フローズンデイズ2

1.

一年、二年、三年、時が経つにつれて、ますます瀬人は同世代との溝を深めた。生き方も、人生も、一般人とは何もかもが違っていた。
本格的に海馬コーポレーションの重役として参加するようになり、彼の子供時代は人生から抉り取られていたのだった。
本人としても自分の「子供」の時間は、疾うに捨て去ってしまっていたのだから、これといって拘る理由も無かった。それよりも早く、この十代が終わらないかと考えているほどだった。
若い、というだけでこの現代社会では下に見られる。どんなに実力があろうが関係はない。腐りきった年功序列の精神が、未だにあるのだ。この世界にも、この会社にも。

「しかし、良い息子さんを持ったものですな」
「ハハハ、自慢の息子ですよ!」
接待の席で交わされる空虚な会話を耳にしながら、瀬人は張り付いた笑顔を振りまいている。義父の穢れた手が瀬人の肩に置かれて、無遠慮に叩かれた。瀬人はすっかり演技する日常に慣れ、表情は一瞬たりとも崩れなかった。もし俳優になれたなら、瀬人はすぐにでもアカデミー賞が取れるだろう、と自負するくらいだった。
「実はわたしにも娘がいましてね。丁度瀬人くんと同じ年になるのだったかな……、おまえ、あれはいくつになる?」
一代で築いたというある建築会社の社長の男は、豪傑を擬人化したような風貌であり、野卑な人間だった。太った指が葉巻を摘まんでいる。こんな男が権力を持つ世の中など、いずれ粛清してやる……などと瀬人は密かに腹の中で毒づいていた。
男の傍らには、薄幸そうな美人が申し訳なさそうに立っていた。おまえ、と呼ばれた女(ひと)はこの男の奥方だろう。
「あなた、あの子の年くらいは、覚えていて下さいな……。今年、十五になりますのよ」
奥方は、控えめに旦那を諌めて、剛三郎と瀬人に告げた。
瀬人は、ふと思い出した。そういえば、今年度で中学を卒業するのだったな……と。出席日数は足りていないが、定期試験は全教科満点を出している。教師も特例として認めてくれている。その上、学校は海馬家からは多大な寄付も貰い受けているのだ。瀬人が特別扱いされるのは財力と権力のおかげだった。
きっと卒業式には出られないだろうな、と瀬人は考えていた。出たいとは思ってもいないが、どんなものなのかは少しだけ知りたかった。合唱をさせられるのは、本当だろうか。大地讃頌とはどんな歌なんだろうか。
暇を持て余して瀬人はひとりで空想に耽っていたのだが、いつの間にか仕事が出来てしまったようだった。
「娘の○○です。……あの、瀬人さん……よろしくお願いします」
「……? ……海馬瀬人です」
自己紹介をされたので、反射的に名前を告げてしまった。事態がよく飲み込めなかった。娘は顔を赤くして、今にも母親の着物の袂に隠れようとしている。
「病弱で大人しすぎるのが欠点でな! だが母親に似て、この通り顔だけはいい! ン、どうかね、瀬人くん。気に入ってくれるといいんだがなあ、ハッハッハッ!」
娘の父親は、分厚い手で娘の細腕を掴むと、強引に瀬人の前へ押しやった。
瀬人は、遠慮なく娘の顔をじろじろと品定めしてやった。母親そっくりの幸が薄そうな面立ち。美形の類いではあるのだろうが、自信なさげで、怯えた態度。
この女は間違いなく、不幸になる。瀬人は、直感で悟った。
「あ……あの……」
「女、側に寄るな」
父親たちは、くだらない会話に花を咲かせ、耳障りな笑い声を大げさに立てている。あたりは不健康な紫煙にまみれていた。母親は他の女性たちの談笑に混じっていたが、その場でも居心地が悪そうにしていた。
瀬人と娘は、会の中で強制的に二人きりにさせられていたのだった。
「で、でも、私、瀬人さんに気に入って貰わないと……ダメなんです。お父様に叱られてしまうから」
「そんなことオレが知ったことか」
瀬人は、もう娘の顔を見る必要は無くなったので、室内の調度品を観察することにした。
涙声で訴えてくる娘の意思を無視しながら、瀬人は壁によりかかった。あの男にしては、随分と品のある家具ばかりだな、と瀬人は好き勝手に評を下している。
「どんなことをしてでも、必ず海馬の息子を掴めって……お父様が私に命じたから……。お父様は、私に関心なんてないと思ってたから、私なんかでもお父様に好きになってもらえるかもしれないんです。だから私、瀬人さんと仲良くならなきゃいけないんです」
娘は瀬人の背中に必死になって語り掛けていた。瀬人は頭を抱えそうになった。――どいつも、こいつも、女ってやつはオツムの緩いヤツばかりだ。思考力が無いのか、お前は人間の姿をした家畜か! そう問い詰めてやりたかった。
「どんなことをしてでも、だって? じゃあお前は、オレに何をしてくれるつもりだったのか、言ってみるんだな」
「え……っ」
振り向いた瀬人が氷のような目で娘を追い立てた。泣き出しそうな顔をした娘が、言い辛そうに口を動かす。
「それは、その、わ、私が……」
瀬人は真正面から娘を見据え、微動だにしなかった。
あの男が考えることだ。大方は予想がついている。若い娘が若い男を落とすなら、方法はたったひとつだ。分かりきっていて、瀬人は娘の口から言わせようとした。世間知らずで初心そうな少女だからこそ、手酷く痛めつけてやりたかった。
お前が今、居る場所がどれだけ非情な空間なのか、知らしめてやりたかった。
「……っ」
娘は俯いて黙りこくってしまった。上等なドレスのスカートを握りしめて、皺を作っている。若すぎる体は細くて折れそうだ。そのような細腰で子供なんか孕めるわけがない。
「そのお上品な口から言い出せないというなら、行動で示してみたらどうなんだ? やり方くらい父親から教わったんだろう。男を誑かす方法をな!」
娘は瀬人の涼やかな声から作られる信じがたい台詞の数々に目を見開いた。それからしばらくしないうちに、娘は大きな声を上げて駆け出した。
「……?」
「何だね……?」
「どうかしたのか?」
室内の客らは、出て行ってしまった娘に視線をやってから、すぐに瀬人に注目し出した。
「瀬人!」
剛三郎は、目を吊り上げて名を叫んだ。
「どうやらお酒とたばこの匂いに気分を悪くしてしまったようです。僕が様子を見てきます」
瀬人が父親らと客たちに、朗々とした口調で説明をしてみせると、大人たちは納得し、すぐに室内は元通りの空気になった。
面倒ではあったが、体裁は守らなければならなかった。瀬人は格好だけでも走るふりをして、客間を後にした。

