伝染乙女 7

ジョースターの邸にたどりつくと、ディオは誰もいないのを確認し、使用人館のかげでボタンを吐き出した。指を喉奥まで突っ込めば簡単だった。こんな事に慣れている自分にうんざりした。見つかると奪われる恐れのあるコインはこうやって胃によく隠していたのだ。
「……ッゲ……グ」
喉を通っていく異物感で涙が浮かんだ。丸呑みするには大きすぎる。粘膜だって傷つきかねない。それでもディオは、ジョナサンを痛めつける方を優先したのだった。
庭師の使う水道に行き、ディオはボタンを洗った。
蒼い石が鈍く光る。
捨ててしまってもいい。埋めてしまうのもいい。だけど、ディオはどちらも選ばなかった。
手のひらにしまうと、握り締めたまま、裏の戸から人目を避けて邸に戻った。
汚れ濡れたシーツは、ついていた暖炉の火にくべてしまった。
煙が随分と出たが、窓を開けてしばらく待てば、誰にも気付かれなかった。失敗などするものか。
それぞれの自室には簡易のバスルームが設けてある。湯は沸かさなければ使えないが、水があるだけで十分だった。ディオは頭から水をかけ、雨水を流した。足についた泥も、何もかもを洗い尽くして、ただのディオに戻る儀式を行う。きつく結われていた髪をとき、癖を伸ばす。鏡に映し出された自分の、少年の肌を認めて、やっとディオは冷静になった。
「バカめ……」
ディオはバスルームの壁を叩いて、そう言い捨てた。

ジョナサンは一度教会へと戻ってみた。
片付けられてはいるが、とても教会として機能していると思えなかった。外は曇り、薄暗く、室内は不気味さを増している。
「町の中心に大きな教会があるから、みんなそっちに行くもんな。ぼくも、とうさんも昔からそうしてきたし、……ずっとこの場所で暮らしてきたけど、この前まで知らなかったもんなあ」
並んだベンチはよく見れば所々腐っている。誤って座ったら怪我をしてしまうだろう。
「これじゃあ幽霊屋敷だ」
言ってジョナサンは、背筋に風を感じた。吹き抜ける湿った空気に驚いて、身を凍らせる。
「……まさかね」
あれだけ煩かった老婆も、こつぜんと姿を消していた。気配もなく、少女の言う神父も見えないし、声も聞こえない。
「……そんな筈は……」
ジョナサンはマリア像を見上げた。目を閉じた像は、微笑みをたたえている。ジョナサンはじっと彼女を見つめる。
とたん、背後で家鳴りがした。
振り返ると、誰もおらず、ジョナサンは自らが生み出した幻想に押しつぶされそうになっていた。
「雨が止むのなんて待ってられないや……、か、帰ろう……ッ!」
いくから小降りになった雨に打たれながらジョナサンは駆け足で帰路を辿った。

夢中で走っていくなか、雨音とは別に、町の鐘の音が聞こえた。ジョナサンは少しだけほっとした。
「ああ、よかった……まだ鳴ってなかったんだ。でものんびりはしてられないや……早く帰らなくっちゃ」
水溜りに何度か足を突っ込みながらも、ジョナサンはそのまま突っ走る。
額に張り付いた髪を後ろに撫で付けて、ただひたすらに邸を目指した。
雨は、また強くなり始めていた。
風は冷たさを増し、雷も鳴りそうだった。
ようやく邸に帰ってきたジョナサンは、迎えてくれたフットマンに苦笑されてしまった。
「ジョジョぼっちゃまも、まだまだこんな風にお召し物を汚して下さるんですね」
「これは、別に遊んでこうなったわけじゃあ……」
「いいんですよ、乳母やもランドリーメイドも喜びます」
「何でさ!」
ジョナサンは気恥ずかしくなって、言い返そうとしたが使用人の用意したタオルに包まれてしまった。
「まだまだぼっちゃまが我々の手を煩わせて下さるのですから」
「……また子ども扱いしてるな」
「いいえ! 滅相もございません。嬉しいのですよ」
むくれたジョナサンにフットマンは丁寧に髪を拭いてやりながら笑いかけた。
「わたくし共の幸せは、主の世話を焼くことですから」
手がかからなくなるのは、親でなくとも寂しい。
ジョナサンに振り回されるのもまた、この邸のものたちにとって幸福のひとつでもあるのだった。
「お風呂の用意をしておきます。すぐに湯を沸かしますから」
フットマンはジョナサンが汚した服を抱えると、下がろうとした。
「あ、あのさ」
「はい?」
振り返ったフットマンは優しく応えてくれる。
「……ディオ、どうしてる……かな?」
何故かジョナサンは尋ねていた。自分でも、どうしてディオのことなど気にかけたのか分からなかった。
「今日はお部屋にずっといらっしゃるようですよ。昼間にお出かけになられたみたいですが、そのあとすぐに戻られました」
「そうなんだ」
「このところ、ぼっちゃまはディオさんのことをよく訊きますね」
「え?」
フットマンは見透かしたように唇を動かす。ジョナサンは不満げに頬を膨らませた。
「そうかな……そんなこと、ないよ。うん、全然ないよ」
首を振って否定すると、だんだんに自分の発言に自信がついてジョナサンは語尾を強めた。
「そうですか? わたしはてっきり……」
フットマンは含みを持たせた言い方をして、今度こそ部屋を出て行った。
「……これじゃあまるでぼくがディオを気にしてるみたいじゃあないか」
ジョナサンは手元にあったクッションを殴りつけて、憂さを晴らした。
中の綿はぐにゃっとして、ジョナサンの拳を跳ね返したので、殴った感触は柔らかかった。
何だか、無意味さを感じた。


