月海夜 13

 日付が変わる時分、ジョナサンは町を出て、丘へ歩き出した。
 パブにいた者たちは、ジョナサンにあれこれと質問を投げかけたが、娘の父親は、ジョナサンが先を急ぎたがっているのを承知していたので、興奮する彼らをうまく言いくるめてくれたのだった。
 三日月が雲間に隠れ、薄明かりの道をジョナサンは一歩一歩、地を踏みしめて進む。
 最後に見たディオの、暗い顔つきがジョナサンの頭にちらついた。
 生乾きの傷がある手で拳をつくり、そしてまた開く。道中、ジョナサンはうつむいて、手を閉じたり開いたりして、地面と自分の手を見ていた。

 館は、何一つ変わりなく静寂であった。
 血の匂いがそこかしこに、少しばかりではあるが漂い続けている。花の香りも強く主張するが、混じり合わない異なる匂いは、それぞれを余計に際立たせていた。
 寝所の扉はジョナサンが出ていった時のまま、開け放たれていた。
 部屋を覗き、ジョナサンは気配を探ったが、ディオはこの部屋には居なかった。割れた硝子窓が、隙間風を通して、やけに寂しく鳴っていた。
 ディオは、吸血鬼として生きる道に目覚めてしまったのだろうか。
 館にひとりきり、ジョナサンという食事だけの生活に飽き飽きして、大いに人を襲い、夜の帝王になるべくして……ここを出ていったのか。
 ディオが、人ではなくなったときに、そう成り行くのが最も自然であり、彼の望みなのだとジョナサンにも分かりきっていた筈だ。彼が求めた力や彼の欲した世界と、このひと月の関係は、何も結びつかないのだ。
 ディオは人を襲った、これは紛れもない事実であり、彼の殺意である。ジョナサンがもし間に合わなければ、彼女たちは確実に死んでいた。ディオにとって、娘たちの命が助かろうが、尽きようが、血のない肉体は彼にとって空の皿でしかないのだ。
 人間は、植物や動物を食べる度に哀しみ、同情するのか? 神に感謝をしたとしても、それらの命に、情は注がれない。おそらく同じほどにディオにとって彼女たちの命にも、無意味で無感動である。
 故に、ディオは『人ではない』のだ。だから、ジョナサンは、彼が人間をひとりでも殺めたなら、彼を殺さなければならない。
 事実さえなければいい、とジョナサンは密かに自身に甘く言い聞かせ、時に魔物であることを忘れた。
 ――忘れたかった。人と同じように愛し、愛されたかった。そうなれるかもしれない、ジョナサンはディオの優しさが自分以外にも向けられるのだと、望んでいたかった。
 でも、違った。ディオにとって、やはりジョナサン以外の人間を殺すことに何の躊躇いも罪も感じていないのだ。
 いや、ジョナサンも同じ「餌」である。ディオには、人間という生き物が豚や牛と変わらない。同じ位置で同じものを見て、生きられないなら、ディオとジョナサンは、やはりどちらかが食うしかない。食うか、食われるか。答えは太古からあるシンプルさであったが、そう容易くジョナサンには理解し、受け入れられるものではなかった。


 館中をうろうろと探し回り続けるうち、次第にジョナサンは疲労と、思考が灰色に染まっていくのを感じた。
 館の裏には、墓が並んでいた。墓石はひしめき合って立ち、中には横に倒れてひび割れている墓碑もある。墓地は、草木らが好き放題に生え、いかにも荒んだ様子があった。
 小高くなったところに枯れ木が一本、今にもすたれそうに立っていた。その枯れ木の横に、白い影が闇夜に揺れている。
 ジョナサンは、影にどきりとして、目を見開いた。心音が早まり、思わず喉がなる。好奇心と恐怖心はジョナサンをその場所から離れさせてくれなかった。
 影は、ぼんやりと立ち尽くし、風に白い裾をはためかせていた。

