エンジェルキラー 2
十五歳ディオと七歳ジョナサン 二ある日曜の午後、ジョースター卿に連れられてジョナサンとディオは遠い親戚の結婚式に出席していた。若い男女が誓いを結ぶ瞬間に生まれて初めて立ち会ったジョナサンは、ある儀式に目を、心を奪われていたのだった。
馬車に揺られて邸への帰路も、ジョナサンは珍しく静かに窓の外を眺めていた。
「ジョジョも遠出に慣れなくてはいけないな。初めは疲れるかもしれないが、だんだん慣れてくるだろう」
ジョースター卿はそう言って、ジョナサンの頭を二、三度撫でてやっていた。ディオは、式もこの旅路もただただ退屈なだけだった。あくびすらも出ないほどだった。
それから、夕日も姿を消して、夜闇が空を包む頃になってようやく一家は邸へ着いた。卿は、仕事を片付けると言って書斎へと大急ぎで上がっていった。
メイドは子ども達をそれぞれの自室へ連れていき、着替えさせる。窮屈なジャケットにやっと別れを告げられる。腕を上げて伸びをすると、妙に張っていた緊張がほぐれた気がした。
相変わらず義弟は、ぼんやりとしている。いつもは、必要以上に騒がしいというのに、珍しいこともあるものだ。ディオは、そのほうが都合がいいと納得して、部屋に入っていくジョナサンを横目で見送った。
「ジョジョぼっちゃま、具合でも悪いんですか?」
ジョナサンのお気に入りのナースメイドは、まだ若いが落ち着きがあり母性あふれる雰囲気を持った優しげな娘であった。いつだってジョナサンの味方をしてくれて、例えば父親から「食事抜き」を命じられた時も、こっそりクッキーとホットチョコレートを用意してくれる。母親がいないジョナサンにとっては、母親のようであり姉のような存在であった。
「ううん……、なんでも無いんだ」
いくら慕っている彼女にも、ジョナサンは打ち明けられなかった。このことを話せるとするなら、一番年が近くて、使用人でもない、あの人にだけだった。
ジョナサンの頭の中はあのことでいっぱいだった。しばらくして夕食になっても、気分は変で、意識をするとまた頭がぼんやりとしてくる。ナイフとフォークの持ち方がおかしいと父に注意されても、その言葉が言葉として脳に入っていかない。
「ジョジョ。一体全体、今日はどうしたというんだね」
「あ、……えっと、ううん。とうさんの言うとおり、ちょっとつかれちゃったのかも……」
「さっきから、料理も減っていないようだが……」
「だ、大丈夫! 食べれるよ! おなかはすいてるから!」
素直さだけが取柄のジョナサンが、演技をするなんてあり得ないことだった。ディオは静かに観察し、そして乱れのない所作で速やかに食事を済ませていった。
「フン、どうせ何かくだらないことでも考えてるんだろ」
夕食が終われば、あとは自室へ戻っていいことになっている。卿と少しだけ会話をして、ディオは部屋へ戻っていった。
用意されていた湯桶で、顔と手足を洗い、ディオは早々に寝巻きに着替えた。式自体は午後からであったが、準備と移動のために朝早くに起こされていたので、もう睡魔がやってきていた。本当に退屈な一日だった。他人を祝うために、わざわざ出かけるだなんて、なんて酷い一日を過ごしたのだろう。ディオは目を擦りながら、ベッドに身を預けていった。
部屋の明かりは煌々と点けっぱなしだった。
それがいけなかった。明かりが扉から漏れていたから、ディオが起きているのだと思い込ませてしまったのだった。
「……ディオ?」
ジョナサンは一人でディオの部屋を訪ねた。ノックもなしに入れば、大体は部屋の主に怒鳴られてしまうのだが、ディオがジョナサンに怒っているのはいつものことだったので、これといって問題ではない。
「……お布団の中にいるの?」
そっと寝台に乗り、ジョナサンは埋もれるディオの顔を覗きこんだ。初めて見る義兄の寝顔に、ジョナサンはしばらく黙って見つめていた。
寝息の音がしないので、ジョナサンはディオの口元に手のひらを翳してみた。小さな吐息が僅かに手のひらにかかって、胸を撫でおろした。あまりにも顔が白くて、そしてぴくりとも動かないので、死んでいるように見えたからだった。そうでなくても、ジョナサンは人の寝ている姿が好きではない。誰かが眠っている姿は何となく、恐怖を感じてしまう。
