ハートランド 2
出された御馳走の味をディオはあまりよく覚えていない。とにかく慣れなかった。美味しいなどと感じるより前に矢継ぎ早に料理が運ばれ、あれを食べろこれも食べろと勧められ、ひたすらに口に運ぶ作業だった。
今までのディオにとって食事とは飢える手前程度の量、そのくらいで十分と思っていた。
胃に隙間がある方が頭が働いたし、これが食べたいと心底願う物は特に無かったのだ。
食に大した執着心もない。食べるという行為はあくまで生存活動の一環でしかなく、ましてや「楽しむ」など意味不明だった。
ジョースター卿は終始にこにこと顔を綻ばせて、そんなディオの様子を眺めていた。
どれが好みかとか、これも飲んでみてだとか、率先して会話を続けていたが、咀嚼で手一杯のディオは頷くか首を横に振るぐらいの反応しか出来なかった。
初日からへまをしてはいけないと叩き込んだマナーは完璧であった。そう、ディオはきちんと教科書通りの作法だったのだが、ジョースター卿こそがそんなマナーを破っていた。召使も皆気づいていた。おそらくその中で一番偉い人物であろう、初老の執事長が咳払いをして卿に合図をした。
すると、ジョースター卿は、はっとナイフの手を止めて「いや、参ったな」と照れ笑いをしていた。
拍子抜けだ。かしこまっていた自分が馬鹿らしくなる。ディオは、グラスに注がれた深紅の液体を口いっぱいに流し込みひといきで飲み干した。
団栗眼の上座の男は、満足げに口角を上げてみせていた。
部屋に戻る許可は案外早く下された。
「今日は疲れただろうから、早くお休み。何か必要なら、メイドやフットマンに言えばいいからね」
ジョースター卿はナプキンを畳みながら、そう告げた。
今までにない満腹感にディオはげんなりしつつ、その言葉に頭を軽く下げた。食事前より随分と重くなった体を持ち上げ、自室へと向かう。
長旅で張ってしまった脹脛も、許容量ぎりぎりまで詰め込んだ腹も、とにかく重くて重くて仕方ない。
自室ならもう神経をすり減らすこともない。窮屈な服も脱ぎ捨てて、思う存分好き勝手してやる。
自由がすぐそばまで来ていると思えば、この長ったらしい階段もディオにとっては天国への梯子だ。
「ああ、それとディオ」
あと数段で昇りきる所だったのに、下から再び声がかかる。
首だけで振り向くと、階下ではジョースター卿がディオの立っている方向へと大きな体を傾けていた。
「ぼくは一階の書庫にいるから」
「……はあ」
我ながら気の抜けた返事だと、ディオは思う。
だって興味がないのだ。ジョースター卿としてのジョナサンだからこそ、ディオにとって価値のある利用すべき人物であり、爵位の無いただのジョナサンはのん気で間抜け面の青年でしかないのだ。
自分に関係の無い場では、どこで何をしようと勝手にすればいい。
義理の親子、と言っても所詮書類上の関係。他人と変わりはしない。
他人が同じ家にいて、過ごしてるだけ。
だから、詰まるところ、どうでもいい。無関心だ。
そうでなくとも親なんてくだらない、不必要なものなのだから。
「じゃあおやすみ、ディオ」
「ええ、おやすみなさい、ジョースター卿」
素っ気なく挨拶が交わされる。階段を昇りながら、相手の顔など見なかった。どうせ柔らかく微笑んでいるのだろう。声色で表情も浮かぶ。
ごく自然にこぼれた何気ない就寝の挨拶は、ディオにとってとても久しぶりに口から出された言葉だった。
声になってからそのことに気づいて、――ぼくはあの人と家族になったのか、とここでやっと自覚したんだった。
部屋に置かれている調度品は、白を中心に落ち着いた配色のものが並ぶ。寝具や机など触れる機会が多いものは新品で、時計や箪笥などは元から邸にあるものらしかった。どれも質がよいのだろう、目利きでなくとも分かる。
シャツのボタンを外しながら、クローゼットを開く。中にはいくつかの服が揃い掛けられていて、手前には夜着があり、その隣にはガウンがあった。田園の夜は底冷えすると聞いている。ひとまず着替えたらそれを羽織ることにした。
成長途中のディオには、寝巻きも上着も袖や裾がいくらか余ってしまった。袖は腕を下にすると指先まで隠れてしまう程の長さで、裾は本来はひざ下にくる所が足首あたりにきている。
こんな格好で人前には出ないだろうし、どうせ放っておいても体は大きくなるのだから、特に気には障らない。
脱いだ服は椅子に引っ掛けて、放置する。これからはもう服を畳むだとか、部屋を片付けるといった面倒事は全て使用人に任せていい立場になった。
召使、使用人、己に尽くす存在、なんてよい響きだ。邸に来る前々から存分に使ってやろうではないかと、密かに楽しみにしていたことのひとつであった。
食事だって、上げ膳据え膳だった。黙っていても不自由なく生きれる。
――これだから貴族ってやつは……とかつての自分なら苦々しく恨んでいただろうが、今はもう違う。
