ハートランド 1

 ロンドンを離れてどれくらい経ったろう。
 整備された道を走っていた馬車はいつの間にか揺れが激しさを増している。
 車輪が石を噛んで不快な音を立てている。小窓から緑の影がちらついていた。
 田舎だ、人はのどかでいい町だと言っていたが、ぼくの目には退屈そうに映っている。
 早く大人になってしまいたい、誰にも従わなくていい強いものになりたい。
 詰めた襟の苦しさから、ため息が漏れる。
 不安など無かった、ただ憂鬱なだけだった。
 どこでだってうまくやれるさ、自信はある。

 少年の目はまだ丸みのある大きな瞳をしている。だが、その目つきはやけに冷めていて流れゆく景色も何も見てはいなかった。
 不機嫌そうな口からは今日何度目かのため息を無意識についていた。
 少しでも時間があれば1ページでも1行でも本を読む癖があったのに、何故だか不思議と気が乗らない。
 字が目に入らず、内容も頭に入って来ないのだ。ブックマークをまた元の場所に挟み、それは鞄に仕舞われた。
 小さくもなく、大きくもない鞄一つ。そして少年の身体だけが馬車に乗っている。
 少年の物はたったそれだけ、失ったから無いのではない。彼は自分自身で切り捨ててきたのだ。
 自分には選ぶ権利がある、誰にも命令されたくはない、自分の道は自分で掴み取っていく。
 どんなことをしても、何があっても。
 この社会における最底辺の生まれにして、自尊心だけは人一倍であった。その心に見合う能力もある、努力し才能を磨くほど自信は高まっていった。
 どれほど酷い仕打ちにあっても、何者にも屈することはなかった。
「ああ、そろそろ見えてきましたよ、後ろから見えますか?」
 しばらくぶりに聞こえてくる御者の声には疲れを感じた。顔を上げ、小窓の外を眺める。
 緑の丘に木々が並ぶ、広い土地には家も人の影もない。ここまで何もない自然のままの場所は初めてだった。
 そして、真っ直ぐに伸びた道の先に一軒のカントリーハウスが建っていた。
 邸は古そうだが思っていたよりも大きく、その造りは格式の高さを物語っている。
 少年は何を見ても動じまいと決めていたが流石に面食らってしまった。所詮本で得た知識など、実際に見聞きするものとは誤差があるもの。
「さ、もう着きますよ」
 馬の歩みのペースがゆっくりと落ちていく。長い長い旅だった、座りっぱなしで足も尻もしびれるように痛んだ。
 どれほど離れた場所なのだろう、もうここまで来たからには簡単には戻れやしない。
 どうせ帰る所も無ければ、誰も少年には思う人など居ないのだ。そのことが辛いとか悲しいとかは感じていなかった、それを選んだのもまた自分自身なのだから。
 乱暴に開け放たれた馬車の扉から鞄を放り投げ、勢いよく飛び降りる。
 振り向いた先に黒髪の青年が一人立っていた。見上げるほどの長身に厚みのある鍛え上げられたがっしりとした体つきをしている。そして傍らには一匹の猟犬が利口そうに座っている。
 人の良さそうな微笑みをその少年に向けた。
「君はディオ・ブランドーだね?」
「初めまして、ジョースター卿」
 伸びてきた大きな手はディオの右手をしっかりと握り、そして優しく頭をなでた。
 不慣れな行為に首を振って避けると、青年は苦笑してその手を離したのだった。
「ディオくん、紹介するよ、この犬はダニーと言って幼い頃からぼくの愛犬なんだ」
 大きな犬は青年に背中を撫でられると喜んで鼻を鳴らした。少年は相変わらず不機嫌そうにその様子を見ている。
「利巧な猟犬なんだが、もう年でね。ぼくの唯一の家族なんだ」
「犬がですか?」
「そうだよ、……ああ! でも君は今日からぼくの家族なるんだね」
「……はい」
「さあ、屋敷に入ろう、中へ案内するよ」
 ディオは父親から聞いていた、この青年ジョースター家の若き当主、ジョナサン・ジョースターのことを。

 それは数年前に遡る。
 大雨の日に起きた馬車の転落事故がきっかけだったと言う。
 その馬車に乗っていたのはジョースター一家、ジョナサン、妻エリナ、そして一人息子の赤ん坊。
 御者は見るも無残な姿で即死だった。妻は赤ん坊をかばったように亡くなっていたが、すでに息が止まっていたのだそうだ。
 そして馬車の外に放り出された形で無事だったのはジョナサンだた一人だけだった。
 頑丈な肉体のおかげで頭部を打った以外に目立った外傷はなく、ディオの父親が通りがかるまで気を失っていただけだったのだ。
 そしてディオの父、ダリオはジョナサンを介抱し、命を救い恩を売ったのだと話していたが、そんな善人のようなマネをあの父がするとはディオは信じていなかった。
 ジョースター家は代々短命なことが多い、ただの噂かもしれないが、実際ジョナサンの父ジョージはジョナサンが10代の頃に亡くなっている。
 後継はジョナサンただ一人だったため、彼は若くして爵位を継いだのだ。
 親も、妻も、子も居ない貴族の若き当主、どこをとっても隙だらけだ。
 ディオという少年は、たった一人でも生きていける自信と実力があった。親も必要なければ、家族なんて要らぬものなのだ。
 わざわざこんな田舎のはずれに、貴族の養子になる為にのこのこやってきたわけじゃあない。
 彼が欲しいのは、財力に権力!
 それを今はこの青年が持て余しているだけ、いずれ、近いうちにその全てを奪い尽くしてやる目的がため、ディオはジョースター家に来たのだった。
 そう、どんなことをしても、何があってもやりとげてやるという強い意思があった。

