森のあなた 1

 ある小さな島国の、ある小さな村に、大きなお屋敷に住む一人の若者がいた。父も母も随分前に亡くしてしまった若者は、たった一人で生きていた。
 父が残してくれた地は緑が広がり、多くの植物や果物が育っていた。奥にある森には多くの獣がおり、若者は自分の食べる分だけを狩った。それらの自然の命たちを少しずつ貰いながら、若者はその地で生きていた。
 人恋しい若者は、町へ出ればたくさんの人がいるのだろうと度々思ったのだが、父と母との思い出のつまった屋敷や森から離れるのは忍びなく、ただただ一人で暮らすばかりだった。

 そんなある冬の晩、他人の気配などもう何年も感じたことのなかった屋敷に、他の人間の持つ空気が存在していた。
 とん、とん、とんと、表の戸を叩く音がしている。
 若者は寝床から起き上がると、屋敷の階段を降りていき、そっと窺った。
 風の音がそう聞こえるのかもしれない。今夜は嵐になるだろうと、夕暮れの色で若者は知っていた。
 ざわ、ざわ、ざわ、と木々が揺らめく声がしていて、若者は身震いした。薄い寝巻きのままでは冷えてしまいそうで、若者は寝所へと戻ろうとした。
 ところが、またあの戸を叩く音がして、思わず若者は足を止めてしまった。
 繰り返される戸を叩く音は、何故か少し物悲しく、泣いているようにも聞こえたのだった。
「誰かいるのかい?」
 そんな筈はないと信じ込ませながらも、どこかで若者は自分を疑っていた。その自信のなさが発した声に表れていて、乾いた小さな声になってしまった。
「…………ここを開けてくれないか?」
 返ってきた声は、湿っぽく、ひどくゆううつな低い声だった。年の頃は、若者はそう変わりはしないような、男にも女にも聞こえるような不思議な声だった。
 若者は、きっとこれは幽霊に違いないと思い、決して扉を開けてはならないと己に誓った。
「…………雨が降ってきそうなんだ。一晩だけでいいから、ここに泊めてくれないか? 一晩だけでいい」
 はじめに聞いた声と比べると、いくらか明るい、「人」らしいものに変わっていたし、何より若者はその扉の向こうの人物に同情してしまった。
 人の住まう村や町までは山ひとつふたつ、川を越えて行かねばならない。夜も更けきった中、歩きつかれてようやくこの屋敷を見つけたのだろう。風や雨もどんどん強さを増していこうとしている。
 夜があけるまで、入れてやってもいいのではないか。もし幽霊だったとしたら、あんな風に頼みこんだりするだろうか。
 若者は、純粋で、真っ直ぐで清らかな心の持ち主であったので、その扉の向こうにいるものを可哀相に思って、そっと扉を開いてやった。
 外は雨が降り出していて、扉の前に立っている人物は深く布をかぶっていた。雨粒が、ぽつりぽつりと若者の手を濡らすので、
「さあ、早く入るんだ」
 と言って、その人物の背を押して屋敷の中に招き入れた。
 余程、冷たい風を浴びていたのだろう。そのものの背は、若者の手のひらをひやりとさせていた。
「助かったよ。こんな夜更けに悪かった。二階に明かりがついていたのが見えたから、きっとまだ起きているのだろうと思ってね」
「こんな時間に、一体どうしてこんなところを一人で……」
「ある人を探しているのさ」
 若者は暖炉の前までその人物を連れて行き、すぐに火をおこした。明かり代わりになった火の前に、ふたりは座り込んだ。
 まだ深く布をかぶったままのひとは、かすかに震えていたので、若者は小さな鍋にミルクを入れて温めた。蜂蜜を溶かしいれ、器に注ぎ手渡してやる。
 それからしばらく、ふたりは黙ってミルクを飲み、火の前で冷えた体を温めていた。
 はじめに若者が声をかけた。
「ここで出会ったのも何かの縁だろう。ぼくはジョナサン。よろしく」
「……ジョナサン? おまえ、ジョナサン・ジョースターか?」
「え? ああ、そうだよ」
「なら、おまえの父はどうした? 確か、ジョージという名だったろう」
「……父は――」