ディオは濡れた髪もそのままにして、寝台に横になった。
掌に握ったボタンの存在を、確かめるようにして、開いたり閉じたりしてみる。
どこへ隠そうかと考える。自分の部屋でもいい、庭のすみに埋めるのもいい、下水に流してしまってもいい。
だがそうしなかった。
いくら想像してみても、いつかボタンはジョナサンの手に戻っていく結末が浮かぶのだった。どうしても、その終わりが消えない。
たとえ異国へ流したとしても、海底に沈めたとしても、空のかなたへ飛ばしたとしても、いずれジョナサンの元へ帰っていく気がした。それが一番ディオにとってよくない結果だ。
つまらない。
なら、自分の見える場所において、いつでも肌身離さず持っていれば、絶対にジョナサンの元には帰りはしないのだ。
だったら、そのほうがディオにとっては安全だった。
「……こんなもの、いくらでも代わりはあるくせに」
ボタンの石は濁って見えた。洗い落としても、何故か汚れて見える。
「あいつの、変に固執するところが……キライなんだ」
いくつかジョナサンを観察していて気付いたことがあった。
自分に関することに対しては鈍感であるのに、他人、つまりジョナサンにとって思いが向けられている人物には通常の何倍もの感情が使われる。
人に対して怒り、人に対して悲しみ、人に対して喜ぶのだ。
たとえばいくらディオがジョナサンを怒らせようとして罵声を浴びせても、ジョナサンは困ったように身を縮ませるだけだ。
もしも怒らせたいなら、悲しませたいなら、ジョナサンの思う人間に向けて、悪口を言えばいいのだ。
そうすれば、ジョナサンは簡単に感情を爆発させるだろう。
ディオは、そんな自分との違いが不思議でならない。
何故、自分自身を一番としないのか。(そしてそんなジョナサンの性格もまたキライだった)
他人を思う気持ちのほうが強いなんて、馬鹿げている。
いつだって世界は、他人には無関心で、自分が自分に一番関心を持っているものだ。
そうであることが正しい、とディオは常々思っているので
分かりかねるジョナサンのそういった部分が、どうにも気に食わない。

ディオはいつだって自分の正義を振り翳しているので、同意しないもの、従わない人間は認められなかった。
いくら痛めつけて、現実をたたきつけてやっても、ジョナサンはディオに心を寄せたりしなかった。
今までだったら、圧倒的な力の差を見せ付けられれば、絶望し負けを受け入れて、場を明け渡すもの。または、権力に形だけでも尾を振るもの。おこぼれを貰おうとついてまわるもの。そのように人は分けられてきた。ディオもじっくりと人々を観察し、その手法を学んできた。
ただジョナサンは思い通りにならなかった。ディオの予想を超え、操作不能になる。自分よりも劣る人間は、ほとんどが操れるはずだったのだ。ジョナサンは絶対に自分よりも、劣る人間であって、ディオはジョナサンを掌握できるはずなのだ。
それが世の理であるのだと、身をもって知っていたのだ。
「このボタンのようなもの」
ディオはジョナサンの瞳を思い出して、手の中のボタンを握る。ジョナサンの首を絞めるように、小虫をつぶすように。かたく握った手は、皮膚と皮膚がこすれて、いやな摩擦音をたてた。
爪が手のひらに食い込み、あと少しで血が滲むところだった。