廊下をぬけると、古い様式の日本庭園があった。その暗がりでは、幽霊のようにめそめそとした泣き声をたてて、娘は座り込んでいた。
「弱いな」
瀬人は廊下のガラス戸にもたれ掛りながら、呟いた。娘は瀬人に気付くと、涙を拭いて立ち上がった。
「酷いです。あんまりです。……あんな言い方なさらなくたって」
「オレを何としてでも落とすように命令されてきたのだろう。あれくらいで逃げ出すようじゃ、到底無理だね」
「私、瀬人さんがそんな人だなんて知りませんでした」
「勝手に思い込んで、オレの性格を決めつけられることほど不快なことは無いな!」
本性を出すつもりは無かった。ただ娘の浅はかさに、瀬人は怒っていたのだった。
しかし父親たちへの憤りを、このか弱い娘にぶつけてしまったのは事実だ。それは、流石に自分でも大人げなかったと思い、瀬人はせめてもの慰めにこうして追いかけてきてやったのだった。
「これに懲りたら、もう二度とオレに近づくなよ」
それだけ言い渡すと、瀬人は元来た廊下を歩きだした。娘は慌てて瀬人を追いかけた。
「ま、待って下さい……! このままじゃ、私はお父様に」
「お前が叱られようが、嫌われようがオレには関係ないね。大体、価値観の全てを父親の判断に任せる態度がいけ好かない。少しはその足りない頭で考えて物を言え」
「でも……でも、私には……」
娘は行先を失った迷子のように立ちつくして、瀬人の背を見送った。これからあの娘がどんな革命を起こすのか、それともこのまま箱の中で死んだように生きるのかは、瀬人にとって、どちらでもいいことだった。


「無駄だ」
瀬人は、歩きながら無意識に囁いていた。
無駄なんだ……。オレには、そんなやり方なんて。
秋には十五になる。声変わりも終えた。背もこの一年で十二センチも伸びた。まだまだ肉体は成長していくだろう。

だが瀬人は、男としては未熟だった。
体が反応しないのだ。
どんな女性を見ても、どんな性描写を見ても、絵や文章も、映像や写真も、何も効かない。
精通は来ている。十二歳を迎える頃に初めて、夢精を経験した。それからの三年ほど、瀬人の精液はほぼ全て夢精で排出されていた。
なので、瀬人本人は自身のペニスが勃起している所を未だに見た事がない。
夢精、と言っても夢の中で興奮した覚えもなく、淡々と処理されていくばかりだ。
その瞬間に、性的快感は無い。ただ、漏らした、という不快感だけが下半身に残るのだった。
あまり近しい年頃の少年と交流を持っていない瀬人としては、その悩みを打ち明ける存在がいなかった。
せめて年上の男性が知り合いにいたのなら、何かと助言をしてもらえたかもしれない。
だが身の回りにいるのは、仕事上の付き合いか、主従関係の人間しか居なかったのだ。

あの娘が、気弱ではなく父親似の大胆さを受け継いでいたなら、瀬人は襲われていただろうか。
それでも、娘がどんなに手をつくしても、瀬人の体は治りはしないだろう。
事実を作れないのなら、女の手段は無いに等しい。
悪態を吐いて彼を詰るか。周囲に悪評を広めるか。どちらにせよ、女の品格は地に落ちるだろう。名家の娘なら、舌を切ったほうがマシだと思う行いでしかなかった。

「“愛を必要とするのは完全な人間じゃない。不完全な人間こそ、愛を必要とするのだ。”――か。……クク……ハハ……」
――ならオレが完全な人間になってやろうか? 瀬人は一人で笑っていた。

あんな、不恰好で、無様で、汚らわしくて、浅ましい行為、誰がするものか。
女なんて、ぶよぶよとした薄汚い肉の塊で、ちっとも美しくないじゃないか。
そんな生き物に振り回されて、このオレが感情を高めることなど、在っていいわけがないだろう。
そうだ、そうに決まっている。だからオレは神に選ばれた存在なんだ。
この世界に生きる、今までの人類とは、ひとつ上の段階にオレは位置している。
だとしたら、必要が無いんだ。何一つ間違っていない。このオレが不完全であるわけが無い。

人格や思考は、幼少時の体験から作られる。痛みも傷も、無垢な心を歪ませるには十分過ぎるほど与えられた。彼の嘆きは全て殺されてきたのだった。
弱さを認める強さを得られないままに成長した瀬人は、自分を守るために考えを根本から曲げるしかなかった。
どうやってでも、自分が正しいのだと肯定しなければ、他に誰も彼を守ってくれる存在は、この時はまだ居なかったのだから。

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