フローズンデイズ1
プロローグ「……ッ、はあ……ああ」
「ア、ああっ、ああっ!」
「あっ、死んじゃう……ッ、死んじゃう……!!」
ずっと悲鳴が聞こえていたから。
だから、僕は怖くて、助けに行かなくちゃってずっとずっと思っていて。
あの男は残酷で、とても凶暴だから、きっと、あの人も、僕みたいに、おそろしい目にあってるんだって思ったから、だから、だから。
「ああっ、助けて……アー……もう、もう……ダメ……ぇッ」
心臓が痛くてたまらなかった。僕は息をずっと押さえ込んでいた。早く行かなくちゃ、あの人を助けなくちゃいけないんだ。だって僕はこの家の中で一番正しくて強いはずだから。
幼い瀬人が持つのは、警備員の護身用の棒だった。少年の小さな手には余るものだった。
震える指先の振動が棒に伝わり、カタカタと揺れ出した。恐怖心に勝たなくてはと、何度も心の中で呪文を唱える。自分を励ますための言葉を繰り返した。
僕は強い。僕は正しい。僕がこの世界で一番なんだ。
扉の向こうで繰り広げられている残虐な行いを想像すると、足が竦んでしまう。
女の嬌声は、どんどん大きくなっている。時折混じるあの男の下卑た笑いが、瀬人の恐怖心を煽った。
「いいぞ……もっと鳴け、そうだ……はは、ハハハッ!」
ぴしゃり、と瑞々しい肌を打擲する音がした。瀬人はまるで自分が打たれたのかと錯覚した。身や頭に刻まれてしまった呪いが、瀬人の脆い心身を雁字搦めにする。
男の私室は、普段ならば厳重に鍵がかけられているはずだった。
数センチほど開いている扉の隙間から、そっと中の様子を窺う。
女の長い黒髪が乱れて、机の上に散らばっている。綺麗に手入れされている爪が月明かりに反射していた。あの男が好きな色、赤い血の色のネイルだ。
室内は薄暗く、男の顔にも影がかかっている。それでも瀬人には男がどんな顔をしているのかが容易に想像ができた。人を見下し、爛々と光る眼は獰猛な生き物と同じだ。酷く愉快そうでいるのに、冷めた視線を持っているのだろう。
声を上げなければ、勇気を出すんだ、と瀬人は息を止めた。その瞬間、女は一際高く泣き叫んだ。
「ああーーーーっ! イヤ……ッ、許して……ェ!」
「雌豚め、お前にはこれが似合いだ」
瀬人はおぞましいものを目撃してしまっていた。
女の口からはだらしなく涎れが垂らされ、開いた足は死んだ蛙のように無様で、その真ん中には男の醜い手指が何か太いものを卑猥に動かしている。
曇り空に風が吹き、月の光を部屋に差し込んだ。そして暗がりの男女を映し出す。
男の手には、「人間の腕」が握られていた。女の性器に突っ込んで、その腕を上下に揺すっている、
「……ウッ……」
瀬人は扉から一歩下がり、自らの手で口元を押さえた。吐き気がする。どんどんと胃の中の未消化物がせり上がってくる。目には涙が滲んだ。
無人の廊下をがむしゃらに走った。子供の足音は夜の邸内によく響いた。途中で警棒も落としてしまった。拾いに戻る余裕もなかった。きっと男には、もう知られてしまっているだろう。
瀬人はようやく洗面所にたどり着くと、蛇口を全開にして水を出し、口の中を濯いだ。
「う……うえっ……エッ……グ」
指で喉を押して吐き出すと、いくらか楽になれた。それから舌に残る胃酸の味が無くなるまで、瀬人は何度も何度もうがいをした。
気分が落ち着いてから、やっと顔を上げて鏡に映った自分の顔を見てみた。
額や首元には大粒の脂汗が浮かんでいるのだが、青ざめている。肌に触れると熱っぽいような温度があるのだが、寒気がする。
すると、先ほどの行為が脳内でフラッシュバックした。忘れようとして、瀬人はもう一度蛇口をひねり、水を出した。瀬人は冷たい水で顔を叩くようにして洗った。
それから、ひとりで寝室へ戻り、布団の中で目を閉じる。
