月海夜 19

 ジョナサンが大学に送った手紙の文面には、あれこれと言い訳が書き記されていたが、ざっくばらんに言えば「家庭の都合により暫く休学したい」とのことだった。父のことと、ディオのこと。恐らく大学側もジョナサンが置かれている状況について理解はしているだろう。
 この事件に関して世間に知らされているのは、ディオがジョージを刺してしまい、行方知らずになっている。ただそれだけである。まさかディオが石仮面を被って吸血鬼になった……だなんて記事にされるわけがなかった。吸血鬼云々は載らずとも、傷害事件は事件であったので、新聞にも載ってしまった。なので、大学側も学友たちにも周知であった。そして、一部の人々はジョナサンがディオを捜索している最中だということも知っている。
 だが、あれから二ヶ月近くが経過しているにも関わらず、新たな情報が世間の耳には入ってこなかった。何故なら、ジョージが警察の介入を止めさせていたからだった。
 二十年前の事件でジョースター卿と知り合った警部は、勿論ジョージの意見に反対していた。だがジョージは「これは事故であり、事件ではなかった」と、微笑むばかりであった。
 誰もがジョースター卿の懐の深さと、ふたりの息子への思いやりに涙した。警部は最後までジョージを説得したが卿の決意は固く、他者の意見を聞き入れようとはしなかった。彼らは仕方なくこの件からは手を引いたのだった。
「息子たちを、ジョナサン……そしてディオを信じて待ちましょう」
 ジョースター卿は田園の地の邸にて、子ども達の帰りを待ち望んでいる。
 手には、ジョナサンからの手紙があった。

『父さん。お加減はいかがですか。傷は随分良くなったと聞いて、安心しました。ディオは口には出さないけれど、内心ほっとしているんじゃあないかってぼくは思っています。すぐにでも一緒に邸に帰れたらいいのですが、まだ少し時間がかかりそうです。でも必ず、ぼくはディオと一緒に父さんの元に帰ります。待っていてください。』

 溌剌としたジョナサンの姿が目に浮かんでくる、雄渾とした字であった。
 ジョナサンがディオの行方を一人で捜すと決めたとき、ジョージは探偵を雇うのを勧めた。しかしジョナサンは首を横に振ったのだった。
「これは、ぼくとディオとの問題です。他の人を巻き込みたくありません……それに……」
 ジョナサンはその後の言葉を噤んでしまった。ジョージはジョナサンが言いたくない、または言えぬことがあると悟り、黙って息子の背を押した。


 大学へ手紙を出して一週間後のこと。町に買い出しに来ていたジョナサンにパブの女給が声をかけてきた。
「あらァ、ジョースターさん! 丁度あなたを探してたのよ」
「ああ、パブの……。こんにちは」
 石館がある丘を降りた町では、ジョナサンはちょっとした有名人になっていた。奇跡の手を持つ青年、だとか、不思議な力を持つ男、だとか、神の生まれ変わりだなんて言う人も居た。言うまでもなく原因はあの一件だ。彼女も証人のひとりだった。特に助けた娘の父親がこの話を広めているので、最近のジョナサンとしては彼らが少々悩みの種であった。
「あなた宛の手紙がきてるみたいよ、郵便局は知ってるでしょ?」
「ええ、わかります。その……それでわざわざ、ぼくを探してくれていたんですか?」
「いいのよ、今ヒマだもの。それにこの時間帯に町に降りてくるって分かってたから」
「どうもありがとうございます」
「いいえ、お礼なんかいいわ。それよりまたお店にきてよね、ジョースターさん」
 背中に声をかけられ、ジョナサンは振り返り手を上げた。
 ジョナサンは、行く先々で人を惹き付ける。女性が惚れるのは当たり前で、男性も子どもも老人も皆、彼を好いてしまうのだ。申し分ない身分、立派な体躯、整った顔立ち、真面目で正直な性格。嫉妬はされても嫌われる要素はない。
 この小さな町で、ジョナサンは英雄のような扱いを受けていた。

