碧血神話
オレは母親によく似ているそうだ。色素の薄い栗色の髪、青い瞳。それから、透けるような白い肌。反対に弟のモクバは父の容姿を色濃く継いだ。黒い髪に健康的な肌色、瞳は灰混じりの藍色をしている。
母方の遠い親戚が、葬儀の時にまだ幼かったオレを見て語った。
「大丈夫よ。きっと上手に忘れられるから」
「瀬人くん。もし思い出してしまっても、あの子が守ってくれているから。だからね……」
双子の伯母たちは、少女のような見目をして、妙に若々しかった。そして、母やオレと同じく栗色の頭髪と青い目をしていて、病的なまでに白い肌の腕は、やせ細っていた。
まだ子供だったオレは、双子の伯母の話していることが、母親の死のことだと思い込んでいたのだった。
『美しい娘は、愛する男の子を産んだ。生まれた子供は、一族の血を受け継ぐ長子であった。娘は自分自身と先祖を呪い、そして愛する子供にはひとつの呪文を贈った』
十五を過ぎてから、やけに身体のあちこちが痛むようになった。それは成長痛と呼ばれるものだと、周囲の大人たちは口々に言った。
疾うに背は百八十センチを超え、平均よりも高かった。しかしまだ手足は細く少年らしさが残っている。いくら食べてもなかなか肉が身につかなかった。
それから日中は、とてつもなく眠気に襲われる。それもまた、若さの証だと周囲の大人たちは一様に言う。
この頃は歯が疼いた。口の中の不快感を消そうとして、何度もうがいをしたり、歯を磨いたりした。それでも、治まらない時はガムや飴を食べて気を紛らわした。
夕暮れ、伸びる影にふと視線を落とした時、何故か自分の影だけが薄く見えた。これは、疲れからくる目の錯覚なのだろうか。この話は誰にもしていない。
一日、ひと月、一年と経つ毎に、目の色の青さが増す。肌の白さが目立っていく。身体は成人に近づくのだが、それらの変化は著しかった。幼少時に色素が薄い場合は、年を重ねていけば次第に人並みになっていくのが通常だと知った。オレの身体は普通とは真逆であった。
鏡の前に立ち、口を開いてみる。犬歯と呼ばれる部分が、特に鋭い気がした。親指の腹で軽く触れてみると、指先は簡単に傷付いてしまった。
「……ッつ」
じわりと浮き出てきた鮮血が、玉となり雫になった。それがゆっくりと垂れていく。思わず目を見張った。
血とは、こんなにも赤々しいものだったろうか。固まり始める血を、オレは舐めてみた。苦いような味と、錆びた匂いが鼻についた。
「兄サマ、どうかしたの?」
後から入ってきたモクバが、洗面台に立ち尽くしているオレを不思議そうに覗き込んでいる。
「いや、指を切ってしまってな」
「どこ? 大丈夫?」
「大したことは無い。気にするな。それより支度をするのだろう」
「うん。……でも兄サマ、本当に平気? 顔、真っ青だ」
指摘されて、鏡に映った自分を見つめた。青白く、死人めいた、ひどい顔色をしている。
頬に触れてみれば、生きた人間とは思えない冷たさがあった。
晩秋にしては気温が高かった。夕暮れの街を行く人々は、薄手の服装を身に纏っている。少しでも体を動かせば汗ばんでしまうような異常気象だった。
確かに汗はかいている。だが、微かに体は震えていた。寒くはない。暑くもなかった。ただただ、不快な倦怠感に包まれている。
移動の途中で車を止めさせ、ミネラルウォーターを購入した。一気に飲み干したが、それでも足りないほどに喉が渇いていた。
「瀬人さま、どうかされましたか?」
様子を見かねた運転手が、心配そうに尋ねてきたが、平静を装って首を振った。
「今日は随分と暑いな」
「そうですね。もう十月も終わりだと言うのに、おかしなものです」
「空気が乾燥しているのか」
「……そう、なんでしょうかね? 湿度調整致しましょうか?」
「ああ、頼む」
渇いて、渇いて仕方がない。運転手はすぐさまコントロールパネルを開き、適正の湿度に設定していた。車内のエアコンから涼しい風が送られてくると、汗ではりついていた前髪を揺らした。
