ディオの肖像 1

「はじめてお目にかかります。ぼくがジョナサン・ジョースター伯爵です。みなさまがぼくの体験したあの恐怖のできごとをお聞きになりたいとか……今日ここへ参った次第です。……はい、忘れようたって忘れることのできない事件でした。」
 語り口調は物静かで優しげでした。一見、気の弱そうな少年にも見えますが、彼の目元や口元には皺があり、年相応の顔つきをしています。年のころは、三十から四十の間でしょうか。
「当時、ぼくはウインドナイツロットの草深い森の中の古城に、家庭教師や召使いをのぞいて、家族は父ひとりきりという、孤独なさびしい毎日を送っていました。」
 ジョナサンは、思い出すように遠くを見る目をしました。どこかその目つきは懐かしそうでもあり、寂しそうでもありました。
「そう……ぼくが生まれてはじめて心に恐ろしい印象をうけたのは、あれはまだ年端もいかない子供の頃のことでした。あの奇妙なできごとが最初の事件……と言えば言えるのです。」


 泣き声が闇間に鳴り響いておりました。幼子のしくしくと泣く声は、静まり返った部屋から聞こえております。夜のこと、時分は日を跨ぐ頃であります。
 幼子が起きるには早すぎるのですが、ジョナサンは眠ることも出来ず一人きりで泣くばかりでした。
 布団にくるまっても、恐ろしくて仕方ないのです。けれど、夜闇も怖いので立ち上がることも出来ませんでした。
 大きな寝台はジョナサンが大人になっても使えるほど、広々としています。その大きさが今のジョナサンにとっては、余計に悲しく思えるのでした。
 シーツは冷たく足先に長く伸びております。
 突然足元の遥か遠くに、音も立てられずあるモノが現れました。白い何かはビタリと布団の上に、蜘蛛のように這いました。
 ジョナサンは、思わず息を飲みました。気づかぬ内に泣き声も止んでおりました。
 あたりは静寂に包まれました。しんとした空気は張り詰めています。
 ジョナサンにとって永遠に長く感じたその静まりは、白い何かの変化によって終わります。
 手の下から、ギラリと光る目がいきなり現れました。何かは、人の手でありました。
 ジョナサンは始めに歯が鳴り、手が震え、やがて全身を粟立てました。
 顔は、人形のように瞬きもせず、ぴくりとも動きません。ジョナサンは息も出来なくなるほど怯え返ります。『二人』の間に、緊張が走りました。
 ちらりと目玉はジョナサンの方へ向きました。
 衣擦れの音も無く、その人は立ち上がりました。まるで気配などありません。そしてその姿は、幽霊のように薄気味悪くゆらりゆらりと揺れておりました。
 背の高い男が、ジョナサンを見下ろしております。うっすらと微笑みを浮かべて、男はぼうっと立っていました。
 ジョナサンはその不気味なものの正体が人間であることを認めると、少しだけ安心しました。やっとのことで呼吸が出来ますと、口を開きました。
「あ……あなたはだあれ……? どこからきたの? ぼく、ジョナサン。ひとりぼっちなんだ。」
 涙で潤んだ目を拭いつつ、ジョナサンは震える声で尋ねました。
「目が覚めたら乳母やも誰もいなくて、ひとりぼっちにされてたんだ……だから悲しくて、さびしくて……」
 恐怖を忘れると、また悲しみが心を占めました。語尾が小さくなり、ジョナサンはぽろぽろと涙をこぼしました。
 男の不自然に宙に浮いた白い手が、そっとジョナサンの肩を抱きました。
 男の髪に飾られた花の香りが、ジョナサンにも感じられました。嗅いだことのない、不思議ないい香りでした。
 男は、ジョナサンの頬に口付けました。驚いたジョナサンは、どきりとして目を丸くさせます。
「泣くな……」
 冷たい声でした。態度ではなく、その声そのものに温度を感じないのです。
「そばにいてやろう……」
 白い手はジョナサンの小さな肩を抱き、男の体が覆いかぶさりました。ジョナサンは、包まれる安堵感に身を任せました。