女の泣き声が耳にこびり付いていた。耳の奥で、頭の真ん中で、女の声が渦を巻いていくように螺旋状に反響していく。
男の指が、顔が、目が、影の悪魔の姿となって、こちらに手招くのだ。
それまで味わったことのない恐怖が、瀬人の中に植え付けられてしまった。あの男も、あの女も、ただただ悍ましい。そして、この世の何よりも、汚いのだろうと、瀬人は思った。
いつもどおりの変わらない朝、メイドが部屋のカーテンを開いて優しく声をかけてくれる。モクバは早起きをしたのか、機嫌の良さそうな明るい挨拶をしている。
家族は三人だけ。不必要にただ広いテーブルの家長席に、あの男は座っている。
瀬人はすっかり表情を失くしてしまった顔を、隠そうともせず、黙って食事をとる。機械的にナイフとフォークを動かしていた。
「兄サマ、どうしたの? おなか痛いの?」
「ン……いや、平気さ。ちょっと眠いだけだ」
小声で訊くモクバに対して、瀬人は安心させるように無理をして微笑んだ。まだ弟のモクバに対してなら、笑える。だから大丈夫なのだと、瀬人は自分自身にも言い聞かせた。
「おはようございます、社長」
食堂に現れた女性は、清々しい雰囲気だった。彼女は剛三郎の秘書のひとりである。きちんと結われた髪は後ろでひとつにまとめられている。
「…………あ」
瀬人は、手にしていたコップをテーブルに置いた。昨晩、醜態を晒していたのは、間違いなくあの女だった。爪の赤さが目についた。
夜の乱れきった顔と昼間の貞淑そうな顔とはまるで違う。瀬人は、思わず視線を下げた。
「おはようございます。瀬人さま、モクバさま」
彼女は完璧な笑みで二人にも挨拶をする。モクバは無邪気に返事をしていた。瀬人は会釈ひとつも返せなかった。
「瀬人、なんだその態度は!」
剛三郎は瀬人の不躾な対応を怒鳴りつけた。逆らった所で、得になることは一切ない。瀬人はすぐに態度を改めた。感情のスイッチを切った。
「おはよう、ございます……」
上手く出せない声を何とか絞り出して、瀬人は秘書の女性に挨拶をした。彼女は、きちんと引かれた紅の唇で笑ってみせたのだった。
朝食をすませると、瀬人は急いで自室へ戻り、学校へ行く準備をした。
「兄サマ、学校で何か用事でもあるの?」
家では常に行動を共にしているモクバは、焦る瀬人に疑問を持っていた。
「今日は、……日直の当番なんだ。朝早くに先生の所へいって、色々やることがあるんだよ」
「そっか! じゃあオレも兄サマと一緒に登校するぜい!」
何も知らない、知る必要のない弟には、余計な心配はかけたくない一心で、瀬人は嘘をついた。
高学年と低学年では学校での生活も異なる。それにモクバは兄の言葉を疑ったりはしないだろう。
私立学校は、みな同じような上流階級の家庭の子どもが多く、瀬人やモクバの周りはこれと言って悪い人間は居なかった。
教師も、瀬人からすれば低能な人間も中には居たが、大半は毒にも薬にもならないような無益な者ばかりだった。
故に小学校で過ごす時間は、瀬人にとっては非常に退屈で、安心できる数少ないひと時だった。
自分は達観した子供だと、瀬人は自覚していた。この学校の中にも精神的発達のいい子供はいたが、それでも瀬人は、この瀬人には及ばないと思い込んでいた。
彼らは所詮、子供の中の世界で生きている。大人の社会に放り込まれた自分とは違うのだから、仕方ない。
昨晩の出来事が、脳内でリフレインする。
朝の校庭で、元気よく駆け回っている少年少女たちを眺めながら、瀬人はため息をついた。
「汚らわしい……」
唾を吐きかけそうになり、瀬人は我慢して頬杖をついた。
自分はあんな風にはしゃいで、遊ぶことはもう出来ないのだ。
羨ましくなんてない。後悔もしていない。それなのに、瀬人は朝の眩しい光景を目に焼き付けようと必死になっていた。