人から羨望される、その支配層の人間になったのだ。
くっと喉から笑いがこみ上げてくる。歌でも歌いたい気分で、そのまま規格外の大きさのベッドへ体を預ければ、心地いい跳ね返しが体を浮遊させる。頬をよせた清潔なシーツはぴしっと張って、よくアイロンがけがされていると分かる。
横になれば、すぐに微睡みかけた。体と心の疲労感を羽毛布団は優しく癒してくれていた。
ぼんやりとその時間を堪能していると、半分閉じていた視線の先、壁際にある鏡台に湯気が揺らいでいるのが映っていた。
台には湯の入った洗面器が二つほどあるようだった。
最初はなんのことだと思った。うつらうつらとした頭の片隅で思考し、夢への扉を開く直前にひとつ答えが出た。
顔や手足を、それで洗うのか。
湯が沸かせるのは1階にある使用人棟の台所だけだ。ディオが部屋に戻るその頃合に、丁度良いよう準備されていたのだ。
――わざわざ湯でか、そういえばこの家には浴室があるんだよな。
風呂は上流階級の生活では、贅沢の象徴だそうだ。人がすっぽり収まる箱に湯を入れて、そこに浸かるのだと聞いたことがあった。
水浴びと何が違うのか分からなかったが、明日にでも経験してやろうと、ディオはもくもくと流れる湯気に未だ見ぬ風呂を想像し、眠りに落ちた。
ジョナサン・ジョースターは、自分が考古学者と名乗るにはまだまだだと思っている。世間からみても若造の年齢、駆け出しの新人、ニューカマー。
ジョナサンはその道へと足を踏み入れたばかりの人間で、偉大なるダーウィンのように何かを成し遂げてはいない。いつかは自分も、と夢を馳せている段階だ。だから、誰かに自分の職業をひとに伝える時は少し躊躇いがある。
本格的に考古学の勉強を始めたのは10代が終わろうとしていた頃、この「石仮面」がきっかけだった。
亡き母が買ったという石で作られている仮面は調べれば調べるほどに謎が深まり、ジョナサンはその魅力に取り付かれていったのだった。
古代には、今の世には無い不思議な文明、文化が数多く存在している。その名残は世界中に点在し、人々の飽くなき探究心を煽っている。
無論ジョナサンが取り扱うのは石仮面だけではない、アステカを筆頭に、オルメカ、テオティワカン、マヤ、トルテカ文明など多岐にわたる。果てはムー大陸、アトランティスといったファンタジーに近しい分野にも精通している。
今夜もまた一人書庫に篭もり、ああでもないこうでもないと本を山ほど重ね、ペンを走らせている。毎晩と、大学から持ち出した昔の文献や家に伝わる古書を読み漁り、「石仮面」について一人きりで研究を重ねる日々はここしばらく続いていた。
よくそのまま机に突っ伏して朝を迎えてしまい、執事に呆れられるのも常だった。
お決まりの台詞はこうだ。「お体に障ります、眠るなら寝室でお休み下さい」と困ったように肩を落として言うのだ。
オイルランプがちりちりと灯りを揺らし、ジョナサンは自らの目を擦った。
「ああ、もうこんな時間かぁ」
胸ポケットにある懐中時計はとうに夜の2時を指し終えていた。
毎日こうして過ごしていても、時間は足りない。削れるのは睡眠時間くらいで、無理をしても続けていたかった。
いや、これに没頭していれば、ほんのひと時でもあの日の悲劇を忘れられるから、やめられないのだ。
夜は特に辛い。
一人寝所に居ると、哀しい夢を見る。眠れなくてもあの日のことは頭の中ではっきり映像となって、繰り返す。
寝ていても、起きていても、見るのは同じ悪夢。
どうしたって悲しすぎる。ならば現実に向き合うよりも、仕事を言い訳にして逃避するほうが良い。
慰めや同情も自分にとって負担にしかならない今は、明るく振る舞い周りに心配をかけないよう努めていた。
ジョナサンとは立ち直りの早い屈強な男だと、思われている方が楽だった。
気の遣い方が間違っているのかもしれない、でも今はそれで良かった。それが一番だと思ったのだ。周りに対しても自分自身に対してもだ。
心は、冷たく凍る。
一度閉じてしまうと、なかなかに溶けはしない。だがそれでもいい。
これ以上の痛苦はいらない。なら、もう誰も要らない。
ひとを愛するのは、もうやめた。
たった一人の女性だけ、エリナだけで良かった。
彼女を失くしたジョナサンの心は時を刻むのをやめ、今尚過去に生きていた。
下半身に寒気が走って目が覚める。
やけにすっきりした目覚めだった。布団を剥いで飛び起きても体は楽に動いた。
ディオは、胃の重みが薄らいだことに気づく。
「…………ン、」
寒気は尿意だった。生憎水道は1階にしか通っていない、つまりトイレに行くには下へ降りなくてはならなかった。
ロンドンにいた頃なら、多分洗面器でも構いはしなかったが。そんな所で下流生まれな部分を曝け出すのは、恥でしかない。
