M&H 1

この国には今現在ティーンから老女まで幅広い年齢層の人々に密やかに、しかし確実にファンを増やし続けているモデルがいる。
正確に言えば、彼の本業はモデルではない、らしい。しかし、彼女、或いは彼らが目に出来る彼の姿はモデルの一面だけであるので、彼をモデルとして扱うしかない。
まず注目すべきは甘い印象を持つルックス。野性的かつ雄々しい太い眉の下には、女性たちの母性本能をくすぐる大きな蒼い瞳、横顔を彩る完成された曲線を描く鼻、小ぶりだが厚みのある唇、それらから成される屈託のない少年のような笑顔。
しかし纏った服を一枚脱げば、腕も胸も足もどこもかしこも逞しく、筋骨隆々としたボディ! 男なら誰しもが憧れるパーフェクトスタイル。無駄な肉などは見当たらず、彫刻物のように計算された肢体が実在していた。
その肉体を惜しげも無く披露されたカレンダーは噂が噂を呼び、瞬く間に完売したのも人々の記憶には新しい。
年が明ける前に店頭から姿を消したものの、販売元へ問い合わせが殺到したため、クリスマスシーズンのチャリティー目的で作られたカレンダーだったのだが、ついに増刷されることが決定した……というのは、とっくにディオの耳に入ってきていた情報だった。


これだけメディアで取り上げられ、インターネット上でも散々画像がアップされているにも関わらず彼の個人情報は一切出てこなかった。
そのミステリアスな部分もまた、大衆の興味をそそり、より注目を集めることとなった。
彼のファン達が唯一、共有出来ているものは、彼の名が「ジョナサン」という事だけだ。ただそれだけだった。
ディオはあらゆる手を使って、「ジョナサン」について調べたのだが、本当に何も、何一つも掴めやしなかった。
出版社にも問い合わせた。販売元にも電話をした。答えはいつも同じだった。「彼は一般の方ですから、その質問にはお答え出来ません」だ。
これだけ情報化社会になったというのに、誰も彼のことを漏らさないとは。どこかに隔離されているとしか思えない徹底ぶりだ。「ジョナサン」という存在そのものがまるで人々の幻想上の作り人であるかのようだった。
もしかしたら、この国の人間ではないのかもしれない。ディオはあらゆる言語で調べて、様々な角度から検索をかけまくった。しかし、収穫はやはりゼロだった。
ふと疲れた目をデスクから上げると、眩しい笑顔のジョナサンがビールを片手に微笑みかけてくれる。
幻聴まで聞こえてきた。
「机に齧り付いてないで、ぼくと一緒に飲もうよ」
真っ青な空に白い砂浜、どこの海かは知らないが――ロケ地に興味もないが――ジョナサンがいるなら、ディオは今すぐにでも飛んで行きたかった。

自室にあるディオの仕事机は、壁沿いに置かれている。扉側から見ると、棚の置かれた死角になる場所にカレンダーが貼られている。
今は一月だが、気に入っているショットが八月だったのでカレンダーの存在意義など始めから無視されている。
「ああ……せめて職業だけでも分かったらな……」
ディオは恨めしそうに呟きながらも、うっとりとジョナサンの胸筋から腹筋をなぞる。日焼けした肌に汗の雫が滴っている。汗の玉すらジョナサンのボディに乗れば芸術品に見える。
触ってみたい。案外、胸のあたりは柔らかいんだろうか。腹は硬いだろうか。見てみたい。隠されている場所も、他の誰も見たことのない部分も。

