歌のおにいさん 2

結局ディオは、ジョナサンからひとときも離れず、終始肩車をする形でランスルーは終えられた。
「ディオ、もう終わりなのよ。ジョースターさんとさよならするのよ」
「……いやだ!」
母親が手を差し伸べても、ディオはジョナサンから離れたがらなかった。まるで初めからそこが居場所だったかのようにジョナサンのそばに落ち着き、首元を放さなかった。
「また来週、本番があるんだから、ね?」
「……本当?」
ディオはジョナサンの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「うん、また会えるよ」
決してジョナサンは無理に引き離そうとはせず、ディオ自身の意思を待った。次の約束があるとなると、ディオは渋々だったが首元から手を放した。
「なあ、次もジョナサンの上に乗ってもいい?」
「いいよ」
下ろされたディオは、上目遣いでジョナサンに訊いた。目線を合わせようとジョナサンはしゃがみ込んでくれるのだが、それでも体格差のためにディオは見上げるようにして首を持ち上げる。そうしないと視線が合わない。
「他の誰かを乗せたりしたらだめだからな」
「……ハハッ、乗せないよ」
「絶対だぞ」
「うん、指切りしようか」
「……ゆびきり?」
「こうやって」
ディオの小さな手をとると、さらに小さな小指をジョナサンは自分の小指に絡めた。
「約束の証だよ」
「うん」
幼子の中にまだ残る純粋さで、ディオはジョナサンを信頼した。大人の言うことは、いつもどこか嘘が混じっているものだと知っていたディオでもジョナサンの言葉は信じられそうだった。
「じゃあ、またね」
「うん」
母親に手をとられ、スタジオを出て行くディオは何度も振り返って手を振った。ジョナサンはいつまでも笑顔で手を振り返し続けてくれていた。


局内の廊下を母親と並んで歩きながら、ディオは先ほど繋がれた小指を見つめていた。
「珍しいわね。あんなにディオが大人に構うなんて。どこが気に入ったのかしら?」
「……ちがう」
「ちがうの?」
「そうじゃない」
「ふふ、恥ずかしいのかしら」
「もう、帰る」
「そうね、今日は真っ直ぐ帰りましょうね。おとうさんもお腹をすかせて待ってるわ」
明らかに機嫌を損ねているディオを見かね、母親はディオを抱きかかえて、早足で駐車場へと向かいだした。外はもう、太陽を沈めていた。


