森のあなた 2



 冬の嵐の晩にやってきたディオと言う名の奇妙な青年は、ジョナサンを虜にした。彼は頭がよく、足も速く、狩りも上手だった。果実や動植物の知識も豊富で、ジョナサンは図鑑以上に勉強になった。そしてディオは料理も上手く、ジョナサンは彼に勝てることは何一つ無いのかもしれないな、と思うようになった。悔しさよりも、彼を敬う気持ちが上回った。そして、そんな風にジョナサンはディオへ様々な思いを巡らせながら、心に生まれた感情を大事に育てていった。

 年が替わる月のこと。山に雪のヴェールがかかり、息が白さを増していく頃。
 ディオはよくジョナサンの背中を触るようになっていた。気がつくと、背の後ろに立ち、手のひらをあてている。
「……君の手は冷たいな」
「そう、だから温めている」
 出来ることなら、向き合って顔を見たいとジョナサンは思う。だが、ディオは反対にジョナサンの背に触れていたいと思うので、必然的に後ろに回った。
「あの」
「何だ」
 再び誰かと暮らすようになって幾月かが過ぎた。ジョナサンはディオと話すことも、そばにいるのも、狩りをするのも、何もかもが楽しかったけれど、一番幸福だと実感するのは、こうして屋敷の暖炉の前で静かに夜を過ごすことだった。
「ディオは、どうしてぼくの背中に触りたいの?」
「……おまえの体の中で一番熱い場所だからだ」
「胸やお腹じゃあ駄目なのかな?」
「おれの手は冷えているだろう? 胸や腹は冷やしてはいけないからな」
「ぼくなら平気だと思うんだけどなあ」
「……ここが良いと言ってるんだ」
わき腹の肉をぎゅっと摘まれて、ジョナサンは声を上げた。首を後ろに向けて、どうにかしてディオの表情を確かめたくなったが、それは叶わなかった。

 次の晩も、その次の晩も、その次も同じだった。
 夕食が終わると、話しながらディオはジョナサンの背の後ろに座る。
 朝起きて、森や野原に出かけて、それぞれが仕事をする。水をくむ、草を刈る、小さな動物たちに餌を与え、牛のミルクをしぼり、鶏から卵を頂く。花を摘み、それを部屋に飾る。料理をし、食事をする。
 ディオはいつも忙しそうに働いて、動き回っているので、ジョナサンは夜でなければあの美しい顔をゆっくりとじっくりと眺めることが出来ないのだった。
それがこうして背の後ろに座られてしまえば、不可能なのだった。
あの金色の髪を、手にとってまじまじと眺めたい。あのきらきらした瞳の中に自分を映しこんでみたい。
あの真っ白な肌の下に透ける静脈の青さを、ため息が出るほどに見つめたい。
生まれて初めて抱いた他者に対するおかしな欲をジョナサンは、少々暴走させていた。
それが自分とは違う人だから興味が湧いているのか、ディオにだから特別なのか、区別はジョナサンの中でうまく整理できていなかった。
そうして、ジョナサンは我慢をし続けて毎日を過ごした。毎晩、毎晩……、堪えていった。
 ひと月が経とうとした晩、とうとうジョナサンは背を壁に向けてディオを自分の正面に座らせた。
「何の真似だ?」
「いつも君ばかりが自由なのは、不公平だと思わないか?」
「よく分からないな、君だって納得していたじゃあないか」
「いいや、してない。絶対にしてない」
「……困ったな。君が壁に背をくっつけてしまったら、ぼくの手はどうしたらいいんだ」
 ディオは自分の手の綺麗に切りそろった爪を噛み、白い歯で苛々と鳴らした。
「最初から、こうすればよかったんだよ」
 ジョナサンは、膝の上にディオを乗せると、その両手を自分の背に回してやった。
「……ち、近いな」
「これならぼくも君の顔が見ていられるし、君もぼくの背中に触れていられるだろう」
 ジョナサンは満面の笑みを浮かべて見せた。今までで一番近い場所で見た互いの顔に、ディオは目を反らさずにはいられなかったし、ジョナサンはもっと近くなりたいと願うようになった。
 そばにいるよりも近い所にいきたいと、思うようになった。

