月海夜 32

 明け方まで数時間もある。闇の時間をディオは一人で過ごすのが好きだった。誰もが寝静まり、夜空を見上げると月と星だけが地上を照らす。昼間のロンドンの曇り空よりも、この闇夜のほうが明るい。
 カーテンを開ければ、月明かりがランプの代わりになった。ペンを取り、ディオは昨日の続きの文章を書き始める。
 この体になってからは時が経つのが気にならなくなっていた。俗世とは遮断された生活には時計も意味は持たない。
 そばにある寝息だけが、ディオに時の概念を知らせていた。
「起きているな、ジョジョ」
 姿を見なくとも、気配だけで察していた。手にしたペンを机に置き、ディオは振り返った。
「眠らないのか」
「うん……考えて事をしていたら頭が冴えちゃって」
 ディオは横たわるジョナサンの枕元に腰掛けた。手で髪を撫でれば、ジョナサンは指先を持って自然にキスをしてくれる。
「もし……子どもが出来たらどうしようかな、って」
「子ども……? 誰の?」
「ぼく達の」
 さも当然といった風にジョナサンは即答したので、ディオはそれ以上何も言わなかった。
「名前を考えてた。色々思いつきそうなんだけど、難しくて」
 ディオの指先で遊んでいたジョナサンの無骨な手は、無邪気に細腰にまとわりつき、そして布団の中に誘った。
 横に倒されたディオの腹回りをジョナサンは撫でる。膨らむ予定など無い腹を、何度も何度もジョナサンは大事そうに撫でるのだった。
「ぼくも父も、祖父も、曾祖父も、みんなJのつく名前だったから、次に生まれる子もJがつく名前がいいと思ってね。でもなかなかしっくりくる良い名が思いつかないんだ」
「どうしておまえの姓になると決まっているんだ」
 論点がずれていたが、ディオは突っかかった。
「君だってジョースター家の一員じゃあないか」
 正式に養子になって数年、書類上ではディオはまだジョースター家に属している。
「……ふん」
 ジョナサンの腕を枕にしていたディオはそこからずり下がり、布団の中にもぐった。体を反転させ、ジョナサンに背を向ける。
「あ、子どもじゃあないんだから! 逃げるのはずるいよ」
 追いかけてジョナサンも布団に顔を突っ込む。真っ暗な布間の中、大人がくだらない理由に託けて戯れる。
「ほら、もう捕まえ……」
 脇から腕を入れて捕らえたと思ったが、ジョナサンは反対に罠にかかっていたのだった。
「ん……」
 引き入れられた先には、蜜がある。口に入れたら最後、空になるまで貪るだけだ。
「ん、ん……ッ」
 下になっているディオはジョナサンの頭を両腕で囲い、後頭部に手を差し込む。腿はジョナサンの腰を挟んで、しがみつく体勢になる。ディオのいつもの癖だった。
 緩く密閉された中で息があがると、酸素が薄くなる。すると余計に荒い息遣いが聞こえてきて、聴覚から昂ぶってくる。

 ディオが納得できるまで、ジョナサンはいくらだって愛を捧げるつもりだ。
 肉体として、抱くことが良いと言われればそうする。言葉や形としてのものが良いと言われれば、何度でも伝える。そうして、欠落したディオの心をジョナサンは手の平に包んで胸に仕舞い、暖める。未成熟な命を育てていく。
 ジョナサンには夢がある。そして未来がある。時は止めるものでも、戻るものでもなく、確かにあるその先に向かい、前へと進むために時は在るのだ。


『父さん。お元気ですか?いつも心配ばかりかけてごめんなさい。ぼくもディオも元気です。この前の手紙に書いたとおり、もうすぐ邸に帰れそうです。日取りが決まり次第知らせます。 追伸 クリスマス前には必ず間に合わせます。 愛をこめて――あなたの息子より』