 刹那、悲鳴が上がりました。
「うわああああああぁあぁぁ!!」
 幼子の尋常ではない叫び声に、父や召使いたちがジョナサンの部屋へ駆けて参りました。
「どうした、ジョジョ!」
「うわああんっ」
「坊ちゃま、何事でございます!」
 ばたばたと足音をたてて、家中の人々がジョナサンを取り囲みました。
 男は、誰にも気づかれず闇の中に立ち尽くしております。
 生気の無い存在である男は、無表情な口元に紅い雫を垂らしておりました。
 明かりが部屋を照らし出す一瞬前に、男は消えるように身を屈め、ジョナサンの寝台の下に潜り込みました。男の姿が隠れると、シーツの端はふわりと風に揺れました。
「一体何があったんだ、ジョジョ」
 父の顔を見つけると、ジョナサンはますます声を大きく上げて涙の雫を撒き散らしました。
「今知らない男の人がいたんだ。喉の下を噛まれた……!」
 父に手を伸ばし、ジョナサンは抱擁をせがみました。
「噛まれた?」
 召使いの一人に目配せをして、ジョージは明かりを受け取り、ジョナサンの姿を照らし出します。
「知らない男の人ですって?」
 乳母は心配そうにジョナサンに聞きました。
「そうなんだ、ベッドの下に隠れたんだよ!」
 皆が、ジョナサンに気を取られている中で、ジョナサンだけは男から目を離さなかったのでした。
 執事が寝台の下のシーツをめくり上げて、そこをランプで照らします。
「だんなさま、ベッドの下には誰もいませんが……」
 父も覗き込んで見てみましたが、そこには誰も居ませんでした。それにベッド下には大人の男が入り込めるようなスペースはありませんでした。
「うそだ! ほんとにベッドの下に隠れたよ!」
 ジョナサンは泣きはらした目で訴えます。握られた小さな拳が、恐怖と興奮で震えておりました。
「夢でもみたんだろう、ジョジョ。どれ、首を見せてごらん……ほら、噛まれた痕なんか……」
 父は、ジョナサンの顎を持ち上げて、細い首を確かめます。子どもの肌はきれいで、傷も何も無いはずだと父は思っておりました。
「やっ! 何だ、この痣は!」
 喫驚する父につられて、執事や乳母もジョナサンの首元を見ました。
「まるで血の気が失せたようにここだけ青くなっていますわ」
 乳母がさした箇所は、健康的なジョナサンの肌には不似合いなほどに真っ青な……ちょうど人間の唇の大きさの痣が出来ておりました。
「泣くんじゃあないよ、ジョジョ。こわい夢を見たんだよ……今日はわたしの部屋でおやすみ!」
 乳母に抱きかかえられて、ジョナサンは父の寝室へと運ばれました。
 他の召使い等も部屋を出て行く中、ランプを手にした執事が父――ジョースター卿を呼び止めました。
「だんなさま、これを……!」
「なんだ?」
 ジョースター卿は執事が指差す方向へ目をやりました。視線の先には、ジョナサンの部屋にあるべきではないものが、存在しておりました。
「血だ! これは一体……」
 ほんの一滴の血の痕がありました。妙に赤々として、まだ真新しい血痕でした。
 ジョースター卿と執事の表情は、青ざめていきました。
二人はそれ以上何も言えなくなったのでした。

 ジョースター卿、そして召使いたちの不安は月日と共に薄れていきました。
 幼いジョナサンの心の傷も、年を重ねるごとに癒えていくのでした。
 ですが、首の痣だけは残りました……。