ジョナサンのカレンダーは、例に漏れずソッチ方面にも人気があった。
ソッチというのはつまり、ソッチだ。残念ながら英国は潜在的に男が好きな男が多い国なのだ。そんな男性が好きな男性にも、大層売れた。元々、その気があるタイプにもだが、ディオのようにジョナサンがきっかけで目覚めしてしまった者も少なくは無い。
それほどにジョナサンは罪作りな男だった。男性のファンも、女性ファンと同じく少年から老人まで幅広くいた。少年たちは「あんな風になりたい」と思う純粋で健やかな目的でもあったし、おじ様達は「オレの若い頃にあんなヤツがいたっけ」と思い出に浸りながらも、若き日の恋心にしみじみとした。
ディオは、女性にも男性にもモテてきた。男性からの誘いも何度も経験している。もし誘ってきたものの中で、ディオの好みの人間が居たとしたのなら、誘惑されてやったかもしれないい。けれど元々ノーマルな性嗜好であったのでそう簡単にはいかなかった。それに加えて、男子校出身で、ラグビー部に所属していたディオは男性に対する審美眼が厳しかった。
男の男らしさ、そして美形と評される自分と釣り合う程の容姿、勿論自分以上の肉体と身長も必須だ。
つまりこのディオの眼鏡にかなう男などこの世には居ないのだ、とディオは世間一般の人々を嗤っていた。それがプライドの証明だった。
故に、ジョナサンが目の前に現れた時はそれはもう衝撃だった。「その時ディオに電流走る。」と当時を思い返す。それほどまでにショッキングであった。
気がついたら、カレンダーを三冊手にして帰宅していた。鑑賞用、保存用、使用の三つだ。
どのページも、大体ジョナサンは半裸だった。上半身は脱ぎたがりのようだが、下半身はガードが固い。そこがまた想像させられて、良かった。それにディオとしても、あまり大多数の人間にそのような場所を見られたくはない。
憂いを帯びた横顔や、潤んだ瞳で見上げる顔、悪戯っぽい笑顔、正面から見つめる真摯な瞳……どの月の写真ももジョナサンの魅力に溢れていた。
彼を褒める人々の讃辞は十人十色で、それだけジョナサンはイメージで語られることが多かった。理想を彼に当てはめて、各が好き好きに妄想出来る。それがまた人気に拍車をかけていたのだろう。
ディオはカレンダーの最終ページ、つまり裏面を見た。
表紙と裏表紙は着衣だ。中身がほとんど半裸なので、新鮮さがある。きっちりとスーツを着込んだジョナサンが本棚の前で体を小さくして膝を抱えて座り込んで、カメラに目線を送っている。
セットされた髪がわずかに乱れて、ネクタイも若干緩くなっている。
ディオは全十四枚の写真の中で、この写真が一番セクシーだと思っている。肌の見える範囲が最も少なく、ポーズも幼いものだ。それでも、表情や仕草、シチュエーション全てに色気を感じた。
裏表紙の一番下には、小さくスタッフの名前が書かれている。どうやら撮影をしたのは女性カメラマンらしい。彼女のホームページには、様々なプライベートに関することが載っていた。
ブログには、ジョナサンのカレンダーについても仕事として語られていた。彼女はジョーク混じりに、ジョナサンとの関係はあくまで仕事上の付き合いであって、撮影した日が初対面で、全く彼とは親密ではないし、私にはパートナーがいる、と大きく載せていた。あまりにも問い合わせが多かっただろう。
――ディオも疑っていたものだ。あんな顔をさせられるのは、余程シャッターを切る相手に気持ちが入っているのではないかと、思ったからだ。誰しもがそう疑うほどに、ジョナサンの視線は妖しく、見惚れるものだった。
演技が上手いのか、それともカメラマンの腕なのか。どちらにせよ、ディオはやがて嫉妬の類いを抱くようになってしまう。
購入したての頃はよかった。素直にジョナサンの体型やルックスを見て満足出来ていたのだから。
考える日々が増えれば、雑念が多くなった。会ったこともない男に、恋をしているだなんて、なんて馬鹿げているんだろう。
それでも思わずにはいられなかった。ジョナサンを考えない日なんてなかった。
今まで自分はどうやって生きてきたのかすらも忘れてしまった。夢中になることの本当の意味をディオは知った。


それからも悶々とした日々が過ぎていった。
季節を通り越し、秋口に差し掛かる頃になってもディオはジョナサンのカレンダーを眺める毎日だった。
最近のお気に入りは、三月の寝間着姿だ。基本的に背景や小物だけが季節感を演出していて、本人は常に半裸だ。季節に応じた服装の意味は皆無だ。
着崩した寝間着の裾から覗く臍が愛らしい。あまり形が良くないのも、ディオ的にポイントが高かった。――恋は盲目とはよく言ったもので、痘痕も靨。ジョナサンの何もかもが肯定出来た――。
流石にこれだけの月日が経てば、世間のジョナサンへの熱も下火になるかと予想していたが。増刷に増刷を重ね、本来、年末にあるはずのカレンダーが、年間を通していつまでも店の目立つ位置に山になっていた。
そうなると常に人の目につくので、ファンは減少するどころか、更にじわじわと人気を拡大させていった。爆発的に売り上げを伸ばしていくわけではなく、人から人、SNS等を通じて拡大していく。出版社や販売が小さな会社だったので、大きくメディアに取り上げられることがないのが、ジョナサンのファンにとっては都合が良かった。内輪だけで楽しめている、密かなブームであり続けるのが最善であった。
ディオはその現状を、あまり歓迎は出来なかったのだが、良いことがひとつあった。
販売元のホームページに、『年末、新たに写真を撮り下ろして来年のカレンダーが制作されることが決定した』、という発表がされたのだ。
普段、感情を爆発させないディオですら思わず「イエス!」と、PCの前で拳を振り下ろしたものだ。

そんな訳で、益々ジョナサンへの思いが募るわけだ。ディオだけではない。他のファンの老若男女も同様であったし、注目されれば彼に興味を持つものも増える。
ディオは、来年のカレンダーもまた同じスタッフで撮影して欲しいと願った。要望や意見は販売会社にメールした。しかし、男性の目線からメッセージを書くのは気が引けたので、ディオは何となく十代の女子のふりをして、出来る限り可愛い文章で打ち込んだ。
恐らく、二十代の男性からのメールだって着ていることだろう。それでも、ディオは素直に「自分の言葉」では文章が書けなかった。
ジョナサンに恋をしているのは、自分自身の内なる少女性なのだと、決めつけた。それがディオが男であるための尊厳だった。
小さな会社ではあったが、返事はとても早かった。わざと馬鹿っぽく演出した文面に対して、懇切丁寧な返答であった。
会社としても、同じスタッフでいい仕事をしたいと願っていること。しかし、全く同じメンバーが揃うのはもしかしたら難しいかもしれない。それでも、あのカレンダーを愛して下さったお客様を落胆させるような結果は出さない。
大方、予想通りの返答ではあったが、熱意は伝わってきた。期待をこめて感謝を伝える内容のメールを打ち、ディオはやりとりを終わらせた。