 ジョナサンは、父はもう何年も前に亡くなったことを話した。そうして、父のことを伝えるついでに、ジョナサンは自分のことも話していた。
「――……と、ごめん。つい喋りすぎてしまったね。誰かとこうして話すのは本当に久しぶりだったから。そうだ、君の名を聞いてもいいかい?」
「ああ、ぼくは」
 ぼく、という一人称を聞き、ジョナサンは初めて彼が彼なのだという確証を持った。声は低いし、背も高い。だけれども、何故か不思議と男らしさの中にも女っぽさがあって、ジョナサンはきちんと聞くまで彼がどちらの性別か分からなかったのだった。
「ぼくは、ディオだ」
 姓を名乗りたくない訳があるのだろうとジョナサンは察して、それ以上は尋ねなかった。
「ディオ、か……よろしく」
 手を差し伸べると、ディオはその手を取ろうともせず、無視した。かわりに空になった器が手渡されて、ジョナサンは思わず苦笑いをしてしまった。

「しかし……参ったな」
「ああ、この嵐ならきっと朝には過ぎ去るよ」
「いいや、違うよ」
 ジョナサンは首を傾げた。ディオが困った様子をしたので、恐らく天気の話だろうと汲んだのだが、外れたようだ。
「ぼくにとって、幸運と不運が同時にきてしまった」
「それはどういうことだい?」
「そうだな……、まず幸運だ。ぼくが何でこんなところまで一人で歩いていたのか。それは、ジョースターの屋敷を探していたからだ」
「えっ、じゃあ……」
「そして不運。ぼくの探していたジョージ・ジョースターは、とっくの昔に亡くなってしまっていたってことさ」
「…………君が探していたのは、ぼくのとうさんだったのか……」
「そうさ。だが、一足も二足も遅かったみたいだったな……」
「……ディオ、もし君さえ良ければ、なんだけど、ぼくの父にどんな用があってこんな所まで訪ねてきたのかい?」
「そうだな。では、まずぼくの両親の話をしよう――」

 今度はディオの番だった。ディオは自分の生い立ちからその生活、今に至るまでの話をジョナサンにしてくれた。時折、言葉を詰まらせるディオの背を、ジョナサンは優しく撫でてやった。そして黙ってディオの話を最後まで聞いた。
 長い、長い時間が過ぎた。外の嵐が気にならなくなるほど、二人は話し込んだ。
 久しぶりの来客にジョナサンは興奮していたし、ディオは久しぶりにゆっくりできる時間に安心していた。
 雨がやみ、風はいつも通りの穏やかさを取り戻した頃。小鳥たちが、窓の外で朝を知らせていた。
「もう朝だ……ッ! あはは、こんなに時間を忘れるまで話し込んでしまったのは生まれてはじめてだよ」
 ジョナサンは目元を擦り、大きく伸びをして笑った。そんなジョナサンを見て、ディオも笑った。相変わらず、深くかぶった布を取ろうとはせず、ディオがどんな顔をしているのかジョナサンは知らなかった。