億劫だなと腰を上げ、棚の上にある真新しい蝋燭に火をつけてランプに移す。朧げだった火は芯に届くと、しっかりと安定した明かりになった。
皆が寝静まった時間なのだろう。時計を見なくても邸の静寂と夜空の空気で分かる。
使用人たちは仕事が終わるとほんの数人だけが邸に残り、あとは全員離れにある使用人専用の寮へ帰るのだ。
この真夜中の広い家の中、歩き回るのには少々勇気が必要だった。
ここはジョースター家が「代々」受け継いできた邸なのだと聞く。
よく言えば歴史ある建造物、悪く言えば古いお化け屋敷。
幼いディオにとっては、後者の印象の方が強い。確かに立派な建物だと思うし、昼間なら趣きがあって素敵に見えるだろう。
でも夜は違う。しじまの無音が不安感を増幅させている。
壁に飾られている絵画の中で妙な影が動いた気もするし、長い廊下に置かれた東洋の壺から何か出てきそうな気配もする。
特にディオは階段にある、通称「ジョースター家の守護神」――慈愛の女神像が苦手であった。
優れた美術品に感心することはあるのだが、この女神像はなんだかとても不気味に映って、一目見た時から嫌な気配をディオは感じ取っていた。
階下に行くには、否が応でもその女神像の前を通ることになる。
それ以外の道は、窓から降りる他ないだろう。ディオは流石にそこまではしない。
そうこうしていても、生理現象は待ってはくれない。グズグズしているのは性に合わないと、早足で階段を駆け下りていった。
ゆらゆらとランプのオレンジがかった明かりが、邸内の広間を照らす。
「……怖くなんてないッ! ただぼくは、コレが気に入らないだけだッ!」
女神像は下からの明かりの所為で、凄みの増した顔になっている。影が色濃く、見る者を圧倒させる。
恐ろしければ見なければいいのに、ディオはわざわざ女神像に向かって強がってみせた。
たとえ相手が作り物であっても、弱さなど見せたくない。ディオは負けん気の強い子どもだった。
ずんずんと広間を大股で歩けば、石床は足音を響かせていた。
――ぼくがこの家の主になった暁にはッまず最初にあの像を撤去してやるッ!!
近い将来そうなる、必ずそうしてみせるとディオは野心をまた一層大きく膨らませた。
邸内は、無駄に広い。
たかがトイレひとつとっても、花は飾られているし、本棚がある。大天使ミカエルだかガブリエルだかをモチーフにした小さな石像も置かれている。それらが一体何の為なのかさっぱり分からなかったが、用を足すにも貴族サマは美術鑑賞でもせねばならぬのかと思う。
街中の公衆便所に慣れ親しんでいた身としては、機能性を一切感じられないこの華美さには首を傾げた。
しかし街に比べたら断然こちらがいいに決まっている。ことを済ませれば、自由に使える水道からきれいな水を出して、そこで手を洗った。この家での当たり前が全て下層階級には「有り得ない」ことだらけだ。
洗面所の重たい扉を締めると、高い天井に音が反響する。耳鳴りが一瞬生じるが、すぐに治まった。そしてあたりはまた元の静寂に包まれた。
部屋履きの軽い靴音とランプの明かりのかすかな火の音だけが聞こえている。
闇に慣れた始めた目で、ディオはそこらじゅうを見て回ろうかと画策した。
恐怖心は完全に消えてはいなかったが、違った意味で胸がちょっぴり高鳴っていた。
人前で心乱すのは弱い人間か馬鹿な人間であり、どちらもディオは軽蔑している。
だから人の目があれば、いつでも平常心でいようと決めている。感情を昂ぶらせたりしない、決してはしゃいだりなどしない。もう幼児では無いのだ。
とどのつまり、人前でなければいいのだ。人の目さえ無ければ。
そういうわけでディオはこの独り占め出来る空間に、「ちょっぴり」はしゃいでいたのだった。
邸の案内は明日しようとジョナサンは言っていた。いくつも部屋があるから時間がかかるのだろう。
だが、ただお行儀よく後ろをついて回るより、自由に彷徨く方が楽しいに決まってる。約束などしてはいないし、ここは既に自分の家だ。
たとえこのことが見つかってしまったとしても、何ら悪びれる必要はないのだ。
それにこの不気味さに物怖じしていないと自分自身に言い聞かせれば、また一段と強さが増した気にもなる。
恐れを克服していける強者こそ正義、いつだってディオの信念はそこにある。
正面の玄関口には大階段があり、そこを中心として東西に扉が並ぶ。
2階は寝室やテラス、勉強部屋があった、確認はしていないがジョナサンの寝室もあるのだろう。
現在いる1階には、ディオはダイニングルームくらいしか足を踏み入れていない。
眠気もすっかり醒め切ってしまい何か面白いものでもないかと、ディオの好奇心の高まりと比例し足は奥へ奥へと歩みを進めていく。
まず目についたのはギャラリーであった。きっと高価な物が飾られているに違いないと思った。