「こんにちは。あの、ぼく宛に手紙が届いていると聞いて」
 道のほぼ真ん中にある古い建物の戸を開いて、ジョナサンは店主に声をかけた。
「おお、これはこれはジョースターさん。どうぞ」
 この町の郵便局は雑貨店にあり、店主が郵便局長を兼業している。店主の男はカウンターから一通の手紙を出してみせた。
 予想通り、大学からのものだった。手紙を受け取り、なんだかジョナサンと話し足りなさそうな店主を振り切って、町をあとにした。
 石館への帰路の途中で、ジョナサンは手紙の封を開けた。
 手紙には、休学を認めることと、ジョナサンとディオを心配しているという内容が短く書かれている。
 卒業を間近にして、まさかこんなことになってしまうとは……。ジョナサンは、手紙を元通りに折り畳み、胸のポケットに仕舞い込んだ。


 石館に着く頃には、もう陽が落ちていた。ジョナサンはディオの寝室の窓を開ける。涼しい風が部屋の篭った空気を一掃してくれる。
「ディオ、起きないのかい?」
 ジョナサンは寝台で布団に包まっているディオの肩らしき場所を摩る。
「………………」
 布のかたまりは、もぞもぞと動くだけで出てくる気配がない。
「ディオ、食事にしようよ」
 吸血鬼の生活の中心は夜にある。日の入りと共に目覚め、日の出と共に床につく。
 陽の光を受ければ、ディオは死ぬ。
 伝奇や御伽噺の中に生きている吸血鬼となんら変わらない。違う所と言えば、ディオは十字架を恐れないし、銀も平気だった。
 この館に住み始めてから、ジョナサンは吸血鬼としてのディオの日常を守ることにした。人と同じ姿であっても、人間ではない。だけど「それでもいい」とジョナサンは思うことにした。そうすることで、自身の気が少し楽になるのだと思っている。
「食事……だと?」
 低い掠れた声がシーツの間から聞こえてくる。今し方起きたばかりなのだろう。
「うん、町に行ってきたから」
「阿呆が、誰が人間の食事などするか」
 突如伸びた腕が、ジョナサンの首を掴み、爪は動脈を正確に狙う。
「おまえを寄越せ……おれが食いたいのはこれだけだ」
「熱烈だね……」
 訪れた夜闇が部屋に充満すると、ディオは身を包んでいた布を剥ぎ取る。裸身は闇の中で白く輝いていた。
 ジョナサンの首元までかっちりと閉められているシャツのボタンを引きちぎり、ディオは太い首筋に齧り付いた。
「……うっ、く……」
 牙は皮膚が傷つくか、つかないかのギリギリの強さで食い込み、肌に舌が這った。
 浮き出た血管を舌先で弄くり、ディオはジョナサンをベッドの上に押し倒した。
「……ディオ、お行儀が悪いよ」
 解き放たれた獣のごとく、ディオはジョナサンに食らいつく。
「おまえを食うのに、マナーなど必要なものか……ッ!」
 シャツの前を乱暴に開けて、ディオはジョナサンの肌を味わっていく。体臭と汗、ジョナサンの匂いにディオは酔い痴れる。
 大皿に乗った鶏の気持ちでジョナサンは身を好き勝手に食らわせていた。
 ふと、少年時代に初めてディオと食卓を共にした日を思い出す。
 とても貧民街出身とは思えない完璧なマナーで、かしこまって静かに食事をするディオにジョナサンはずっと違和感があった。
 非の打ち所の無い所作であっても、ジョナサンから見ると、無機質な人形のように見えていたのだ。全く美味しそうじゃない。楽しいはずの食事ですら、ディオにとっては自分をよく見せるための儀式でしか無いみたいだった。
「それにな、おれはこうして、無茶苦茶に汚く食べたほうが、美味く感じる……」
 涎まみれになっている口元は、てらてらと光っている。ディオは妖しく笑って、ジョナサンに口付ける。
 今のディオは、本能のままに生きている。それこそがディオの正体だとジョナサンは知っていた。
「ん、んっ、うん、む」
 両の手はディオに押さえつけられているので、ジョナサンは唇だけで抵抗する。ディオが自ら差し込んできた舌を吸い、口内を激しくかき回した。粘膜同士のぶつかり合いは、官能的な音がする。
「んんっ! うぅっ、んんぅ!」
 ディオは鼻から息を洩らして、口の中でジョナサンを何度も呼んだ。もっと、と強請るような。もしくは、止めて、と懇願するかのような甘やかなものだった。
「ん、ぷぁ……はあ、あ……」
 耐えられなくなったディオは首を上げて、濡れた糸を垂らして真下のジョナサンを見つめる。
 生ぬるい雫が唇に触れ、ジョナサンは息が上がっている自分に気付いた。
「このディオの糧となること、光栄に思えよ」
 潤みの増した瞳と紅潮した肌をして実にディオらしい台詞を吐く。
 本人的には、ジョナサンを制圧しているつもりなのだろうが、毎夜征服されてしまうのはディオの方である。
「いいよ……いくらでも君にあげる」
 ジョナサンは瞼を閉じて、総身の力を抜いた。それから跨るディオの腰を支えて、抱き寄せる。ディオの左耳のほくろに触れて、湿った吐息を混じらせて続ける。
「ぼくを……食べて」
 ふたりが繋がって、肉体同士がひとつになっている時。結合部分を見ると、いつもジョナサンは食われていると思う。
 犯している、侵略していると相手の体を開いているのに、本当はこちらが飲み込まれているのではないかとジョナサンは感じていた。ディオの肌に包まれて抱きしめられていると、そんな気分になる。
「フフ……素直ないい子になったな、ジョジョォ」
 ディオの長く伸びた後ろ髪が、肩から滑り落ちて、ジョナサンの胸元をくすぐった。
「可愛がってやるよ……たっぷりな」
 厚い下唇が勿体振るように動いて、ゆっくりと言葉を放っていく。

