君もそう思わないかい?」
ディオは、広がる青空を眺めた。本当にいい天気だった。雲があんなに白くて、空は高くて青くて、何も邪魔なものが無い。この空間だけ世界から切り取られたように完璧だった。額縁の中におさめて、部屋の壁に飾ってやりたいくらいだ。
「なあ、綺麗だろう、とっても美しいって思わないかい?」
ディオは答えられないので、頷いた。
すると二人は顔を合わせて、笑った。何か上手くいったときのように、彼らは手を合わせた。まるで、ディオが「うん」と言ってくれるのを待っていたみたいだ。
「おめでとう!」
「おめでとう!」
二人はディオに向かってカップを掲げて、乾杯した。そしてきらきらした目で、ディオを見るので、その熱い期待の眼差しに耐えられなくなったディオはイチゴのカップを同じ高さに上げてやった。
「なんでもない日おめでとう!」
声をそろえた二人は、ディオのカップを中の紅茶が溢れんばかりに、カップを合わせて鳴らした。
そうして、青空の下、いつまでもいかれたお茶会が続いていった。
ディオは、ジョナサンの腕の中で、いつもと同じように目を覚ました。
ジョナサンの寝息は、やはり身の丈に似合わない静かさがあった。幸福そうに唇は笑んでいて、ディオはしばらく腕の中で寝顔を見つめていた。
やがて、脳は働きだし、視界も日の光を捕らえる。
晴れた空の太陽の光が、カーテンの隙間から漏れ出していた。
ディオは起き上がって、大きく腕を上げて背を伸ばした。
あくびが出て、自然と涙が流れる。
変わらない毎日の、いたって普通の日常の朝が始まる。
決まった時間に目を覚まし、決まったとおりに顔を洗い、自分の選んだ服に袖を通して身支度を整えると、何時も通りにジョナサンの腹の上に乗っかって、雑に起こしてやる。
寝ぼけたジョナサンがのん気に挨拶をするので、ディオは時間を教えてやる。そうすると、大慌てでジョナサンは飛び起きるので、彼を笑ってやるのだ。
朝食の時間には間に合うように、ジョナサンはタイが多少曲がっていようと、寝癖がついていようと、気にせず食堂にむかう。時折、ジョースター卿に叱られるジョナサンを見て、ディオはそこでもまた笑う。
「まったく、いつまで経ってもジョジョは子どもっぽいな。」
卿は、やれやれと呆れた風に言うのだが、その目は優しい。ディオは少しだけ、その瞬間、寂しくなる。
けれど、必ず、その瞬間ジョナサンはディオを見ている。そして、目と目が合うと、ジョナサンはディオに笑いかけるのだ。
「あら、気づきませんでしたわ。」
朝食を運んできたメイドが、ディオの前にひとつの皿を置いて、乗せられた食事を指した。
「珍しいですわね、ほらこれ。」
ジョナサンは、指が指す方向へ目を向けた。
「ああ、本当だ! ディオの目玉やき、ふたごだ。」
白身の中に同じ大きさの黄身が二つ並んでいる。
「……ああ、本当だ。」
遠く、野原で、はしゃいでいる子どもたちの声が、懐かしくディオの耳に聞こえた。
また今夜も、ディオは無意味な夢の話をジョナサンに話そうと思うのだった。
おしまい