月海夜 11

 雨が強まっていく。ジョナサンはぬかるむ泥道に足をとられて、思わず罵声のひとつでも言いたくなった。年を重ね、性格は大分落ち着いてきてはいたが、元来ジョナサンは気性が荒い質である。
 靴の中も着込んだ服も、泥と雨水にまみれて、ずぶ濡れだ。服は水を吸って重い。
 街の灯りは遠くにある。途方に暮れそうだった。それでも前を向き、ひたすらにジョナサンは歩くしかない。
 進行方向に小さな灯りがちらちらと揺れていた。ランプの火だろうか。荒天の中、自分の他に誰か出歩いているのか。ジョナサンは、人らしき影に安心感を覚える。
「おお、どうしたんだ、あんた一体、こんな所をほっつき歩いて」
「あの、ぼくはこの先の町に用が……」
 体格のよい中年の男は、人の良さそうな眉を下げて、首をふった。
「だめだ、だめだ。この先は土砂が崩れとるんだ、おかげでトンネルは塞がっとる」
「ええ、存じています、ご忠告ありがとうございます。」
 ジョナサンは礼をして、男の横を通り過ぎようとした。
「いかんと言っておるだろう! 何をそんなに急ぐんだ、身内が危篤か? それとも嫁が産気づいとるのか?」
「い、いいえ……」
「生き死にがかかっていないなら、ここを通すわけにはいかん。」
 ごつごつとした男の手が、ジョナサンの太い腕を掴んで強く握り引き止める。中年の男の背はジョナサンに比べて、頭ふたつ分ほど低かったが、横幅は、ジョナサンより一回りもある逞しい体つきだった。声から察するに、ジョナサンの父よりいくつか年上だろう。頭から雨具のフードをかぶった男は、自分はすぐ目の前にある牧場の主なのだと言い、今晩はそこで休むのがいいと、提案した。
「ですが……」
「こんな日に無茶をして死んだ人間はいくらでもいる。いいか、おまえのために言ってるんじゃあない。おれや、おれの家族が迷惑する。つべこべ言わずに来るんだ」
 手を振りほどいて、断りも出来たが、ジョナサンはそうしなかった。ジョナサンの母が亡くなったのは、こんな雨の日の馬車の事故が原因だったと聞かされていた。それを思い出し、ジョナサンは悪い予感を頭の片隅に過らせてしまったのだ。

 男は、――牧場の主は実際、周辺の若者が、荒天の中トンネルの事故で死んでいったのを何人も知っていた。都会とは違い、田舎道である故にその場しのぎで工事は行われるから辺りの山道は崩れやすかった。土砂に埋もれれば、人間などひとたまりもない。運良く、トンネルの中で生きながらえたとしても、空気孔の無い中で閉じ込められてしまえば、いずれは窒息してしまう。ジョナサンも過去そうして亡くなっていった若者と同じ道を辿るように見えたのだろう。
 牧場の主は、食事と着替え、寝床をジョナサンに無償で貸す代わりに、明日からの山道の片付けの手伝いを言いつけた。
 男と同年ほどの妻が、申し訳なさそうにジョナサンに食事をもてなしてくれた。湯気のたつスープ皿を受け取り、ジョナサンは食卓についた。
「また見回りをしてくる。留守を頼んだぞ。」
 男は、妻とジョナサンに短く言い、いくらか雨の弱まった外へまた出ていった。しかし扉を打ち付ける風はごうごうと鳴り、強さを示していた。
「強引に連れてこられたんでしょう?」
 男の妻は、やせ細った面に皺をよせて、ジョナサンに明るく笑って見せた。
「別に、あなただけじゃないのよ、一年に何度かあなたみたいな人がいるわ。その度、主人が家に連れて帰ってくるから、慣れっこよ。」
 斜向かいの椅子に夫人は腰掛けて、早口に言う。
「だからあまり気にしないで。さ、食べて。すぐむこうの町まで行けるようになるわよ」
 夫人はつとめて朗らかにジョナサンを慰めて言った。彼らは名前も詳しい事情も深く尋ねはしなかったし、気にする素振りも見せなかった。

「遅く……ないですか?」
 いつもと比べて、時間が過ぎ行くのがジョナサンは長く感じる。だが、実際男が出て行ってから、一時間近くが経とうとしていた。
 夫人は、繕いものをしていた手を休めて、ジョナサンに茶を勧めてきた。
 そして、湯をわかしている間、自分たちの子どもの話をし始めた。
 息子が二人と、娘が三人いること。ジョナサンは、まだ十かそこらの、男の子が隣の部屋で寝ているのを知っていた。夫人が直していた服は汚れた少年のズボンらしきものだった。
 上の娘たちは、都会に働きに出ているものと、嫁にいったものがいると夫人は話してくれた。
 そして、末の娘がとなりの町に行ったきりのことを教えてくれた。
 父親と、十五、六の年頃の娘の反りが合わなくなるのはどの家庭にもあり、彼女が家を出るのも別段変わった事でもない。
 ジョナサンは黙って夫人の話を聞いていた。
「昨日の夕方、出て行ってしまったの。いつものことよ、喧嘩しただけ。」
 窓の外を見る夫人の目にも心配の色があった。ジョナサンは、話題に出なかった上の息子のことを考えた。過去の若者とは……、彼が話した惨状は、おそらくジョナサンの考えと答えは同じだろう。