「お疲れさまです」
私服に着替えたジョナサンは会議室のドアを開いて、声を上げた。
主要のスタッフが揃った中央のテーブルには、差し入れの菓子や軽食が並ぶ。雑談をしながら、彼らはお茶などを飲んでいた。
「ああ、お疲れさま」
「お疲れさまですー」
顔を合わせたスタッフたちは、ジョナサンに軽く挨拶をしてくる。
「いやあ、災難でしたね」
「災難?」
若いアシスタントディレクターが、あの女性プロデューサーに視線を送る。そして、ジョナサンは数秒の後に頷いた。
「でも、まあ、別に。大したことでは」
「それにほら、どこかのモデルの子どもにもえらい気に入られてましたし。首、大丈夫っすか」
くだけた口調で話しかけるADは、ジョナサンの実年齢を知らない。ジョナサンは彼の見た目を見て、恐らく自分より十近く年下だろうと予測する。
「体は丈夫だから、平気だよ。ありがとう」
何なら君を肩車したって問題ないと思う、とジョナサンは言おうとしてやめた。昔から人間離れしすぎた自分の体力と筋力を、一部の人からは化物扱いされている。冗談半分で言う人もいれば、本気でジョナサンの能力に怯える人もいる。何となくジョナサンは口を噤んだのだった。
「いやでも、マジで筋肉やばいっすね。憧れるっす」
「ハハハ」
ADの彼は、冷たいお茶を注いでジョナサンに手渡してくれた。それを飲みながら、会議が始まるのを待った。
「お疲れ様ですー」
「あーお疲れ」
女性スタッフがドアを開け、会釈をしながら扉の前に立った。後からボスが軽く手を挙げながら部屋へ入ってくる。座っていたスタッフらは席を立ち、ボスへ挨拶する。
ドア付近に立っていたジョナサンはボスにお辞儀をした。ボスは軽くジョナサンの肩を叩いて労った。
「適当に座って」
ボスはスクリーンに今日撮影した映像を映し出す。音声は小さい。編集されていない映像は、音がなく寂しいものだった。
「何か気づく点があったら遠慮なく言ってくれ」
スタッフ等は、流れていく映像を真剣な眼差しで見入った。出演者であるジョナサンとは、彼らは違う着眼点を持っている。周りの空気に圧倒されそうだ。
「ジョースターさんの身長に合わせて、セットをもっと大きく作ったほうがいいですかね」
「衣装も、背景に比べると色味が強すぎる気がします」
「子どもの数も足りないですね。あと五人くらいは足したほうが画が映えそうです」
ボスの後ろにあるホワイトボードに、助手らしき女性が意見を次々に書き足していく。
ジョナサンは座るよう勧められたが、断って一番後ろに立った。若手のスタッフ等はジョナサン同様に立っている。
「前年度はメインがスージーQおねえさんでしたから全体の雰囲気がとても柔らかかったのが、視聴者の保護者からは好評でしたよね。今までの男性のメインは、一人だけでしたっけ」
「ああ、四年前の康一おにいさんだね。彼は体格がコンパクトだったし、保護者ウケのいいマスコット的キャラクターだったね」
「うーん、現場の子ども達には好評だったけど、映像となると一気にイメージが変わるからなあ」
「着ぐるみキャラクター、足しましょうか」
ジョナサンはその言葉に期待感が膨らんだ。この番組にもマスコットキャラクターは存在するのだが、ここ数年はアニメーションCGでの合成のみとなっていて、着ぐるみが出演する番組はジョナサンのプログラムとは別のものとなっている。
「いや……それじゃあ、夕方のプログラムと内容が重なるな。あくまでメインはジョナサンでいきたい」
ボスは顎をさすりながら意見を却下した。ジョナサンは肩を落とした。
「あの……」
ジョナサンの隣に立っていたくだけた口調のADが手を挙げた。
「何だね」
「ジョースターさんがずっと肩車してるあの子、どうっすかね」
「あの子?」
引きの映像を一時停止させ、一同はジョナサンの頭上で微笑んでいる子どもを見た。
「この子、素人さんじゃないっすよね。見た目もバツグンだし、ジョースターさんとのバランスを考えたら、丁度よくないっすか」
「資料はあるか?」
助手の女性にボスは問い掛ける。紙束の中から一枚のプロフィールを見つけ出し、ボスに渡された。
「広告モデルか、……経歴は悪くないな。年齢も視聴ターゲットと同年齢か」
「この小さい子と、ジョースターさんとの掛け合いも面白そうじゃないすか?」
「親しみやすさが出るし、ふたりとも良い表情してますよ」
「ジョースターさんはどうお思いかしら?」
女性プロデューサーが、ジョナサンに意見を求める。一同の視線が集まった。
「……ぼくは……――」


夕飯をすませると、父親はディオを風呂に連れて行った。大酒呑みの父の腹は胃の上からへその下まで曲線を描いて、狸腹をしている。
その腹を見て、ディオはため息をついた
「ほら、おまえも服をちゃっちゃと脱げ」
がさつな手が、強引にディオの衣服をはぎとり、横に抱えられるようにして浴室に連れ込まれた。ディオはジョナサンと父親の違いを知って、またため息をついた。
そして、指切りをした方の手をぎゅっと固く握り込めた。
「目ぇ潰れよ」
シャワーを頭から掛けられ、濡れた髪にシャンプーが振りかけられる。それから、わしわしとがさつな指で髪が洗われた。その間、ディオは黙って目を閉じて下を向き続けていた。
泡が洗い流されると、今度は体を洗われる。ディオは拳を作った手を上にした。
「なんだぁ、その手は」
「…………」
黙り込んでいるディオに訊いても、何も答えは返ってこなかった。
父親は自分の体も大雑把に洗うと、さっさと湯船に浸かった。
「おめぇも入るんだよ」
ふてくされたように動かないディオを引っ張り上げると、ディオは湯に体を沈められた。
「何か持ってんのか?」
頑なに片手を湯船につけようとしないディオの拳を訝しげに父親は見つめた。
首を振るディオの手を開かせようとする。
「やめろ!」
「おい、父親に向かってなんて口ききやがるんだ」
「うるさい! やだ!」
水面を揺らしながら暴れるディオの身体を支えて、父親は手首を握った。
「やだ! やだやだ!」
いつもに増して反抗的な態度に、父親は呆れた。何が何でもその手を開こうとはしない。
「何? けんかしてるの?」
二人の声が家中に響くので、母親は心配して様子を伺いにきた。
「ディオが手を洗おうとしねえんだよ」
「え〜?」
のんびりしている母親は、そっと浴室の戸を開きカーテンの隙間から覗いた。
涙目になっているディオはそれでも握った手を濡らさないように持ち上げたままだ。
「さっきご飯前に、手を洗ったでしょう?」
帰宅後と食事前には、母親に言われ手を洗っている。ディオは一人で出来ると言い張って、右手だけを洗った。指切りをした左手は、誰にも触らせたくなかったし、水で洗うことも出来なかった。
「……洗ったから、いいッ」
「嘘吐いてることくらい分かるんだよ。ほら、きたねえんだから、石けんつけて洗え!」
父親が手首を引っ張って、シャワーで流そうとした。
ディオは思わず奇声をあげていた。
「ちょっと、あなた! やめてあげて!」
母親は浴室に乗り込み、蛇口を閉めた。湯船からディオを出させて、そばにあったタオルでディオを包んだ。
「この子は訳もなく変なことする子じゃあないわ。理由があるのよ」
「そうかぁ? ガキってのは意味なく不潔なことしやがるもんだぜ」
「この子はそんなことしないわ。とにかく体は洗ったんだし、今日はもうやめましょ」
「ったく、そうやって甘やかすから、我が儘になっちまうんだろ!」
「もう、そんな言い方しないで」
ディオの身体を拭いた母親は、きつく握られたままの左手を見た。
「ディオ、ママにも言えない?」
「……今日、会った」
「ああ、ジョースターさん?」
「ゆびきり、したから」
「洗ったら、ゆびきり、なくなっちゃうと思ったの?」
母の言うことと、ディオの考えには相違があったが、うまく言い表せなかったのでディオは頷いておいた。
「無くならないから、手はちゃんと洗おうね。じゃないと……ジョースターさんに嫌われちゃうかも」
大人がよく使う脅し文句だったが、確かに汚れた手のままで一週間過ごすのは不快だった。それに次にジョナサンに会う時、爪に泥でも入っていたらディオは恥ずかしい思いをする。
「うん……」
洗面台で石けんを泡立てて貰い、ディオは左手を洗った。きれいになった手を見て、小指に残っている感触を思い出すようかのように右手で指を撫でた。