ディオはいつくかの会社の顧問弁護士で、普段の業務である相談や書類作成などは殆ど自宅で行えるものだった。
実際に会社に出向くこともあるが、週に一、二回ほどで済む。毎日、会社に通わなくていいという、この条件に惹かれて選んだ仕事だ。
それと、堅苦しいスーツも着なくていい。自分の好きなスタイルで居ていい。おしゃれで派手なジャケットを選んでも、とやかく言うヤツはいない。――彼のファッションセンスは所謂「奇抜」な部類にあたる。学生時代は周囲に溶け込む無難な格好が多かったのだが、自由に金が使えるようになってから、抑え込んでいたセンスが暴走し出したのである――
今日は、契約書の作成でロンドン市内にある会社に足を運んでいた。いつもなら車を手配して貰う所だが、その日はたまたま地下鉄でゆっくり行きたい気分だった。
時間のかかる内容でなかったので、予定時刻に仕事は終わり、あとは自宅に帰るだけだ。
駅まで歩いていると、ディオは大通りに面している本屋に吸い寄せられていた。大判のポスターが、前面のガラス張りに目一杯に貼られている。
見慣れた蒼い目が、ディオを瞳に宿してくれているようだ。何十倍もの大きな顔だ。瞳の虹彩がくっきりと見える。何度も見たはずの顔で、毎日眺めている目だ。
「……こんなデカデカと宣伝しやがって……」
ポスターの下には、来年のカレンダーの発売決定と、今年のカレンダーが販売中と書かれている。携帯カメラで撮影する人間もいるようだ。ディオも記念に一枚撮ってみたかったが、女子学生の群に混じって同じ真似をする勇気が出ずにいた。
手にした携帯端末を握りしめながら、はしゃいで喜ぶ若い娘らをディオは睨み付けていた。それでも彼女たちは無邪気に写真を撮るのだった。きっと彼女たちは何の憂いもなく自慢するためにネットにアップするのだろう。ジョナサンの顔の横に立つもの、頬にキスするような仕草でポージングするもの、皆楽しそうにしている。
もし若ければ。もし女性だったら。あんな風に、真っ直ぐに明るく憧れられただろうか。嗜好の同士と手を取り合って、彼を褒め称えただろうか。
きっとどれだけ生まれ変わったとしても、ディオには逆立ちしたって出来ない行為だった。
「別にちょっと引き延ばしただけで写真そのものは同じだろ」
来た道へ戻り、ディオは後ろ髪引かれる思いで歩き出した。目を瞑ったままで、振り切るように一歩が出る。
早く家に帰って、おれのジョナサンを、おれだけのジョナサンを愛でればいいのだ。あんな大衆に晒されたやつの姿なんて要らないんだ。
ディオが次に目を開けた瞬間、視界は黒に染まった。くすんで、くたくたになった、よれたシャツの色だったと気付くのはそのすぐ後だ。
「うゲッ!」
「……ッうわ!」
鼻先に衝撃が走り、ディオはその場に転びそうになった。よろけた片足を踏ん張り、ディオは顔を押さえながら薄目を開けた。
「……あ……あ、ああ、すみません。ぼーっとしてて」
いかにも鈍臭そうな男が、おろおろと手を差し伸べてきた。出された手を拒んで、ディオは目の前にある体躯を上から下へと視線を送った。
時代遅れのスニーカーは履き潰す直前で汚らしく、上は黒の着古されたTシャツに、下は洗ってなさそうなジーンズ。
先ほどぶつかった所為でなのか安物だからなのか、鼻からずり落ちる眼鏡。櫛の入っていないぼさぼさの髪。だらしない髭面。
「あ」
男は、更に間抜けな声を上げた。
ディオは眉を寄せると、鼻の下に熱いものが垂れた。
地面に滴ったそれは、血だ。
「ええと、ティッシュ! ティッシュッ!」
「うるさい! 大声を上げるな、マヌケ!」
顔面を男の胸板に思い切り強打してしまったディオは、鼻血を出してしまったのだ。こんな時に限って、ハンカチすら見当たらず、ディオは手で鼻を押さえたが、血は止まる気配がなかった。
「うわああ、すみません! あの、ぼくの、部屋がそこなので!」
「は?」
「と、とにかく、血が! 血!」
大騒ぎする男がわたわたと手や足を暴れさせるので、ディオは返って冷静になれた。しかし、今も血が鼻から流れる。頭痛もしてきた。ディオは男に言われるがまま、連行されてしまった。

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