エンジェルキラー 1

十五歳ディオと七歳ジョナサン


「ディオー」
 うとうととしかけていたディオに、幼子の舌っ足らずで耳障りな呼び声が届く。ディオは不快そうに奥歯を噛んだ。
「ねぇー、ディオー。どこにいるのー、もうっ!」
 誰が出てきてやるものか。ディオは隠れ家代わりにしている、書斎のある一角に身を潜め更に体を縮めていた。多少窮屈ではあったが、「あいつ」から逃れられるなら、どこだって構わなかった。埃っぽいカーテンだって、気にしてはいけない。
「うーん、そうだな……」
 どちらかと言えば、義弟は鈍い性分だった。勉強においても、運動においても、日常生活や食事作法においても、同年代の子らと比べると、のんびりおっとり行っては父親に叱られている。そんな姿を横目で見て、いつだってディオは鼻で笑っていた。
 足も遅いし、甘い菓子を好いているので、手足や腹が丸みを帯びていて、突き飛ばせば、転がっていってしまいそうな体型をしていた。ほっぺたなんて、突けば指がずぶずぶと沈んでいきそうなのだ。
「ここかなあ」
 ディオは、ぎくりと肩を驚かせた。普段のあいつは鈍感で、とろくて、間抜けであるのに、何故かこんな時だけは「鼻が利く」。
「ここ、とうさんに黙って入ったら怒られないかなあ……」
 ――そうだ。無断で書斎に入ったと知られたら、おまえならたんと叱られるだろうよ。だから、さっさとあっちに行けよ。マヌケのジョジョめ……!
 ディオは親指の爪を噛みながら、苛々と膝を抱え込んでいた。厚みのあるカーテンの中で、息を殺し気配を消している。
「でも、……大丈夫だよね!」
 ――何を根拠にそう思うんだ、阿呆ゥ!
 ディオが隠れていたカーテンから飛び出した瞬間と、ジョナサンが書斎の戸を開いたのはほぼ同時だった。
「あっ!」
「……ッチ」
 ディオは、自分のタイミングの悪さを呪うしかなかったし、ジョナサンは自分の勘のよさにますます自信をつけたのだった。

「ディオ、みーつけた!」
 にこにこと喜びを全面に押し出した笑顔を向けて、ジョナサンはばたばたと忙しなく駆けてくる。
 子どもらしい、丸々とした手足が煩わしい動作を伴ってディオへと近付いてくる。
「はぁ……」
 ディオはジョナサンの匂いが苦手だった。赤子のような乳臭さ。清潔な香り。甘ったるい砂糖とミルクが混じったガキっぽい匂い。ジョナサンの纏う、健康的な太陽と緑の眩しさが苦手だった。
「おい、これ以上近寄るんじゃあないぜ」
「やだー!」
 本をジョナサンの顔面めがけて盾にしてみたが、容赦なく子どもの腕は少年の太ももに巻きついた。
「うっとうしいな!」
 鬱陶しいという難しい言葉の意味が分からないので、ジョナサンはやはり笑ったままでディオを見上げていた。
「ディオ、ディオ、ね、遊んでよ! 庭でダニーと、遊ぼうよ。ね、ね、いいでしょ?」
「言っただろう、ぼくは勉強で忙しいって! おまえみたいなお子様と遊んでるヒマなんて無いのさ! 分かったらとっとと出てけ!」
 この手の性格には優しく伝えたところで理解する頭などないと、ディオは悟っているので、かなりきつい口調と目つきで伝えてやる。それでも、ジョナサンは人が自分に対して悪意を持つということを知らずに生きてきたので、きょとんとして目を丸くするばかりだった。嫌われているだなんて、思いつきもしない。
「あっ! そっか! ディオ、おなかすいてるんじゃあないのかな! じゃあ、二階でお茶にしようよ! ナニーとメイドに言ってくるよ!」
 機嫌が良くないことが空腹につながる、という思考を持っているジョナサンは、迷い無くディオをその公式にあてはめて手を打った。
「あー…………、それでいいよ……。とっとと行け……」
 この際離れてくれるのなら、何だっていいとディオは幼子に手で合図して、あしらった。

窓際の縁に座り込んで、ディオはカーテンを開け放った。陽が傾きはじめていて、空は早くも翳ろうとしている。読みかけの本は先ほど閉じてしまったので、どこまでページを進めたか忘れてしまった。
 足音が消えたかと思えば、また騒がしく近付いてくる。
「ディオ、もう遅いから駄目だって。お夕飯まで待ちなさいって言われちゃった。ごめんね?」
「……ぼくは、別に腹なんて空かしちゃいないよ。勝手におまえが決め付けたんだろう。用が済んだなら、出てけよ」
 ディオは目線を本にだけ注いで、一切ジョナサンを見ようとしなかった。けれども、健気な義弟はじっと義兄の顔を見上げていた。
 ――あの目が厄介なんだ。あの疑いもしない真っ直ぐな瞳ってやつだ。苦手だ。いや……、むしろ嫌いなんだ。
「ディオ、何かお話して」
「……聞こえなかったのか? 出てけよ」
「何でもいいよ。ディオの知ってるのでいいから。その本のお話でもいいから、して」
「ジョジョォ……おまえ、ぼくの話を聞けよ!」
「うん、聞くよ。聞くからお話してよ」
「そうじゃあないっ!」
 痺れをきらすのは、いつもディオの方だった。しつこい子の赤みを帯びた小さな耳を、きゅっと片手で引っ張ってやる。
「あはははは! 痛いっ、痛いよ、ディオっ! あははは!」
 構ってもらえることが大層嬉しいと全身を大きく動かして、ジョナサンはきゃらきゃらと笑い出した。あまりにもジョナサンが喜んで大笑いをするものだから、ディオは堪えていたものを吹き出してしまう。
「……ッふ」
「あははは! あ、ディオ、にこってした! へへへ。笑ってる! ふふふふ」
 指摘され、ディオはジョナサンの耳を抓り上げていた指を離し、その手で口元を覆った。
「なんで笑った顔隠すの? ねえ、ディオ?」
「うるさい、見るなっ」
「ぼく、ディオが笑ってると、うれしいのになあ。いつも、こーんな顔して、こーんな風に口曲げてるもん」
 ジョナサンは両手で自分の眉を思い切り垂れ下げさせて言い、それから唇も下へと曲げて見せた。
「そんな顔してない」
「してるよ。つまんなそうにしてる」
 つまらなそう、と言われ、自覚のなかったディオは自らの頬を擦った。そんなつもりはなかった。ただ、無表情でいることを努めていただけだった。本音を悟られてはいけない、思惑を知られてはいけない。常にあったのは、そんな生き方をしてきた自分の癖だった。
「なあ、ジョジョ……」
「なあに?」
 呼びかけられたのが嬉しくて、ジョナサンはディオの膝に顎を乗せて、上目遣いで返事をしていた。
「ぼくは……その、今、ちゃんと笑えていたか?」
「うん!」
 作り笑いの不自然さも、皮肉めいた笑みでも、無かっただろうか。子どもの目から見て、純粋な笑顔であったのかと、疑問に感じていた。ジョナサンは即答していた。淀みのない澄んだ瞳だった。
「かわいかったよ!」
「……ハァ!?」
 続けてジョナサンは大声で年上のディオを嫌味なく褒めた。
ディオは八つも年下の義弟に、赤面させられる羽目になったので、ただの一言「出てけ!」としか言えなくなってしまったのだった。

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