クリームパイ

オレは海馬が苦手だ。例えば、二人きりになった時に黙り込んでさわってくる海馬は特に苦手だ。
「……や、やめろ」
「どうして」
肩にまわされてきた腕から逃げながら、オレは半身分ほど距離を取る。
「何か、痒いぜ」
目を逸らしながら首元を掻き、気まずくなる雰囲気に耐える。海馬の視線が首元に集中している気がする。その場所がひりひりとして痛む。
「そんな雑にするな」
本当は大して痒くはない肌を無駄に爪で引っ掻いていると、海馬はオレの手首を取って止めさせる。今度はその掴まれている手首を掻き毟りたくなった。
「おい、貴様。決闘者でありながら、手入れを怠っているな」
「て、手入れ?」
取られた手を見て、海馬は何故か怒っているようだった。指先を持ち、オレに見せつける。
「爪が伸びているではないか! 全く、これではカードに傷がつく!」
「伸びてるって、これくらい別にフツーだぜ」
爪の白い部分が少し長めかと思われるくらいだ。あまりにも神経質じゃないかとオレは海馬に不満げな表情を見せる。
「そこに直れ。オレがやる」
「海馬……っ!?」
直れと言うのは、つまり座っていろという意味らしい。海馬が使う話し言葉は時々難しい。相棒や城之内くん達とは違う話し方をするので、いつだったか相棒にそのことを相談したことがあった。その時は「そうだなあ。大岡越前とか暴れん坊将軍でも観てみる?」と言われた。それからは、学校が終わってからの夕方の再放送をじいちゃんと相棒と一緒に視聴するのが習慣になった。確かに大いに参考にはなった。

