私の星

 闇の中で目が開く。
 ディオは吸血鬼になってから、五感の鋭さが増していた。鼻もきくし、遠くのかすかな音も聞こえるし、触れられる肌も敏い。以前より動物的に本能が働く。そして、その欲望にディオは忠実だった。
 瞬きを二、三度する。夜目は人であったときの何倍も見えていた。部屋の中は鮮明に映っている。
 闇を恐ろしいと思っていた子どもの頃が今は懐かしく、馬鹿らしかった。夜闇は見えないから恐ろしいのだ。昼間と同じようにこの目に見えてさえいれば、何てことは無い。闇とはただ暗いばかりなだけなのに、人を不安にさせるものだ。やはり人間とはくだらない生き物だと、ディオは思った。
 ふと、隣の息遣いが気になった。よく聞こえるディオの耳には、男の煩わしい鼻息が絶え間なく届いている。次に、胸のあたりに無遠慮に伸し掛かる物が気になった。ディオ自身の肌は冷たかったので、余計に男の体温が熱くて鬱陶しい。
「……なんで居るんだ……」
 ディオは独り呟く。自分の背の後ろには、いるはずの無い人物がのん気に寝息をたてている。


 今までディオは一人で寝起きしていた。ロンドンに居た頃も、物心がつく頃には既に一人ぼっちだった。家族はそばに居ない。幼いディオが起きる前に、母は起きて仕事をしていた。ディオが眠った後も、夜遅くまで母はずっと働いていた。父は、朝方に帰宅し、昼間に寝ていたような気がする。あまり印象にないので記憶には残っていない。
 ジョースター家に来てからも同じだ。ディオはひとりでベッドに入り、一人でベッドから出る。快適でひろい布団の上。誰にも邪魔されない自分だけの空間だった。
 生まれて二十年、ディオは誰とも床を共になどしてこなかったし、将来のビジョンにも予定は無かったのだった。

 暑苦しくて、ディオは布団をはいだ。そして、自分の腰や胸に木の幹のように絡まる太腕を退ける。起き上がり、ディオはベッドに腰掛けた。
 明かりをつけなくても、ディオには男の顔がよく見えた。
「フン、……マヌケな顔をしてやがる」
 男は、ジョナサンは穏やかに深い眠りに落ちていた。その顔に、何の不安も悲しみも、恐れも見えなかった。
「無様だな、ジョジョ……」
 あまりにも幸福そうだったので、ディオは何だか憎らしくなった。思わず手がジョナサンの顔に伸びて、鼻先をぎゅっと摘んでやった。
「んが……っ」
 息が止まって、ジョナサンの体がびくんと跳ねる。豚の鳴き声に似た鼻音がして、ディオはくすくすと笑った。
 それから、ディオの手はゆっくりと顔の下に移動していく。顎を通り、首筋にかかる。喉仏に人差し指がたどり着く。長い爪が、軽く触れている。
 ほんの一刺し。たったそれだけで、ジョナサンの命は終わる。
 あっけないものだろう。人間の命は、人間たちが思っている以上に儚く脆いものだ。
 今、ディオはジョナサンの運命を握っていた。生かすも殺すも自分の意のままだった。
 いつ殺し殺されても、おかしくはない。ディオとジョナサンはそういう間柄だ。
 憎み合い、傷つけ合い、殺し合う。そういう関係だった。
 今はどうだろうか。何も、変わっていない筈だ。今も同じだった。少なくとも、ディオはそう思っている。
 それなのに、この男は妙だった。
「何故だ、ジョジョ……」
 ディオは、ジョナサンを見下ろして問いかける。答えは返ってこない。
「このディオを、見縊っているのか?」
 爪が肌に食い込む。このまま息の根を止めてやろうか。それとも、この喉笛を掻き切ってやろうか。どちらにせよ、待っているのは紛れも無い死だ。
「フフ……ククク……」
 笑い声が洩れる。始め、ディオは何に笑っているのか分からなかったが、次第に自分の愚かさに笑っているのだと知った。
 押し付けていた爪が離れ、ディオはジョナサンの首から手を外した。
「フフフ……ッ、このディオが……コイツを……? フフ、ハハハッ……!」
 低く笑うディオは、自嘲気味に顔を歪めていた。
 まるで怯えたケモノだ。無抵抗の相手の寝首を掻くなど、負けを認めるような行いだった。
 これでは、ディオはジョナサンに敵わないと言っているも同然だ。他人を恐れるなどこのディオにとって、あってはならないことだった。
 恐れるものはこの世には無い。恐怖など、ディオには感じる必要はもう無いのだ。
「そうだ……おまえだけだ、ジョジョ」
 この男だけが、この世界でディオにとって邪魔で不要で、必然で唯一無二の存在。
 相反する感情が入り混じる。どちらも正しく、どちらも間違いだった。
 傾いたジョナサンの顔を両手で支えて持つ。ディオは寸分の狂いもなく、ジョナサンの唇に自分の唇を押し当てた。
 ――熱い……。
 ディオの冷めた唇には、ジョナサンの体温はひどく熱かった。焼けるほどの痛みすらある。けれど、ディオは唇を離さなかった。
「う……んっ? ディオ……ッ?」
 一気に眠りから引きずり出されたジョナサンは、少し不機嫌そうに眉を寄せる。
 けれども、腕は迷いなくディオの身に差し伸べられた。
 ディオだけが、この空間を自由に出来るはずであったのに、ジョナサンはいとも容易くディオを掴まえてしまった。
「……熱い……、おまえの手は、おれには熱い」
「どうしたの? 急にこんな……ちょっと驚いたな」
 掠れた寝ぼけ声で、ジョナサンはディオを抱きしめて言った。
 また、先ほどと同じような体勢になって二人はシーツの上に横になった。ディオは暑苦しくて仕方なかったが、ジョナサンの腕の中にしっかりと納められてしまう。ジョナサンの肌に触れている箇所から火傷をしてしまいな熱を感じていた。
「ふあ、……まだ真夜中じゃあないか……もう少し寝かせて」
 ジョナサンは大あくびをして、ディオの頭を胸に仕舞い込んだ。ジョナサンの匂いがディオの鼻につく。太陽の男の汗は、夜の住人には不釣合いの香りがある。
「……おまえは寝ていればいい、おれは起きる」
「駄目だよ」
 ディオは、ジョナサンの胸をぐいと押した。押された分だけ、ジョナサンはまたディオを自分の方へ戻す。ディオの耳がジョナサンの心臓のある位置にぴったりとくっつく。
 一定の調子で、ジョナサンの心音が鳴っている。ディオのよく聞こえる耳には、煩く響く。ジョナサンの肉体は、ディオの五感のどれもを揺さぶり、そして主張してくる。
「一緒に居てよ、ディオ……一人じゃあ寂しいから……」
 ――こいつは何を言ってるんだ?
 ディオは、呆れてジョナサンの顔を見上げた。
「いつも、君の寝顔もろくに見ないうちにここを出なくちゃいけなかった」
 ジョナサンは毎晩この石舘に通い、朝になる前にはウインドナイツロットを後にしていた。それなのに、今夜は朝になるまで寝ていようする。
「ぼくは、それがとても寂しかった」
 ジョナサンには見えていない筈なのに、ディオの顔を見つめている。ディオはジョナサンの腕の中で思わず身を縮めた。そしてジョナサンから顔を隠すように、その胸板に額を擦りつけた。
 心音は、人の素直な思いが表れる。ディオの耳に届くのは、ジョナサンの落ち着き安らいだ音だった。
 ディオは反対に、緊張していく自分に苛立っていた。理由がディオには分からなかった。
 明らかに動揺している。けれど、ディオは認められない。
 ――一体、いつからこいつは……おれのことを……。
 その先は、ディオには言葉に出来なかった。胸が震える。ときめきが全身を駆け巡る。未知の衝動が自身の思考を奪い去ろうとする。
「ジョジョ……」
 辛うじて残る理性で、ディオは必死に自分自身を保った。頭がくらくらする。頬も火照る。熱など持たない吸血鬼が、どうしてだろう。
「ずっと、こうして居たいな……」
 ジョナサンは腕の力を強めた。恋人のようにとろける甘い台詞、抱擁、空気……。ディオはジョナサンから醸し出される甘さの波に飲み込まれそうになる。
「朝なんてきて欲しくないよ……」
 夜を愛するものの言葉だった。ディオは賛同した。ジョナサンは唇を柔らかく上げて笑んだ。僅かに感じる変化が、ディオに伝わってくる。顔を見ずとも、ジョナサンが笑ったのがディオには分かっていた。