「疲れたろう、ディオくん、ロンドンからは遠いからね」
 屋敷の中は昼間でも薄暗い、照明はいくつかの蝋燭があったが広いホールを照らすには足りなさそうだ。
 ホールの中央には数人の召使が待ち構えていた。
「彼らは家事をしてくれるみんなだ」
 執事と思わしき初老の男がお辞儀をすると、それにならってメイドやフットマンが頭を下げる。
 異様な優越感に満たされるのをディオはひしひしと感じた。自分が王様になったかのような気分だ。
「ぼくは普段は考古学の研究をしていて、大学で教授もしているんだ。家をあける時は彼らにすべてをまかせている……」
「ジョースター卿、考古学ってお金になるんですか?」
「えっ?」
 不躾だとディオも思った、だが聞かずにはいられなかった。貴族の考えはどのような思考なのかと。
「うーん、そうだね、はっきり言えば『ならない』 受け継いできた土地や財産があるから、そこから所得は得てるんだ」
「じゃあ、ただの趣味なんですか?」
「そうかもしれないね、ただ学ぶことは素晴らしいよ。君だって好きなように勉強するといい、それに関してぼくは援助は惜しまない」
「はい、御好意大変感謝致します」
 ディオは一礼した、その所作は完璧だった。背筋を伸ばし首を下げる。たったそれだけの動きなのに、人を魅了させた。
 気品すら感じられたのだ。とても貧民街からやってきた子供とは思えないと執事は驚き、メイドは口元を押さえて「まあ」とつぶやいた。
「二階には君の部屋がある、ついて来て」
 ごく自然にジョナサンはディオの鞄を持ち、階段を登って行く。
 さっきまで犬を触っていた手だ、その手で自分の荷物に触られたくなかったが口を挟む前にどんどん先に行ってしまう。
 ディオは心の中で舌打ちをした。
「ここが君の部屋だ」
 与えられたのは屋敷のほぼ真ん中に位置する部屋だ、室内は真新しい家具で飾られていた。新品の独特な塗料の匂いがしている。
「こんな上等な……」
「気に入ってくれると嬉しいんだが、」
「ぼくには勿体無いくらいです、ジョースター卿」
 机や棚がぴかぴかに光っている、掃除したてなのだろう。今まで住んでいた家よりも広い自分の部屋に笑いだしそうになるのを堪えて、出来るだけ無邪気に見えるようディオは子供っぽく歯を見せた。
「そう、喜んで貰えてぼくも嬉しいよ、良かった」
「ありがとうございます」
 じっと、ジョナサンはディオの顔を見つめた。今まで微笑みを崩さなかった男の顔が急に無表情になり、かすかにディオはたじろいだ。
 無、とう言うより観察しているのだ。研究熱心な性格らしいとても真っ直ぐな視線をディオは黙って受け入れた。
 やりづらさと居心地の悪さに、何か話そうかと唇を動かそうとした時。
 一歩、巨体が近寄る。間近に感じるジョナサンの大きさは脅威だ。
 思わず上目遣いで見上げると、太い親指がディオの顎を持ち上げた。
「……ッ!?」
「うん……。少し口を開けて」
 強ばった身体は大人しく命令に従った。
 薄桃の小さな唇がおずおずと開かれる。その中は赤い舌と、肌の色よりうんと白い生え揃ったばかりの歯がきちんと並んでいる。
 脈拍が上がっていくので、服の上からも心臓が激しく鳴っているのを感じた。ディオは口の中が乾燥するのがとてつもなく嫌なことだと思った。
「歯がちゃんと生え揃ってるし歯並びもいいね」
「う、……え……?」
 親指から解放されても尚、固まったままディオはジョナサンを見上げている。
「肌が少し荒れてるけど、想像してたより痩せていないし、どこも悪いところは無さそうだ」
「なんの、話ですか?」
 ディオの首はすっかり上に向ききっている、目の前に立たれるとそこまでしなくてはならない。
 何せ目の前にはジョナサンの下腹部だ。そんな所を見て話など出来るか。
「健康状態を調べてたんだ、大丈夫、特に問題ない」
「はぁ……?」
 またも頭を軽く撫でられる。ディオは今度は首を振れなかった。何故なら、生まれて初めて呆然としていたからだ。
 ジョナサンは満足気に紳士的笑みを向け、我に返ったディオに手をはたかれるまで頭を撫で回し続けていた。
「荷物を片付けたら、降りておいで、食事の準備は整っているんだ」
「はい……」
「お腹すいてるだろう? 君が何が好物か分からないけど、今日は御馳走を作らせたから、楽しみにしておいてくれ」
 作り笑顔が思わず引きつったのは、ジョナサンがディオの様子を見て少し吹き出して笑ったからだ。
 ディオは常に勝者だ、敗者を嘲笑うことはあっても、自分のことで笑われる筋合いなど無いのだ。
 そもそもその笑いの理由も分からなかったし、一方的にやられてばかりで、後から腹が立ってきたのだった。
「あいつ……ぼくをからかったのか?!」
 悔しいやら恥ずかしいやらの、その怒りの衝動は鞄をベットに投げ捨てることによって何とか抑えることにした。
 その後、なんともみっともない腹の虫の声が部屋に響いて、ディオは自分の感情が益々操作不能になってしまったのだった。


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