ジョナサンは鞄から煙草を取り出しかけて、手を戻した。ついいつもの癖で、吸おうとしてしまった自分を責めた。
今日は電車とタクシーを使ってテレビ局に来ていた。局の裏口から出るのは久しぶりのことだった。テレビの仕事は、舞台を中心に活動してきたジョナサンにとって滅多になかった。そのほとんどは、自分の車か付き人に送ってきてもらうのが常だった。
この仕事に受かった時、契約書には様々な制約が書かれていた。恋愛の禁止、性を匂わせる発言や仕事の禁止、車の運転、人前での飲酒、煙草の禁止など、細かな制限が設けられている。
歴代の「おねえさん」や「おにいさん」は皆これらを守り通してきた。誰一人として破ることはなかったルール。ジョナサンは自分も彼らと同じように一年間、その制約に従う決意を固める。
「十代から吸ってたんだもんな。禁煙するいい機会じゃあないか」
鞄の中で煙草の箱を握りつぶす。
あたりは夜の空間と化していて、人々は歓楽街へ赴く波を連ねている。
「大人の世界とは、しばしお別れだね」
夜が増す毎に明るく輝きだす都会の街へ背を向けて、ジョナサンは帰路へと歩き出した。


一週間後の本番に向け、大道具、小道具、衣装のスタッフたちは、急遽作られたデザインを元に作業を進める。
「で、あの子役の了承は得たんですか?」
「さあ? おれ達はとにかく作るだけだろ」
「そこらへんテキトーなんだもんなあ」
「まあ、うちのボスのことだからうまいことやるし、逃すわけないだろうね」
「しっかし、メインパーソナリティーのジョースターって人、随分おとなしー兄ちゃんだな」
衣装チームはジョナサンの服を作り直している。色がセットと合っていないのと、実際動いてみて本人が腕を動かしづらいと言ったので、新たに採寸をし直したのだった。
「私、何度かファントムの舞台見に行ってますけど、憑依型なんじゃあないですかね」
「ああ、役柄があって、能力が発揮できるタイプ?」
「舞台俳優ってそういう人多いですよね」
「でもさ、自分の意見っつーものがはっきりしてる人間が多いだろ。それなのに三歳の相手の意見に任せるとはなあ」
「子どものための番組ですからね。大人の意見を押しつけたくないんじゃないですか?」
「もしあのディオって子が断ったらどうするんですかねー、これ」
衣装チームの若手の女子が、作りかけのピンクのコスチュームを指した。
「代わりを見つけるだけだろ。別に誰だっていいんだよ。見た目が可愛くて、こっちが扱いやすけりゃ」
「……そういうもんですかね〜」
「ガキなんかあっという間にでかくなっちまうんだ。この番組に似合った年齢ならいいんだよ。そうやって何十年も作ってきたんだから」
「はあ、そうですか……」
最年少の彼女は、ディオを思い浮かべながら袖口を縫った。あの金色の髪に映えるだろうな、と思いながらピンク色の布地を広げる。
ジョナサンの肩に乗った子どもは、見ている側が優しい気持ちになれるような、そんな可愛らしい笑顔を浮かべていたのだった。