伝染乙女 8

夢を見た。
暗い道を歩くと、いつのまにかジョナサンはスカートの上にいた。
暗がりは黒いワンピースだった。
彼女は、大きな少女。ジョナサンはいもむしのようにスカートの上をはいずっている。全裸だった。
もしかしたら本当は、少女にとってジョナサンは芋虫で、だから「存在が不愉快」なのかもしれない。
それなら分かる。可憐な少女が、芋虫を好く訳があるまい。
ワンピースは雨に濡れて湿る。張り付いた布地が彼女の体を表していく。
胸の小さな膨らみの、天辺に蕾が固くなる。細い胴回りから、少しばかり下腹が出ている。薄い脂肪がついている。そして、腰から臀部にかけてゆるやかにカーブを描く。
腿は細く、長い。足は全て黒いスカートの中だ。
芋虫のジョナサンは必死にしがみついている。
少女は、ぼんやりとしていてこちらには気付きもしていない。
芋虫はやがて腹の上までやってきた。
「ここにぼくのボタンが……」
芋虫はへその凹みの上でしばし休んだ。
血の流れる音がしている。
芋虫のジョナサンは、しばらく横になってその音を聞く。
湿った布地の上は、その下にある肌に温められていて、不思議と心地よい。
芋虫の耳――があるかどうかはジョナサンは知らないが――で聞く脈音が、波のようによせてはかえす。
黒いスカートの皺が大海の白波に思えた。海の上に佇んでいる気分だ。
「ぼくのボタンもこの光景を見ているだろうか」
ジョナサンは呟いた。
すると、少女の腹部から蒼い光が差す。
ボタンは答えた。
「いいえ」
「じゃあ君はもう……」

そこで夢は終わった。
映像は美しく、鮮やかだったので、ジョナサンは起床したときに頭が疲れていた。
脳はまったく休んではいなかった。だから、妙にだるい。
起きた時にその夢の物語は覚えていられたが、次第に記憶は薄れていってしまった。
モーニングティーを飲み終わる頃には、ジョナサンは夢のことを忘れてしまった。

「ジョナサン!」
家庭教師が久々にヒステリックにジョナサンの名前を呼ぶ。叫ぶ、のほうが近いかもしれない。
「……ハイ!」
しまった、とジョナサンは慌てて背を正して教科書を手にした。
既に遅い。ディオは冷ややかな目線を送る。
「君を叱りたいとは思わないよ。君の態度が私を怒らせるんだ」
説教が始まってしまった。ジョナサンは頭を下げて、肩を竦めた。
「先生、それはぼくも聞かなければならないことでしょうか。時間が無駄になりますよ」
ディオはペンを器用に指先で回して、気だるげに文句を言う。皮肉や嫌味はディオの得意分野だったが、目上のものに使うことはあまりない。ましてや、こんな場面では。
「……今日はここまでだ。ジョナサンは、この問題集を明日までにやっておくことだ」
「はい……」
ジョナサンはページの束を見て、眉を下げてしまう。
「ぼくには宿題を出して下さらないんですか?」
ディオはまるで、いじめの標的に向けるような蔑みの目つきで教師にねちっこく訊いた。
「君がしたいというなら、やりなさい!」
机に並んでいた分厚い辞書と教科書を奪うようにして手にとると、教師は乱暴に鞄に詰め込み、メイドを押しのけながら部屋を出て行った。
「…………」
「…………」
残された二人は、沈黙していた。
ジョナサンは、教師もディオも機嫌が悪いのだと思った。
ディオは隠しているようだったが、あの態度なら誰にでも伝わるだろう。
そして珍しく、八つ当たりの対象が召使でもジョナサンでもなく、家庭教師だった。
彼が苛々としていたから、ディオは定めたのだろうか。
それとも教師が先にジョナサンに当たったからだっただろうか。(それでも悪いのは、授業中に居眠りをしかけたジョナサンなのだが)
ジョナサンは問題集を手にして、文字の羅列を意味なくなぞった。
「寄越せ」
隣に座っているディオが、腕を伸ばして問題集を取り上げた。ジョナサンは空になった手のひらを見つめてしまった。
ゆっくりと首をディオへと向けると、没頭するようにディオは問題を解いて行く。
「それ、ぼくの」
ジョナサンは阿呆みたいに囁いた。欲しくはないが、自分の宿題ではあるのだ。取り返したくはないが、反射的に言った。
「だから?」
ディオは手を動かし続けている。すらすらと解かれていく数式に、しばらくジョナサンは見入った。
指の先、爪の形、手の甲の肌理、手首の静脈、金色の産毛。
ディオの手が自動的に正しく動く。心をなくした機械の腕のように、規則正しく、過ちひとつない動き方だった。
ジョナサンはゆるゆると背から力を抜かしていき、だらしなく座った。日差しが部屋を温かくさせていて、ジョナサンは瞼の重さに堪えられなくなっていた。
ディオが走らせるペンの、かりかり、という音がやけに耳に入ってくる。絶え間なく続く音が、眠気を誘う。
「変だよね……」
ほとんどジョナサンの寝言だった。
寝言に返事をしてはいけないと、何かの本で読んだ気がする。ディオは知っていて、応えた。
「何が」
「先生も……君も」
「ああ、そうだな」
「あの子も……みんな、変だ」
「……? あの子って誰だよ」
「だから……君だよ……」

ディオのペンの音が止む。
ジョナサンは寝入り端で、腕に支えきれなかった頭がぐらぐらと揺れていた。

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