ゆらゆらすいみ 1

 珍しくもないが、ディオはその日も苛々していた。もしも女性だったら「あの日なのかい?」なんて冗談を言われてしまうほど、苛立ちを全身に出していた。
 だけどぼくにとって、ディオのそんな様子は日常茶飯事だったから特に気に留めなかった。口を出した所で、良くて嫌味か皮肉、悪くて八つ当たりされるだけだ。触らぬディオに祟りなし。というわけだ。
「いい加減にしろ……」
「ん?」
 腹の底から唸るようなディオの声が聞こえて、ぼくはパイプをくわえたまま顔を上げた。
「もう、我慢ならない……ッ!」
 腕を真っ直ぐにして振りながら、靴のかかとを大きく鳴らして、ディオは鼻息も荒くずんずんとこちらに向かってくる。ぼくは慌てて開いていた資料や書きかけのレポートを引き出しにまとめて突っ込んだ。
 薄手のレースのカーテンが乱暴に開かれると、ディオは窓を開け放った。窓枠は雑に扱われて、吹っ飛んでいきそうだ。
「換気をしろ! この部屋、ロンドンの街以上に霧がかってる! 煙いッ!!」
「大袈裟だなあ……」
 今日も相変わらず外には強風が吹いている。とても窓をあけていられるような日ではないんだ。だから閉め切っていたのに。ディオは髪の毛を逆立てて(実際は風に煽られてそう見えていただけだ。)怒りの面でこちらを見下ろしている。
「ジョースター卿も随分とパイプを吸う方だが、息子の君もその血を立派にっ! 受け継いでいるみたいだな。起きたら、一服、食事の前にも一服、食事のあとも一服、読書と共に一服、仕事をしながら一服、一服、一服、一服ッ!!」
 どう見たってご立腹だった。けど、一体何がディオそう怒らせる要因になったんだろう……。ディオの捲くし立てるこの物言いや気迫にぼくはいつも圧倒されてしまう。
「ディ、ディオ、落ち着いて、ほら、ぼくもう吸ってないから!」
「うるさい! さわるな! その煙くさい口でぼくのそばに近寄るんじゃあない!」
 ああ、ええと、確かフランスの小説に、口うるさいギリシア娘のおしゃべりをやめさせるために「タバコ」を吸わせたら、途端に黙ってしまったっていう話があったよな。
「なら、ディオも吸ってみればいいんじゃあないかな。」
 ぼくは、ついさっきまで自分が吸っていたパイプの吸い口をディオに向けて渡そうとした。すると、差し出していた手を思い切りはたかれてしまった。まったくの逆効果だった。
「誰が吸うか! ぼくはタバコも酒もアヘンも絶対にやらないからな!!」
 とにかくディオは、男なら誰でも嗜むものそれらのものが大嫌いだったんだ。食事の時の酒くらいは口にはするけれど、自ら進んで好みはしないし、遊びで薬を使ったりもしない、らしい。
「この臭いが嫌だと言ってるんだ! 臭いが消えるまで、ぼくに絶対に近づくなよ!」
「え……ええー……。」
 いきなり接触禁止令を命じられ、ぼくは反論も何も言い返せず、ただディオがこちらに来るときと同じ怒りをあらわにした歩き方をして、部屋を去っていくのを見送るしかなかった。

 言われてみれば、確かに父さんもよくパイプを口にしている。最近は葉巻がロンドンで流行っているらしくて、外国から取り寄せたものを試しているのを見かける。
 ぼくは、ずっとそういった父の姿を見てきたからか、自然とパイプを吸うようになった、と思う。きっかけなんて、ありきたりなものだ。大人っぽいから、格好つけたいから、男らしいから。思いつくのはその程度の理由だ。
 一日の回数をカウントしたことは無いけれど、人より多いだろう、くらいにしか考えてなかったな。
 ディオの言う通り、暇さえあればパイプをくわえているのかな。気づかないほどに、無意識に行っているんだろうか。
「やっぱり仕舞っておいて正解だった」
 机の上に並んでいたペンや、紙くずや小さいものは部屋のあちこちに吹き飛ばされていた。無くしたら困るものを咄嗟に引き出しに入れておいて良かった。
 部屋の空気はすっかり入れ替えられて、清清しい緑の香りがしている。
 窓を閉めて、ぼくは肩口に自分の鼻を押し当ててみた。
「……そんなに臭うかな?」
 糊のきいたシャツは、ぼくの鼻には洗剤の匂いしか感じなかった。
 ぼくはとりあえず椅子に座って、またパイプに火をつけた。


 夕食時、ディオは一切ぼくの顔を見なかった。席についたディオはわざとらしいほどに、父さんの席へ体ごと向けて、話続けていた。
 父さんだって煙草臭いはずなのに、一体ぼくの何が気に入らないっていうんだろう。
 むかむかした気持ちのまま、ぼくは無言で食事を口に運びまくった。皿が空になるとすることがなくなるので、メイドに合図をしてお代わりを持ってこさせては、ひたすら黙々と食べた。
「ジョジョ、今日はずいぶんと食欲旺盛だね。」
「ええ、まあ。ラグビーの練習をしすぎたせいかもしれないなあ。」
 ディオがその気なら、ぼくだって構うものか。と、少々子どもっぽいけれど、つんと横を向いて言った。
「やれやれ……全く、君たちは……。」
 流石に父さんも感づいているようで、深いため息をついていた。
 でも、ぼくたちはそんな父さんの呆れ顔を見ても、互いに目も合わせなかったんだ。