 ジョナサンも、今までずっと一人で寝起きしていた。母は、肖像画の顔だけしか知らない。父は家を空けがちで、小さな頃は父よりも乳母や使用人と居た時間の方が多かった。眠るまで、誰かがそばに居てくれていても、朝に目が覚めると、メイドが忙しそうに支度をしているだけだった。
 誰かと共に眠り、誰かと共に起きること。それはジョナサンが家族というものに対して抱き続けていた、ささやかな夢のひとつだった。
 まさか、ディオが叶えてくれるとは、ほんの数ヶ月前のジョナサンには想像もしなかっただろう。
 そして、現実は空想よりずっと幸せだということもディオに教えてもらっている。
 ジョナサンは、この時間を永遠のように長く長く堪能したかった。肉体の喜びとは全く違う。心の中が、ふんわり丸くなる幸福感がある。
 恋よりも、もっと素敵な気持ちでいっぱいだった。



 ジョナサンの体の熱と、ディオの冷えた体温が丁度良く混じり合った頃、二人は再び浅い眠りについていた。
 太陽が山々の間から出でて、朝の光を輝かせる。
 ジョナサンの瞼にも、光が射した。
 目覚めは良く、体に疲労感もない。
 ジョナサンの背をしっかと抱いているディオの手を、名残惜しく離してやる。ジョナサンは、ディオに太陽が当たらないように薄手の布団を頭までかけてやった。息苦しくならないように、顔の部分は少し覗かせてやる。
カーテンが開いていたので、ジョナサンは窓に向かった。
 窓を開けて、息を思い切り吸い込む。涼しい風が心地いい。自然に囲まれたこの場所の空気は、澄み切って綺麗だ。
 ジョナサンは自分でも変だと思うほど、わくわくしていた。
 薄暗い闇の中を、ただひとりで歩いていると、昨日までは思っていた。だけど、もうそれは終わった。
 茨の道は、途端に満開の薔薇の回廊になった。世界は一変してしまった。
 現状は、同じだ。変わったのはジョナサンの考えだろう。
 ジョナサンは窓際にあった机を借りて、ペンを取った。
「さあ、今日からぼく達の未来は始まるんだ」
 ジョナサンは朗らかに言った。


三話につづく

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