 明くる早朝、久しぶりに長い睡眠をとったジョナサンの寝起きは爽快だった。ディオへの不安は消えていないが、じっとしていても仕方がない。支度をして、ジョナサンは牧場主の手伝いに精を出した。天気はすこぶる快晴とはいかなかったが、雨は降りそうもない。おかげで、作業は順調に進んだ。一帯の住民や、街からやってきた人々の力添えもあり、あと二、三日のうちに人や馬車が通れるようになるだろうと、皆が口々に話し合った。
 ジョナサンは、ほっとした気持ちと、あと二、三日もかかるのか、という焦りもあった。
 毎日、毎晩に顔を合わせ、抱き合っていた相手と触れ合えない、恋慕と思わしき情。
 ――いいや、そうじゃあないだろう……、ぼくは恐れているだけなんだ……。
 ディオ、どうしているだろうか。
 肉体労働後の心地よい疲労感に包まれて、ジョナサンは眠りにおちる前の、ほんの数分間、ディオを想った。考えようとして、ディオを頭に浮かべているのではない。自然と、夜の訪れと共に、心の中にディオはやってくるのだ。

 男たちは一丸となり、連日働き詰めた。ジョナサンも慣れないながらも、懸命に手伝った。泥だらけになって、開拓者のような面持ちで夢中で道を元に戻していく。
 先の見えなかった泥の山が開かれ、三日目の夕暮れには、トンネルに埋まった土砂はなくなり、向こう側への道の光が開通した。
「よく働いたな、おまえさんが一番がんばった。これで安心して町へ行けるが……今日は特に疲れただろう、今夜も泊まっていくといい」
 男も皆と同じく体中を泥だらけにして、ジョナサンを讃えた。なんだか父親に褒められている気分になり、少しだけジョナサンは照れくさかった。
「お気遣いありがとうございます。でも、出来るだけ早く町に行きたいので、……本当にお世話になりました。」
 いいんだ、と男は手を軽く振った。ジョナサンは借りていた服を返し、自分の着ていた服を男の妻から受け取った。雨に濡れ泥にまみれていた服はきれいに洗われて、ジョナサンの元に返ってきた。何から何まで、面倒を見てくれた方々にもう一度礼をし、ジョナサンはすっかり乾いた道の上を駆けていった。

 ウインドナイツロットはジョナサンのいた牧場からはさほど遠くはない。
 ディオの石館まで、今夜中にはたどり着けるだろうと踏んだ。
 ――ディオは、どうしているだろうか……。
 この三日のうちに、幾度も同じことをジョナサンは胸の中で唱えた。
 ひと月、夜をディオと共に過ごしているうち、昼の間に彼が何をしているかという疑問がうまれた。単刀直入に尋ねると、彼は読書や、研究をしている、と答えてくれた。まるで学者の先生の生活だと、ジョナサンは羨ましいやらおかしいやらで、笑った気がする。
 そして、それら以外にもディオは何かの書きものをしていた。子供時代から、ディオが日記をつけているのを自分だけの秘密としてジョナサンは知っていたが、日記とは別の何か違うものをディオは書いているようだった。たとえ頼んだところで、読ませてはくれないだろう。何を研究して、何を学び、何を彼は知りたいのか、ジョナサンには見当もつかない。吸血鬼が求めるもの、一体それは何なのだろう。
 ジョナサンが寝所に行くと、ディオは暗い部屋の中にじっとしている。
 いつもいつも、はじめ、なんと声をかけていいのか、ジョナサンは困ってしまう。名を呼び、彼から伸ばされた腕をとり、流れのままに口付けて、そして、ベッドに沈み、始まる。
 会話らしい会話は、ことが終わったあとに、やっと交わされるのだ。七年間の暮らしの中でより、今のたったひと月の間のほうが二人の会話の量は上回る。
 他愛のない話、くだらない話、互いの話、ジョナサンとディオは離れて暮らしてみて、初めてお互いの距離を縮めようとしている。少なくともジョナサンはそう思っている。
 奇妙な関係だ。捕食者と被食者。ディオはジョナサンを獲物で、餌だとはっきり言った。
 ジョナサンからすれば、自分がディオを食らっていると思う。だが、行為中は食われているのだと、性器の交わりを見れば、そうとも言えた。抱かれることで、ディオはジョナサンの精気を取り、糧として、『生きて』いる。彼にとって、セックスは食事と同等だ。
 人間としてのセックスと同じ意味で捉えていないと分かっていても、ジョナサンは抱くたびに、思いを募らせた。
 肌が触れ合う、唇をかさねる、名を呼ばれる、抱きしめられる。
 どれもこれも、愛に満ちている、と勘違いしそうになるのだ。

 たったの三日。
 そう、『たった三日』だ。会えない時間など数字に直せば、大した期間でもない。急く自分をどこか遠くに感じていた。
 『会わなければならない』義務と、『会いたい』と素直に望んでいる自分の気持ちが入り混じっている。ジョナサンは、使命感を正当化させているだけの自分に気づいていた。
 正直で、真っ直ぐで、嘘のつけない人間。周りからそう評されてきた。人に接し、関わり、対応し、自分の性格を作り上げてきた。だから、他人から思われるその姿が、ジョナサンの形なのだと、自身も知っていたし、自覚があった。
 ただ、ディオは違った。
 今まで築き上げてきたジョナサンとは正反対のジョナサンを、ディオは引きずり出してくる。自分の知らない自分自身を、ディオは煽って目覚めさせる。明るく、華やかな環境の中に育まれてきた善き精神の中に潜む、真っ黒い感情をディオは好んだ。怒り、暴力、色情、あらゆる罪の欲望をディオはジョナサンに教える。
 ディオは、様々な事柄からジョナサンを解放していく。彼も全てに囚われていないからだ。

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