 頭から薄い白い布をベールに見立てて被り、足首まで隠れる寝巻きに似た裾の長い服を着ているものが立っていた。ジョナサンはその人影に声をかける。
「ここに居たのか。」
 風がベールをめくり、その人の顔を露わにした。
 ジョナサンが打った頬はまだ腫れていた。口の際は切れて、血で赤くなっている。
「ディオ……」
 横を向き、ディオは枯れ木に寄りかかり、ジョナサンの存在を無視している。伏せた目はちらりともジョナサンを見ず、ディオはまたベールを頭にかぶせた。
 ディオの足元には、白百合や紅薔薇が落ちていた。墓碑に飾られていたものだったかもしれない。ディオはひとつの花を拾い上げ、花弁を千切り、風に乗せた。
 物憂げなディオの横顔に、ジョナサンはひどく落ち込んだ。
 かける言葉が出てこない。
 自分はどうしてディオを、探していたのだろうかと、考える。
 殺戮を起こさせないために彼を殺す、と決めた自分に、彼を殺めるのも、『人殺し』なのではないか、と心に聞く。
 あの哀しく、寂しい、魔物を自分は殺せるだろうか?
 彼は人間に対して、殺意がある。いつ、その殺意が世界を襲うか知れないのだ。なら、やはり彼を止めなくてはいけないし、その役目は自分しか果たせない。だから今、自分はここにいて、ディオを見つけ出したのではないか。
 それでもジョナサンの目には、ディオはディオの形をして、人の姿をして、傷ついた肌をそのままに赤い血を流して立っている。共に家族として過ごした日々と同じ、ディオはディオであり、あの悲しい顔をさせているのは、ジョナサンが原因なのだ。
「ディオ、答えてほしい……。何故、君は、彼女たちを襲ったんだ?」
 強風は、二人の間に吹き荒ぶ。地面から砂埃が巻き上がり、ジョナサンは目を細めた。
「君は……、約束してくれた、そして守ってくれていた。だから、……だからぼくは」
「先に破ったのはおまえだ。」
 ディオは、重苦しい声で言い、手のなかの一輪の花を握りつぶした。
 はじめの約束で、ディオは「毎晩だ」とジョナサンに誓わせた。
「それは……ッ」
 やぶりたくて破ったわけではなかった。現状を話したところで、何もかもが言い訳にしかならないと、ジョナサンは口を結んだ。
「でも……、何故、……ッ」
 人を襲うことだけは、ジョナサンにはそれだけは許せなく、目を瞑ることも出来ない。何故だと、どうしてなのだと、苦々しくもディオを責める。
「おまえは……目の前に食べ物があるのに、食事を断てるか? 空腹で仕方ないというのに、誰が目の前におかれたパンを見ないふりができる?」
 乾く血を指で掬い取り、ディオは舌先に乗せる。
「飢えたことの無いヤツに飢餓感など理解出来んだろう? 飢えとは乾きだ。衰えれば死ぬ」
 腫れて膨れた頬に指をあて、ディオはゆっくりとジョナサンへ顔を傾けて見せた。
「おまえはおれに強いたんだ……そうせざるを得ないことを……」
 澱んだ目が、ジョナサンを叩きのめすのに、いく秒もかからなかった。
「歩いてでも、這ってでも、誰が止めようとも、……どんな手を使っても! ぼくは……ぼくは、ここに来るべきだった……。」
 ディオに、娘たちを襲わせたのは、間接的にジョナサンが所為であった。
 彼の餌である自分が居なければ、その代わりをディオは得なければ生きられない。一晩、二晩、ジョナサンが牧場で、温かな食事を口にしていた間、彼はジョナサンをひたすらに待っていた。ジョナサンが見つけたとき、娘たちが瀕死であったということは、ディオは三日目の夜に娘たちを襲ったということになる。ディオは、その二晩は変わらずに待っていてくれていた。
 ディオは、他の何者にも抱かれはしないし、精気を取りたがらない。吸血鬼としては、本来の栄養の摂取は若い女の生き血が、最も効率よくそして体に合っているものだと言った。だが、ディオはジョナサンの精気を選び、約束を守っていてくれた。ジョナサンも、世界を守るという大義名分を盾に、内心では自分と、そしてディオのために、毎晩と通いつめていたのではないか。
 彼に、人を殺させたくない。
 それが、隠されていたジョナサンの願いだった。
 たとえ、もうディオが人ではない魔物であるとしても、心までは、失わせたくない。
 思いだけでも人であってほしい、そのためには、何が何でも人を殺させてはいけない。
 彼が一歩間違えてしまえば、ジョナサンは愛せない、愛せなくなってしまうから。
 ――愛しているから、過ちを犯せば、彼を殺さなくちゃいけないんだ。
 一か、零しか、ふたりには道がない。
 愛か死、その道しか無い。ジョナサンは、たとえその一の道が、ぼろぼろに崩れて、いつ壊れてもおかしくないとしても、零を選ばない。
 ディオが自分を選んでくれたのだから、決して彼に過ちを犯させない。間違いが起こるというなら、それを全て自分が止めるんだと、ジョナサンは、強く自分に、そしてディオに誓う。


