伝染乙女 6

ディオは膝を抱えていた。そして親指を噛んだ。歯に爪があたって、ぷちんと言う音を立てた。ジョナサンは窓を向いているので、ディオは自らの格好を省みずにいた。
実に面倒なことになってしまった。
雨が止むまで自分もジョナサンも身動きがとれなくなってしまったのだ。このまま夜になっても降り続けてしまうのなら、一体どうすればいいのだろうか。
流石にジョナサンは邸に帰るだろう……。家のものが心配するはずだ。
ディオは、別に帰らなくたって平気だった。ジョースター卿や使用人たちを言いくるめる方ならいくらでも持っている。それに実子と居候では、かける心配の量だって違う。そんなことくらいディオとて承知している。
たとえ、このまま行方知らずとなったとしても、ジョースター家にとってどうということではない。ただの下流階級の貧賤な親なし子が死んだと処理されるだけだ。
ディオは抱えた膝の間に顔を埋めた。
理解をしていても、腹が立った。
何が違うのだ。年は同じで、同じ国に生まれ、同じ家にいて、同じものを食べて、同じ服を着て、同じ教師に学ぶ。
血が違うのだ。たったそれだけではないか。それが何故こんなにも自分を惨めにさせるのだ。
今は同じだ。同じ場所に立っているではないか。
それなのに何故、ディオはこんなにも苦しまなければならないのか。
憎らしい、妬ましい。
ディオは、零れんばかりの殺意を押し留めるだけで精一杯だった。
「空が暗いから、今が何時だか分からないな……鐘は鳴っただろうか」
ジョナサンは窓に話しかけた。ガラス戸は無機質にジョナサンの声をそのまま返すだけだった。
「この雨音じゃあ、聞こえやしないさ」
鐘の音は町の人々に夕刻を告げる。子ども達は家に帰り、男達は仕事の終わりを知らせる時間としてその音を聞く。女達は食事の用意をするのだろう。
町のはずれの、人も少ないこの場所にはその音は届くか届かないかの距離だった。
「とうさん、もう家に戻ってるかな……」
「さあね」
「……君は、ここに住んでるんだよね。神父さまや、あのおばあさんと一緒に?」
疑問を含んだ目つきをしながらもジョナサンは、ディオを少女と認めたままで訊いた。
大きく開いた足をディオはそのままにして、ジョナサンを見上げる。
「いいや」
「あれ……でもさっき」
「ここには誰も居ないよ」
会話を断つような言い方でディオは語尾を強めた。
「そうなんだ……、じゃあ、別の所から通ってるとか」
「答えなくちゃいけないのか。聞きたがりは嫌いだよ」
ジョナサンは視線を注ぎ続けているので、今度はディオが壁に顔をやる。
「ごめん」
重苦しい空気を一掃したくてジョナサンは質問をしてみたのだったが、不機嫌な少女には逆効果だった。
「……じゃあ、代わりにぼくのことを教えるよ」
「興味ない」
「ただの独り言さ、聞かなくたっていいよ」
所在無い手でシャツの袖を弄ったジョナサンは、カフスボタンの石を目にした。
「このボタンは、亡くなったぼくの祖母がくれたものなんだ。顔はもうよく覚えてない。絵でしか見ることは出来ないけれど、ぼくと同じ目の色をしてるんだ。いつも使っているから、こんな風に思い出すことも少なくなったけれど、これはぼくのお祖父さんが使っていたものなんだ。そう話しながらぼくにくれたのを思い出したよ。普段は忘れていることも、少しのきっかけさえあれば、何だか不思議なくらいにその時のことが思いだせる」
ディオは黙って、膝を下ろした。
「小さな頃に、何度かしか会ってなかったな。別々の家に住んでいたからね。だから思い出せる内容も少ないんだ。だから余計にその分、思い入れが強くなる。きっとお祖母さんはぼくに沢山贈り物をくれたんだろうけど、本当にぼくが、ぼく自身が貰ったのは、これだけなんだ。気持ちが残ってる。お祖母さんとぼくとの思い出、お祖母さんとお祖父さんの思い出、お祖父さんとこのボタンの思い出。そういうものが詰ってる。……ボタンには値打ちはないけれど、ぼくにはかけがえないものなんだ。世界中探したって、これ以上のものは無いんだ」
ジョナサンは恵まれている。
と、ディオは考えていた。
思い出、というものがあるだけいいじゃあないか。
それがあるなら、十分じゃあないか。
そればかりか、思い出の証拠を物品として残しておきたいなどと言うのだ。
贅沢だった。
ディオには、「贅沢」だったのだ。
「うるさいな」
か細い声がした。
ジョナサンは話すのをやめた。少女が口をきいたので、聞き取ろうと思った。
「……聞いてもないことをべらべらと喋りやがって。そんなことでぼくが同情でもすると思ったのか……? 馬鹿だな。虫唾が走るくらい、馬鹿だよ、君は!」
「……え」
ディオは、寝室のある部屋に向かった。放り捨てられていたワンピースのポケットを探る。手に当たる確かな感触に心が落ち着く。カフスボタンがその手にはあった。
ボタンはディオが見つけていたのだった。ジョナサンは、ボタンそのものには価値はないと言ったが質屋にでも売り飛ばせば小遣いにはなるだとうと踏んで、ディオは手に入れていた。おそらくジョナサンのものだろうとは予想していた。あの教会にやってきたのは、 ジョナサンしか居ないのだから。
がさつで粗野な少年が、こんな小さなボタンなど無くなったって気にも留めないと思っていた。
それが、たかがボタンひとつでああだこうだと語り、縋りつく。何と鬱陶しく女々しいことか。
ディオは、ジョナサンのがさつで乱暴で粗野で鬱陶しくて女々しい所が大嫌いだった。
木造の家がみしみしと言うほどにディオはどすどすと足を踏み鳴らして、下品に歩いた。
「こんなもの!」
戻ってきたディオに手には、ジョナサンのもう片方のカフスボタンがあった。
「あ、それは……ッ!」
ディオは手のひらを見せ付けるようにして広げた。その上にはボタンが乗っている。
一瞬、投げるような仕草をした後に、ディオはボタンを自らの口の中に投げた。
「あ……ッ! ああ!!」
すぐにジョナサンは飛び掛って、口を開けさせるようにしてディオの両頬を引っ張った。
しかし、ディオは無理やりにボタンを飲み込んでしまった。喉が上下する。
「な、……ッなんて、なんてことしたんだ! 吐け! 出すんだ!」
「出来るものならやってみな」
壁際に追いやられたディオは、唇を歪めていた。嘔吐させるほどに腹、胃のあたりを殴りつければ、戻すかもしれない。けれど、ジョナサンにはそんな真似は恐ろしかった。
「なあ、ジョジョぼっちゃま、やってみろよ」
「う……ッ、ぐ……」
作った拳を構えてはみたが、無抵抗で手を上げる少女に暴力を振るえはしない。
目の前で握った拳が震えているのを、ジョナサンは後になって知った。
「出来ないだろ、アハハ……ざまあみろ!」
「ど、どうして……どうしてこんなことするんだよ! ぼくが君に何をしたっていうんだ!」
唾を飛ばしてジョナサンは少女に詰め寄った。頬についた唾をディオはシーツの袖で忌々しそうに拭った。
「おまえという存在そのものが不愉快だ」
「…………ッ!?」
ディオは元に戻っていた手でジョナサンの胸を押しのけた。その衝撃でジョナサンはよろけてしまう。
「逃げるのか!」
少女はシーツをかぶったままで外へ駆け出してしまった。
ジョナサンの叫びは風雨にかき消されてしまっていた。
ディオは一目散に走って、邸へと戻った。足には自信がある。たとえジョナサンが追ってきていても、捕まるなんてヘマはしない。
時折後ろを振り返ったが、姿はおろか足音すらもなかった。
「ショックでその場にへたりこんでるのかもな」
想像するとディオは笑えた。だけど、笑い声がうまく出せなくて、それは喉の不調の所為だと決め付けたのだった。

