森のあなた 3



 年が明けて、ますます寒さを増す日々が屋敷と森に訪れる。獣は身を潜め、草木は眠る季節だった。夏から秋にかけて貯えておいた食物があるので、ジョナサンとディオは長い時間を二人で過ごせるようになった。明かりの灯る部屋の中で、二人は幸福そうに寄り添って静かに時を流していく。
 ディオは、今まで自分が見てきた街や、谷や村のことをジョナサンに聞かせてやった。大勢の人々が住む街に生まれたことや、様々な出会いと別れ、悲しい現実の話を、細やかにジョナサンに話した。
 ディオの話すことは、書物では得られない瑞々しさがあった。街の人たちの息遣いを感じるような、そこに自分がいるかのような錯覚まであった。
 やがて、ディオはひとつ提案をした。
「なあ、ジョジョ。君だって、一度は街へ行こうと思ったことくらいあるだろう?」
「ああ、あるよ。何度も思ったものさ」
「だったら、どうしてこんなところにずっと一人で居たんだい」
 それがジョナサンにも、はっきりとは言えなかった。何故か、この地を離れられない。確かに、人のいる村や町に行こうと幾度と無く思ったものだが、森や野原を見渡せば、ジョナサンはここから出て行こうとは思えなくなった。父や母の思い出だけではない、何か他に大事な理由があるはずなのだった。
「なら、ここじゃあないどこかに出て行ってみないかい? 雪の降る間、ずっとこうしているのも退屈だ。なあ、そうしないか」
「……でも、ディオ」
「君は生まれてからずっとここで暮らしていたんだろう? もっと違う空気を、たくさんの人に、触れて、聞いて、見てみたいとは思わないのかい?」
「……思うよ。でも、ディオ」
「じゃあ決まりだ。決めたのだから早いほうがいい。明日だ。明日の朝には出かけようじゃあないか!」
「……うん……」
 ――でも、ディオ。
 その後の言葉が出てこなくて、ジョナサンは唇を閉じることしか出来なかった。
 でも、ディオ。ぼくは。
 そうすべきじゃあないんだって、今は思ってるんだよ。
 ジョナサンは布団に入って、眠りに落ちる一瞬の前に、そう胸の中で言った。
 ディオはもうぐっすり、夢の中の住民だった。


 次の日は、大雪がどかどかと降り積もっていて、風はびゅうびゅうと屋敷の戸や窓を叩きつけて大騒ぎだった。そのあまりの煩さに、ふたりは早起きをして、重い瞼のままで朝食をとった。
「こんな天気じゃあ、いくらなんでも外に出る気にはなれないな」
 ディオが魚のスープをすすりながらそう言ったので、ジョナサンは内心ほっとした。
「明日には、よくなるといいんだけどな」
 だけど、続けてこう言ったので、ジョナサンは木の実入りのパンをよく噛まずに喉に通してしまった。
 気が変わる気配はない。全くないのだった。
 ああ、どうしよう。
 ジョナサンは、ひどくうろたえていた。
 屋敷の外へ出て、小屋へ向かった。よく乾かした枯れ木や、薪が何十日分も積み上げられている。その日の分を持ち出してしまえばおわる作業であるはずなのに、ジョナサンは小屋の中にある木の山に腰をかけて黙りこんでしまった。重くなった体は、自分ではどうしようもなかった。
「どうしよう……どうしてかな?」
 困ったときは、その問題の答えが出るまで突き詰めなさい、と、父に言われたのを覚えてる。
 どうしよう、と思うのはどうしてか。ジョナサンは問う。
 街へ出て行ったらなら……。
 もしかしたら、ディオは街での暮らしが恋しくてそんなことを言ったのかもしれない。
 ぼくが今幸せだと思っていても、ディオがぼくと同じくらい幸せだなんて思ってないかもしれない。
 そうだったら、嫌だ。
 そうだとしたら、ディオはどうする?
 きっと、街へ、人々のいる場所へ帰る。
 そうなったら、ぼくはどうなる?