だがそれらをくすねるといった下卑た考えは無い、父親ではあるまいし、ディオがこの世で最も忌み嫌うクズと同等の行為なんて死んでもするものか。
そうではなく、単純な興味だ。
どんな人間でも宝だとか財産だのに、関心を示さない者はいない。
回廊の高い天井に向け、ランプを掲げる。ずらりと顔を揃えているのは、瑠璃の瞳、蒼みの強いブルネットのくせ毛、たっぷりとした口髭……。ジョースター家の代々、先祖たちの肖像画である。
手前の色褪せていない1枚は、ジョージと書いてある、ジョナサンの父親であった。意思を感じさせる眉だが、目は慈愛に満ちている。
ディオはジョージのその優しげな瞳に見つめられているような錯覚をした。
実に似ている、視線も顔つきも、笑みの柔らかさまでもそっくりだとディオは思った。
額縁の前には、絵画の主にゆかりのある品がケースに入って置かれている。たとえば、指輪だとか、愛読書だとか。
愛用のパイプ、手紙、勲章。ジョースター家の歴とした所以がまざまざと示されていたのだった。
「ふん、つまらん……」
確かに高価だろう、貴重だろう。だが全然面白くない、こんなものは故人の思い出なだけだ。
過去は過ぎた事、そんなものはやはりどうでもいい。幾度となく過去を捨てているディオには、到底理解は得られぬものだった。
4つ5つと通り越す時にはランプはもう手元に戻っていた。
あれから時間はどのくらい経っただろう、そろそろ部屋へ帰ろうかと踵を返そうとした瞬間。回廊の終わりに光があった。
ディオの手にしているランプは蝋燭のオレンジ色をしている。先の光は、少しぼやけて煤汚れているような灯りだ。
誘われるように、光を目指しゆっくりと歩を進める。長いギャラリーの角を曲がり、突き当たる場所。邸の奥、そこは書庫だった。
ドアはきちんと閉められていないままで、その隙間から光が暗闇の廊下を照らし出している。
そっと音を立てずに扉を引くと、中は堆い本の山々が眼前に広がった。
そして次に目に入ったのは、優に5メートルは越すであろう本棚の数々。これほどの大量の本は見たことも無かった。思わず感銘のため息がほうっと零れた。
「……誰かいるのかい?」
山の中から、影が揺れ声が聞こえてきた。内心ぎくりとして、ディオは返事をしなかった。それが誰か分かっていても、心臓は痛みを伴いながら脈打つ。
黙ったまま動かずに居ると、影は不審そうに体を立ち上がらせた。それでも姿が現れないほど本が重なりあって塔になっている。声の主が立ち上がった振動で塔はぐらぐらとバランスを崩しそうになっていた。
本と本の間から覗いた目はしばらくさまよった後に、しっかりとディオを捕らえた。
「ディオ……! どうしたんだい?」
面倒なことになったと、ディオは奥歯を噛む。視線を足元にそらし、返答を詰まらせていた。
ぎっ、みし、と木造りの椅子が鳴り、また本の塔がぐらつく。ジョナサンはこちらに向かってきているのだ。
ほどなくして巨躯の影がディオを包み、相手がそばに立ったことを教えてくれる。
「こんな時間に、一体どうしたの?」
甘ったるい語尾がくすぐったく、それはあたかも幼子に対していう口調であったのでディオはむっつりと唇を結んでしまう。
とがらせた唇は眠気で不機嫌そうなのだとジョナサンには映り、あやすように大きな手はディオの頭を撫でる。
すぐさまかぶりを振って拒んでも、またジョナサンは繰り返す。
丁度よく掌に収まる丸い頭部を撫でくるのが既に癖になっているのだろう、子供扱いをされるのを甚く嫌うディオには厄介な癖であった。
「別に……っ、なんでもないです、手をどけて下さい、ジョースター卿」
手の甲で相手の手をどける仕草をすれば、名残惜しそうにジョナサンは手を引いた。髪に残る熱が、耳にまで伝染していく。部屋が薄暗いおかげで、ディオの肌が赤らんできているのにお互い気づきはしなかった。
「こんな夜遅くまで起きていてはいけないよ、……それとも、眠れない?」
眠れないわけでも無かったし、ずっと起きていたわけでもない。どちらにも当てはまらない状態に答えはやはり出ない。
再びだんまりを決め込んだディオの服装にジョナサンは目を注いだ。
その寝巻きは、自分がクローゼットに仕舞ったものだった。ジョナサンが生まれる前からジョースター家に仕えてくれている乳母やと、一緒になって選んだ夜着とガウンだ。
ふたりはこの家に訪れる少年を、自分の子供や孫を迎える気分で、随分と前から日用品や衣服の準備を整え待ち構えていた。
気に入ってくれるだろうか、使ってくれるだろうか、そう話ながら用意していたのだ。
「ああ、これ指まで隠れてしまうんだね」
12才とは、どのくらいの体つきだったか、もう記憶は遠い。声変わりをしてはいなかったっけ。身長も体重も記録はない。
ジョナサンや使用人の周りにもその年頃の子供はなく、衣服はなんとなくで揃えていった。乳母やは、「坊ちゃんは赤ん坊の時から人より大きかったものですから、あまり参考になりませんね」と笑っていた。
