歓びの中で絶望している

「あら、男の子だって身なりを整えなくてはいけないわ」

「だってあなたは私とおなじ……だもの」


 ディオは、揺れる馬車の中でおぼろげな記憶の中の声に従っていた。
 ほとんど無意識のうちに、髪を梳かしている。
 始め髪は指通りが悪く、ぱさついた毛先はうまくまとまらなかった。
 根気よく何度も何度も、この行動を繰り返していたおかげで金糸は櫛をなめらかに通すまでになったのだ。
 硝子越しに映った顔は、なんとも言えない目をしている。
 虚ろな視線の先には、春の気配があった。
 花々や草木は陽気に芽吹き、小鳥はまだ頼りない翼でも巣立ちの時を迎える。子どもたちは外へ飛び出して、そこらを駆け回っている。
 狭い世間しか知らないディオにとっては、まるでここは「常春の国」のようだった。楽園とでも言ってもいいくらいだ。
 自分がいた世界とはすっかり切り離された、暖かで、穏やかで、静かな地であった。
 この場所は自分が生きていた土地から、そう遠くもない同じ国で起きている現実だった。
 そんなものをまるで知らなかったディオは自分の無知さを恥じたし、この世の無情さに心を冷やした。
 何もかもが違うのだ。これから踏み入れる世界の差をまざまざと感じた。
 うんざりした思いを抱えながら最後に一度だけ髪を梳き、櫛は上着のポケットに仕舞った。


 御者は、もう着くと声をかけた。
 何事も始めが肝心だ。
 ディオは想像をする。
 自分がこれからやっかいになる邸宅には、同い年の少年がいると聞いた。
 そいつは貴族の長男であり、一人息子。つまりいずれは、財産や爵位をまるごと全部手にする者である。
 何もしなくとも始めから、全てを持ち得ている人間。この世でもっとも嫌いな存在だった。
 もし、相手が少女だったら良かったのに、とありもしない想像を膨らませた。
 女なら容易い、妊娠出来る年になった頃、手篭めにしてしまえばいいのだ。
 または自分が女だったらその逆のことをすれば良かっただろう。
 女なんぞになりたいなど微塵も思ったことも無かったが、今だけそんな想像をした自分自身にディオは嫌気がさしていた。
「女は弱いから、……ダメだな」
 強い女など居ない。結局男には勝てない存在だ。力も、体格も、頭も、身分も、…何もかも劣っている。
 男に覆い被されて、カエルみたいに足を開いて、無様な姿をして獣のように鳴き喚いて。
「あんな女……クソッ……」
 あの女の一番醜い姿を見た時、ディオは心の底から軽蔑した。
 声も、格好も、妙な動きも、大嫌いだった。
 表面上では聖女のように振舞っても、どうせ女はみんな同じ、ブタのように鼻を鳴らして、腰を振るんだ。
 忘れたい、消したいと思えば思うほど、記憶は鮮明に残った。
 それだけが原因では無いがディオは女が嫌いだった。だからジョースターの子どもが女だったら、すぐにでも痛めつけてやったのに、と思う。
 どんなに、淑女(レディ)として育てられていても、中身は雌だ。きっとそいつを犯してやったらとても清々しい気持ちになるだろう。
 ディオは、女嫌いと言うよりも、この世に生きる女という生き物が全て憎たらしかった。
 思春期にありがちな感情であるだろうが、ディオのはそれ以上に根の深い憎悪、嫌悪だった。

 理由は、言えば簡単なのだ。母親へのコンプレックスであった。
 ディオにとって母は、聖女(マドンナ)であり、聖母(マリア)だった。
 高潔で、美しく、彼女はディオの光だった。
 ありもしないが、母はひとりでディオを孕み一人で産んだのだと、ディオはキリスト誕生を読み、自らもそうなのだと信じた。
 だって、この自分の母なのだからそうであるはずだ。あんな、醜い最低な男の血なんてこの身に一滴も感じたくなかった。
 故に幼いディオにとって、神話は救いだった。そしていつか、母は自分と結婚するのだと思っていた。
 自分にとって理想と憧れ、母こそが自分に相応しいと信じて疑わなかった。
 だが全ては現実が、その夢の思想を打ち砕いた。
 男に、べろべろと体中を舐め回されて、聞くに耐えない声を上げる。
 醜いケモノが汚い棒を、母の一番グロテスクな場所にあてて、そのまま棒を穴に突き刺す。
 最早人間の言葉を話さない母は、ひどく汚らわしくて、ディオは吐き気がした。
 大嫌いな父親に犯され、母は泣いている。
 ディオは助けなくては、と思った。
 きっと、無理やりにされている、このままでは殺されてしまう、と。
 一歩、踏み出そうとしたとき、一番甲高い声が耳に響いた。
 声は間違いなく「良い」、と聞こえた。
 それは悦びの瞬間であった。
 母は高潔でもなく、処女でもなく、美しくもなかった。