 卿が手紙を受け取ったのは、ジョースター邸に初雪のふる日だった。添えられたカードには、冬の海の絵が描かれていた。
「ぼっちゃま達がお帰りになられたら、お邸もまた賑やかになりますね、旦那さま」
「そうだな……でも、まずは」
 卿は仕事机に飾られている写真立てを手にとった。色あせたカルト・ド・ヴィジットにはまだ幼い日のジョナサンとディオ、そして卿の三人並んで写っている。
「ふたりにはたっぷりと説教をせねばならんな」
 執事は苦笑いをして、頷いた。そして心の中で――旦那様は大分ご立腹のようだな……と呟いた。


「そうなの、さみしくなるわね」
 パブには顔見知りが何人かおり、ジョナサンは彼らに生家である邸に戻ることを話していた。
 女給仕のヘレンは眉を垂れ下げて料理を運び、残念そうに言った。
「それで、あの石館に住んでるっていう、ジョースターさんの連れの調子は良くなったのかい?」
 噂が尾ひれをつけ、どうやらディオは病気の療養のためにここに来ていることになっていた。あながち間違ってもいなかったので、ジョナサンは噂を否定しなかった。
 世話になった牧場の主もジョナサンとの別れを惜しんだ。
「ええ、良くなったというか……いい方法が見つかったんです」
「へえ、それって、やっぱりあの娘たちを治したアレか?」
 荒っぽい口調の男性は、あの場に居合わせた中の一人だった。今も酔っ払っている割に鋭い指摘をするのでジョナサンはグラスの飲み物を吹き出しそうになった。
「ああ、確かにあれなら、何でも治っちまいそうな気ぃするなあ」
 酔いどれの男集は、豪快に笑い飛ばした。つられてジョナサンも笑っていた。
「ジョースターさん、前より何だかすっきりした顔つきになったわ」
 ヘレンはジョナサンの瞳を見て言った。
「そうかな」
「うん……良かったわね。本当、良かったね」
 客に見せる作り笑いではない少女の素直な笑顔は、少しだけ切ない色が混じっていた。
 楽しいときは、過ぎるのが早かった。グラスと空瓶がテーブルに散乱し、みな赤ら顔になっていた。
 長居はできないと伝えていたのに、もう一杯だけ、とジョナサンを客たちは引き止めようとする。
「おい、もうそこらへんで止めときな」
 そんな連中の手から逃がしてくれたのは、他でもない牧場主の男であった。彼らに別れを告げ、ジョナサンは店の入り口に立ち、男に握手を求めた。
「また遊びにきてくれよ、ジョースターさん。おれ達はいつだって歓迎するぜ」
「ありがとうございます。必ずまた来ます」
 強く手を握られ、景気付けにジョナサンは肩を二三度叩かれた。
「……ヘレン、いいのかい?」
 店主は、店の中からジョナサンの背を見送る彼女に問いかけた。
「何が?」
「さよならくらい、言いに行ったらどうだ」
「何よ、今まで散々邪魔してきたくせに」
「おい、いいのか? もう行っちまうぞ」
「いいわよ……いいの。どうせ叶わないんだもん」
「……あの人は仕方ない。男だって惚れちまう、正真正銘のいい男だからなあ」
「うるさいなあ」
 店主はヘレンのきちんと結った髪を、頭を撫でるふりをして手でぐしゃぐしゃに乱してやった。
「おっと、せっかく綺麗にしてたのにな。それじゃあ仕事にならないな! ちょっと裏で直してこい」
 わざとらしくおどけてみせた店主の優しさに甘えて、ヘレンは店の奥へ引っ込んだ。そして彼女は声を殺してひとり泣いた。


