M&H 2

一階にカフェがある古いビルに連れて来られたディオは男の腕に引かれて、二階へと上がる。彼はまだ動揺していて、鍵を開ける手がもたついた。見かねてディオが鍵束を奪い取り、扉を開けてやった。
中へ案内され、来客用のソファーにディオは座らされた。頭を上に持ち上げて、鼻をつまんだ。血が固まりかけている。もう止まったようだ。鼻をつまんでいた指を離した。
「ティッシュ、あったよ!」
男が別の部屋からボックスティッシュを掲げてやってくる。
「……じゃあ、遠慮無く」
ディオは数枚取り、汚れた鼻や口元を拭いた。
「水道を借りたいんだが」
手にはべっとりと血がついてしまっていて、乾いたティッシュで拭いたくらいでは取れなかった。男は頷き、バスルームを指さした。
男の風貌に似合わず、部屋の中は小綺麗で、調度品もみな、高級そうだ。アンティークの椅子がさりげなく置かれている。ディオは若干、腹立たしくなった。
洗面台で顔と手を軽く洗い流し、タオルも堂々と使わせて貰う。こちらに非はないのだ、ディオは濡れたタオルを籠に放った。
「……おい」
「あっ……あの」
「このシャツ、どうしてくれる」
ディオのシャツには、流れた血がいくつかの染みとなっていた。
「血はお湯で流すと落ちやすいよ!」
男は名案だと言わんばかりに明るく話した。そうじゃあない、とディオは口角をひくつかせた。
「今ここで、おれに脱げって言うのかい?」
「あ……ええと……その……」
男は困ったようにこめかみを掻くと、キッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。少量の水はすぐに沸騰し、男は器に湯を入れた。
「ジャケットをそこのハンガーにかけて、シャツのボタンを外して待っててくれないか」
男は申し訳なさそうに言った。ディオは入り口の帽子かけにジャケットをぶら下げ、シャツのボタンを外してソファーに座った。
「で? どうするっていうんだ」
「ちょっとじっとしてて」
タオルを数枚と湯の器を手にした男がディオの前に屈んだ。そして、ずれていた眼鏡を外して、真正面からシャツを見つめた。
「こうすれば、落ちるはずだから」
男はシャツの裏にタオルをあてがい、表からは湯を染みこませたタオルで軽く叩く。作られたばかりの血染みは、ゆっくりと薄らいでいく。
ディオはしばらく男の真剣な作業を見守った。
男は瞬きも忘れるほどに没頭して、黙々と染み抜きを続ける。
ディオは、ある人物を思い起こしていた。
――似ている。
髪の色はブルーブラック、瞳はグリーン混じりのブルー、肌は日焼けしていて、頬や鼻先には赤みが差している。
カレンダーの中で見せる、強い視線を放った一枚がディオの脳内に映る。おかしなことに目の前の男と姿が重なる。
「……ジョナサン……」
ディオは毎日のように呼んでいる名を口に出していた。
男がふと手を止めて、顔を上げた。
「あれ、ぼく……名乗ったっけ?」
「ジョナサン……?」
「え……ハイ」
「お、おまえが、あのジョナサンか!?」
「えっ……あのって、どの?」
「ジョナサンと言ったらあのジョナサンしか居ないだろう! あのジョナサンはあのジョナサンだ! 街中、いや国中で話題にされているカレンダーの男のジョナサンだろうが!」
「い、いや、いやいやいや、違う! 違うよ! 違う違う! 人違いです!」
「このディオが、あのジョナサンを見間違えるはずがあるかァーーーーッ!! 毎日、毎晩、見ている顔を、誰が忘れるものかッ! 誰が間違えるものかッ! おまえはあのジョナサンだッ!!」
「毎日……? 毎晩……?」
「あッ……」
ディオは興奮のあまり立ち上がってしまっていた。ジョナサンは呆気にとられた表情をして、口をあんぐり開けたままディオを見上げている。そしてまた眼鏡がずり落ちる。
ディオは自分の短所をすっかり忘れていた。すぐカッとなって熱くなってしまい、感情のままに行動してしまう。思考のままに言葉が口から出てしまうのだ。うっかり自身の秘密を自ら漏らしてしまった。それも一番知られたくないであろう本人に向けて。
「そんな熱心に……? へえ、それはちょっと嬉しい、かな」
ジョナサンはぽつりと呟いていた。それが確たる証拠となった。
「おい……今、言ったな。聞いたぞ。やっぱりおまえがあのジョナサンなんだな! 決定的な発言をしやがったな!」
ディオは両手の人差し指でジョナサンの顔面を指した。職業柄、言質を取るのは得意だ。
「いや、違う。そうじゃあない。違う。違うったら!」
尚もジョナサンは顔の前で手を横に振り続け、眼鏡をかけ直した。
「顔をよく見せろ! 前髪も上げろ!」
「うわっ、ちょっと……やめっ……」
ディオは眼鏡を奪い、乱れていた髪を持ち上げて、額を出させた。すると特徴的なジョナサンの男らしい太眉が出現した。
写真とは違って、あまり整えられていないが、それでも見覚えのある眉には違いない。角度、太さ、毛量、濃さ、どれもディオは見知っている。
「あとは……体だ! 脱げ! 裸を見せろ!」
「うっ、うわあああッ! や、やめてくれッ!」
「ええい、うるさい! 生娘じゃああるまいし、悲鳴を上げるな! おまえ、カメラの前では散々脱いでただろうが! 男一人の前で何を恥じらう必要があるッ!」
こうなってしまうともうディオは誰にも止められなかった。シャツを引き千切る勢いで引っ張り、ジーンズを破かんとして手が暴れる。
「それとこれとは全然違うだろお〜〜〜〜ッ!」
涙目になりつつあるジョナサンは床に転がりながら、ディオの魔の手から逃れようともがいた。
「……あ……」
Tシャツが捲れ挙がり、ジーンズが半分ほど脱げかかり、ディオは自分の身の下で喘いでいる男の体に息を呑んだ。
身に纏っている服がいくら古く汚く安っぽいものでも、その一枚の布の下には形容しがたい美体が存在している事実は変わらないのだった。
「あ……ああ……う」
ディオはその場に座り込んだ。腰が軽く抜けてしまった。あれ程までに渇望していた、ジョナサンの生の肉体だ。
声も出ないし言葉も出ない。肩が震えた。全てが初体験だった。体の奥が熱くなって、頭がぼうっとしてくる。ディオは呼吸が浅くなってきた。
「……え……あれ? あ……うわわわわッ!」
やがてディオは熱を出してしまい、そのまま憧れのジョナサンの胸板に倒れ込んだ。