「朝になったことだし、ぼくは行くよ」
「……あ、ああ、そうか。そうだね……」
 ディオはまた旅人が身につけるような土色をした布を体に巻きつけて、またより深く布を頭にかぶり直した。そして立ち上がり、ジョナサンに別れを告げる。
「楽しい時間をありがとう、ジョジョ。またいつか会えると願って」
「うん……こちらこそ、ありがとう。……さよなら、ディオ」
 陽がゆっくりと森に朝を伝えてくれている。その眩しい陽を背にして扉を開き、ディオは歩いて行った。
 いつまでも、いつまでもジョナサンはディオの影が小さくなくなるまで目に映していた。
 どこへ行くのか、これからどうするのか。過去のことならいくらでもディオは語ってくれたが、未来のことは何一つジョナサンに教えてはくれなかった。
 またいつか。
 それをジョナサンは期待してしまう。また何時かの時を待ち望んでしまう。
 来る日も来る日も、扉が叩かれるのを、夢見てしまうだろう。
 気づいたときには、ジョナサンは屋敷を飛び出していた。
 森の中や野原でけものを追いかけて生きていくうちに、ジョナサンはこの世界の誰よりも速く走れるようになっていた。
 だけど、比べる相手が今まで居なかったので、そんなことに世界の誰もが気づきはしなかったし、ジョナサンもまた知らずにいた。
「…………ディオー!」
 お屋敷からは、点にも見えぬほどになっていたディオへ、ジョナサンはあっという間にたどり着いてしまった。流石にジョナサンの息は切れ、膝や肩が言うことを聞かずに震えていた。
「……ぼくは、何か忘れ物でもしたか?」
 ディオは落ち着いてジョナサンは見下ろして声をかけた。下から見上げても、布の中は暗くて、ジョナサンからはやはりディオの顔は見えない。
「……ううん、ぼくが……言い忘れたことが……あって、」
「それは、どうしても言わなくちゃいけないことなのか?」
「うん……」
「そんなに身をくたくたにさせるほど大事なことなのか?」
「……うん」
 息を整えると、ジョナサンは体を起こして、真っ直ぐに立った。そして、ディオの正面に立ち、深く息を吸い吐き出した。
「ぼくのことを、ジョジョと呼んでくれるのは、ぼくの父と母だけだったよ」
「それが……?」
 最後に、ディオはジョナサンのことを「ジョジョ」と呼んだのだった。ジョナサンは自分の愛称を教えた覚えが無かったので変に感じていた。
「何だか……すごく嬉しくて……その」
 奇妙な思いが胸の奥から湧き出てきて、ジョナサンは喉を詰らせて、言葉を発せなくなった。
 晩にジョナサンがディオにしたように、ディオはジョナサンの背を優しく撫でてやった。それがまたジョナサンには嬉しくて、仕方なかった。
「君さえよければ、ぼくと……あの屋敷に住んでくれないか……?」
「………………」
 ディオは沈黙していた。その黙りこくった空気に耐えられず、ジョナサンは続けて言った。
「勿論、無理にとは言わないよ! 君には行くべき場所があるんだろう……それを止めようだなんてしないから……、でも、もし……」
 ディオは、ジョナサンの背を撫でていた手をはずした。
「いや……いいんだ。君を困らせたかったわけじゃあないんだ……すまない」
 またディオから別れの言葉を聞くくらいなら、このまま帰ったほうがいいのだとジョナサンは屋敷へと体を向けた。遠くにある屋敷を見ると、景色が滲んだ。
「本当に、参ってたよ」
「……え?」
「行く当てなんて無いからな」
「ディオ……?」
 一歩進もうとした足を止めて、ジョナサンは振り返った。
「君がそう望んでくれるのを……ぼくは待っていたのかもしれないな」
「…………ほ、本当かい?」
「君が、ぼくを信じてくれるのなら」
 一陣の風が底から吹き上げて、二人の間を縫っていった。すると、ディオが深くかぶっていた布は取り払われてしまった。ディオは決して慌てることも、その布を元に戻すこともなく、初めてジョナサンの前に素顔を晒していた。
 その顔は、白い肌をしていて、黄金色の髪や睫が陽の光にあたって更に輝いていて、薄く色づいた唇は柔らかく微笑んでいた。
 ジョナサンはそのきれいなディオの笑みに、ぼうっとなって立ちすくんでいた。
 ディオが手を差し出したので、ジョナサンはやっと初めてディオと握手をすることが出来たのだった。



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