あなたって本当冷たい男
情なんてとっくに無くしたのさ。「違うでしょ。あんたが愛情に、捨てられたのよ」
最後の女は殴られた頬をおさえ、涙を流しながら男に言った。
そんな捨て台詞がお似合いだと、男は唾を吐いた。
どうしようも無いほど運に見放されて、最低の人生を自ら選んでいくような女と
どんなに蔑まされて見下されても、それでも上手いこと橋を渡っていけるような男。
そういう最悪の男女の間に生まれた子どもの話。
男は、力の尊さを子に教えた。
女は、才能の限界を子に伝えた。
歪みきった世の中を、汚れきった世界を、泥まみれの道を、二人は子どもが泣きわめいても語り続けた。
「ぼうや、それが生きるってことよ。分かる? わかんないわよね、だってあんたは、まだ乳飲み子なんだもの……アハ、アハハハ」
赤ん坊はやせ細った女の乳を、生え揃わない歯で噛みちぎるようにして吸っていた。女はさして愛情を持ち得ない腕の中で、殺す勇気も出ない命をもてあそんでいた。
こんなことするために生まれたんじゃあないのよ。
私にはもっと、もっと、素晴らしい人生があるはずなのよ。
もっと綺麗な服をきて、もっと優れた旦那に抱かれて、もっともっと美しくなるのよ。これは現実じゃないの。今は違うわ。こんなのは違うの。
女は、毎日、毎日、鏡を見て呟いた。
「あたしじゃない」「これはちがう」「あんたは誰なの」
赤ん坊は辛うじて女の腕にしがみついていた。今はそれだけが生きる全てだったからだ。
毎日、冬空のような時間が流れる。さみしい風が家の中にも吹きすさぶ。
命が尽きないぎりぎりの生活が過ぎる。二人は、ただ生きているだけだった。
何が楽しくて、何が嬉しくて、何のために自分が在るのかが分からない。必死になって、這いつくばって、生に執着出来ないものだろうか。そんな気力もわいてこない。希望がないから、夢もないから。どこが前で後ろかも、光の差す方向も女には見えてこなかった。
そんな日々の中で女が壊れるのは、容易かった。
男は家には戻らない。金と遊び女が去れば、”仕方なく”帰ってくる。
失っただけの男は、女から搾り取れるものがあれば奪い去り、用が無ければこのみすぼらしい家には寄りつきもしない。
女は、とうに捨て去った自我の奥底で考える。
「あたしのような存在があの男に、あと何人もいるのかしら」
じゃあ、自分はこの街にいくらでも居るんだ。
こんな赤ん坊だって、何人も何人も生まれ続けていて無意味に命が繋がれていく。続いていく闇は連鎖して絶えやしない。ただただ増殖していくだけ。
「終わらせなくっちゃ」
女の子どもは「男」だった。生まれてから一度も笑ったことのない、ちっともかわいげのない赤ん坊だった。
――何故なら、赤ん坊は母親から笑いかけてもらったことがないから、笑うという概念が無いのだった。――
「終わらせるのよ……あたしで最後」
腕の中から赤ん坊が落ちた。床に落とされた赤ん坊は、火がついたように泣き出した。その声が耳に響くのだが、女は拾い上げようとは思えなかった。
泣き止ませるのは自分が五月蠅いと思うからで、赤ん坊のためではない。
泣くのが悪いのは殴られるからだと知っているからで、女のためでもない。
涙なんて体から水分が抜けるだけで、無意味だと女は嫌と言うほど思い知っている。
「まだ泣くだけの元気があるのね……今楽にしてあげる。終わらせるのよ。あたしが、あなたを」
女の頭の中に浮かぶ男達は、次々と顔を変えた。
自分を殴った男、自分を蹴った男、自分を刺した男、自分を嬲る男、自分を襲う男、自分を舐める男、自分を脅す男、自分を殺そうとした男。
年老いた男、若い男、幼い男。
最後には必ず、父親の顔になった。
女がされてきたことは、全て父親にされたことだったからだった。
「ああああああああ」
床に転がったままの赤ん坊は、女の叫び声を聞いて瞼を開けた。
透き通ったブルーの瞳が、どんな宝石よりも美しく煌めいていた。本物の宝石を目にしたことは無かったけれど、それでも女には心から真実そう思えた。
赤ん坊の透明な眼に、女は自分を映しこんだ。
涙が赤ん坊の頬に落ちていた。自分が泣いているのだと気づいた。
すると女の脳裏に見知らぬ美青年が浮かんだ。
女に似た少し神経質そうで、繊細なつくりの目鼻立ちの青年だった。
背はすらりと高くたくましい体格で、見立てのよいスーツに身を包んでいる。黄金色の頭髪が風に吹かれていた。
青年の口がひらく。
待ち望んでいた言葉だった。
「ママ」
女は赤ん坊の手を取った。
「嫌、嫌よ……嫌……、あたしはあなたを失いたくないわ」
小さな身体を抱きしめると確かに温かく、ぞっとするくらい柔らかかった。
女は赤ん坊の頭や背中を摩った。傷は無いようだ。心臓が落ち着きを取り戻していく。
「あなたは神様よ」
女は続ける。
「あたしの世界の、たった一人の」
女は泣いた。
ただひたすらに、泣いて、泣いていた。
世界中の男が憎かった。世界中の誰もが嫌いだった。世界中の女が羨ましかった。
女は、ひとしきり泣きわめいたあと、台所に立った。
ほとんど水のようなスープを飲んで、痩せた胸に赤ん坊を抱いた。
赤ん坊は慣れたように乳首を探し出し、必死に食らいついた。
なんて、美しいのだろう。
「どうしてそんなに、あなたは生きようと思うの……?」
女は赤ん坊に問い掛けた。
赤ん坊は、小さな手や口を使って夢中になって乳を吸っている。
「これから、何かいいことが待っているの?」
赤ん坊は、出の悪い女の乳を一滴も逃すものかと咥え続けている。
「それとも、誰か会いたいひとがいるの?」
赤ん坊は、話しかけ続ける母親の顔を見上げた。
「ママに教えてくれる?」
赤ん坊は生まれて初めて目にした笑顔を、そっくりそのまま返した。
笑った目元が自分に似ていて、女はまた涙を流した。
母親は、あの美しい青年にいつか会える日がくるのだろうと信じて
また明日も生きてみようと思えるようになった。