 信じられなくなった。
 自分が今まで見てきた、作り上げてきた、母親が跡形もなく全て崩れ去ったのだった。
 あの優しい母が、綺麗で正しい母が、何故あの汚い男の、一番臭くて醜いもので、あんなに痛めつけられて
 泣いているのに喜んでいるのか。
 あれはディオの母じゃあないのか。
 ディオだけのためにあった、優しい手ではなかったのか。あの白い肌も、柔らかい乳房も、頬にキスをしてくれる唇も。
 あれはディオのためにあったものじゃあ、無かったのか…。
 自分が見ていた母は虚像に過ぎなかったのか。
 その晩、ディオは声を殺して泣いた。
 寂しくて、虚しくて、悔しくて、憎くて、愛おしくて。
 ありったけの布をかぶって耳を塞いでも、薄い壁からはいつまでも母親の嬌声が鳴り響いていた。

 それを知るには早すぎただけであった。だが幼子にとっては残酷な事実だった。
 いずれ分かる日も来るのかもしれないが、少年の心を傷つけるには充分過ぎたのだ。
 そうやって、人は少しずつ歪んでいく。歪んで、捻れて、心は暗く染まる。
 心は初めから闇にあるわけではない。傷が付いて、付けられて、ゆっくりと飲み込まれていくのだ。
 それを正すものがいなければ、人はどこまでも落ちていくだろう。
 この世界は、いつだって闇の人間が手招きをして仲間を増やすことに必死なのだから。



 御者は再び、もう着くと言った。
 すでにその人物の言葉を信用していないディオは、こいつの所為で要らぬことを思い出してしまったと苦々しく思っていた。
 顔を見れないので、睨むことが適わないのが腹立たしいものだ。
 組んでいた足を組み直した瞬間、大きく馬車が揺れ、ディオはバランスを崩して椅子に手を付いた。
 その拍子に、ポケットから櫛が落ちてしまった。
 くるくると、すべるように床を流れていき、薄くて小さな櫛は扉の隙間へ入ってしまう。
 「あ…………っ」
 手を伸ばしても遅かった。
 もう少しで掴めそうだったのに、目の前をすり抜けていってしまったのだった。
 そして、乱暴に馬車は止まって、ディオはどすんと椅子の背に体を打ち付けた。
「ぼっちゃん、着きましたよ、ここがジョースター邸です」
「……ああ」
 囁くように返事をし、ディオは鞄を手にした。
 一瞬、躊躇った後に馬鹿馬鹿しくなって、ディオは目を閉じた。
 もういい、あんなもの、持っていても仕方ない。
 いつまでも、あれに縋っているようではいけないのだ。
 もういい、――もうあれは捨てたのだ。
 扉の取っ手に手をかける、そして息を吐いて、意をかためた。