 ぼくは、きっと悲しい。きっと寂しい。
 今までよりずっと、もっと悲しくて寂しいんだ。父と母をなくした時よりも、深くて、暗い気持ちになるだろう。今だって、想像するだけで、一歩も動けなくなってるんだ。
 ジョナサンは鼻をすすった。寒さの所為だけじゃなかった。
 両腕に薪を抱えると、小屋をあとにした。
 屋敷の部屋に戻ると、ディオはジョナサンに笑いかけながらドアを開けてくれた。
 いつもなら、ジョナサンは応えて笑顔になれる筈だったが、どうしても上手く笑えなくて、やはり唇を閉ざすだけだった。
「ジョジョ、空が少し明るくなってきたな。これなら明日には雪も止むかもしれないな」
「そうだね」
「……、どうした。何だか暗いな」
 素直な感情を持っているジョナサンは、表情を隠す術を知らない。頭を振ると、髪についた粉雪が散った。
「早く入れよ。濡れた髪、ふいてやるから」
 ディオはジョナサンの腕から薪を取り、部屋の奥へと進んで行った。
 いつまでも、暗く重い顔つきをしているジョナサンは、ディオに背を押されていつもの位置へと座らされた。
 雪は暖かな室内で溶けていき、ジョナサンの黒髪は湿り気を帯びた。その頭をディオは乾いたタオルで拭ってくれた。目を閉じると、ジョナサンは懐かしい気持ちになっていた。
 その晩は、明日にそなえて早く眠ることとなった。だけど、ジョナサンだけはいつまで経っても眠れやしなかった。

 雪は地面を白くはさせていたが、深くは積もらなかった。空は曇ってはいたけれど、雨や雪の心配はなさそうだった。結局あまり眠れなかったジョナサンはディオより早く一階に降り、カーテンを開けて、暖炉に火をつけた。
 湯を沸かしていると、ディオが起きて階段を降りてくる。
「はやいな、ジョジョ。待ちきれないのか」
 機嫌のいいディオは、もう既に着替えを済ませていた。しかしまだ眠気が残っているのか、あくびと背伸びをしながら、ジョナサンへ向かってくる。
「おはよう」
 挨拶のキスを頬にすると、ディオは軽く応えてジョナサンの背に腕を回してハグをした。
「食事をすませたら、すぐにでも…………ジョジョ?」
 身を離したディオはジョナサンの顔を見上げた。その表情は、不安で怯える子どものものだった。
「行きたくない」
「……ジョジョ?」
「行きたくないんだ」
「お、おいおい、そんな……どうしたっていうんだ。泣き出しそうになるくらい、嫌なのか? 何もそんな」
 珍しくディオが戸惑っていた。ジョナサンを宥めようとして、ひとまず椅子に座らせる。深く椅子に腰をかけたジョナサンは、何度か歯を食いしばって耐えて、それから自らの顔を覆うようにして手で隠した。テーブルに肘をついて、浅く呼吸を繰り返す。
 しばらくディオはそんなジョナサンの様子を眺めて、時折肩を撫でてやっていた。
「なあ、具合でも悪いのか? それとも腹が減ってるから、気分が落ち込むんじゃあないのか。そうだろ?」
「違うよ、違うんだ」
 何とかして説得をしたいディオは、優しげな声と手つきでジョナサンを慰めた。けれどジョナサンは首を振って、俯いたままだった。
「……湯が沸いたな」
 ポットから蒸気が漏れていて、ディオは慣れた手つきで茶を淹れた。黄緑色のカップに注がれた紅茶に砂糖を二つ入れてかき混ぜる。ディオはカップをジョナサンの目の前に置いた。
「飲めよ」
 隣に座ったディオも、同じ紅茶を飲んでいた。ジョナサンは手を退けて、しばらくカップの中に映り込んだ自分を見つめて、どれほどに酷い様相をしているのかを知った。
「ぼくは……思い出したんだ」
 ジョナサンはカップを両手に包んで、隈の出来た自分の顔を紅茶の水面に映しながら言った。
「どうして、この場所から離れられなかったのか」
 ディオは黙って火傷しそうなほどの紅茶を飲んで聞いている。