 その夜、ジョナサンは寝所に行くことはなく、布団を暖炉の前にまで運んで、いつまでもディオを抱きしめていた。

 次の日の朝から、ディオはますます忙しなくなった。野を駆け、木の実を拾う。新しい服を作り、あちこちの部屋の掃除をした。ジョナサンはいつも通りに働き、いつもと同じように声をかけたが、それでもディオは構わずにいた。
 ジョナサンは急に一人に戻った気分になり、寂しくなったが、それもまた夜が訪れれば、消える一時のものとして、やれやれと肩を落とした。
「ディオ!」
 遅い夕食が終わると、ジョナサンは皿や道具をディオより早く片付けて、手を広げて待った。
「……今日は、やめておく」
「……え?」
「おれはもう寝る、じゃあな。おやすみ、ジョジョ」
「……おや、すみ……ディオ」
 ぽかんと口と腕を開け広げたまま、ジョナサンはいつも通りに座り込んでしまって、それから胸の中にすうっと染みこむ風に気づいて、小さな女の子みたいにめそめそと泣いた。
 抱きしめた毛布に涙の染みが出来て、ジョナサンは空しくなって顔を上げた。水を一杯飲み、目から零れてしまった分を補給した。
 ジョースターのお屋敷は、いくつも部屋がある。使われていない部屋はいくらでもあったし、家具や道具も余っていたので、人が一人増えることぐらい、何の問題も無かった。
 だから、ジョナサンとディオはそれぞれが自分の部屋を持ち、眠る時だけは一人になった。
 それが、大したことではなかったのは、初めの幾日かだけだったろう。
 ディオは肉体を疲れさせることに苦労した。何せ彼は若かったし、体力があったからだった。
 あれこれと何かを考えたり悩んだりすることなく、ぐっすりと眠って夜を終わらせたかった。
 今までなら、明日への不安と恐れが心を占めてくれたから、こんなちっぽけなことで頭を悩ませる必要がなかった。
 今は、安らぎと幸せがある生活に慣れてしまったから、ディオの胸の中を小さく惨めで下らない事象の種がじくじくと痛みを伴って好き放題に心を荒らしまわっていた。
 決定的な、何かが足りない。
「あれはきっと、世界を知らないから……」
 ディオは呟いて自分に言い聞かせた。
 ジョナサンが優しいのも、ジョナサンが甘えるのも、ジョナサンが触るのも、ジョナサンが呼びかけに応えてくれるのも、ジョナサンが自分を必要としてくれるのも、全ては彼の世界がここだけの狭さだからだ。
 ディオは、そう自分に思い込ませた。
 でなければ、そうでなければ、こんな思いは間違いであるからだ。

 年が明けたら、出て行こう。
 ディオは一人、決めていた。これ以上、夜が眠れなくなるのも、あんな風に苦しむのも嫌だった。
 それまで、一人で生きていけたのだから、これからだって同じことだった。たった数ヶ月、人生の中でのちょっとした甘い汁を味わっただけ。それがとびきり極上の花であっただけなのだ。
「おはよう、ディオ」
「……おはよう、ジョナサン」
 この屋敷に住むようになってから、肌を離れていた土色をした旅人の布を、ディオは再び手にして、体に巻きつけた。そしてその布を頭から深くかぶり、ジョナサンの視線を避けるように顔を、瞳を隠してしまった。
 ジョナサンはそんなディオの姿と心の変化を感じ取って、また悲しくなっていた。さめざめと泣きはしなかったが、俯いて力なく歩きだしたのだった。

 空は朝から二人の心を表しているように、曇り、そして小さな粒を降らせていた。ジョナサンの睫の先に、雪の粒が乗った。はく息は白く、深くなり、かじかんだ手をジョナサンは擦り合わせて温めた。
 動物たちはすっかりその寒さに身を森の深くへと隠し、草花はいつのまにか雪に包まれていった。
 いつもより早く、屋敷へジョナサンが戻ると、ディオは暗い目をして座り込んでいた。
「どうしたの……、どこか体の具合でも悪いのかい?」
 問いかけても返事はなかった。首を横に振るだけで、ディオは唇を噛んで閉じたままだった。
 そのままにしておけず、ジョナサンはディオの隣に座って、肩を抱き寄せた。
 身をジョナサンに預けて、ディオは目を瞑った。眠っているようにも見えたが、ジョナサンが少しでも動けばディオは瞼を開けたのだった。
 窓の向こう側ではしん、しんと、雪が降り積もっていくのがわかる。ジョナサンはディオが言いたくなるまでこうしていようと思った。

 雪が鼓動にあわせるように降っている。どくん、どくんという調子と、雪がはら、はら、と落ちていくのが合わさっているみたいに見えていた。それは、ゆっくりでもあって、高鳴っているようでもあった。
 少しだけ眠ってしまったジョナサンが、意識を取り戻して、何度か目を瞬かせた。
 それから薄暗くなった部屋に目が慣れると、隣に座っている彼の横顔を見た。
 真っ直ぐに前を見て、窓の外に視線を向かわせている。輝かしい透き通った金色の瞳から、同じ大きさの雫が、するりするりと頬から顎の先へと落ちていった。一筋に出来た涙の道に次々と流れていき、それらは一滴となり、ぽたり、と静かにディオの服に染みこんだ。
 その姿は、哀れで悲しく、とても美しかった。
 やがてその瞳は、ジョナサンという若者を捕えて、金色に透き通った中に映し込んだ。
 ジョナサンは揺れるディオの綺麗なふたつの目に、自分がそこに居られることを幸せに思った。
 そして、いつか父や母にもらった大切な言葉を、今度は自分が誰かに与える番なのだと知った。
「ディオ……」
 そばにいるよりも近い場所で、ジョナサンは大事な人に贈る言葉を囁いた。
 すると、ディオは、すぐにそれをジョナサンに返してくれたので、何度も何度も二人は贈り合った。
 そして、ジョナサンはいつまでもディオのきれいな顔を見続けることが出来たし、ディオはずっとジョナサンの温かな背に手を触れさせていられた。
 ふたりはそれぞれの大切にしてきたものを交換し、温めて合い、眠った。
 あきれるくらい寝て、すみずみまで調べ尽くして、味わった。
 雪は、山や森や、野原や草原をすべて白く覆いつくして、ざわめきや戸惑いを無くしてしまった。

そうして、ただ寝食を共にしていただけのジョナサンとディオが、その日永遠の誓いを交わしたのだった。

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