「ま、参ったな……何なんだ、この人は」
肌蹴た胸元にあたる額が熱かった。ジョナサンは、ディオを抱き起し、ひとまずソファーに寝かせた。
極限まで眉間に皺をよせて、何か恨めしそうに呟いている。ジョナサンのシャツを未だに固く握りしめたまま、拳を作っている。
「ぼくはそばにいるから、安心してくれないかなぁ」
お世辞にも可愛らしいとは言い難い寝顔に言い聞かせると、噛みしめて下唇が緩んで、やに下がってくる。
「起きてる?」
尋ねてみたが、返事はない。皺が消え、呼吸が深くなってきた。しかし頬や首元は肌の色を変えていて、明らかに体調を崩しているのがジョナサンにも分かる。
「弱ったな。熱さましあったかな……、どうしよう」
人の看病の経験のないジョナサンは、戸だなや薬箱を見回して、右往左往した。生来、病気に縁のない健康体であったジョナサンは、常備薬を持ち合わせていない。
薬箱には怪我の手当て用の簡単な道具と、湿布くらいしか入っていない。健康優良児であったジョナサンも近年、肩こりや腰痛を感じるようになってきた。年齢も所為あるがデスクワークが中心になってきているからだった。
横になり、唸り声を上げている青年を寝心地の悪そうなソファーから自分の仮眠用のベッドへと移動させた。
身長はさほど変わらないようだが、ジョナサンは軽々と持ち上げることが出来る。たまに自分の怪力さに驚くこともあるほど、ジョナサンは見た目通りの筋肉力を誇っている。
布団をかけてやると、ディオは枕に顔をうずめるようにして、深い寝息を立てた。残り香を吸い込むような仕草だ。ジョナサンはしばらくディオの様子を眺めた。
シャツは前のボタンを外してあるので、息苦しさはないだろう。ボトムはどうだろう。ベルトくらい取ったほうがいいのかもしれない。
ジョナサンは足のあたりの布団をめくり、きつく締められているベルトを取り払った。すると、ディオが寝返りを打つ。
横向きになり、下になった半身のボトムのポケットが不自然な形になる。何か入っているようだ。ディオは眠りながらも違和感を覚えるようで、ポケットをまさぐり、中身を放り投げた。
硬質な音がした、投げ出された方向へジョナサンが目をやると、ベッド下に携帯電話が落ちていた。
拾い上げると、ロック画面が液晶に移る。
「……あ、ああー……」
ジョナサンは見てはいけないものを目撃してしまった。彼のプライベートの中で最もプライバシーが守られるべきである部分だ。
しかしジョナサンにとってはごく見慣れたものであった。ほとんど毎日、目にしている。
「本当に、ぼくのこと……」
小さな画面の中の八月の男は冷えたビールを片手に笑顔を振りまいている。

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