伝染乙女 9
ジョナサンは夢うつつで会話を続けた。「君? 君って……君って誰だ?」
「君は君さ、君はあの子で、あの子は君さ」
少女の赤い唇が不満そうに歪んでいるのをジョナサンは見ている。だが目は開いていない。
「へえ、そう」
「そう。変なんだよ。すごくね……」
頭はゆらゆらとして、今にも倒れそうだ。ジョナサンは自分が何を言っているのかも理解できない。
微睡み、意識は混濁する。
「寝ぼけていやがるのか。それとも……」
ディオは問題集を閉じて、机に放った。興味が一気に失せたのだった。
ディオはジョナサンの顔をまじまじと眺めた。たっぷりとした睫が、瞼の動きに合わせて震える。目元が痙攣している。ひくりひくりと皮膚がうごめく。
間抜けにあいた口からは、涎れが垂れそうになっている。
顎先をつかんで、ディオは乱暴な手つきで無理やりジョナサンの口を閉じさせた。
「ん……グ……」
それでもジョナサンは眠る。意地でも起きるものか、という気配があった。
「知ってるんだろう?」
ディオは尋ねた。「何を、何が」と明確な言葉を示さずに短く問う。
嘘が下手なジョナサンなら、どこかに必ず反応が出るはずだった。
「…………」
もう、寝息は深かった。不快な鼻息がディオの手の甲にあたって、すぐにジョナサンの顎先をとらえている手を離した。
「変なのはおまえだ」
それだけ言い放つと、ディオはジョナサンの後頭部をはたいて、席を立った。頭を支えていた腕が抜け、ジョナサンは勉強机に額を打ち付けていた。
それでも、やはりジョナサンの眠りの世界は閉じたままなのだった。
夢の続きを見られる方法があるのなら、教えてほしいものだ。
同じ夢を見られたことはない。
楽しい夢、不思議な夢、これからどうなるのかはらはらどきどきする展開の冒険の夢。
それとも、昔々の懐かしい思い出の中。
ジョナサンは、ボタンに聞きたいことがあった。
だから、もう一度眠る。しかし、夢は夢だから夢なのであって、自由自在にはいかないから素敵なのだ。
ジョナサンは少女が耳元で何か怒っている夢を見た。それは夢だったか現実であったかは、分かり得なかった。少女は常に顔の殆どを隠しているため、特徴的な厚みのある唇が印象的だった。記憶に残る唇だけが、目の中に焼き付いている。
だから、ジョナサンが話していたのはあの少女なのだろう。と、決め付ける。
「変なのはおまえだ」
また怒らせてしまったのだな、とジョナサンは弱った。少女とは、どうやら相性が悪いらしい。
そんなつもりではなくても、少女を怒らせ、不機嫌にさせ、泣かせてしまうのだ。ジョナサンも、あの少女に振り回され苛立たされ、困るのだ。
少女は本当に一人なのだろうか。同じ体と同じ声をしているのに、時々別人を相手にしているような気がした。
でも、確かに少女は一人だ。どこかで入れ替わっているならまだしも、ジョナサンは少女が変化していくのを目の前で見ている。
口調や態度が変わり、人格すらも違ってくる。
芝居のようでもあり、すべてが嘘のようでもあった。
「ボタンは、この家にあるよ」
「嘘よ。まだここにあるのだわ」
「ボタンなんてはじめから無かったじゃない」
「本当は、自分で持っていたりしてね」
「片方残っているからそれで我慢しなさいな」
「嫌だわ。ジョジョったら」
「あの子が口にしたから、あのボタンを取り返したいっていうのね」
「けがらわしいわ」
「いやらしいわ」
「あなたって、そんなこと考えてたの?」
少女は分裂した。数人から数十人にわかれて、ジョナサンのまわりを取り囲んだ。
耳元で、胸元で、腕の下で、股の間で、足元で、背の裏で、ハレムの女達のようにジョナサンにまとわり付く。
そして、ひとり群れから離れた低い声の少女が、最後に言うのだ。
「ぼくのことがそんなに好きなのかい」
ジョナサンは返事につまった。
好き、なのだろうか。
好きだからこだわるのだろうか。
好きだから、憎らしいと思うのだろうか。
好きだから、夢にまで出てくるのだろうか。
夢は大概、あともう少しのところで目が覚めてしまうものだ。
ジョナサンが次に見たものは木目だった。それが勉強机だと頭で理解するのに、数秒はかかった。
机の上には、水溜りができていた。口を開けて眠りこけていたのだろう。だらしなく涎れを垂らしていたのだ。
しばらくあたりをきょろきょろと見回したが、もう誰も部屋にはいなかった。
窓硝子が風をうけ、かたかたと枠を鳴らしている。
要らなくなった紙をまるめて、机の水溜りを誤魔化すようにしてふき取った。ただの切れ端の紙には吸収力もなく、ふき取ったというよりかは、塗り伸ばした、に近かった。
机の上に散らばった筆記用具を片付けていると、乱雑におかれた問題集が目にとまった。
途中まで解かれた数式は、神経質そうな筆跡で書かれている。ディオの字だ。
答え合わせをしなくても、どれもが正解なのだろうとジョナサンは何故か自信が持てる。自分のことよりも、ディオのことのほうが自信をもって言えた。
別に信頼をしているわけじゃあない。
いつだってディオは間違わない。ただそれだけだった。