月海夜 12

 石館に到着したのは、夜も更け、月が煌々と空を照らしていた時分だった。
 相変わらず館のあちらこちらに瑞々しく咲く花々が生けられている。バラは、夜中でも真紅を目立たせて花びらを凛と広げている。花の姿は、背筋をぴんと伸ばし胸を張って自信満々に立つディオそのものを象徴しているようだ。
 ジョナサンの靴音が、長い廊下に響き渡る。
 冷たい空気の中、はじめに肌がざわついた。
 何かが、いつもと違った。急にジョナサンは緊張し、背のあたりから鳥肌を立ててしまう。
 一番始めにこの館に来たときと似ている吐き気を思い出す。肌にこびりつく嫌な汗を、手のひらにかく。そして次に鼻腔は、察してはいけない匂いを悟ってしまった。
 ――さびたような、人間の……。
 ジョナサンの汗がどっと溢れた。一気に吹き出した汗は、額から頬に流れて、一滴、床に落ちる。ジョナサンは、思わず暗闇の中の灰色をした石床に目をやった。
 足もとに、見慣れない染みが作られている。瞬間、息がとまった。
 そんな、まさか。……いいや、まだだ。この目で見るまでは、信じない。
 ジョナサンは、立ち止まり動けなくなる足を叩き、恐る恐る顔をあげて、寝所へ向かった。
 明かりはない。いつも通りの暗さと静けさがある。床の染みは、だんだんと小さな点になっていき、やがて廊下から消えていく。
 だが、匂いは増していった。ジョナサンは、口と鼻を手で覆い、息をひそめる。
 言葉が出て来なかった。頭にも、心にも、口からも、何一つ出てこない。
 闇に目が慣れ、ジョナサンはしっかと目を開けて光らせた。
 寝所はもう、すぐそこにある。
 山から狼の遠吠えが聞こえる。ジョナサンは五感を研ぎ澄まさせた。変わらず、館は静かであり、耳には自分の荒い呼吸音が届いている。壁に手をつけば今日は特別に冷たく感じた。自分が熱い所為だろうか。視界は、目を凝らしてもやはり闇ばかりだ。
 身が震える。脳内から、すうっと血が下がっていき、頭の芯から冷たくなる。体の中で血が動いていくのを見て取れる。全身から血がすべて、足元に流れ落ちてしまったのではないだろうかと、思い違いをしてしまうくらいに体の中は冷たいのに、ふれている壁を冷えていると思うのは、自分にはまだ熱があるのだと、知れる。
 のろのろとした歩みで、やっと寝所の前についた。ジョナサンは扉を開こうとノブに手をかけたが、開かない。何かが、邪魔をしている。
 足元に、かたい物体が転がっているのだ。
「あ…………、ああ……ッ!!」
 跪き、靴先にあったものにさわり、ジョナサンは嘆きの声を出した。
 若い娘が、首から血を流して、無言で横たわっていたのだ。
 人形でもない、動物でもない、人間の娘だ。長い髪を確かめ、顔を確かめ、体にふれ、ジョナサンはそして首の穴を見て、床を叩いた。
 ――ウソだ、ウソだ、ウソだッ!! こんなのは夢だ! 痛みを感じない! 夢なら、覚めろ、覚めろッ!
 かたく握った拳で、何度となく石床を叩き、手の甲を傷つけた。
 娘の体を廊下の端によせ、ジョナサンは寝所の扉をあける。芳しい花の香りが、部屋の中から飛び出して、ジョナサンの頬を通り過ぎていった。
「ディオ……」
 喉から絞り出して、辛うじて弱々しく名を呼んだ。
 まだジョナサンは、現実か夢なのか、考えが覚束無い。
 ふらつく足はベッドを目指し、ジョナサンは、再び彼の名を力なく呼んだ。
「……ディオ……」
 求める彼は、このひと月の間に毎晩見てきた同じ寝顔でいる。
「ディオ」
 声をかければ、腕を伸ばされ、口付けをして、今夜もそうして始まるのだと、思っていた。だがもう、そうはいかない。
 ジョナサンは伸ばされた腕を取って、また名を呼ぶ。唇が戦慄くのをジョナサンは止められなかった。
「ディオ……ッ!」
 ディオの肌は、今夜も氷のように冷たかった。薄く開けられた猫目は金色に輝きながら、ジョナサンを射抜いて捕まえる。
「ああ、見たのか……」
 悪びれる様子もなく、淡々とした口調でディオは短く言った。
「君は……ッ!!」
 その一言はジョナサンにとって十分な答えとなった。言葉より先に手を出したジョナサンは、床に打ち付けて傷だらけになっていた手の平でディオの頬を打った。
 乾いた打撃音がし、ディオの横向きになった頬にはジョナサンの手形が残った。
「どうして……ッ!」
 襟首を掴み、ジョナサンはディオの顔を見た。ディオには何の表情もない。無であった。廃人の虚ろな濁った目だ。鋭いまなこは、変わりなく同じ色があるのに、曇り、影を落としていた。
「廊下の先に、あと二人いる」
 ディオの無気力な声に、ジョナサンは立ちくらみ、頭をおさえた。
「クソ……ッ!」
 ディオにか、自分にか、この惨状になのか、何に向けたのか不明な罵声を放って、ジョナサンは部屋を飛び出した。
 