「ここ数年、体調を崩した覚えは無い……。風邪なんて、十年以上引いてないな」
喉が痛むから、渇きを覚え。熱があるから顔色が悪く、熱いのに体が震えるのだろう。
季節の移り変わり目は、体調管理に気を配らなければならないと、いつも部下に言っていた立場なだけ、オレは自己嫌悪に陥った。
体が悪くなると、気分まで落ち込むものなのか。
週末であったが、道路は差ほど混んでいなかった。目的地にはすぐ到着するだろう。
KCスタジアムに着いたのはオレが意識を手放して、数分後だった。夕焼けの色に染まる街に、ブルーライトが人工的に周辺を照らしている。
「社長、お待ちしておりました」
「ヤツは来ているのか?」
到着の知らせを聞いていた部下たちは、入口で出迎えてくる。先頭に立つ責任者に、オレは訊いた。
「武藤様なら、一時間ほど前にいらしております。今は控室でお待ち頂いて……」
「分かった。オレはオレで確認することがある。各自、それぞれの持ち場へ行け」
「はい!」
ぞろぞろと付いて来られるのは非常に厄介だった。それが彼らの仕事なのは理解しているが、鬱陶しいことこの上ない。特に今日のように体調が優れないとなると、大声を出すのも億劫だ。
スタジアムでは、来週開催される大会の準備が進められている。ステージが組まれ、場当たりを行っている。照明や音響は本番さながらの動きを取り、確認作業の真っ最中だった。
オレはその最終調整に立ち会っている。ここでオレの許可が出なければ、彼らの仕事は終わらせられない。
スタジアム三階中央、ボックス席は高い壁に囲まれている、所謂関係者席となっている。専用通路を使わなければ入れないようになっていて、その通路の先には、控室がいくつか設けられている。
その一室には、明かりがついていた。
不用心にもドアは半開きになっていて、室内の明かりが漏れていた。
「いるのか?」
「……っ! ノックくらいしろよ、海馬」
椅子に座っていた遊戯はモニターを眺めていたらしい。若干驚いたように身を竦ませ、大きな瞳を丸くさせていた。
「扉が開いていた。留守にしているかと思ってな」
「ああ、さっき、飲み物買いに行った時に閉め忘れたのか」
「わざわざ買ったのか? 飲食物なら用意させる。スタッフに言いつければいいだろう」
「みんな忙しそうだろ、何か悪いぜ」
自販機で買ったと思わしきジュースのボトルを手にして、モニターを指した。そこはメインステージの全景が映っていて、スタッフや社員が動き回っているのが見える。
「貴様の仕事は終わったのか」
「とっくにな。立ち位置だとか、カメラの位置とか、言われるがままに動いて、おしまい。結構すぐに終わったぜ」
「……なら、待たせてしまったな」
「海馬?」
視界が歪み始めて、オレは片手で自分の額を押さえた。目を開けていると、景色が廻りそうになる。これは、相当気分が悪い証拠だ。
「おっと」
咄嗟に遊戯が手を出し、オレの肩を支えた。
「どうした、海馬。立ちくらみか……? 珍しいこともあるんだな」
「離せ」
手を振りほどくと、遊戯は下からオレの様子を窺ってくる。
「海馬、お前、汗びっしょりだぜ」
本気で心配をしているような声色で遊戯はオレに手を伸ばしてくる。何故か、無性に触れられたくなくて、オレは後ずさった。
「……ッ、いい! よせ」
「拭いた方がいいんじゃないか」
「自分でやる」
手の甲で額を拭うと、そこに濡れた感触が残った。実感すると、じんわりと汗が滲みだしてくるのが分かった。
「でも、まあ……今日は変に暑いからな。ここ、エアコン無いのか?」
観客が入っていないので、全館の空調が切られている。大規模施設となると、一部の部屋のみ切り替えが出来るようには作られていないからだ。
「不便な思いをさせたな。ここも改善の余地があるようだ」
「ふふ。そうして貰えると助かるぜ」
既に陽は落ちたはずなのに、日中と気温は差して変わらなかった。作業用のスポットライトがあちこちに配備されていて、更に照明器具も多く使われている。暑いのはこの所為もあるだろう。