ディオの為に誂えたそれらを手にとった時、12才とはこんなに小さいものかと驚いたのだが、いざ目の当たりにしてみれば実物は予想以上に小さかったのだ。
ランプを持った手の袖はぶかぶかとして、空いた腕は指先のほんの少し人差し指と中指、薬指の爪先だけが出ている。
足元は、今にも引き摺ってしまいそうなくらいの裾は長い。
いずれ彼も成長し、この夜着もぴったり合うようになる。やがて窮屈になり、少年は青年になっていくのだろう。
成長過程の真っ只中、ほんの短い間にしかない、子供の愛らしさと少年の男らしさの相まった独特な雰囲気。そう、まさに思春期だ。
若干愛らしさが優っているディオに面と向かって口には出しはしないが、その姿はとても、……非常に可愛らしかった。
「着心地はどうだい?」
「……悪くないです」
腰を曲げて顔を合わせようとすれば、反対にそっぽ向かれてしまう。愛らしい容姿とは裏腹に可愛げのない言葉選びは、らしくもあった。
ほんの数時間、交わした会話も数えるくらいだが、ジョナサンはいくつかディオについて見抜いた事柄がある。
この会話にもあったように、打ち消し言葉を多用し否定的な物言いをするのだ。たとえ前向きだとしても、悪く「ない」、だ。
素直に「いい」と言えないのは元からの性格なのか、せざるを得ない環境だったかは窺い知ろうが、しまいが問題はそこにない。
要はこれから変えていけばいいし、変えられよう。この子の親となるには、ひとつひとつゆっくりでいいから心を解してやることだ。
彼もまた自分と同じ傷を持つ、家族を亡くした喪失感は共有出来る筈だ。きっとうまくやれるさ……ジョナサンは無責任に決意していた。
ひと一人を育て上げる苦労は若いジョナサンには未知の領域だった。軽はずみに引き受けたわけではないが、重責の真意を汲み取れていなかった。
無垢で真っ新な赤子ならいざ知らず、このディオの隠し持った刃は鋭く研ぎ澄まされて、いつかの日に血を見るのを待ち望んでいるのだから、ジョナサンの考えは甘かったと悔いる時も来るだろう。
「そうだ、言おうと思ってたことがある」
藪から棒に、さも今思いつきましたと手を打ち軽やかに告げる。
次の発言を待てども、ジョナサンは腰をぐいと回して、それから腕を上げて伸びをしている。
ぱき、ごきと骨を鳴らし(音の原因は定かではないが、関節内の液体に気泡が発生し破裂する状態をキャビテーションと言い、つまり骨では無いらしい。)背を向けた。
「……?」
ジョナサンは隅に置かれている革張りの長椅子に深く腰掛ける。随分とゆったりした造りなのだろう、上背もあり恰幅もよいその巨躯を受け入れても尚余裕がある。
丸太のような太ももを大きく開き、足の間にある程度のスペースをとった。何をしたいのか、ディオにはまだ理解出来ない。
ふたりの目線は丁度合うくらいの高さになった、ようやくきちんとお互いが顔を見合わせられ、ジョナサンは歯を見せて笑む。ディオは居心地の悪い思いで結んだ唇を更に噛んだ。
自分に対して笑顔を向けられると、胸がむず痒くなった。ジョナサンのいかにも人の良さそうなとろける破顔には特にで、目が惹きつけられてしまうのが自分はどうにも許せない。
間抜け面め、と思っているにも関わらずどうしてかつられて頬が上がる感覚がくるので、出来るだけ見ないようにしているのだった。
「ディオ」
指を折り曲げて、come hereと手前に振り、とんとんと足の間を指した。
「…………え?」
――まさか、いや、……なんだって?
ディオは暫く逡巡し、思考を持て余した。ジョナサンは変わらずまだかまだかと満面の笑みで、腕を広げている。
――なんでそんなこと、……出来るかァッ!!!!
とうとう血は沸騰した。頭を撫でられてからというものの、ずっとじりじりと熱は上がっていて、白いほっぺたは薄闇でも確認出来る程に赤々としていた。
「照れることないさ、ほら」
待ちくたびれたジョナサンは悪戯にディオの両の腕を引き寄せ、無理やりにその長椅子に膝をつかせてしまった。
「おっと、危ない」
持っていたランプは転げ落ちて、衝撃で火は消えてしまった。ジョナサンは器用にも靴のつま先でランプを立て直し、行儀悪く足でそれを邪魔にならない所へと退けた。
ふたつあった明かりがひとつ減れば、一段と闇が色濃くなった。部屋に置いてあるオイルランプは手入れが行き届いていないのか、不明瞭に灯っている。
「な、何をするんですっ?! ふざけるのはやめてください、ジョースター卿!」
ディオはジョナサンの肩を押し、身を離してそこから降りようとした。驚きでまたもや心臓がばくんばくんと弾んで、生え際の毛穴から汗がじわっと吹き出し始めている。
――抱きしめられるかと思った。抱きしめられるかと思った。抱きしめられるかと思った!