 ――そして、十数年が経ちました。

 夕暮れを知らせる教会の鐘の音が、森の古城まで聞こえてきます。
 ジョースター家が暮らす城のあたりには、彼ら以外の人間はおらず、ジョナサンは敷地内を自由に駆け回り育ちました。背は父と同じくらい伸び、たくましい体つきになっております。
 顔つきはまだ幼さが残り、笑顔は無邪気そのものでした。特長的な丸い大きな目は、小さな頃から変わりません。
「ジョジョぼっちゃま、もうお城にお戻りにならないと……!」
「いいじゃあないか、もう少し森を散歩していたって」
 従者の言葉に耳を貸さず、ジョナサンはどんどんと森を進みます。従者は困った風に後を追いかけておりました。
「お城に戻ったって退屈するばかりさ。それに、こんなにきれいな夕暮れなんだから」
 ジョナサンは夕陽を指して、振り返りました。夕暮れ時の陽の色は、美しくを森を彩っております。オレンジ色をした太陽が、だんだんと夜に移り変わっていく様は何度見てもうっとりするのでした。ジョナサンは、自然に囲まれたこの地が好きでした。都会に憧れもするけれど、幼少から育ったこの場所はどこよりも素敵だと思っております。
 森の住人たちも身を潜める頃、馬の鳴き声が聞こえてきました。聞き慣れない何かが倒れる音、それを聞きつけたジョースターの使用人たちの声が森をざわめかせました。
「馬車がひっくり返ったぞ! 四頭立ての馬車だ!」
 若い男が大声を上げております。ジョナサンと従者も声のする方へ注意を向けました。
「若君を助けて頂いて恐れ入ります。急に馬が暴れ出してしまって……」
 黒い装束を身に纏った老婆が人の群れの先頭におり、こちらへと歩いてきました。その後ろには、妙齢の男性に抱きかかえられて運ばれるジョナサンと同い年くらいの少年がおりました。
 抱えられた少年も同じような黒い――喪服を着ております。大きな帽子を目深にかぶっておりました。
「大丈夫ですか、ディオさま……」
 老婆は、木陰に下ろされた少年に小声で尋ねました。
「胸が少し苦しい……」
 起き上がろうとした少年――ディオの背を、抱きかかえてきた男性が優しく支えました。
「いけません、若様。顔の色が真っ青です」
 男にしては長い髪を後ろに束ねたディオの従者は、首を振りました。
「ディオさまの……このお体はあまり丈夫ではありませんから……、」
 老婆は曲がった腰を更に屈めて、ディオの顔を覗き込みました。
「困りましたねえ、このままでは旅は続けられない……」
 騒ぎを知ったジョースター卿が、ジョナサンや周りのものに話を聞き、老婆に声をかけました。
「どうです、しばらくわたくし共の城でおやすみになられては?」

 馬車の事故がもとで巡り会ったディオという少年は、そのままジョナサンの古城に客人として迎え入れられることになりました。

 大事な急ぎの旅の途中という老婆は二ヵ月後に迎えにくると言い残し、去っていきました。

 その晩、珍しい客人にジョナサンは少しわくわくして父に話しかけました。
「ねえ、父さん。聞いたかい? わけがあると言って姓氏もお国の名も教えてくれないけれど、召使いがあの子のこと『若君』って呼んでいたよ」
 お城は、いつもと違って慌しい雰囲気がありました。メイドたちも、ジョースター卿の言いつけでディオの世話に回されております。
「よほど身分の高い方なのかな?」
 ジョースター卿は、あまり余計な詮索はしないように、とジョナサンを窘めました。