「……起きないかな……?」
寝台に全身を乗せて、ジョナサンは足先だけを放り出して、頬杖をついた。膝を曲げたり伸ばしたりして動かすと、ベッドは軋んだ。
「……ン……ゥ」
眩しそうにディオは眉を寄せて、唸った。その顔の真上にジョナサンは居て、起きる瞬間を待ち望んだ。
部屋の中にある人の気配にディオは、背筋を粟立たせて、瞼を開けた。影の落ちた義弟の真顔に、ディオは喉を鳴らす。
「ゲッ……! な、何をしてるんだ、おまえは!」
「あ、起きた」
「退けッ!」
起き上がり、ディオはジョナサンの体を容赦なく叩いた。そして、退かされたジョナサンは柔らかな布団の上に転がった。
「ジョジョォ……、おまえまた勝手にぼくの部屋に入ってきやがって!」
「ごめんね。だって明かりついてたし、こんな早い時間に寝てると思わなかったんだ」
転がっていた体を勢いをつかせて前に倒し、ジョナサンはむくりと起き上がった。そして、何故か照れくさそうに鼻をかきながら謝るのだった。
「それで?」
ディオは、腕を組んで拒絶するような形で続ける。
「何の用だ」
言われると、ジョナサンはまた帰りの馬車の中で見せたような顔をして、瞳を暗くさせる。今日は、特にディオは意地悪なことを言ってはいない。そもそもディオが責め立てようがジョナサンは、しょんぼりとする様子など見せはしないのだった。
「あの……」
手元をいじったり、シーツを指先で引っかいたりして、ジョナサンは口ごもった。そのもたついた動作はディオを腹立たせるばかりの行動だった。
「用がないなら、さっさと自分の部屋に帰れよ」
むすっとした態度を変えずに、ディオは言い放った。
「あのね……あの」
とうとう決意をしたのか観念したのか、ジョナサンは声を大きくして、ディオに向き直った。そして、体をぐっと近づけてディオの膝に手を置いた。
「ディオ、キスしたことある?」
おおよそ子どもらしからぬ発言に、ディオは文句を言おうとした口を開きっぱなしにさせていた。
「……あ、あるさ」
二年ほど前、ある少女に無理やりに口付けしたことはある。好意をもってした行いではなかった。全ては、己の目的のための手段のひとつであった。ロマンのかけらもない思い出だ。ディオにとっては、思い出したくない屈辱のひとつだった。
「あっ、あるの!? そう、そうだよね……だってディオは十五才のおにいさんだもんね……」
驚きの後に、ジョナサンは落胆したように表情を曇らせて、拳を作った。
「……おまえ……まさか」
結婚式の途中まではジョナサンはにこにことしていて、機嫌よくしていた。初めて見るものばかりの場所に興奮し、そして初めてみる花嫁の美しさに見惚れていたのは明らかだった。
誓いの言葉を交わし、愛する二人が行った接吻からジョナサンは大人しくなっていった。
「あれからキスのことばかり考えてたのか」
ディオの発言にジョナサンは顔をかっと赤くさせて、再び口を噤んだ。そういったことを考えたり、思ったり、口に出したりするのは、恥じであり、慎まなければならないと言い付けられていたジョナサンは、まるで罪を犯したかのように縮こまって反省していた。
「いけないことだって分かってるから、だからディオに聞こうと思ったんだ……誰にも言わないで! とうさんやナニーに知られたら、きっと凄く怒られるもん……! 絶対言わないでね!」
涙目になったジョナサンは、ディオの寝巻きの膝の部分をかたく握って、必死に訴えた。ディオは口元を押さえ込み、笑いを堪えていた。
「オーケー、ジョジョ。いいとも、誰にも言わないさ……」
「うん、約束だよ!」
「あのね、ディオ、もうひとつだけ聞いていい?」
落ち着きを取り戻したジョナサンは、まだディオの寝台の上に居座っていた。眠気と戦っているディオは、心底うんざりした。
「あのね……キスってどんな味?」
部屋にはジョナサンとディオ以外誰も居ないというのに、わざわざ耳元に口を運んで小声で尋ねてくる。よほどジョナサンにとって、聞かれては困る質問なのだろう。