夕食の前に一度風呂に入り、食後にもう一度体を温めるよう言いつけられたジョナサンは、仕方なく二度目の入浴に行かされた。
風呂から上がったジョナサンはメイド二人がかりで髪を乾かしてもらい、それから丁寧に寝巻きに着替えさせられた。
「ぼっちゃま、もう用がお済みでしたら、わたくし共は……」
「うん、おやすみ」
ホットミルクを飲みながらジョナサンは日記を書いた。これは家庭教師からの日々の宿題だった。
今日起きたことを体験したそのままを書いてから、ジョナサンはそのページを破った。とてもじゃあないが、見せられる内容ではないからだった。
カフスボタン、雨、少女、傷口、泥、教会、シスター、幽霊……。
ただ単語を連ねていった。メモ紙にしていた失敗作の日記に、金髪、少女、黄金色、足、シーツ、吐く……と無意識に言葉が並んだ。
まるで深層心理を覗いているようだ。
ジョナサンは、あらゆる意味であの少女に心を奪われた。
恐怖と、恋心が入り混じる。
得体の知れない少女の本性に恐れ。年頃のうるわしい肌と肉に、惚れる。
気味が悪いと思いながらも、人間離れした美しさに否応なしにそそられる。
そして、強烈なまでに注がれる負の感情に、ジョナサンは痺れた。
「こ、こんなの、こうして、こうして……ッ!」
ジョナサンは書いてしまった文字の上を、ペン先が折れるほどに強い力で線を引いて消していった。
名前も知らぬシスターの少女。いつかどこかで会っていて、ジョナサンは彼女にひどいことをしてしまったのだろうか。
覚えはまったくない。
「でも……嫌われるのは、前からよくあったっけ」
女の子には言われたことは無いが、村の少年たちには無条件で嫌われていたこともあった。それはジョナサンが貴族の一人息子というだけの理由だった。
本当に幼く弱かった頃は、ジョナサンは泣いて帰っては、使用人たちに慰めてもらった。彼らはいつもジョナサンの味方で、よくしてくれた。ジョナサンと年の近い使用人は、ほとんど本邸で働かないので、身の回りの世話は一回り以上年の離れたフットマンやメイドだけだった。
それは、ジョナサンが負う必要のない痛みを感じさせないがための卿の思いやりからだった。もちろん、ジョナサンと同年代の使用人に対してでもあった。
かねてから、ジョナサンが同じ年の頃の子どもたちから妬まれ、それによって虐められているのを知っていたからだ。
権力を使えば、彼らはすぐに黙るだろうし、二度と手は出せないのだと卿は知っている。けれども、自分の息子には強く、そして優しく育ってほしかった。だから、卿は子どもたちのやりとりには一切口は出さなかった。そのおかげで、ジョナサンは真の心からの紳士を目指すようになる。自身が持つ身分という名の力に頼らず、人のことを考え、弱いものにそれをひけらかすような真似は決してしなかった。
「言われなければ、ぼくはいつだって気付きはしないんだ」
少女は言った。
『存在そのものが不愉快だ』
ジョナサンは、恨みのこもった少女の台詞を覚えている。
「それが理由なのかなあ……」
思い当たる節は、随所にあった。教会の奥のハウスについて、カフスボタンの価値について。
ジョナサンはジョナサンの常識で語ったが、少女にとってはそれが鼻持ちならなかったのかもしれない。
ジョナサンが少女を嫌いになりきれない理由はもうひとつあった。
あなだじゃなきゃ駄目なのだと、一人にしないでと、言われたからだ。
偽りだったかもしれないし、その場を繋ぐためのものだったかもしれない。
だけど、ジョナサンにはその少女の痛ましいまでの悲壮感が伝わってきた。分かるからだった。
さみしくて、かなしくて、つらくて、くるしくて、一人ぼっちなこと。
「また、あの場所へ行けば会えるだろうか」
走り去っていく白いシーツの少女は、裸足だった。怪我をしていないだろうか。風邪をひいたりしていないだろうか。家には帰れたのだろうか。
ボタンは、彼女のおなかの中にまだあるんだろうか。
日記は、結局一行も書けなかった。

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