月海夜 31
数日が過ぎ、ジョナサンはロンドンに居た。ツェペリが住まう町へ足を運んでいたのだ。「ええと、手紙には、確か……」
ツェペリが書き記した住所を頼りに、ジョナサンはあたりを見回す。
「おお、ジョジョ!」
すると、頭上から弾んだ声が降ってきて、次にジョナサンの影に何か別の物体が重なった。と、思った瞬間には、石畳に軽やかな靴音が鳴った。
「わ! お……お久しぶり……です!」
「ホッホッホ、どれどれ顔を見せてくれ……」
ツェペリは、住まいの三階の窓からどうやら飛び降りてきたらしい。人間離れしている跳躍と突飛な行動は健在だった。
「うむ。良い顔つきだ、ジョジョ」
長髭を撫で付けてツェペリは目尻を下げた。
良い顔、とは。負の感情が洗い流され、乗り越えた先にある明るい微笑みだった。抱え込んだものが重ければ重いほど、乗り越えた先の光は眩い。
「ディオは、どうした」
「彼は、……太陽が出ているうちは外には出られませんから、あの館にいます」
「……そうだな。そうだったな……」
ツェペリは、息をついて降りてきた建物を指した。
「せっかく来てくれたんだ、上がってくれ。茶でも出そう」
降りてくる時には、無茶な方法を選ぶのだが、昇るときは普通に階段を使うツェペリが何だかおかしくてジョナサンは師の背を追いかけながら少し笑った。
男爵の住まいにしては狭い部屋には、女中がひとりいるだけで、中はこざっぱりしていた。荷物も少なく、家具も最低限しかない。
「ここは仮住まいでね、いつもひとつの所に長居はせんのだよ」
ジョナサンの疑問を見抜いたツェペリは、質問される前に答えていた。
「かけたまえ」
窓辺に対に置かれたソファーに腰掛け、ジョナサンはメイドが運んできた紅茶を口にした。
「君がこうしてここに来てくれたということは……聞かずとも分かることだが」
「ええ。何とか、上手くいってます」
「はは、君はいつも正直な男だからな、実に明瞭だ」
ツェペリは紅茶よりもコーヒーを好んでいた。香ばしい特徴的な豆の匂いがしている。
「あの、この手紙にあった……」
一息ついてから、ジョナサンは仕舞っていた手紙を出し短い文面を指した。
『これからの未来』
一体何のことをツェペリが示しているのか、気掛かりだった。ほんの少しの不穏がジョナサンの心に影を作る。
「そう……そのことだが……」
立ち上がったツェペリは開いていた窓を閉め、扉に内鍵をつけた。この会話を他者の耳に入れないようにするための配慮だった。
「少々、年寄りの昔話に付き合ってくれるか?」
「……? ツェペリさん?」
「なあに、そう手間は取らせんよ」
窓の外の風景を目に凝らしていた。椅子に座り直るとツェペリは熱いコーヒーをすすった。
波紋をツェペリから教わる前、ジョナサンは彼の壮絶な半生を聞かされていた。ディオと戦う決意をし、そしてツェペリを師と仰ぐきっかけだった。
「その時は……まだわたしの思いに関しては、君に言いはしなかった。わたしの私情など、波紋法には無関係でしかなかったからな……」
「ツェペリさんの、思い……?」
「何十年たっても、悔いは決して消えることはない。反対に年月は積み重なるほど、後悔は深まる」
「……後悔……」
ジョナサンは、口に出して言ってみる。何を伝えようとしてツェペリはわざわざ悲しい過去を掘り下げているのだろうか。彼はこの話をするとき、視線を遠くにやる。そして、おそらく父を思い出すとき、瞳には薄く涙の膜が張る。
「わたしは……はじめこそ、父が誘惑に負け自ら仮面をかぶったのだと決め付け、それに対して憤りを感じたり、反対に何も知らなかった父が望んで吸血鬼になるものかと考え直し自分に怒りを覚えたりもした。そして父をあんな魔物にした石仮面を憎んだ。自問自答の繰り返し、寝ても醒めても、悪夢だった。何年も、何十年も、それはわたしに付きまとった」
ツェペリは足を組み替え、深く息を吐いた。ジョナサンは押し黙って真剣に話に耳を傾ける。カップの紅茶は温くなっていた。