 波紋の力を以ってしても、必ず人に戻れるわけではない……と知りながら、ディオはジョナサンの願いのためにその方法に乗ってやると決意したのだった。
 吸血鬼になると決めたときよりも、ディオには覚悟のいる決断だった。
 今更、戻れるものか。そう思っていた筈だったのに、ジョナサンが自分と同じ恐怖を感じていると知り、考えは一変していた。
 愛は人を変えるのか? ディオはこれまで読み連ねてきた本の数々に記されてきていた「愛」という不確かなものについて、興味を持ち始めていた。
 そして、新しい紙にそれらの疑問、独自の答えを書き表していく。
 ディオ自身の生き様、人生そのものが、研究対象である。勿論、ジョナサンも含まれている。
 まだディオは高々二十年余りしか生きていない。この先に待ち受けるものに、期待する。
「面白い。やはりおれにとってジョジョは、生命の……魂の片割れなのだな」
 この目で見るもの、知れるもの。この手に掴み、極めるもの。やがて辿り着く場所からの世界がどう映るのか、それがディオには楽しみであった。


 持ち帰る物は多くなく、石館に元々あったものはそのままにしておいた。片付けられた部屋を見回し、ジョナサンは一人石床に座り込んだ。
 石は冷たく、ひやりとしている。
 季節はすっかり冬になり、あと少しで新しい年になる。暖炉をつけていない部屋では、息は白く吐き出される。
 森が眠り、海は凪ぐ。空には北風が吹き、夜は闇を長引かせる。
「何か、また考え事か?」
 足音ひとつ立てずにディオはジョナサンの肩に手を置いた。腕はしなやかに胸の前に渡り、ディオは後ろからジョナサンを抱く。
「いいや……少し思い出してた」
「何を」
「もう何年も、ここに居たような気がするよ」
 胸を抱くディオの手にジョナサンは自分の手を乗せる。指の間に指を入れて、重ね持った。
「そうか……」
 ジョナサンの肩にディオは額を寄せ、目を閉じ体温を感じた。
 無音の中、互いの鼓動が同じ拍子で刻まれるのを、耳を澄まして聞いていた。
 すると、かすかな旋律がジョナサンには聞こえてきた。囁くような、優しい音が耳たぶを掠める。
「……ディオ……、歌ってる?」
「……ン?」
 尋ねられて自覚したディオは、口元に触れた。滑り落ちるメロディは、いつか聞かせてもらった歌声だった。記憶の底から美しい状態で蘇っていたのだった。
「やめないで。もっと聞かせて、続けて、ディオ」
 失われなかった思い出は、ふいに感情から思い起こされる。

 ――はるかな波のむこう あたらしい光が うまれゆく 金と銀のつばさをひろげ あなたの夢に わたしはいる あなたはわたしの 夢をみる……――

 途切れ途切れにディオは口ずさんだ。音と詩は胸にすうっと沁み込んでいった。
「きれいな歌だね、初めて聞いたよ。それにディオの歌声も初めて聞いた。何の歌なんだい?」
「いや……覚えてないな」
「ああ、もしかしたら、君のお母さんが歌っていたのかもしれないね」
 何故だか直感的にジョナサンはそう思った。おそらく、子守唄に聞こえたからだ。そこから母親をイメージしていた。
「そう……だったかな……」
 家族のことを話題にするのをずっと避けていたディオが、母親について考える姿は、やはり寂しそうであった。しかし、とても穏やかそうにもジョナサンには見えていた。
 ジョナサンはまたひとつ、ディオのほつれた心の一部分を繕えた気がした。