 ディオは威勢よく、そこから飛び出した。
 梳かした髪はさらさらとよく風になじんでいた。
 顔を上げると、前髪はさっと舞って絡むことなく元に戻った。
 景色を見回した先には、ひとりの少年が、大きな目をぱちぱちさせて立ち尽くしていた。
 ディオはすぐにその少年が誰であるか知った。
 聞いた通りのやつだとディオは思う。
 上等な服を泥で汚して、顔や手足にはいくつもの傷がある。
 日焼けした顔は頬や鼻先が赤い。何より、まぬけそうな面構えが気に入らなかった。
 ややあって少年は、微笑みながら大股で近寄ってくる。他人からしたら「微笑み」なのだろうが、ディオからしたら締まりの無い阿呆面なだけだった。
「君はディオ・ブランドーだね?」
「そういう君はジョナサン・ジョースター」
 かさついて汚れた右手を差し出されたが、ディオは見えないふりをした。
 長い前髪は見たくないものをうまく隠すためにある。
「えっと、みんなジョジョって呼んでるよ……これからよろしく」
 ジョナサンは、悪意を知らない。だから、「見えないふり」などあるわけないと思っているので、また手を出して握手を求めた。
 ディオは鞄を持ち直して、そこから顔を背けた。金髪は、また風に揺れていた。
「あの、ディオ」
「なんだ」
 そっぽを向いたままディオは素っ気なく答えた。
 ジョナサンはまだ右手を出していて、ああ、しつこい奴だとディオは思った。
「君の名前のスペルはD・I・O……かな?」
「ああ、そうだが。それが何か?」
「じゃあ、きっとこれは君のだね」
 ジョナサンの右手の中には、ディオが失くした櫛があった。確かに、小さく”DIO”と彫られている。間違いなく先ほど落としたものであった。
「さっきここで見つけたんだ。馬車から落ちたのかな」
「……そう」
 奪うように受け取ると、ディオは折れそうなほど強く櫛を握り締めた。
 今し方、捨てたと決めたばかりなのに、再び手の中に返ってきたということに、どこかで安心を覚えていた。それはディオにとって、とても腹立たしかった。
 ディオは唇を噛み締めると、ジョナサンはきょとんとして見つめていた。
「良かったね」
「……、なに……」
「すごく大事なものなんだろう、それ。見つかって良かったね」
 歯を見せて、くしゃっとほどけたようにジョナサンは笑った。
「大事……なんかじゃあ、ない」
「え? そうなの? でも」
 ぎゅっと強く握りしめて、大事そうに手にしている姿に偽りなどジョナサンは感じなかった。
「いらないんだ、こんなもの」
 開いた唇から、ぽろぽろと嘘だけが溢れた。
 ジョナサンは、今にも泣きそうになっているディオに対して驚き、狼狽えた。
 誰が聞いても、ディオの言葉は嘘でしかなかった。
 そんなに辛そうな瞳をしていれば、誰だってそう思うだろう。
 会ったばかりで、何も知らなくても、ジョナサンはディオを助けてやりたいと思った。
 きっとジョナサンは相手がディオでなくともそうしただろう。
 どうしてかと言えば、彼が心のあったかい人間であるからだ。
「ディオ……」
 笑って、とは言えなかったし、かと言って、泣かないでも違うだろう。
 ジョナサンはかつて読んできた童話や物語の中の主人公たちがそうしてきたように、優しく手を重ねて。
 精一杯、自分の中での最高の笑顔をディオに向けた。
 人は笑顔をむけられると、うれしくなるものだって、笑った顔はたとえ言葉が通じなくても伝わる素敵なものなんだとジョナサンは学んでいた。
「大丈夫?」
 ディオは小さく首を横に振った。
「触るな」
「でも……」
 重ねられた手をディオは振りほどいた。
 退けられたジョナサンの右手はただ空を彷徨った。
 こんなとき、どうしたらいいのか、何にも分からなかった。
 ジョナサンにとって、ディオは今まで会ったことのない不思議な雰囲気を持った人だった。

 ディオは涙など見せなかった。
 もしかしたらジョナサンの思い違いだったのかもしれない。
 ただ、髪が顔に影を作り出してそう見えていただけかもしれない。
 そうだとしたら、それでいいとジョナサンは思った。
 それからほどなくしてディオは足早に邸の玄関へ向かっていった。ジョナサンは後を追いかけようとしたが、ディオにきっとひと睨みされてしまい、足は止まった。
 ついてくるな、と言われたようなもので、ジョナサンはその眼光の鋭さに何も言い返すことは出来なかったのだった。
 ぼんやりとその場に残っていると、庭の奥から聞き覚えのある足音が軽やかに近づいてきて、ジョナサンは振り向いて手を広げた。
「ダニーッ」
 息を急きながら、大きくしっぽを左右させて、ジョナサンの愛犬は少年に飛びついた。
「あはは、くすぐったいってば」
 体の大きい犬種のわりに大人しくて甘えん坊なダニーは、ジョナサンの良き友人であり可愛い弟でもあった。
 愛情表現として、ダニーはジョナサンの顔の回りをぺろぺろと舐めた。
 ジョナサンはお返しにと、ダニーの背や腹をわしわしと撫でる、するといつも喜んでダニーは寝転がってみせるのだった。
「ダニー、今日から家族が増えるんだよ」
 ジョナサンの言葉に反応して、ダニーは首をかしげる。
「ディオって名前の、ぼくと同じ年の男の子なんだ」
 頭を撫でてやると、ダニーは嬉しそうに鼻をならした。
「仲良くしようね、……あの子は……多分」
 ダニーはきゅうんと返事をして、ジョナサンを真っ直ぐに見ていた。きっと何を言っているのかきちんと理解しているのだろう。
「……いい家族になれる、よね」
 ワン、と元気のいい鳴き声が返ってくる。ジョナサンはダニーの頭をまた撫でて、そっと抱きしめた。