引き出しの中から透明のケースを出し、それを手にして海馬が戻ってくる。そして、無言でオレの右手を自分の手に乗せた。
至って普通の爪切りで、海馬は丁寧にオレの爪を切っていく。人にされるのは、やはりむず痒い。居心地が悪くて、オレは落ち着かない。
「動くな。幼子じゃないんだ。大人しくしていろ」
「うう……」
ぱちん、ぱちん、と爪が切られる音がする。指の一本一本を持たれ、海馬は黙々と作業に集中していた。伏し目がちになっているその顔をオレも黙って見守った。あの前髪は邪魔じゃないんだろうか。真ん中のあたりは鼻にかかっている。
「反対の手を出せ」
短く言われ、仕方なくオレは左手を出した。海馬は一度、遠目にして手を眺める。
「貴様、横着していたな……こちらの方がちゃんと切られているぞ」
「どこが違うっていうんだよ。海馬は細かすぎるぜ」
用が済んだのなら、いつまでも握られていたくない。オレは手を引こうとする。所が、指先がきゅっと強めに握られていて、思わず海馬を見た。
「終わっていない。逃げるな」
「こっちはちゃんと切れてるんだろ。だったら」
「やすりをかける」
爪切りをケースに仕舞うと、海馬は指先大の平たい板のようなものを取り出した。
「やすりって、女じゃあるまいし、そんなの要らないぜ」
「必要だ。これも決闘者の嗜みだ」
「そんなの初耳だ」
「大抵の決闘者ならしている。よく見ておけ」
「オレはやらないからな。そんな女みたいなこと」
言いながら海馬はオレの親指を取って、爪の先を整え始めた。感覚の鋭い指先は、微妙な動きも察知する。見ていられなくて、オレはわざと反対方向に顔をやった。
やすりがかけられる小気味いい音だけがする。しばらくすると、音が止み、海馬は指の腹で何度か仕上がりを調べる。爪の先を撫でられているような感じだ。
「もう、いいって。海馬」
「よくない。貴様はここまでの手入れはしないのだろう。だったら誰がやるんだ」
「誰って。じゃあ、オレが自分でやるから」
「信用ならんな。どうせやらないんだろう」
顔を上げる海馬は、ひとを小馬鹿にしたような皮肉っぽい笑い方をしていた。何故、人の爪にそこまで執着する必要がある。決闘者としてのマナーだからか? 相棒はそんなこと一言も教えてくれなかった。
「くすぐったいぜ」
「我慢しろ」
左手の指が全て整え終えられると、海馬は指先に息を吹きかけてきた。
「あっ……! 何する……っ!」
「何とは……粉を飛ばしただけだ」
面倒そうな顔をして海馬はソファに飛んだ粉を手で払う。
「掃除なら人に任せてある。これくらい気にするな」
「そ、そういうことじゃ……」
終わったのならいい加減離してほしい。手を引けば、あっけなく解放された。戻ってきた自分の手が少し痺れている。妙に血流が早い。
「そっちの手を出せ」
「だから、もういいって言ってる」
「駄目だ」
こうなると引き下がらないのが海馬という男だった。頑として譲らない。こちらが折れるしか法がないと、オレは分かりきっていた。
「……そんな、ちゃんとやらなくてもいい」
自分の手を扱う海馬の姿を、どうしても見ていられなくてオレは首を傾ける。窓の外は夕暮れ。みんなが帰る頃だ。きっと今日の社長の仕事も終わりなのだろう。こんなの暇を持て余した結果だ。
「どうせすぐ伸びるんだから」
「またオレが切ってやる」
「イヤだ」
親指、人差し指、中指と、やすりがかけられていく。実に細かい作業だが、海馬は手早く仕上げていく。きっと慣れているのだろう。
「何故だ?」
小指に差し掛かった時、海馬は手を止めて、小さい爪を撫でていた。ぞわりとして、背筋に鳥肌が立つ。この触り方が苦手だ。肌の表面はさらさらしているのに、手つきに粘り気を感じる。変な汗をかきそうになる。海馬の指から毒が出ていて、それがオレの毛穴に染み込んでいくようだ。
「海馬に触られるの、何か……イヤだから」
「何かとは、何だ。どういうことなのか説明しろ」
「う……っ。じゃあなんで海馬は、そうやってオレのこと触ってくるんだ」
逃れようとすれば追いかけてきて、無理やりに捕らえられる。その手の中はひどく恐ろしい。自分が自分でなくなる気がする。だから、嫌だ。苦手だ。変になる。
「オレはそんなに触ってるのか……?」
「現に今だってそうだろう。さっきだって、そうだったじゃないか。他に人がいる時にはしないのに、何で」
「何で、か」
海馬は小指を持ったままで考え込んだ。オレは、自分の小指が人質に取られたような心境になっている。
「いちいち言わなければならないのは、厄介だな」
「あ……、え?」
もう片方の手がオレの後頭部を支えると、力づくで引き寄せられてしまい、自然と首が持ち上がった。
「む……ぐっ!?」
小指を掴んでいた手は、オレの顎を上げさせていた。視界いっぱいに海馬の顔が広がっている。
「……っん……んう!」
塞がれた口の中で文句を言っても、通じるわけもない。それでも目いっぱいオレは海馬を責めて騒ぎ立てたのだが、口を開けてしまったのをすぐに後悔した。
はじめに、前歯にぬるりとした感触があった。それから、いきなり舌が絡めとられて息が奪われた。
「……ん、……ふっ……う」
目の前が霞んできて、身体が折りたたまれていく。視界の先には壁があったはずなのに、いつのまにか目の前は天井になっている。海馬はきちんと目を閉じているようだった。あまりに近すぎてどんな顔をしているか確かめられない。
「う……っ、ん……ん、んぅっ」
言葉にならなかったが、それでも何度か海馬の名を呼んだ。応えられるようにして、また口が深く沈む。舌が中でオレの歯や内頬を撫でたり突いたりしてきて、それを受け入れるので精一杯だった。
「……はあ……っ」
全身が脱力し、息が乱れきった後になって、ようやく海馬は舌を抜き、最後に唇を舐めた。湿った感触がする。唇も痒くなってしまって、オレは前歯で唇の皮を噛んだ。
「これで分かったか?」
見下ろしてくる海馬は、意外にも赤面していて、オレと同じように息が荒くなっていた。鼻の穴が見えている。
「分かる、かよ……」
口の周りについた涎れを手の甲で拭きながら、オレはそう言ってやった。自分でも、とても可愛げがない反応だと思う。でも、可愛らしさなんて微塵も求められてないだろう。
「そうか。……あくまで、足りんというんだな」
「……あっ」
頬に手を入れられ、海馬はもう一度唇を落としてくる。今度は、さっきよりも落ち着いていて、それでいて情熱的にされる。

期待なんてしてない。誘い込んでもいない。
でも、多分、予感はあったはずだった。
ぴりぴりとした刺激が、肌をざわめかしている。
気が付けば、部屋は薄暗くなっていて、悪さをするには丁度良かったんだ。




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