 ディオの飢えは、日々深まっている。毎晩、足りないとジョナサンの肉体を貪り、食い尽くし搾り取って行く。
 限界まで肉体を酷使しても、尚ディオはジョナサンを離そうとしない。
 血を飲ませてやったほうがいいのではないか、とも考えたが、ディオは吸血の真似事をするばかりで、ジョナサンの血を欲しなかった。
 他者の血は奪うくせに、どうして自分の血を飲まないのかと、ジョナサンは疑問を持った。
 ディオの肉を貫きながらジョナサンは悩み、思いのままが口を衝いて出る。
「ディオ……、ぼくの血は、いらないのかい……?」
 普段ならば果てるまで続く抽送が、ジョナサンの無粋な質問によって急に止まった。
「血……だと?」
 今の今まで甲高く喘いでいたディオの声のトーンが、低く下がった。
 まずい、とジョナサンが思った時には既に遅い。
「何故このディオが、きさまの血を吸わないでいるのか、そんなことも分からないのか!」
 泣き出しそうな、それでいて今にも血管をはち切れさせてしまいそうな顔をして、ディオはジョナサンの顔面を片手で掴み上げた。顎の骨を砕く勢いでディオは指先に力を込めている。
「うッ、……ディ、ディオ、……く、苦しいッ」
 手も下の方も締め上げられてジョナサンは額にどっと汗をかいた。酸欠と、痛みで頭はくらくらしてくる。
「あれほど……ッ、あれほどの思いをおれが告げても、おまえは自分をあの虫ケラどもと同等だと思っているのか! 血なんぞ、誰でもいいものだ! そんなもの、おまえから奪う必要などない! このディオがおまえに欲しているのは、血なんかじゃあないッ!」
 張り上げた声は寝室に鳴り響いた。石造りの床には声がよく反響する。
「うぐ、……ッ」
「何故こんなことをおまえとしているのか……おまえはちっとも分かっちゃあいないようだな……! おまえだから、ジョジョ……おまえしか……ッ!」
 怒っているだろうか、泣いているのだろうか。ジョナサンは衝動的にディオの頭を胸に抱いてしまったので、どんな表情かはもう分からなかった。
「ディオ……ッ! ごめん……悪かったよ……」
 どれほど思っていてくれているか、それはどれほどの強さなのか。ジョナサンは、覚悟を決めた日を思い返した。
 あの晩、ディオは告白めいたことをジョナサンに伝えていた。
 ――世界で唯一尊敬する男……
 本心だったのだ。ディオにとって、決して乱心からくる言葉ではなかった。
 それなのに、ジョナサンはディオを侮辱するような発言をしてしまった。
 血は誰でもいいもので、精気……つまりこうして抱き合うことは、ディオにとってジョナサンとしか出来ない行為である。
 だからディオは、ジョナサンの血を求めない。いつからか、それが彼なりの敬意の表れになっていた。
「馬鹿力が……、離せっ」
「許して、くれるかい?」
 腕を緩められ、ジョナサンの胸板に頬をつけたままのディオは目を閉じた。
 ジョナサンは、ディオの心をそばに感じていた。今までよりもずっと近いところにある。そんな風に優しい空気が二人には生まれつつあった。

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