雨がシーツに染みて重くなった。
町や道は、この雨のおかげか人通りは少なかった。たまに出くわした人はディオを怪訝な目で見たが、それきりだった。わざわざ面倒事に自分から首を突っ込むやつはいない。みな、自分のことで手一杯だ。
ディオは自分まで幽霊になった気になる。白い影で、顔もなく、裸足で、びしょ濡れだ。
あの古い教会の真実の噂は、別にある。
きれいな見習い修道女など居はしない。
老いた修道女が孤独に死に、その魂は自らの死を自覚せずに彷徨っているだけ。だから老女は未だにあの場所に居ついて、ディオをこき使うのだった。目もろくに見えない老女は、おぼろげな姿形だけを見てディオを見習いの少女だと決め付けて勝手に信じ込んでいるだけだ。
未練や恨みなどない。誰にも知られることのない遺体はどこぞに隠れていて、老女は葬られずにまだ自分を生きているかのように感じているだけなのだ。
しかしディオにはどうでもよかった。
幽霊でも亡霊でも、幻影でも、何でもいいのだ。使えるものなら、なんでもいい。

ディオの身体は、幽霊の影が乗っ取る。
あの場所に行き、少女の格好をすると自然と肉体は変化する。
それは実際に女の身体になっているのか、幽霊の影が覆って少女の肉体を見せかけているのかは、分からない。
だが確かに骨は痛み、声が変わり、背は縮み、胸や尻に肉が増える。触れば暖かで弾力がある。そして、それがディオにとって自らのものだと分かるのだ。
時間はまちまちだった。ものの数分で変化が終わる場合もあれば、数時間から半日の間のときもあった。乗っ取る相手の都合なのか気まぐれなのかは定かではない。
胸の肉を揉んでみたり、下腹部に指を突っ込んだりして、はじめの内こそディオは多くの少年と同じような好奇心で女体をまさぐった。しかしその遊びにもすぐに飽きた。
それからしばらくして、ジョナサンと付き合っていた少女を傷つけた。
ディオは、ずっと二人の様子を窺っていたのだった。
そこでひとつ気が付いたのは、ジョナサンは極端に「女性」という生き物に弱い、ということだった。
ならば、こんなに面白いことはないだろう、とディオはある計画を思いつく。
少女が異国へと旅立ったのをきっかけにして、ディオは実行へと移していったのだった。

けれど、計画通りにはあまりうまくはいかなかった。
ディオが少女になると、ディオの人格はそのまま残っていても、少女性が強まってしまって、不思議な気分になる。
ジョナサンに優しくしたくなったり、身体をくっつけたりしたくなったのだった。
そして、ディオが元に戻ろうとすると、本来の凶暴性や嗜虐心がより一層高まってしまって、会話が成立しないことが多々あった。
ディオは少女である自分を使って、あのエリナとかいう女の代わりをしてやるつもりだった。
優しくして、遊んでやり、たまには身体でも触らせてやるつもりだった。
そうした日々を重ねて、ジョナサンがすっかり信用し、少女である自分を好いていた頃に、全てを明かしてやる。
治しきれない心の傷をつけてやれば、ジョナサンはますます他人を信じられなくなる。そのまま大人になれば、すっかり社会に適応できなくなった駄目人間の完成だった。
そんな大雑把な計画を立てていた。

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