 言われた通り、寝所からほどない階段の付近に、娘ふたりが首から血を流して倒れていた。血の固まり具合から見て、数時間は経過しているようであった。
「なんて……ことだ……ッ」
 ジョナサンは青ざめる顔を両手で覆い尽くして、受け止めきれない現実から目を背けた。
 しかし正義感はそれを許さない。一瞬のうちに気持ちを切り替え、ジョナサンは彼女らをこのままにしてはおけないと娘たちを抱き上げた。
 ひとりの娘を肩に乗せたとき、微かなうめき声が、耳元にあった。
 ジョナサンは、彼女の生命がまだ消えてはいないと知る。もう一人の娘の口元に手を翳すと、微弱ではあったが、やはり呼吸があった。
 ――まだ生きている……ッ!
 もしかして、と娘二人を背負い、寝所の前の娘の息を確かめた。
 彼女も、同じく虫の息ではあったがそれでも生きようとしている命の火が灯っていた。
 助かるかもしれない。
 ジョナサンは、彼女も抱き上げ、廊下を走った。
 かつて学生であった頃、強健な男どもを三人も背に乗せ、なお突進するほどの爆発力と根性を持っていたジョナサンにとって、細く小さな娘たちなど、軽すぎて比べ物にもならない。
 とにかく、人のいる所に行き、医者に見せなければ。
 ジョナサンは町へと走った。


