M&H 3
数時間が経った。ようやくディオは意識を取り戻した。覚醒するまでの朧げな視界の中、知らない空間が広がっている。古代、歴史、東南、旅行記、見慣れない文字が並ぶ。何度か瞬きをすると、それが本の背表紙なのだと理解した。
湿ったタオルが額から転がり落ちた。よく眠れたからか、熱はもうすっかり下がったようだ。むしろ寝起きがいいくらいだ。
寝具はディオが普段使っているものと比べたら、質は同等か、それ以下だろう。それでもディオがよい眠りを送れたのは、持ち主のおかげだろう。
愛しい男の香りが全身に纏えている。思わずディオはもう一度、枕に顔を押し付けて匂いをかいだ。
「あ、起きたのかい?」
唐突にドアが開かれて、声がかけられる。身が硬直した。本人を目の前にするとディオは自身を取り繕おうとして体勢を整える構えだ。
「あ、いや……その」
鏡を見なくても自分の頬が染まるのを感じた。気を落ちつけようにも、鼓動は激しく鳴って普段の自分に戻れなかった。
「どれ……」
ジョナサンは近づいてきて、寝台に腰掛けた。そして眼鏡をはずして、ディオの額と自分の額をくっつける。
ディオはその至近距離に背が張った。これではますます熱が急上昇していってしまう。
「あ、ごめんね。温度計ないからさ」
緊張した様子のディオにジョナサンはそう付け加えた。ディオの待ち受け画面と、あの態度を知ってしまってから、ジョナサンは少しからかいたい気分になっていた。
自分の一挙手一投足にここまで反応を示す相手はなかなかいない。何だか面白くなってきてしまった。
「……何か、まだ熱いね」
額を離すと、ディオは触れられた場所を手でおさえた。年はそう変わらないはずの男性なのに、やけに初々しく少女のような態度をとるのだな、とジョナサンは不思議に見ていた。
先ほどまでの欲に満ちた攻撃的な面はすっかり鳴りを潜めている。
「迷惑をかけたな、その……わ、わる……」
ディオは慣れない謝罪を述べるのに時間がかかった。仕事で謝るのとは違う。自分自身の非を認め、相手に対して詫びる。ディオの人生において、ほぼ経験のない事態であり、その先の言葉がなかなか出てこない。
「わる?」
ジョナサンは、意味を成さない同じ単語を繰り返して吃り男を待った。ようやく決心がつき、言い終えられる、と思った瞬間。
「ぐう」
二人の間に、おおよそ人の声とは思えぬ鳴き声が響いた。
続いて、きゅるるるる、という内臓の収縮による蠕動運動音がした。
「おなか、空いてるの?」
ジョナサンは自分のものではないと知っているので、犯人であるディオに訊いた。ディオは更に顔面を赤くさせて、文句を言いたげに唇が戦慄いている。
「丁度、ぼくも早めの夕食をとろうと思ってたんだけど、良かったら」
人を食事に誘うのは、そこに意図があるようでジョナサンは少し気恥ずかしかった。しかし、項垂れたディオは、静かに首を縦にして、ため息をついた。
始めに通された部屋に戻り、ディオは乱れた着衣を直しながら、ソファーに座った。いつのまにかベルトが外されていることに気づいて、わずかに狼狽えたが、自分が倒れた事を思い返して、納得した。
キッチンでは寸胴鍋が火にかけられている。独り暮らしには似つかわしくない巨大なサイズだ。ぐつぐつと煮える音がして、ディオの元まで料理の香りが漂ってきた。
深皿を用意し、ジョナサンは不揃いのスプーンを二つ、ソファーの前のローテーブルに置いた。
「……ここで食事をしているのか?」
ディオは、どう考えても来客用の小さな机を指した。空の灰皿と、何やら専門書が端に山になって置かれている。
「えー、うん。まあね。基本的にはぼく一人だし、人なんて滅多に来ないからね」
男の一人暮らしなら、床に料理を置いて、マナーや行儀を無視して、食らうのは、別におかしいことでもない。だが、不便ではないだろうかと、ディオは疑問を持つ。低いテーブルに似合わない身長だ。さぞ食べづらいだろう。
「バスルーム、借りるぞ……」
「ああ、どうぞ」
軽く口を濯ぎ、ディオはうがいをした。出会った時は、あの男がジョナサンだと知らなかったので気に留めなかったが、改めてバスルームを見回した。
男物のシャンプー、ひとつだけの歯ブラシとカップ、髭剃りがある。女の気配は今の所感じない。これも職業柄の癖なのだが――浮気調査や離婚調停も専門外ではあるが――ディオはさりげなくチェックした。