スタジアムの作業スタッフは、ほとんどが半袖だった。スーツ姿の社員も薄らと汗を浮かべている。
暫くすると、通信機から連絡が入った。中央ステージの仮のセット組みが完了した知らせと、全体図の確認を頼まれた。
「このモニターからも見えるぜ」
遊戯は部屋の壁に取り付けられているモニター画面に向いていた。
「そこにはステージだけしか映っていないだろう。側面、客席からの眺めも確かめねばならん」
「ふうん……じゃあ、オレも外の空気を吸うついでに見に行こうかな」
椅子から腰を上げると、遊戯は先を行き扉を開けた。長い通路を歩くのが、僅かに怠い。時折、振り返りながら遊戯はオレの前を歩いていた。
「へえ、さっきと全然違う風景になってるな!」
アリーナのセンターステージ。メインとサブステージに、巨大モニターとスピーカーが並ぶ。デュエルの邪魔にならないよう、無駄な装飾を省いたデザインだが、決してシンプル過ぎないものとなっている。
「あくまでセットはセットだ。観客が見に来るのは、デュエルだ。オレ達のな」
「……オレ“達”? まるでオレと海馬が闘うのが前提みたいだな。他のデュエリストをナメてたら、すぐに貴様も喰われちまうぜ」
遊戯は不適に笑って、客席のポールに手をつきながらこちらを見た。夜風は、熱を帯びた体に安らぎを与えてくれた。
「もうすっかり陽が落ち切ったか。見ろよ、海馬」
遊戯は首を上げて、天を指し示した。
「月があんなに近いぜ」
夜空には今にも満ちようとしている月が、円に近しい形を描いていた。その輝きはあまりにも眩しくて、突き刺さってくるような光が目に入ってきてしまう。責める痛みは、オレを苦しめる。徐々に息が上がり、続いて動悸がしてきた。発熱が体を狂わせ、肉体の制御が難しくなっていく。
「……海馬……ッ!?」
「ゆ、……ぎ」
やがて足に力が入らなくなり、オレは目の前にいる遊戯に凭れ掛かるようにして体を預けていた。
小柄な遊戯は、オレの体重を支えるには頼りなさげな手足を懸命に踏ん張らせている。
「おい……ちょっと……、くっ……海馬、しっかりしろ! この……っ、重いぜ!」
ふいに芳香が鼻腔を刺激した。今までに体験したことの無い匂いがして、オレはその元を見つけ出す為に息を吸い込んだ。
「うぐ……っ!」
遊戯の身は崩れ、オレと共に床に足をついた。壁に遊戯の身体を挟むようにして、オレの全身が奴を押さえつけている。オレは鼻先を遊戯の耳朶の後ろから首筋にあてがった。遊戯はオレが意識を失いかけているとばかり思い込んで、不自然な挙動に何の疑いも持っていなかった。
「海馬、おい……聞いてるのか? 少しでいいから、体を動かしてくれ。なあ、海馬、大丈夫か?」
「……はあ……っ」
吐息が漏れた。湿り気を含む息が遊戯の襟足にかかると、その総身はびくりと反応をしてみせた。細い首につけられた輪に齧りつき、オレは思い切り引いてやった。
「くう……っ、か、海馬……!?」
ぎちぎちと革製の首輪が皮膚を食いこませていった。引き上げれば、遊戯の首も持ち上がる。一番鋭い歯の部分で噛み、オレは勢いよく千切った。
「……あ!」
ぶつりとした鈍い音の後に、遊戯の首元から黒革が無残な形となり、すべり落ちて行った。
隠されていた素肌が露わになると、オレは細首へ舌を伸ばした。汗の塩辛い味がする。
「え……っ、うわ……!?」
滑らかな皮膚を、ざらついた舌が何度も何度も往復した。遊戯は絶句して、硬直しきっていた。信じられない、とでも思っているのかもしれない。オレだって、夢を見ているかのようだ。
おかしいと、理性は訴えているが、暴走する本能には体も頭も逆らえなくなっている。
舌の敏感な先の部分で、ふっくらとした血管の凹凸を撫で摩った。血の巡りが舌先に伝わってくる。緊張は、血流を速めさせるようだ。どくどくと、血が流れているのが分かる。
「あ……、う……っ」