「あの娘たちは、みんな生きている……、助かったんだ。だから君は、」
 枯れ葉を踏み、ジョナサンは、ディオへ近づき、見上げた。闇にディオの金色は目立って光っている。
「誰も殺していない」
 襲い、傷つけたのは間違いなく事実であり、それを許そうとはジョナサンも思っていない。ただ、ジョナサンにも非がある。彼女たちを『パン』とたとえたディオには、やはり人の命が単なる食料にしか思えないのも、遺憾だった。
「死にはしないさ、」
 ディオはしゃがみ込み、百合の花を顔に近づける。
「死なない程度に加減をした」
 一枚の花びらを噛み、千切り、百合の茎を指でへし折る。
「つまり……それは、……君には分かっていたのかい……?」
「何が?」
「彼女たちが助かると……」
「あのまま、ずっと放って置かれていたら、死んだだろうなァ……」
「ぼくが、来るって、分かって、知っていて、そうしたのか?」
「さあ、な。」
 折れて萎びた花を捨て、ディオはジョナサンに背を向けた。
 ――殺意は無い。無かったんだ……。
 始めて吸血鬼として出会った彼にあった、ぎらぎらと燃え盛っていた殺意が今は感じられない。世界を恨み、人を憎み、夜と闇を好む吸血鬼が、ジョナサンという糧を得て、本質は少しずつではあるが変わり始めていた。
 ジョナサンが必ず彼女たちを助けるだろうと、ディオはそう予想していた? ジョナサンを信頼した、ということなのだろうか?
 たとえ、情が娘たちに向けられたもので無くても、今はそれで充分だった。
 彼には心がある。
 いや、なくなった心が、戻りつつあるのだ。
「ディオ……、すまなかった……謝るよ、空腹もそうだけど」
 ジョナサンの目には、白い背中が一回り小さく映った。竦められた肩が心細くて、触れられずにはいられなかった。
「……ぼくに会えなくて」
 胸の中にディオの頭を寄せ、ジョナサンは後ろから抱きしめた。
「寂しかった?」
 囁くジョナサンの唇のある方とは反対に顔を背けたディオの様子は、機嫌を取れと命じているようであった。
「ほっぺた、どうして治さないでいたの?」
 腫れた頬は膨れて、ジョナサンの胸も痛む。思い切り加減せずに打ったのは、どうせディオはすぐに傷を治すのだろうと、あの時は思い込んでいたからだ。
「さわるな」
 頑なにディオはそっぽを向き、ジョナサンの手から顔を離す。
「顔を見せておくれよ」
「見るな」
「ねぇ、ったら」
 腰に回していた手をディオの顎にかけ、ジョナサンは自分のほうへ向けようとした。ディオはジョナサンの手首を掴むと、軽くひねりあげて、身も離させた。
「おまえのッ! その強引に言わせようとする所がキライだ!」
 ジョナサンが触れていた箇所を手で何度かはたいてディオは汚れを落とすような仕草をし、苛立った時の癖で腕を組んだ。
 もし、ここでジョナサンが諦める男であったなら、ディオはこんな真似はしない。それ以前にわざわざ思わせぶりな態度も取りはしない。
「だって、言ってほしいじゃあないか。かわいい人に、かわいいことを」
 ディオは見なくても、ジョナサンが大層緩みきっている笑みをしているのだと予想がつく。
 今度は簡単に離されないよう、ジョナサンはディオにしがみついて肩口に顔を埋める。
「ここは潮風がよく通るね。おかげでぼくの体も、ほら」
 擦り寄ってジョナサンは手をディオの手に重ねて持つ。
「すっかり冷えてしまったよ」
「おれの手のほうが冷たいだろう、離せよ」
 腫れた頬だけがディオのほっぺたを膨らませているのではなかった、むくれてわざとらしく唇も尖っているのが、後ろから覗いたジョナサンから見て取れた。
「館に戻ろう、ここは寒いし、風も強くなってきた。」
 言えばディオは、息をはき、肩から全身の力を抜き、小さく頷いたのだった。

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