 石館の建つ丘から、人の住む町へはジョナサンが全速力で駆け降りれば、ものの数分であった。
 夜半も過ぎ、町の家々には明かりはほとんど見られない。中心の通りに面している、町唯一のパブからは、まだ賑やかに騒ぐ人々の声が聞こえていた。
 あの場所なら多くの人が居る。ジョナサンは一目散にパブに走った。
 半分程に開きかかった戸を肩で押し開けて、ジョナサンは切らした息を整えるより先に大声を張った。
「助けてくださいッ!」
 店内には、店主と女給仕がひとりずつ、若者から老人までの客の男たちが数人、席につきそれぞれがグラスをあけている。
 突然の来訪に皆は一斉に視線を投げかけ、驚いた。
 青ざめた娘三人を抱えた大男が、汗だくになって、入口に崩れ落ちる。
「な、……なんだい、どうしたっていうんだ!?」
 パブの店主はカウンターから真っ先に飛び出してきて、ジョナサンに近寄り、娘たちを見回した。
「わけは……あとで話します、医者はいませんか……ッ? 彼女たちはまだ生きているんです!」
 店主は頷き、慌てて外へ出ていった。心当たりがあるようだ。ジョナサンは、ほんの少し胸を撫で下ろす。だが解決にはなっていない、ジョナサンは安堵を忘れ、まわりのものに呼びかける。
「なんでもいいので、彼女たちを暖める毛布か何かありませんか?」
 客たちは声をかけあい、必要なものを取りに何人かが店を出て行く。カウンターに立っていた女の店員は、ブランデーを瓶ごと持ってきて、娘たちの口に含ませてやった。
 席の奥に座っていた中年の男性が、一連の様子を、真っ白な顔をして眺めていた。客の見目など気にしている場合ではなかったジョナサンが、その男を見るなり、思わず動きを止めた。
「あなたは……!」
 男は夕暮れに別れたばかりの牧場の主であった。そして、ジョナサンが抱えてきた娘のひとりを見て、男はその場に泣き崩れた。
「ポリー! おまえ……ッ!」
 父親らしき男は娘を抱きかかえ、娘の名前を呼び、青く冷たい娘の頬を両手で包んだ。
「どうしておまえがこんなことに……ッ!」
 最悪だと、ジョナサンは唇を噛んだ。これが、運命だと言うのかと、神をも恨んだ。
 ディオのために、ジョナサンはここまで来た。ジョナサンが恩をうけた方の娘を、ディオは襲った。ジョナサンは何もできないのか、自身の無力さと、そして起こった現実の皮肉さに、ジョナサンは心臓の前をおさえる。
 ――いや、決して、死なせない! 誰ひとりとして、死なせはしない!
 師が以前自分の腕を直して下さったときのように、できるだろうか? 未熟な力ではあるが、何の為にこの力があるのか、迷ってはいられなかった。
 ジョナサンは、不思議な呼吸を始めた。
「コオオオオオオオッ」
 両手を娘の体に置き、息を吸い込む。
「あ、あんた、何をして……」
 ジョナサンは体内で波紋エネルギーを練る。一点を見つめ、手にエネルギーを集中させた。
「ポ……ポリーの体が……ッ!?」
 ジョナサンの手から波紋の力が娘の肌を通して、伝わっていく。冷めた体は、ジョナサンの触れている箇所から、不思議な熱の波に生まれ、触れられた所から温まっていく。
 波紋の力が枯れた花を咲かせることが出来るのなら、衰えた人間を回復させるのも同じことだ。彼女たちが今も、人間であるなら、太陽の波紋のパワーは彼女たちの命を必ずつなぎ止めてくれる。ジョナサンは波紋の力を信じた。
「お願いだ……、生きて……、生きてくれ」
 ジョナサンは渾身の力で波紋を送り、祈り続けた。
 父親や、周りの客は、ジョナサンの奇行に呆気に取られつつも、徐々に娘の頬が色味を増してくるのを、黙って見守っていた。
「……、あ……、……」
 娘は、父親に握られていた手をゆるく握り返す。うすく開いた目に、生気が宿っていく。
「ポリーッ!!」
「お……とう、さん……」
 彼女は確かな声で、父を呼び返した。抱き合い、喜ぶ父娘の姿に、ジョナサンは涙ぐんだ。呼吸を整え、ジョナサンは体内の波紋の力を全て流し込んだ。
「きみ、一体何を……、したんだ……?」
 客の若い男は、後ろから声をかけるが、ジョナサンは脇目も振らずに、今度はふたりの娘の体に同時に波紋を送り込む。一秒とて待たせるわけにはいかなかった。二人分の肉体に波紋を送り込むには一度により強く、より多くのエネルギーを要する。ジョナサンは肺の中の空気を全てしぼり出し、新たな呼吸から波紋を練った。
 娘の父親は、ジョナサンの背中に柔らかで暖かな光を見た。そして、彼はごく自然な動作で十字を描き、ジョナサンに向かい手を合わせていた。

 ポリーは水を飲むと、またすぐに眠り落ちた。波紋による治療は、あくまでも応急処置であり、完治には至らなかったが、娘たちは三人とも、はっきりと意識を取り戻し、顔色も見違える程良くなっていた。冷えて青ざめていた肌はうっすらと赤みがおびている。
 パブの店主がたたき起こしてきた町医者は、その三人の娘を看て、特に自分が手を下す必要がないと告げた。
「見たところ衰弱しきってはいるようだが、よく寝かせて休ませ、栄養のある食事をさせれば大丈夫だ。血相をかえて、人が死にそうだと叫ばれてきてみれば、なんてことはない、ただの疲労と貧血だとはな、全く人騒がせな……」
 寝入りばなを邪魔された不機嫌な医者に、父親とジョナサンは感謝と謝罪を、同じくらい述べた。
 肩から脱力をして、ジョナサンは溜息をついた。
 ――良かった……、本当に良かった。
「あんた……いや、君は……、ええと、名前を聞いてもいいか」
 父親は、ジョナサンに手を差し出し、握手を求めた。
「ジョナサン……、ジョナサン・ジョースターです。」
「ありがとう、ジョースターさん。……本当に、本当にありがとう。」
 男は無骨な手で潤んだ目元を隠し、もう片方の腕でジョナサンの肩を抱き、何度も何度も、ありがとうと伝えきれないほどの感謝を口にした。パブにいた人間は、目の当たりにした力を奇跡だと言い、ジョナサンの不思議な行いが娘たちを救ったと信じてくれたのだった。
 彼女たちは生きている。ジョナサンは人の命を救えたのだ。その事実に喜び、安心すると同時に、ジョナサンは、ディオを「人殺し」にせずに済んだのだと、何よりも嬉しく思っていた。

top text off-line blog playroom