月海夜 26
「ディオ、ディオ……ッ、頼むから、待ってくれ!」大股で歩いていた筈が、駆け足になってしまっている。ディオは元々足が速い上に、吸血鬼の力が加わっているので、今までの比ではない素早さで移動している。
「余計なことを……ッ」
ぎりぎりと噛んだ口の端が切れて、ディオは益々苛立ちを募らせていた。石舘から町へと下る林の間を駆けて行く。ジョナサンとディオは一定の距離を保ったまま、速度を緩めず走っている。
「どうして逃げるんだい!」
息を切らせている癖に、ジョナサンは随分と大声が出せるようだった。しかし、その様子は必死そのものだった。目は充血している。
「逃げてなどいない!」
前を向いたまま、ディオは張り合って声を荒げていた。
「なら、どうして止まってくれないんだ!」
「きさまが追いかけるからだ!」
ディオの耳には絶えず音が聞こえてきていた。ジョナサンの足音だ。葉を踏む音、地面を蹴る音、耳を澄まさなくても分かった。ディオが答えると同時に、音は一斉に消えた。
振り返ると、ジョナサンは律儀に足を止めていた。
「昔から……いつも、ぼくは君を追いかけてばかりいる」
ディオが全力を出せば、ジョナサンから逃げ切ることは容易だろう。そうしなかったのは、ディオの中にジョナサンへの情らしきものが存在しているという証明であった。
「いつか、君を追い越せる日が来ると思っていた」
一歩一歩、確実にジョナサンはディオへと近づいてくる。ディオは、ジョナサンがあまりにも真っ直ぐ瞬きもせずにこちらを見つめているので、その目を逸らせなかった。
「でも、今はそうじゃあない」
そして、とうとうジョナサンはディオの前に立った。ディオは、顔中の筋肉が強張っていくのを感じている。
「ぼくは、君の隣に……いたい」
両手がディオの肩を包んだ。その手のひらは、やはり吸血鬼のディオにとっては熱過ぎていた。ディオの口の中で奥歯がカチカチと鳴っている。固く閉じきっていた唇が、小さく開く。
「おまえのせいだ……おまえがここに住んでから、おれの調子はすっかり狂ってしまった…… おまえが、愛だのなんだのと言って……おれを、掻き乱すからだ……!」
歪んだ頬は吸血鬼でも、青年でもなかった。幼い少年のディオがいた。感情を爆発させるディオを見て、ジョナサンはやっと本当の彼に会えたのだと知った。いつの日からか隠されてしまった、あの日のままのディオがいる。
「何が愛だ。そんなもの、与えるやつはいなくなる。おまえらはそうだ。愛してると言って、その愛におれを溺れさせるくせに、いつか必ずおれの前から姿を消してしまう! 期待して、深く愛してしまえば、それだけ失ったとき苦しくなる。だったら、始めから要らない。一人でいいんだ。これから何年、何十年、何百年、何世紀にもおれはひとりで生きていく強さを得たんだ……! 余計なことを、人間ごときのおまえが、このディオに口出しするな!」
心の時を止めてしまった少年の叫びだった。
自分を守ってくれる人、愛してくれる人に置いていかれてしまった寂しさと辛さが伝わってくる。ジョナサンにも同じ痛みが理解出来るのだった。
心に生まれてしまった穴の、代わりの形など在りはしない。一生をかけて探しても、ふたつと同じものは見つからない。けれど、それでも人はそれぞれ違う形を分け合って与え合って、埋めていくのだろう。たとえ、きちんと嵌らなくても、完璧じゃなくてもいい。
『おまえら』とは、ジョナサンとディオ自身の母親のことであった。
ディオは恐れている。自分の心を惑乱する存在。母親、そしてジョナサン。
ディオの世界にとって、ジョナサンは自分の母親以上に愛を注いでくれるものになってしまった。だから、恐怖をジョナサンに対して持った。恐れが強くなるほど、ディオの中で愛が重みを増していくのだった。愛を自身で認めることが、ディオには出来なかった。か弱い子どもである自分自身を認めるも同じだったからだ。
心がある。感情は揺れる。気持ちは直に相手へ伝わっていく。
「ディオ……いいんだ。もうぼく達は、ひとりぼっちの子どもじゃあない」