「味、ねえ……」
夢を描いているジョナサンには、それは素晴らしいものを想像している。ディオから返ってくる答えに期待を満たして待っている。
ディオは、苦々しい思い出を蘇らせてしまってため息をついた。
「泥だよ、泥!」
正確には、泥水。そして更に付け足すなら、ディオが味わったのではなく、された彼女が泥水の味を口にしたのだった。けれど、十三歳のディオの舌にもあの泥の風味があったのだった。
「ふうん……? じゃあ、あの結婚式のお姉さんとお兄さんも、泥の味してたのかなあ?」
「そうさ。大体な、人間の唇や舌がうまいわけないだろ! 不味いに決まってる」
「……ディオも不味いの?」
ジョナサンはディオの唇を指差していた。
「泥の味なの?」
そう言われると否定したくなるのはディオの性分だった。貶されているようで、すぐさま違うと言ってやりたくなる。
「ぼくも……そういう味がするのかなあ?」
ジョナサンは舌を出して、自分の唇をぺろりと舐めてみて首をかしげていた。
「とにかく! 全然いいもんじゃあないし、おまえの好きな甘いチョコレートみたいな味はしない! 分かったろ、もう部屋に帰れよ」
「ええ、まだ眠くない!」
ディオはジョナサンを押しやって寝台から落とそうとしたが、思ったよりも体重があり片腕では動かなかった。
「ディオ、ぼくね」
「もう質問は終わりだ!」
「違うよ、質問じゃあない」
「駄目だったら」
いちいち相手をしていたらキリがない。ディオは、ぐいぐいとジョナサンの肩を両手で押していく。そのディオの手首をジョナサンは持った。
「ディオと、キスしたいな」
「……な、ん、だ、って?」
「挨拶のはみんなとするけど、ああいうの、口とするのは、大事な人としかしちゃだめだって言われたから、だからディオとしたいなって思ったんだけど、だめかな?」
いつもするようなお願いと同じような仕草でジョナサンは甘えてくるので、ディオはその危うい願望に眩暈がした。まだ今なら矯正出来る可能性は多いにある。
「駄目だッ!!!」
「ええ、なんでえ!?」
何でと、訊くのが間違いだろう。ディオは頭を抱えた。
「駄目なものは駄目なんだ!」
「何で、なんで、ぼくが小さいから?」
「そうだ」
こうなったら理由は何でも良かった。黙らせられるならどんな訳でも構わなかった。
「じゃあ大きくなったらいいの? ディオと同じ十五才になったらしていい?」
「おまえが十五になったとき、ぼくは二十三だ。大人と子どもだから駄目だ!」
「ええっ、じゃあ、大人になったらしていいの? 大人って何才? 大学卒業すれば大人? 二十歳になったらいいの? 結婚できる年になったらいいの? ねえ、ディオ!」
急に早口になったジョナサンは向きになってディオに迫った。息を弾ませて今にもディオを押し倒さんばかりの勢いで寝巻きを掴んでいる。
「そ、そうだ……ッ! おとうさんや、乳母やにも言われたろう? 大人になるまで、『そういうこと』をしちゃいけないって。だから、大人になったらしてやるよ!」
「……本当!?」
きつく掴んでいた寝巻きを放すと、ジョナサンは丸い瞳に輝きを宿らせて、頬を紅潮させてディオを見上げた。
「ああ、いくらだってしてやるさ! このことは他の誰にも言っちゃいけないんだからな……」
「約束、してくれる?」
「ああ、もちろん」
ディオは偽りの笑顔を見せ付けてやった。これでやっと解放される……。睡魔は判断力を鈍らせるのはあながち嘘ではないらしい。
すっかり元気を取り戻したジョナサンは、ご機嫌になって鼻歌を歌いながらディオの部屋を出て行った。そして、またもやディオは明かりをつけたままでベッドに倒れこんだのだった。
眠りの底に落ちる前に、思う。
「どうせ大人になるころには、恋人や婚約者ができていて……子どもの頃にした約束なんてこれっぽっちも覚えてはいないんだから……いいんだ……。どうせ、どうせ、な……」
ジョナサンが無事にヒューハドソンを卒業し、ディオが二十八歳になる頃、その約束が果たされるかどうかは、
また別の話。