「わたしは苦しみから逃れるために吸血鬼や屍生人への対抗方法と、石仮面の研究に没頭した。……やがて、わたしはひとつの叶えられなかった望みがあったのだと知った」
「……望み、ですか?」
頷いたツェペリは、ゆっくりと立ち上がり、後ろを向いた。背は正しく真っ直ぐだった。
「そう……人は人間として生き、人間の尊厳を持ち、死ぬこと。わたしは……父を、人として死なせてやりたかった。あんな……惨く悲しい形でなく」
声は凛としていた。呼吸は乱れず規則正しい。なのに、ジョナサンは遣る瀬無い気持ちになる。
「不本意に魔物になり、人を殺し、そして太陽に気化し、骨すら灰になった。……消えてしまった父を思うと悔しかった。父はわたしの思いの何倍も何十倍も、つらく苦しく……悲しかっただろうと……、考えてしまう。今でも、だ」
沈黙が続いた。ツェペリは立ったまま動かない。ジョナサンはその心細い背を見守るしか無かった。
「前置きが、長くなったな」
振り向き、ソファーに腰掛けたときにはツェペリはいつもの調子を取り戻していた。
「ジョジョ。君には愛する人を人として、愛しぬいて欲しい」
「……ディオのこと、ですか」
「そうだ」
「でも……彼は、」
吸血鬼でも構わないと、ジョナサンはディオに誓った。そして、ディオもジョナサンの決意を受け入れた。だから二人は結ばれたのだ。ツェペリの言いたいことも分かるだけに、ジョナサンは気難しく眉を顰めてしまう。しかしツェペリは遮って言った。
「ジョジョ、おまえには可能性がある」
「……え?」
「波紋の力の持つプラスのパワー、生命エネルギーの別の活用法だ」
「ぼくの……ですか? でも、波紋の力だけならツェペリさんの方があるのに」
「いいや、わたしには出来んよ……おまえさんにしか、ディオは救えない」
夕暮れ前にジョナサンは馬車を走らせていた。御者はジョナサンの焦る様につられて馬を強く叩いて急かしていた。
六時も過ぎればあたりはすっかり暗くなってしまっていた。
馬車道があるのは町の近くまでだったので、付近で降りるとジョナサンはその足で駆け抜けていった。御者が、この男ならもしかしたら馬車よりも速かったのではないかと思わせられるくらい、とにかくジョナサンは全速力だった。
「――ディオが……ディオが……ディオが……っ!」
吸血鬼の力が破壊と滅びでしかない邪悪な闇とするなら、ジョナサンの持つ波紋の力は生命と再生を助ける光であるとツェペリは言った。それは、他のものが持っている波紋の力とは、違うものなのだと教えられた。ジョナサン自身が生まれつき携えている慈愛と呼ばれるもの。戦闘手段として波紋を使ってきたものには、到底使いこなせないであろう力だった。
そんな筈は無い、とジョナサンはいつかツェペリが自分の傷を癒してくれたことを話したが、『それは、君が万人に一人の才能の持ち主だったからだ』と両断された。
『君のその力を、どうか君の愛するもののために使ってほしい。わたしは、心から願っているよ』
――ツェペリさん、ありがとう。ぼくは、あなたに導かれなければ、きっと何ひとつ真実を掴めずに朽ち果てていたでしょう。
丘を駆け上り、門を開き、ジョナサンは盛大に足音を立てて扉を開いた。
「ディィィオォォォーーーーッ!!!」
「やかましいっ! もっと静かに生きられないのか!」
長椅子に座っていたディオはこめかみに青筋をたてて、勢いよく立ち上がった。立てられた人指し指がジョナサンの顔面に突き刺さりそうになる。
「ぼくはっ、今っ、どうしようもなくっ、うれしいっ!!!」
「ウグゥ!」
壁に追い詰めてから、そのままジョナサンはディオの身をへし折るぐらい力強く抱きしめていた。
「退け! はなせっ! この!」
ディオは自由な頭部を振りかぶって、思い切りジョナサンの額目掛けて打ち当ててみたが、頑強な骨はびくともしなかった。