息が荒さを増してオレはむさ苦しい呼吸を繰り返す。そしてお預けを食らった駄犬の如く涎れを垂らした。遊戯は自由に動かせるのが、首から上くらいなものだったので、逃げようとして辛うじて首を反らした。だがそれはオレに好都合でしかなかった。
首筋を曝け出され、オレはその中に顔をねじ込む。そうして、ついに疼く牙を柔肌に立てた。
「あ……あ、あー……ッ!」
突き刺さした場所から、遊戯の新鮮な血が溢れ出てオレの咥内に注がれていく。生臭いとばかり感じていた他人の血は、想像を絶する美味があった。
流れ込んでくるのが待てなくなり、オレは傷口から直に吸い始めた。
「う……っ、く……ぅ……ん、んん……っ」
牙でつけられた一点の傷は、動脈の中央を深く差していて、絶やさずに血を流していた。どんな飲み物でも癒せなかった喉の渇きが潤っていく。体の熱は落ち着きを取り戻していき、精神は正気に返ってくる。あらゆる肉体の不調が緩和されていくのが、手に取るようにして分かった。
「あ、あ……っあぅ……」
苦痛に喘いでいた遊戯の声が、色めいて艶のあるもの変化しつつあった。オレを支えていたはずの腕は、抱きつくように背に回されていて、もどかしげに指先を動かしている。
膝はオレの半身を挟んで、強請る仕草できゅっと力が込められていた。
「は……っ、ふあ……」
冷静になれば、オレはこのままでは遊戯の血を吸い尽くしてしまうのでは、と我に返った。流れ出る分を舐めとりながら、名残惜しくもオレは遊戯の首筋から唇を離した。
「あ……っ、」
半身を起すと、遊戯は虚ろな目をして抱きかかえている腕を緩めた。指先が追いかけるようにオレの背からゆっくりと離される。
「海馬! どうした!? 口が血だらけだ!」
顔を見合わせた途端に、遊戯は叫びに似た大声を上げて、オレの頬を掴んだ。そして、血に塗れた口の周りをまじまじと見て、不安げに尋ねる。
「切ったのか? 傷はどこだ?」
「いや、これは……オレのじゃ」
「さっき倒れ込んだ時にぶつけたんじゃないか? 傷は口の中かもしれない。あーんしてみろ、あーんって! 海馬!」
「いやだから、オレじゃな……っ、ふがっ!」
強引にオレの口の中に指を突っ込んできて、遊戯は真剣に傷口を探している。心配をしてくれているのは、悪い気はしないが、人の話を少しは聞いたらどうなんだ。
「口の中は無いぜ! 顎か? それとも鼻か!?」
遊戯は、オレの顔をしっかと捕まえると、まじまじと見つめて必死に探している。
「これはオレの血じゃない」
「え?」
「貴様の血だ」
「……え?」
顔を掴まれながら、オレは真っ直ぐに遊戯を見つめながら淡々と告げた。遊戯は解せないという目つきで黙った。オレは親指で口の周りに残った遊戯の残血を掬い取って、舐めた。
「貴様の血は、美味いな」
「気でも違ったのか、海馬」
「……そうかもしれないな」
遊戯の首筋の傷は、血が止まりかけている。オレは傷口に触れてみた。痛みを感じていないのだろうか。それとも、傷を目にしていなければ、痛みもまた覚えないのだろうか。
「オレがつけた傷だ、分かるか」
手を外すと、遊戯は触れられていた場所に自分の指をあてがった。奇妙な穴があることに気付けば、遊戯はオレを見遣った。
「何故だ」
「さあな。オレにも分からない。警察にでも突き出すか? それとも、医者が先か?」
皮肉めいて自嘲すると、遊戯は強く左右に頭を振った。
「今更、こんなことくらいじゃオレは驚かないぜ」
「強がりを言いおって」
「……オレの血が貴様にとって美味いのはな、海馬」
遊戯は、首の傷をひと撫ですると、先ほどまであった傷口が修復されていった。一瞬で消えたのではなく、傷穴がじわじわと塞がれていくのをオレは目撃していた。
「オレも、貴様と同じ血を分けた者、だとしたら……?」
『娘は子供に呪文を送った。それは、百年のうちに、血を分かつ相手との出会いを運命づける、約束の言葉だった』
『娘の親もまた、その呪文を娘に送っていた。そうして血を継ぎ、この呪いは永久に紡がれる』
終