脳の構造に支障を来たしたディオは同じ文章をひたすらに繰り返してしまい、何か別のことをと考えてはいるものの、腕に未だ握られている手を肌がジョナサンと認識すれば、それ以外何も出て来なかった。
「いいじゃあないか、こうしてさ」
容易くくるりと体を反転させられ、ディオはジョナサンの股の間にちょこんと座らされてしまった。ジョナサンは太い腕でがっちりとディオの薄っぺたな腹をくるみ、太ももと太ももはぴったりくっつかせ簡単には身動き出来ない様ホールドした。
「そうそう、言いたいことっていうのはね」
聞きたくない、ディオは腕を剥がすことに必死だ。筋肉隆々の腕橈骨筋はディオの力では微塵も動きはしない。
「呼び名のことなんだ」
直接脳に伝えるかのようなトーンであった。
片腕が緩み、ほっとしたのも束の間ジョナサンはディオのほっそりとしている脚に掌を添えてしまう。
耐え難い状況にディオは窒息寸前で、くらくらしていた。何でこんな、混乱して、心乱れて、いや乱されて、息が切れるのだろう。
動悸がちっとも治まらない、この男は一体このディオに何をしているんだ。薬でも盛られたのかと疑いかけるぐらいに、ディオはパニックに陥っていた。
「ディオ? 聞いてるかい?」
「……っいてる……っ」
鼻の奥にツンとした痛みが生じる。弱々しい声しか出せなかったのと、得体の知れない感情に振り回されている自分に悔しくて、目頭が熱くなる。
瞼に力を込めて、なんとかやり過ごせた。
――思いもよらなかった事態に順応出来なかっただけ、ただの吃驚によるものだ、そうだ、そうなんだ……。
「『ジョースター卿』と君はぼくを呼ぶだろう?」
「それが、何か」
努めて冷静だった。背筋をぴんと伸ばし肩も脚も最小限に内側へとまとめて、ミリ単位でも離れればいくらかは落ち着く。
「ぼくにとってはね、ジョースター卿とは父の名なんだ。爵位を継ぎ、その名も継ぐ。だからぼくがジョースター卿と呼ばれるのは当たり前なんだけれどね……」
この話は長くなりそうだと、ディオは既に嫌気が差してきた。強制的な昔話なんて誰が喜ぶんだ。
「父が亡くなりもう何年も経つけれど、未だにそう呼ばれることに慣れない自分がいるんだ。情けないと父は怒るかもしれないなあ……」
――そうだろうさ、草葉の陰で父親は落胆してるだろうとも。こんなの犯罪に近いだろ……。
腕はまだ固く、太ももに乗る手はだんだん重さを感じるようになってきた。
「…………」
ディオは黙る、同情でも誘っているのかと呆れていた。立派な大人なら、知り合ったばかりの子供に弱音など吐くものか。こいつはとんだ甘ったれのクソ野郎だなと、心中ではこき下ろしまくっている。
「だからディオ、君には、ぼくのことを他の人のように『ジョースター卿』とは呼ばずに、――ジョジョって呼んでほしいんだ」
「……? なんですか、その名前は」
「子供の頃からの愛称さ」
ジョナサンはほとんど無意識に、にぎ、とディオの太ももの肉に親指を埋め込んだ。思わず息が詰まってしまった。緊張が全身に走ってディオは椅子の皮に爪を立てた。
「ね、お願い」
逃げ腰に前かがみになっていく体をジョナサンは自分の身へと寄せ、小さくまん丸としている後頭部に鼻先を沈めつつ吐息たっぷりに懇請している。
「ひゃっ……っあ!」
熱を帯びたジョナサンの吐息は敏感な首筋を通ってうなじを吹き抜けた。髪がふっと舞って白い肌を露出させる。
「ん? ああ、ここ擽ったかったかな」
わざと息をうなじに吹きかけて、確かめて笑う。
意地が悪い! やはり、そうだ。このジョナサンという男は、ディオをからかっているではないか。あれもそうだろう、健康を見るなどと言って口を開けさせたりして、初心な反応を楽しんでいたに違いない。
ふつふつと怒りが後から後から沸き出て、その間抜け面に唾でも吐いてやろうかと、急いて勢いづいたまま首だけを振り向かせた。
「おっと、と」
捻った腰が重心を無くして、尻を滑らせる。このよく鞣した皮の所為だ、ディオの意思を無視して体はジョナサンの胸に預けるような形になってしまった。
「…………」
「…………っ!!!!」
刹那の緘黙。そして直ぐ様脱兎のごとく、ディオは椅子からずり落ちそうになるのも構わず腕を突っ張らせた。それは子猫が全身をバネにしてイヤイヤと抱っこを拒む姿そのものだった。
またしても、ジョナサンの頬は膨らみ、我慢できずぷっと吹き出して笑ってしまった。
――ばかにして!