 ディオは、櫛を握り締めたまま、玄関ホールにある椅子に腰掛けていた。
 執事はすぐに主人を呼んでくると言ったので、卿を待っていた。
「これのせいで……」
 この手の中にある櫛のせいで、予定は大幅に狂ってしまった。
 ――別に……、すぐに巻き返せばいい。
 ディオはジョナサンに牽制するつもりだったのだ。
 始めに仕掛けるべきであったのだが、何も行動が出来なかった。
 この櫛があったから。
 ――このぼくが、今もまだ、あの女を……?
 使い古された櫛は木で出来ている。思い切り力を込めれば、みしと嫌な音をたてる。
 成長し力のついたディオであれば、すぐに木っ端微塵にできるだろう。
 なのに、出来ないのは何故なのだろう。
 こんなもの、要らない筈だ。
 すぐにでも捨ててしまえばいいんだ。
 簡単だろう、ちょっと指に力を入れたら、壊れるんだ。
 どこにでもある、粗末な道具。
 じゃあ出来ないのは、何故だ。
 そこに、人間の思いとやらがあるからではないのか?
 ディオは、その思いが嫌でたまらなかった。
 人間としての甘さ、弱さ、くだらなさだと思った。自分がそんなものに縛られていること自体が許せなかった。

「ねぇ、ディオ」

「なぁに、ママ?」

「ふふ、だめよ、前を向いていてちょうだい。ほら」

「ぼく女の子じゃあないよ」

「あら、男の子だって身なりを整えなくてはいけないわ」

「どうして?」

「だってあなたは私とおなじ、きれいな金の髪だもの」

「ママのほうがきれいだよ」

「ありがとう……ディオ。さぁ、あなたの髪を梳かしてあげるわ」

「くすぐったいよ」

「動いちゃだめよ。そうそう、この櫛はね、ママのママも使っていたのよ」

「ママのママ?」

「そうよ、あなたのおばあちゃん」

「ふうん」

「その人も綺麗な金髪だったわ」

「見てみたかったな」

「そうね……。ディオ……この櫛、あなたにあげる」

「なんで?」

「私がママからもらったように、今度はディオにあげるわ。大切にしてね」

「うん。ありがとう、ママ」

「ディオ、いいこね。私の天使……」



 思い出したくなんて無かった。
 思い返しても仕方のないことばかりだった。
 どんなに思っても無駄だ。
 どんなに願っても無駄だ。
 この世は無駄なことばかりだ。何もかも、全て。
「クソ……、なんで……、こんな……」
 忘れよう、捨てよう、要らない。このディオにとって、それはとうに過ぎ去って戻らないものなのだ。
 そんなものに、しがみついて生きるなど、誰がするものか。
 それは弱者の戯言なのだ。
 この世界に美しいものなんて無い、何も信じられない。
 この世界にある美しいものは自分だけだ。そして自分だけが絶対なんだ。
「あいつの所為だ……」
 ディオは櫛についた泥を睨んだ。
 泥まみれの手で、汚れた手で、あの男はこれを拾い上げた。
 あの時の無遠慮な眩しさは痛いほどに感じていた。
 だからディオはジョナサンを見れなかった。
 曇りのない輝きは、そばにいるだけで苦しかった。
   それは「光」そのものだった。
 光とは、ディオもいつしか持っていたものだった。
 今はもう鈍く澱んで濁ってしまって見えやしないのだ。
 ジョナサンは、幸福で何も知らないから無垢なままなのだろう。だから真っ白でいられる。
 そんな人間にディオは嫉妬し、怒りを覚え。
 そして、とても憧れた。
 もう二度と得られない輝きの眩しさに、胸は震えた。
 ――いいだろう、あれさえも、手に入れてやる。
 その光が、自分のところにまで落ちる時、この痛みや苦しみも楽になるんだろう。
 ディオはそう思うことで、自分の中に生まれた激情を抑えることが出来た。

 ホールの真ん中にある大階段から、朗々とした低い声がディオの名を呼んだ。
「やあ、待たせてしまったね。ディオくん!」
「初めまして、ジョースター卿」
 立ち上がってディオは薄く微笑んだ。そばに立った卿は大きな手でディオの肩を叩き、息子のジョナサンのように笑ったのだった。
 うんざりするくらいそっくりだとディオは思っていた。




 思いとは激情とは、憎しみという名をした初恋であるということに、今のディオは気づきもしなかった。


おわり

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