「……ッう」
逆に痛い思いをしたのはディオの方だった。ジョナサンは別に悪くはないのだが反射的に「ごめん」と言ってしまった。
「くそ、興奮した猿ほど扱いにくいものはないな」
「ごめん、悪かったよ……冷静に……なるから……でも!」
口調は大人しくなりつつあったが、ジョナサンはそれでも腕を緩められず、またディオを胸に入れて唸った。
「な、なんだって言うんだ……ツェペリとか言うやつの所で何か良いことでもあったのか」
ぱっと顔を上げ、ジョナサンは泣き出しそうな不思議な笑みを湛えた。
「なんだ……」
「ディオ……」
所が、その先を話そうとして、ジョナサンに迷いが生まれた。
ディオは、自分から進んで石仮面を手にした。そして吸血鬼になることを、望んだのだ。
自らの生き方を選択したディオに、ジョナサンは自分の希望を押し付けても、喜んで貰えないと思ったのだ。
だとしても、引き下がれない。
「君は……人に、戻れる」
案の定、ディオからは表情が失せた。
「何、だって」
「正確には、戻れるかも、……しれない。百パーセントの保証はない。でも」
「……今更、人に……だと? 随分と馬鹿げたことを言ってくれるじゃあないか」
「ぼくは!」
揺らいだ瞳を捉えて、ジョナサンはディオの両頬を手で包む。
「ぼくは、君と生きたい。生きていたい。君と……人として。その希望にかけてみたいんだ!」
思いの熱さが体温も高める。ジョナサンの手は汗ばんでいた。
「ジョジョ……言ったじゃあないか。おれが、吸血鬼も構わんと……それは嘘だったのか」
「違うよ! そうじゃあない……ぼくの勝手な願いだっていうのも、分かってる。でも、本当にこのままでいいのかって、考えてしまう。可能性を捨てたくないんだ」
瞼を閉じたディオは、口も閉じてしまった。いっそ詰られた方が良かったとジョナサンは苦しくなった。
「離せよ、ジョジョ」
「いやだ。絶対、離すものか」
肩を壁に押し付けている手をディオは煩わしそうに掴む。服に皺が出来、骨が痛んだ。
「……嬉しかったんだ」
妙に高く震える声色で、ジョナサンは話し出す。
「君が……人間に戻れるかもしれないと言われて、すごく急いで帰ってきたんだ……はやく言いたかった。知らせたかった。でも、確かにぼくは君の気持ちをちゃんと考えてなかった。でも、周りが見えなくなって浮かれるくらい嬉しかったんだ」
雨粒が、ディオの髪にひと雫落ちた。濡れた感触にディオは閉じていた瞼を持ち上げた。
「でも、ディオ。君は……ぼくの気持ちを考えたことはあるかい? 君が永遠を生きられる、ぼくはどうしたって共には生きられない。君がもし、過ちを犯してしまったなら、ぼくは君を殺さなくちゃならない。ぼくは、君を好きなのに、愛しているのに! 憎んでいるなら、どんなに良かったか! 好きな人の死を常にそばに感じながら、毎日を過ごすのはどれだけ……辛くて、悲しいことか、君は、君には分かるのか?」
塞き止めていた堤防が崩れると、流れは誰にも止められやしない。涙が顎先に通り、粒となり、ディオに落ちる。
「泣けば……それで済むとでも思っているのか」
ジョナサンの目元を袖口で拭ってやりながらも、ディオは辛辣に言い放つ。
「ないよ……ただ、言いたかっただけだ。分かって欲しかっただけだよ」
「おれを殺すのが、そんなに恐ろしいのか」
「そうだよ……」
「おかしいな。おまえはおれを殺したくて、ここまで来たのにな……」
ディオもまたジョナサンの死を何より恐れている。同じ思いを共有している事実に喜び、ディオは笑いそうになって下を向いた。
「おれも、おかしくなってしまったようだ。ほんの少し前まで、おまえを殺す気でいたというのに、奇妙な巡り合せだ……」
「ディオ……?」
ジョナサンの胸にディオは顔を隠すようにして押し当てた。
「ジョジョ、今すぐ抱け。おまえの愛を、全部おれに教えろよ……」
ジョナサンのシャツには二つ、小さな染みが出来ていた。