兎に角ディオは睨んだ、ジョナサンの目を真っ直ぐに見据えて、憎しみと怒りを綯交ぜにして、力強く。
「いや、参ったな……君は本当、」
――やれやれだ。
ジョナサンの抑えきれない思いが、自然と体を動かした。
額と額が軽くぶつかり、苦情を上げようとするディオよりも早く白桃色の頬にジョナサンは唇をふんわりと当てた。
「可愛らしくて仕方ない」
ちゅっ、と音が鳴ると唇はあっさり離れる。性的な意味合いを持たないキスは、親子や兄弟と交わすものか、愛玩動物にするのと同じだった。
ディオは、ぽかんと目を白黒させながらぺたぺたと唇が当たった方の頬を触った。今し方、ここに触れたのは……。
「え? なん、……ぇっ?」
年より幼く戻った顔つきに思いがまた募って、ジョナサンは再び唇を落とした、今度は反対側の頬に。
「わっ、……ギャっっ!!」
小さな恐竜は色気のない叫びを短く上げて、腕の中で何度も跳ねる。はじめは、からかうつもりなど毛頭考えてなかった、筈、だった。
しかしディオの新鮮で初心な態度の数々は、思いがけずジョナサンの嗜虐心を芽生えさせてしまった。
「うぎゃっっ、やめっ、……やめろっ!」
到頭ディオの頑なな猫は剥ぎ取られた。「ジョースター卿を前にした良い子のディオ」の姿勢は崩れたのだ。今の今まで、態度や顔つきこそ本性を隠しきれずに居たが、口調だけは敬語を守っていたのだった。
制止の願いはむなしくキスは繰り返されている。ちゅっちゅっ、と耳につくリップ音が恥ずかしいし、男のがさつな唇なんて悍ましいばかりだ。
「どうしても、ん、やめて、ほしいなら、」
文節の区切り毎にキスをしてくるので、ディオはもう涙目であった。出したくないあられもない声は、自分の声ではないんだと思うことにして、耐えた。
「名前、呼んで?」
ついに唇は耳まで侵蝕にかかる。一番最後の口づけはとりわけ長く続いた。
何をそんなにこだわることがあるのか、たかが呼び名だろうが。
だけどその魔法の呪文を唱えれば、この拷問は終わるんだ。
「……ョ、」
「うん?」
「ジョジョォッッッッ!!!!!!」
「おわっあ」
絶叫だった。
喉を枯らさんばかりに耳近くで叫ばれ、鼓膜まで震えたようにキンと耳の奥に響いた。
「いいね、やっぱり」
よくない、ちっともよくない。ディオは心乱した自分の姿を人前に晒してしまった事実が甚だ以て羞恥であった。
「自分の名前だって思えるよ。ありがとう、ディオ」
――何が「ありがとう」だ? ちんぷんかんぷんな野郎だ。
唇の感触を消し去りたくて、ディオは両頬をごしごしと何度も擦ったので、紅をさした女のそれみたいになってしまった。
ジョナサンはジョナサンで、ディオの仕草は小動物、とくに齧歯類が顔を洗っているのに似ていると思ってまた「可愛い」と無神経に口を滑らせてしまっていた。
「ジョースター卿、もういいでしょう? ぼくはもう」
「あ、どうして?」
何が、どうしてかと目で問う。通じ合った視線が、問いに問いをかける。
「いやだな、ジョジョって呼んでくれなくっちゃあ」
脅迫めいた内容でこう続く、「ディオのこと、離してあげないよ」
「う、……ジョ、……ジョジョ」
呪文だ、ただの呪文、意味はない。腹回りの腕を解く魔法、意味なんてない。
「ジョジョ」
腕が応えてきゅうと締め付ける。話が違うとディオはむかむかしてきていた。
「もっとだ、足りないよディオ……」
「ジョジョ、ジョジョ、……ジョォージョ、」
「まだまだ、全然」
椅子が深く沈み、ふたりの体がへこんだ穴にはまる。ディオの踵は浮いてそっくり返るようにジョナサンの胸板に背中が乗っかった。
「あったかいなぁ、君は」
人肌のぬくもりが交換されると、ジョナサンに眠気が押し寄せた。子どもの体温は大人に比べて高いものだと知識としてはあったが、百聞は一見に如かずだ。
久しく感じていなかった人の肌の温かさが、ほろほろとジョナサンの胸のつかえを削り落としていく。だが実に微量な上、ゆっくりだったので、その時それは誰にも知り得なかった。
金の髪は恋しい人を、思い出させる。
少年の高い声も、過去に意識を飛ばしたジョナサンには、会いたい人の甘い囁きになる。
「ジョジョ、ジョジョ……」
名前を呼ばれるだけで、幸福でした。
あの日は遥か彼方だ……。
「ジョジョ?……おい、……」
相槌がやむまで、ぶつぶつと名前を呼んでいた、それからぱったりと返答が無くなって数分。
大方は「嫌」なものだが、そんな予感はほとんど的中してしまうものだ。
「寝てやがる……!」
起き上がろうにも、踏ん張りのきかない足に、腰はしっかり固定されっぱなしで、腕も肘から下しか動かせない状態にあった。
これではどうしようもない。
苛々と歯軋りをし、椅子の皮にカリカリと爪を立てた。ディオは無力だった。
こんなの自分じゃない、間違ってる。
そう思ったら、これはただの夢のような気がしてきていた。