流れ落ちていく涙はディオの頬に線を引き、やがて粒となる。肩に置いていた手をディオの顎先に持っていくと、雫はジョナサンの指先に落ちていった。本物の涙は温かかった。
「君が、前に女の子たちを襲った時、君が人を殺してしまったら……きっともう君を愛せないと思った。だから、ぼくはあの子達の命が救われたことよりも……、君が、人を殺さずに済んだことの方が、嬉しいって思ってしまった。……これが、ぼくの本心だ」
瞳の中に互いが映っている。ディオの滲んだ目の中には、身分も、立場も、何もかもを脱ぎ捨てた一人の人間としてのジョナサンが居た。
「だから君が、ディオであるなら、吸血鬼でもいい。ディオだから、君が君だから、ぼくは愛してるんだ」
足元から崩れ落ちてしまうと、ディオは思った。涙が出続け体が溶けて無くなってしまうとも、ディオは思った。
御伽噺であったなら、呪いが解けて物語は終わりを告げるだろうという程の、完璧な結末だった。けれど、時は止まらず刻まれてゆくし、ディオの爪も牙も鋭く尖っている。
「イエス、と言って……ディオ」
告白を受け取ってほしい、とジョナサンはディオの頬を撫でて縋った。
静寂が二人の間を過ぎ去り、後にディオは瞼を閉じて、首を縦にした。
相手の全てを認めてまるごとありのままを好きだと言えることが、愛なんだとジョナサンは胸の中で何度も唱えていた。こんなにも心は軽い。
二人は、石館に戻った。館の門に走り書きのメモが挟まっている。
『君達のことだから上手くいくと信じている。後日、話をしよう。これからの未来について。連絡してくれ』
ツェペリが残した手紙だった。
「これから……?」
名前の下には、連絡先が書かれている。ロンドンのリージェントパークのあたりに住んでいるらしい。
「ジョジョ、何をしている」
「ツェペリさんの手紙、ほら」
「フン、あの珍妙な格好をした男か、いけ好かん」
紙を一瞥するとツェペリを思い出したディオは、唾でも吐き出しそうな顔をして言った。
「あの呪い師には一杯食わせられたなァ、ジョジョ」
「……そういえば、どうしてあの場所に、ディオは居たんだい?」
告白をしていた絶妙なタイミングでディオが現れたから、ジョナサンは全て仕組まれていたのでは、とすら思う。しかしディオの様子からすると、その予想は違っている。
「偶然だ」
「でも、ツェペリさんは知ってたじゃあないか」
早足で廊下を二人は並んで進んでいた。間髪を容れずにジョナサンが突くので、ディオは誤魔化すのをやめた。
「……おまえが、来ると言ったからだ」
「誰が?」
「あのツェペリとか言う男がわざわざここまで、それだけを言いに来たんだ。おまえが来る数時間前だ」
「どこまでもお見通し、ってわけかあ。ツェペリさんには敵わないや」
「それだけか?」
当然のごとく、ジョナサンは寝室のドアを開けて部屋へと入っていく。部屋の空気は、変わりなく淫猥な雰囲気が漂っている。
「感想はそれだけなのか、と聞いている」
ディオは爪先でジョナサンの首元を、つうっと撫ぜた。首の太い血管が浮いているあたりを擽られて、ジョナサンの肌に緊張が走った。出っ張った喉仏を人差し指が愛撫している。
「え、ええと……ディオ?」
薄明かりの中に閉じ込められると、ジョナサンは空間に酔いそうになった。
「このディオが、おまえに会いたい一心で、敵の言葉を信じたのだと……言っているんだ」
蕩ける程甘い声色のディオが、瞳を潤ませてジョナサンの顔へと近づいてくる。
「……ッ、ディ……!」
理性が崩壊しかけようとした瞬間。
「泥臭い」
冷めた低い声に戻ったディオが、ジョナサンを突き放したのだった。
「おまえ、なんて汚らしい格好をしているんだッ」
鼻筋に皺をたっぷり寄せたディオは、ジョナサンを黴菌扱いして手で触れた場所を払った。行き場を無くしてしまったジョナサンの腕や唇は、空を切った。
ここ数日、ジョナサンはウインドナイツロット周辺をさ迷っていたので、あちこち泥や砂がついているし、服も肌も薄汚れている。走り回ったり、緊張したりしたので、汗も大量にかいている。改めてみると、確かに汚い。
「風呂に入ってこい」
「今からかい?」
「そうだ、何か文句でもあるのか」
「だって、その、どうせ後で、入るし」