「ねえ、ディオ。今からちょっとだけぼくに付き合ってくれないか」
 夜半も過ぎ、町の灯りも消える頃だった。
 大概ジョナサンは自分の意を押し通すので、重い腰をあげてディオは仕方なく外へ出ることにした。
 上空の雲の流れは早く、月は見え隠れする。それでもディオの目には月光が白く映った。
 丘の木々を歩かされ、森を抜け、延々と深緑が続いた。そしてようやく辿り着いた。
 連れられて来た場所は、外界から切り取られたような小さな海岸だった。
 砂浜には何者の足跡もなく、静寂に波音だけが繰り返し響いていた。
「偶然見つけたんだ。ほら、見て。ここは、きっと長いこと誰にも見つけられずにいたんだろうね」
 古びた小船を指し、ジョナサンは砂浜に降り立った。靴を脱ぎ、素足で金色の砂を歩き始める。
「ディオ?」
 ジョナサンは手をディオへ差し伸べていた。腕組していた手を外して、ディオはジョナサンの手を取った。
「へへ」
「……何を笑う?」
 繋いだ手を掲げて、ジョナサンは自慢げに言った。
「こうして、君と手を繋いで外を歩けるなんて、思ってもみなかった」
「わざわざこんなことをする為に来たのか」
「そうかもしれない……それに君と一緒にここに来たかったから」
 ジョナサンの足音は砂を踏む軽い音がしている。波打ち際に足を伸ばして、海水に触れる。
「ううっ、冷たい! 痺れそうだ」
 震え上がって足を踏み鳴らすと、砂がきらきらと光ってあたりに散った。
「見れば分かるもんだろ、馬鹿め」
「だって、海だよ。本物の海! ぼくはうんと小さい頃、一度だけ触ったきりだよ。海に入るのは久しぶりだ。ディオは、海を見たことあったのかい?」
「……絵や、写真でなら。そうだな……自分の目でちゃんと見るのは、初めてかもしれないな」
 遠くに、異国の灯台か、それとも船の灯りだろうか。橙色をした光が、小さく点々としている。水面には月がぼんやりと映って、波が寄せては返して、光をちらつかせている。
「もうすぐ、クリスマスだね」
 浜辺を並んで歩き、二人はとりとめのない会話をした。
「おれには関係ない」
「どうして?」
 ジョナサンはディオの顔を覗き込んで瞬きをした。
「毎夜、神は生まれて、おまえが祝福するからだ」
 傾けた顔にディオは軽く口付けて、優美に唇を曲げた。そして手を離し、呆けるジョナサンを見てから声を出してディオは明るく笑った。
 からかわれたと知ったジョナサンは、照れくさくなってディオを追いかけた。追えばディオは、その手から逃れようと身をかわし、ジョナサンも向きになって飛び掛った。
「うわっ!」
「うえっ!」
 砂に足を取られたジョナサンが、ディオの体に乗る形で転び、ふたりは砂浜の上に倒れ込んだ。
「……ッ、ふふ」
「…………ッく」
「ははははははは!」
「はははっあはははは!」
 何が可笑しいのかが分からないからおかしくて、笑った。よく反響する作りの岩がふたりの笑い声を大きくさせていた。
 ひと頻り笑い合ったあと、ジョナサンは目尻に涙を浮かべていた。砂まみれになったジョナサンの顔を見ると、ディオはまた腹が揺れた。

 ごく自然にジョナサンはディオの片手を取って起き上がらせ、立ち上がったあとも、ジョナサンはしっかりとディオの手を握っていた。
 あまりにも手の力は強く、振りほどけそうもなかった。この場には他に誰がいるわけでもない。ディオは、繋いだ手を握り返した。
 すると、安心したのかジョナサンの力が緩んでいき、指が絡み合う形に手は繋がれ直された。
 ふと、ディオは振り返った。
 砂浜には、ふたり分の足跡が続いていた。はじめ離れていた足跡が、途中から近づいていき、時にめちゃくちゃにあたりを踏み荒し、追いかけ、追われる。そして今、寄り添って並んでいる。
 二人の歩く先には、遠く明かりが灯っている。淡く心許無い小さな光でも、ディオにとって曙光となる。
「ジョジョ」
「なに?」
 呼べばジョナサンはディオへ向いた。
「好きだ」
「ぼくも、君が好きだよ……ディオ」
 夜空を見上げると、鮮やかに満ちた月が姿を現していて、その光は海に映し出されていた。




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