 部屋に戻ろうとしたときも、ディオはぼくと時間をずらしているみたいだった。
 そんなに、嫌なのか。同じ家で暮らしているんだから、いくら広くたって隣同士の部屋なんだし、すれ違わないほうが無理だ。
 父さんは食後の紅茶を飲んでいる。そして上着のポケットから葉巻を取り出していた。
 ディオはまだ食卓についていて、一緒に紅茶を飲んでいる。
 煙草が嫌いだって言ってたじゃあないか。平気そうな顔をしているのに、どうしてぼくにはあんなかんかんに怒ったりするんだろう。
 今すぐ不満をぶちまけたくなったけれど、ぼくはぐっと堪えて言葉を飲んだ。上がった血圧をどうにか落ち着けようと、ぼくは風呂に行くことにした。


「……近づかないんじゃあなかったのかい。」
「風呂に入ったんだろう?」
 部屋に帰ると、ぼくのベッドの上には普段着のままのディオが、靴を履いた状態で寝転がっていた。
「君にいくら”お願い”しても無駄だって分かってるけど、でも、勝手に部屋に入るのやめてくれないかな。」
「鍵でもかけたらどうだ。」
「それも無駄だって知ってるから、こうしてお願いしてるんじゃあないか……。」
 心底うんざりして、ぼくはがっくりと肩を落とす。口角は下がって、眉も垂れ下がる。
「ふふん、その顔は好きだぞ、ジョジョ。」
 脱げかけている靴を爪先に引っ掛けて、ディオはぷらぷらと足首をベッドの外に投げ出して揺らしていた。
 やがてほんの少しだけ引っ掛かっていた靴は、カーペットの上に静かに落とされた。
 起き上がったディオは久しぶりに目を合わせてくれていた。ぼくは心外だったけど、やっぱりほっと胸を撫で下ろしてしまった。
「ここに座れ」
 足を組んでベッド脇に座ったディオは、指でここと床を示した。
 躊躇っているとディオはもう一度強く「座れ」と命令する。ぼくは、ちょっぴり緊張して床に膝をついた。
 まだ完全に乾ききっていないぼくの髪をくしゃりとディオの手で掴まれて、頭皮に直接冷たい指が触れた。背筋にぞくりとした感覚が走って、腕から背中の皮膚が総毛立った。
「……ん」
 ほどなくして、指よりも少し温かい感触が頭にあった。
 強引に首を下に向けさせられているから、ぼくの視界の範囲は僅かだった。隙間から見えた体の部分から予想するに、ディオは身を屈めているみたいだ。
 すん、と鼻の鳴る音がする。
 髪を通って、額、耳の裏側へと、音は移動していく。
 ディオは、――多分こんな喩えをしたらまた怒るだろうけど、実に犬のようにぼくの体臭を確認している。
 くんくんと鼻を利かせて、ぼくの顔の周りを嗅いでいる。変な汗が噴き出しそうだ。
「……まだ臭うな。」
「えっ!?」
 今日は、パリで流行りの香料を使った特別な石鹸で念入りに洗ったつもりだったんだけどな。いつも使っているのはあまり香りがしないから、これなら大丈夫だと思ったのに。
「あと、おまえ女くさい。」
「えっ、……これ、石鹸の……。」
「女用のだろう? おまえのような筋肉馬鹿の大男がバラの香りを纏わせてどうする。気色悪いだけだ。」
「ディオが……煙くさいっていうから、あの石鹸で体洗ったんだよ……。」
「湯船に浸かって汗を出してから体を洗えよ。そうでなくてもおまえは雑に洗うからな。」
 ぼくはまた自分の腕を嗅いでみた。人工的な花の香りは頭が痛くなりそうだった。
「……ディオは?」
「なんだ。」
「まだ風呂、入ってないよね?」
「……だから?」
「一緒に入れば一番いいと思うんだけどなァ」
「こ、と、わ、る」
「でもさ、ディオが……その、洗ってくれたら、多分もう臭わないと思うんだ」
「このディオに女中の真似をしろというのかっ!?」
「メイドじゃなくて、恋人だろっ」
「……ッち……誰がするものか!」
「だって別にぼくはこのままでいいよ。ちょっと女臭いけど、ぼくは気にしない。気になるのはディオなんだろう?」
「誰がいつそんなことをっ」
「それにこのままじゃあ、君は一緒に寝てくれないんだろ……?」
 ぼくは、ちょっとずるいけれど、甘えた口調で言ってみた。顔を上げてみると、ディオは唇をむすっと閉じてぼくを睨んでいた。
 触るな、近寄るなってことは、つまりそういうことが何も出来ないってことだ。ぼくは無理強いなんてしたくない。嫌とか駄目とかやめろとか言われたら、ぼくは大人しく引き下がると自分の中で決めている。何故ならぼくは、紳士を目指しているからだ。
「学校でシャワーを浴びてきたから、今日はもういい。」
「そうか、分かった。じゃあぼくはもう寝るよ。おやすみディオ。」
「……おい待て、ジョジョッ!」
 ベッドの足元から布団の中に入ろうとすると、ディオはぼくのガウンのひもを掴んでいた。
「なんだい?」
 ぼくは口元がひくつくのを我慢できなかった。震える頬を見たディオは、赤面しながらぼくの頬を抓り上げて言った。
「このぼくをうまく言いくるめられたと思っているなら大間違いだからな、ジョジョ。いいか、おまえのためなんかじゃあ無いからな、分かったか!?」
「うん、……分かってる。」
「なら、そのにやにやしただらしない顔をするのはやめろ!」
 今度は反対の頬をディオは抓って、さらには爪を立ててくる。多少の流血くらい、この満足感にはやむを得ない損失だ。
 そうしてぼくたちは、3階にあるバスルームに向かった。

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