ひとつの更にはレタスとトマトのサラダ。そして、向かい合うように置かれた深皿にはビーフシチューが湯気を立てている。すでにスプーンは更に突っ込まれている。確かに机に直に置かれるよりか衛生的かもしれないが、不恰好だ。
「これくらいしか用意できないんだけど、食べれるかな。まだ熱っぽいよね」
ディオの熱は風邪などによる病状のものではない、一時的な興奮状態によって引き起こされた体温上昇なだけなので、体調は悪くはない。
「いや、腹は空いていたんだ。有難く頂くよ」
ディオが席につこうとすると、ジョナサンは皿を自らへ引き寄せた。
意味が分からず、ディオが視線で訴えると、ジョナサンは口を開いた。
「その前に、訊きたいことがいくつかある」
尋問のようではないか、とディオは目を細めた。
「君の名前は?」
そう言えば名乗っていなかった。素性も知れぬ相手を、よく警察に通報せずおいておくものだと、ディオはジョナサンのお人よし加減を不安に思うくらいだった。もし自分が犯罪者であったのなら、どうするつもりだったのだろう。
「ディオだ」
「姓は?」
「普通は尋ねるものが先に名乗るものだろう?」
ディオはシチューの皿を自分の前まで持ってくる。
「……ッ、ぼくがジョナサンだってことは、もう知ってるだろう?」
ジョナサンは、再びディオの皿を取り上げた。
「そっちこそ姓を教えろよ、ジョナサン?」
ディオはテーブルの中央に置かれたサラダからトマトをひとつ摘まんで口へ運んだ。瑞々しい風味が広がる。より食欲が刺激された。
「それとも何か言えない理由でもあるのか、ジョナサン?」
皿を両手で持ったまま黙り込んでいるジョナサンの顔を下から見つめると、ディオは愉快になってきた。
彼が動揺している。ディオはその事実に高揚感を覚えた。再び鼓動がシャツを押し上げるように弾け出す。
「ジョナサンって呼ばれるの、得意じゃあないんだ。よしてくれよ」
「ン〜? へえ、じゃあ何て普段は呼ばれているんだい。教えてくれないか」
「それは、その……」
ジョナサンは皿をディオに戻すと、シチューを食べ始めた。ディオは目の前に置かれた皿を手にし、同じように一口、スプーンで運んだ。
「うまいな」
自然と賛辞が零れた。味付けは最低限なのだが、肉も野菜もどれもがそれぞれを引き立てるように完璧なバランスで成り立っていて、シンプルな美味しさがある。素朴な味わいだ。
「だろ。わざわざうちのクックに頼んで一週間分、作ってもらったんだ」
ジョナサンは自慢げにそう答えたのだが、ディオは皿を置いた。
「うちのクック……? おまえ、さてはどこぞのボンボンかぁ!?」
「ボッ、ボンボンッ!? ……って、何だい?」
勢いのまま立ち上がってしまったディオであったが、ひとまず着席した。単なる世間知らずなのか、俗語を使うような輩が周囲に居なかったのか。どちらにせよ、上流階級の人間であることには間違いないようだった。
身なりは薄汚いくせに、余裕を感じさせる雰囲気がある。トップに立つ人間と多く接してきているディオだからこそ、嗅ぎ分けられるのだった。
「姓を言え。教えろ。おれには知る権利がある」
「な、なんでそんな話になるんだよ……もう、これを食べたら、帰ってよ?」
「いいや、ジョナサン、おまえは言わなければならない……何故なら」
ディオは咥えていたスプーンでジョナサンの顔を指した。
「何故なら?」
自信たっぷりに顎をしゃくり、ディオは勝ち誇って言いのけた。
「このディオが、おまえの正体を見破ったからだッ!!」
「ぼくの? 正体?」
ジョナサンは訳が分からないという顔つきで、レタスの葉を頬張った。
「フフ、世間を賑わせているカレンダーの男がここに住んでいるということを公表してやる!」
「……誰も信じないよ、そんな話」
予想に反してジョナサンの返答はクールであった。
「あれだけの騒ぎになっていても、ぼくの日常生活に何の支障もきたしていない。つまり、今のぼくの姿はカレンダーの男とは似ても似つかないってことだよ」
ジョナサンは淡々と続けた。そして深皿は空になってしまった。
「それはこの街の人間の目が節穴だからだろうが! このディオの目に狂いはなかった! このおれがあのジョナサンの本物を前にして、気づかないわけがない! 事実、誰に言われるでなく、このディオは、自分の目で見て、自分で気が付いた! そうだろう!」
「つまりは、君が凄いってことなんじゃあ……」
つい頭に血が上り、熱弁してしまった。ディオは誤魔化すようにして一口、二口とシチューを食べる。