 同じ年ごろであろうミステリアスなディオのことが気になって仕方ないジョナサンは、居ても立ってもいられず、ディオのいる部屋を訪ねました。
「少し……じゃましてもいいかい?」
 ベッドに横になったディオの周りには何人ものメイドがいました。その中には、老婆がディオのために置いていった髪の長い従者もおりました。
「あっ!」
「わ……っ!」
 ジョナサンとディオの驚きの声は同時に上がりました。
 二人は顔を見合わせて同じように目を開きました。
 そして、最初にディオが話し始めました。
「なんて不思議なんだ。君、ぼくが子供の頃、夢の中で見た男の人とそっくりだ。驚いたなァ」
 初めてちゃんと見たディオと言う少年は、とても綺麗な顔をしていました。くせのある前髪がウェーブしていて、肩にかかるほどの長さの濃い色のブロンドでした。
「君こそ……! ぼくが子供の時、夢でみたひとにそっくりだ! そう! ぼくそのベッドで寝ていたんだ」
 ディオが使っているのはジョナサンが使用していた寝台でした。あの時と同じ色のシーツや枕を見ていると、あの時の記憶がジョナサンの中でどんどん蘇ります。
 恐ろしい思いをしたことを今は忘れていました。それよりも、あの日の男の人の顔とディオの顔が頭の中で一致した驚きでいっぱいでした。
「へぇ……なんて不思議なんだろう……?」
 ディオはまじまじとジョナサンの顔を見つめて言いました。
「ぼくはね、五つか六つの子供の時、夢の中でいつの間にか知らない部屋にきていたんだ。そうだ……この部屋だ! 造りを覚えてる。 ふと気が付くとこのベッドで黒髪の美しい男の人が泣いていて……そう……今の君だよ」
 ジョナサンは、ますます驚かされました。自分の体験したことと全く同じだったからです。
 ディオは続けて話します。
「ぼくは慰めてあげたくて、泣くなと言ってその人の頬に口付けして……それから一緒にベッドに横になったんだ」
 ジョナサンは、真剣な眼差しでディオの言葉に聞き入りました。
「そのまましばらく、うつらうつらしていたら、突然そばで大きな悲鳴がきこえて、びっくりしてベッドを飛び降りた。泥棒でも来たのかと慌ててベッドの下に身を隠したんだ。そしてそれっきり記憶がなくなって。朝、目覚めたら自分のベッドの中にいたんだ」
 ジョナサンは寝台に近づき、しゃがみこんでディオに答えました。
「不思議だよ、ディオ。ぼくもまったく同じ夢を見たんだ。一人で泣いていたとき、ふいに君が現れて泣くなと言ってぼくの頬にキスしてくれたんだ」
 布団の上に置かれたジョナサンの手に、ディオは自分の白い手を重ね合わせました。
「ほんとに不思議だ。ぼく達、きっと友達になる運命だったんだ……ジョナサン」
「ディオ……」
 ジョナサンは触れ合った手の温度に、少し違和感を持ちました。顔を上げ、ディオの目を見ますと、俯いたディオの表情には影がさしておりました。
「ぼくは、長い間ひとりぼっちだったよ……それは長い間ひとりぼっちだった。」
 長い睫が、瞬きをするときに音が立てられるようだとジョナサンは感じました。寂しげな瞳が今にも消えてしまいそうに儚げでした。
「体が弱くて、寝ていることが多く、人付き合いもあまり出来なかったんだ。ふつうの人と同じように動くことも余り出来ない。遠い昔、健康だったこともあったけど、……あの頃は幸せだったよ……」
 ジョナサンはディオのもの哀しい姿に釘付けになっておりました。他の人達がどう思っているかなんて考える余地も無く、ディオだけが目に映っておりました。
 その悲しみを打ち消すように、ディオはにこりと笑いました。ふわりとした柔らかな笑みにジョナサンはハッとさせられます。
「ああ、うれしいな。君に会えて。ああ、やっと友達が出来たんだね」
 ディオはジョナサンの手を両手に包み込み、自分の胸の近くへと持っていきました。
「君がこんなにきれいじゃあなければ、ぼくは子供の頃の夢のことなど、忘れてしまっていただろう。あの夢の時からぼくはずっと君に心惹かれていたんだよ……」
 ぞくぞくする甘さのある声がジョナサンの耳奥を擽りました。今まで生きてきて、こんな感覚を味わったことはありません。ただ、ディオにはどこか危ない魅力がありました。それはまだ少年であるジョナサンには、理解出来ませんでした。
「そんな……ディオ。ぼくの方こそ兄弟も居ないし、森の中のこの城にひとりっきり! 今まで遊び相手になるような友達もいなかったんだ」
 ディオにとられた手を、ジョナサンも両手で握り返して言いました。ジョナサンの気持ち同様、熱い手でありました。
「そうかい……似ているんだね、ぼく達って……」
 そっとその手を頬に寄せて、ディオはまた優しい微笑を浮かべました。
「仲良くなろう、ぼく達……」
「うん……! ねえ、ディオ、ぼくのことはジョナサンじゃあなくって、ジョジョって呼んでくれないかい? みんなそう呼んでいるから」
「ああ、ジョジョ」
 首を傾けたディオの金髪が、さらさらとしてジョナサンに手の甲にあたりました。すると異国の花の香りが漂いました。どこかでこの香りを嗅いだことがある……、とジョナサンは思ったのでした。


「こうして、ディオはぼくの城に滞在することになったのでした……」
 ジョナサン・ジョースター伯爵の告白は続きます。



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