「ぼくは地の民で、きっと君は風の民だ」
 この小さな国に古くから言い伝えられている人々の話だった。それはとても古いお話で、伝説や作り話の類だとディオは聞き流していたものだった。
「地の民は、大地に根付く。地は、土の色をしている。髪も目も、黒い色や湖のような深い色をしている。風の民は、吹かれて動く。風は、空の色をしている。風の友の鳥のような、鮮やかな色の目、吹かれる稲穂の髪の色……」
「ただの偶然だろ?」
 確かにジョナサンの髪や目はその通りであったし、ディオもまた同じだった。だが、ただそれだけだった。
「ううん、そうなんだよ。見た目だけじゃあないだろう? ぼくは、この場所にずっと住み続けている。地を守るためにいる。ディオは同じところには留まらない。風の民は、吹かれて生きなければならない」
「そりゃあ、君は生まれてからずっと此処にいたのかもしれないし、おれは旅を続けてきたけれど、だからってそんな御伽噺みたいなこと、未だに信じてるのか、ジョジョ」
「御伽噺でも童話でもないよ。ぼくたちの血に流れている真実だ。その血は、受け継がれて、今も存在して、そうしてぼく等は生きて、生かされているんだ。みんな少しずつ忘れていってしまうことだけど、決してこの世からは無くならない事実なんだよ。ぼくは、思い出したんだ」
 すらすらとジョナサンの口から信じがたい物語が落ちていく。言い終わればジョナサンはようやく紅茶を一口飲み、ごくんと喉の音を立てた。
「それで? ジョジョ、君が……ええと大地の民とやらで、おれが風の民だったとして、どうして街へ行きたくないという理由になる? ここから離れられないと言ったって、たかが一日くらい何だって言うんだ?」
 あまりにも信憑性のないストーリーにディオは真面目に取り組むのが馬鹿馬鹿しくなっていた。それでも隣にいるジョナサンは真剣に話すのだった。
「君が……風の民だから、そう言えるんだよ。どこか違う所へ、すぐに飛んでいけるから、そう言えるし思えるんだ。ぼくは違う、君とは正反対の考えしか持てない。そうとしか思えない」
「分かった。……分かったよ」
 ディオは降参と言わんばかりに両手を頭の上に掲げた。そして、疲れた様子で首を左右に曲げて、背筋を正した。
「君がそんな創作話をする才能があったなんて思わなかったな。子ども向けの本でも執筆したらどうだい? 小さな子たちにも、そのご両親にもきっと大好評だろうよ」
「……つ、作り話なんかじゃあないって、言ってるだろ!」
 向きになったジョナサンがテーブルを強く叩いた。その振動で二人のカップは揺れた。
「君は分かってない! ちっとも分かってない!」
「お、おいおい……勘弁してくれよ……」
 叩いていた手を拳にして、ジョナサンは二、三度テーブルを激しく叩きつけた。その姿は駄々をこねる幼子同様で、ディオは流石に参ってしまった。
「ぼくの……恐れを、君は……理解してくれない。どうして、ぼくが行きたくないのか、分かってくれよ……」
 ジョナサンのカップは倒れて、中に残っていた紅茶は水溜りを作った。ディオは立ち上がり、布巾を取り出して、テーブルを拭いた。そして横になってしまったジョナサンのカップを戻した。
「大地だの、風だの、そんな話はどうでもいいさ。分かってほしいと君が思っているなら、おれにその気持ちを伝えろよ。聞いてやるから……」
 ディオはジョナサンの髪を軽く叩くようにして手で梳いた。ずっとまともに見れていなかったディオの顔をジョナサンは恐る恐る覗きこむ。
「長くなるなら、食事をしながら話せばいいだろ」
 睫の先まで金色のディオは、そう言ってジョナサンに優しく声をかけてくれていた。

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