ふと、目の前の男が笑ったような気配がして、ディオは顔を上げた。
呆れたように目尻に皺をつくった笑顔がすぐそばにあった。ディオは知っている。三月の男だ。あの笑い方と全く一緒だった。懐かしさすら込み上げてくる。
「ジョナサンだ」
ディオは唇のきわについたシチューに気を回すことなく、真っ直ぐに見つめた。あんなにも本物に会いたいと願っていた人物なのだと、今更ながら感情の大波が押し寄せてくる。
「だから、そう呼ばれるの、苦手なんだってば……」
気まずさに耐えかねて、ジョナサンは皿を持ってキッチンへ向かった。まだ温かいままのシチューは鍋の八割ほどある。これをあと四日続けて食べるらしい。
ジョナサンが立った時、ローテーブルに積み上げられていた本が一冊落ちた。ディオはその本の合間に挟まっていた書類に目をやった。
一枚の紙の下部が覗いている。サインがある。――Jonathan……Jo……――
「ジョーンズ?」
ディオは思いつく限り、「Jo」のつく姓を考えてみた。
「ジョンソン、ジュールズ、ジョーダン、ジョンソン、ジョンストン……」
ジョナサンは何事かと振り向いた。しかし目の動きでディオには分かった。口にした名字はどれも不正解だということだ。
どれも英国ではありふれた名だ。それ以外だとすると、ディオの中でひとつだけ思い当たる姓があった。
「ジョースター……」
この姓だとするならば、ディオはとんでもない大物を捕まえてしまったことになる。流石に汗が背中に浮かんだ。
ジョナサンは微笑んだ顔のままで、シチューをよそった皿を抱え、戻ってきた。そして、足元に落ちていた本を拾い上げ、挟まっていた書類を取り出した。書類は破かれ、ダストボックスに投げられた。
「ジョナサン・ジョースター……か?」
ディオは背を向けたままのジョナサンに声をかけた。どう出るのだろうか。興味がある。しかし、不安もあった。
「みんなジョジョって呼んでるよ」
肯定した。
ディオは笑い出しそうになっていた。こんな展開、三流ソープオペラでもあり得ないと思ったからだ。
たとえ上流階級に身を置いていなくとも、ジョースターの名を知らない人は、生まれた時からテレビも新聞も見た事がないのと同意義とされるほどだ。
名のある貴族であったジョースター家が一般庶民の間にも浸透したのは、ジョージ・ジョースターが一代で築いた貿易会社の存在が大きい。
国内に限らず、今や世界にも通用する大企業にまで成長したジョースター貿易の社長の一人息子が、ジョナサンだ。
彼は極力目立つのを嫌い、社交界にも滅多に顔を出さないと言われるシャイなジェントルマンとして、各メディアが探し回っている人物でもあった。
人々の注目を集めるのが苦手だという本人の意思とは裏腹に、ジョースター貿易会社は彼の幼少期の写真デザインしたをシンボルマークを掲げている。
ジョージ・ジョースター社長は、早くに妻を亡くした為に非常に息子を溺愛しているというエピソードも有名だった。
ただの貴族のドラ息子であるなら、ここまでジョナサンの知名度は上がらないだろう。彼は、貴族でありながら考古学者として、若手でありながらも活躍している。
それに、大変見目麗しいとの噂があり、その素顔が明らかにされていないのにも関わらず、米国のある雑誌が毎年特集する「世界セレブ美女美男ランキング」のトップ100に毎回ランクインするほどだ。
「こんな……出来すぎた話があるわけない……」
ディオは腹をおさえこんで笑っていた。いくらなんでも冗談だろう。
「いくら、ジョースターの息子が顔を出さないからって、気軽に名乗っていい相手じゃあないぞ。訴えられたら勝ち目なんてないぞ」
「……信じてないの?」
ディオはけらけらと笑った。あのジョースターの息子がこんな市内の狭いフラットにセキュリティガードもつけずに一人で暮らしているだなんて、国内の誰も想像していないだろう。
「それがおまえの女を落とす手口なのか? だったらもうやめとけ。おまえは十分見た目は良いんだから、そんな嘘なんかつかなくても、髭をそって、髪を整えて、まともなスーツを着ればいい」
一頻り笑った後に、ディオは残りのシチューも平らげた。クックだとか気取って言っていたが、大方田舎に住んでいる自分の「ママ」のことなのだろう。ディオは久々に腹の底から笑ってしまった。
「専属のクックに伝えておいてくれよ? 貴殿のお作りになられたシチュー、大変美味でありました、ってな」
「それは、言っておくよ。喜ぶと思うし」