どこからが夢で、いつから始まっていたとか、この際はどうでもいい。
目覚めるためには、痛みが効くというから、ディオはかろうじて動く指で腿のつけ根をつまむ。
確かな疼痛があった。
それなのに何も変化は見られず、景色も意識もそのままだった。
おかしいと、もう一度強めにつねる。
痛みは確かに増すばかりでも、何の効果も表れてはくれなかった。
「もう、いいっ」
脱力し、気も魂も抜けていった。感覚感触全てがリアルだったが、ディオはこれは夢だと決めつけた。
思い通りにならないことも、自分の信じられない有様も、全部夢だ。ならばもういい。
瞼を閉じると、背中からジョナサンの鼓動の音が伝わってくる。
途切れることのないリズムが、母胎を彷彿とさせていた。生まれる以前のことを覚えているわけもないのに、遺伝子は記憶している。
全ての人が知っている心からの安らぎに細胞の一個一個は、嬉しいと歌っている。
「やっぱり、夢だ……」
そんなもの、自分にはあるわけ無いのに、要らないのに。
執事長の朝は早い、主より先に目覚めるのは当たり前で、使用人の中でも誰よりも早く起きているのがあるべき姿だと自負している。
一日の始まりはキッチンから。コックやキッチンメイドは朝食の準備をしているか、挨拶をし、仕事の様子をチェックする。
そしてそこで目覚めの一杯の紅茶を受け取り、寝室へ向かうのがごく普通の邸のあり方だろう。
先代までは、そのごく普通のやりとりであった。まず主人、そして子どもの部屋へと順番に回る。
今朝の新聞を手渡し、茶を淹れる。日のスケジュールを伝え、服装は何を持ってくればよいかと尋ねる。
手紙がある場合や急用の場合などシチュエーションは様々だが、大体そんなところだろう。
紳士は紳士らしく、淑女は淑女らしく、優雅に朝を迎えていただくのが願いでありその手伝いをするのが務めであった。
それなのにジョースター家現在の当主は、老いた執事のささやかな願いすら叶えてはくれぬ日々が、もう思い出せないほどの年月を重ねていた。
本来向かうべき寝室には、足が向かうことが無くなった。もう何年も前からだ。それは諦めたので、よしとする。
迷うことなく1階にある書庫へ行き、礼儀としてノックをする。返事はない。十中八九無駄な行為である。むしろ、十中十と言い切ってもいい。それも分かりきっているので、よしとする。
着けっぱなしのオイルランプを消し、カーテンを開き、窓を少し開ける。何度注意してもランプを消してくれないので、夜も見回ろうかと考える。そこは検討中であった。
高い本棚に合わせた造りの書庫は、天井が高く合わせた窓も縦に長い。大量の蔵書があるので、風通しが良い様になる構造にしている。
だが風通りを良くする高い本棚のおかげで猛烈な突風が部屋を吹き抜けて、埃は舞うし葉は入り込むし重要な書類も飛ばしかねるので、窓は少ししか開けられない。
いつ見ても代わり映えのしない物だらけの机に、紅茶のトレーを置き口髭に手を当て考え倦ねる。
「さて、今日はどこで倒れておられるか……」
広い書庫内でよくジョナサンは遭難者のごとく倒れているのが恒例であった。
睡魔と体力を限界まで使い果たすのだから無理もない、撥条を切らした人形よろしくいつもどこかで死んだように眠っている。
こんな日々を続けてはいけないのだが、やめろと言うのも酷だと、ジョナサンの心を汲む。言わずとも知れるのだ。彼が生まれる前からジョースターに仕えている自分を侮ってはいけない、時に彼を孫のように思い、いつでも見守って来たのだ。
これは、甘やかしてるのではなかった。ただ見守ってやるのも優しさだと、思うのだ。
今日は、机に突っ伏してはいないので、本棚の影かと、いくつか覗いてみた。珍しくどこにも居らず、あとは余り使われていない長椅子が残っている。
部屋の隅にある長椅子は古く、元来は来客用に使われていた品で、上等の牛のカーフスキンで作らせたものだ。
何故それが書庫に置かれているかというと、椅子の背もたれと座を繋ぐ部分に不具合が生じ、深く座ると骨組みが穴になっていてそこにはまってしまうようになったのだ。
抜けなくなる恐れはないが何分不都合であったので、長椅子は邸の至るところを転々とした後、行き着いたところがこの書庫だったと言うわけだ。
部屋の隅は本の山と棚に囲まれ死角になっている。山の間から、耳をすませば聞き覚えのある息音がしてくる。
「ふむ、流石に横になることにしたのか」
本や書類を崩さぬよう気をつけて体を滑り込ませ、主を起こそうとした。
が、見慣れぬ盛り上がりがジョナサンの腹の上でもぞもぞと蠢動していた。
何事かと執事長は肝を潰しかけたが、ややあってそれが何かを知り、胸をなで下ろした。
そして、いつもと同じ台詞を口にするのだった。
「お体に障ります、眠るなら寝室でお休み下さい、旦那様、坊ちゃま」