もごもごと照れ臭そうにジョナサンが、口元を手で隠して乙女の恥じらいを見せるので、ディオは尻を蹴り飛ばした。男の尻は硬くて四角かった。
「汚れを落としてこなければ、ベッドには上がらせない」
部屋を追い出され、ジョナサンはぽかんと廊下に立たされていた。あまりにもぞんざいな扱いにジョナサンは凹みそうになる。
「前なら、もっと……」
仕方なく風呂のある部屋へ向かっていた。
ディオはジョナサンとの時を惜しんで、急いて求めていたのに。数日、触れ合わなかっただけで、ディオは渇きを我慢出来ないと強請っていたのに。水を汲みながら、ジョナサンは黙々と考え込んだ。
湯を沸かすのに時間がかかるだろう。水のままでも構わないとは思ったが、夜が深まれば気温は一段と冷え込んで、ジョナサンは身震いした。
湯を沸かしていると、ジョナサンは風呂が使われた形跡を知った。ディオは自分が居ない間、一人で暮らしていたのだろう。何だか嬉しい気持ちがジョナサンの胸に膨らんだ。
服を脱ぐと、上も下もあちこち傷んで破けてしまっているのに気づいた。崖から落ちた時についたものだ。
野宿した時についた泥や、海岸で寝転んだ時についた黄金色の砂、ディオを追いかけた時についた葉、それらはジョナサンの歩いてきた道を服が物語るようだった。
汗と汚れを落とすと、髪もろくに乾かさない状態でジョナサンはローブを着込んで、寝室に戻った。もうこれで中断させられる理由はなくなったのだ。湯の所為だけじゃなく、頬が火照る。
何度訪ねたか忘れたくらい、この扉を目にしてきた。戸の大きさも色も、ノブを握った感触も覚えている。ジョナサンは、ふうと息をはいて扉を二度ノックした。返事はない。それでも構わずドアを開けた。
カーテンは開けられて、月明かりは煌々として寝台を照らしている。
窓の外を眺める横顔のひとに、ジョナサンはしばし黙って見入った。鼻筋から顎にかけて、絵に描いたようなラインが流れる。雪を欺く肌が、暗闇には目立っていた。
風も、虫も鳴いていない。静けさが耳に沁みる。
隣に立ち、ゆっくりと腰掛ける。シーツが沈み、支柱は軋んだ音を立てる。ディオが瞬きをすると、長い睫があたりの空気を揺らす。さらりとした金色の髪がディオの顔にかかったので、その髪を耳にかけてやる。ぴくりと、ディオは肩を動かした。
ディオは肌とぴったりと密着している薄手の服を着ていた。骨や筋肉の線がくっきりと浮かんで見えている。
しばらくして、ジョナサンはディオの様子がいつもと違っていると勘付いた。
こちらを見ようともせず、微動だにしない。積極的に事に及ぶディオにしては、やけに大人しい。
抱きしめることも、キスもしない。まさか、ディオに限って「したくない」日があるのだろうか。ジョナサンは濡れた髪を撫で付けながら、惑った。
「……ディオ?」
肩を引き寄せ、ジョナサンはディオの顔を覗き込んで名を呼んでみた。拒否の意を示すかのようにディオは壁側を向く。
「どうしたの……、ね、気分でも悪いのかい?」
シーツを握っているディオの手にジョナサンは手を重ねた。その手もぱっと振り払われて、ディオは体ごと背を向けてしまった。
「ディオ? 大丈夫……?」
無理やりこちらを向かせようとはせず、ジョナサンはディオの前にしゃがみこんで、目を合わせようとした。
「……ッ! ぶっ!」
思い切り顔面に枕が押し付けられて、ジョナサンは頓狂な声を出した。
「見るなっ、見るんじゃあないッ!」
枕は外されたが、ディオはジョナサンの目を両手で覆って隠した。抵抗は無駄だと判断したジョナサンは、ディオの言いなりになって目を閉じてじっとしていた。
「見ないから……手をどけて」
「いいや、だめだ」
優しくお願いしても、ディオは頑なだった。仕方がないので、ジョナサンは膝立ちで目を塞がれ続けた。
ディオの手や指から、感じるものがジョナサンにはあった。不安と、戸惑いと、切なさが混じり合って、羞恥を生み出している。今更だと、互いに思っていても、仕様がないのだ。
目の前にいる相手が、自分を好いている確証があるからこそ、幸福を上手く味わえない。
つまり、ディオはとてつもなく照れてしまっているのだった。