フローズンデイズ 4
「兄サマ! おかえりなさい!」学校が終わるとそのまま瀬人は会社へ向かい、社長としての務めをこなす。帰宅は、大体二十二時だ。
「ただいま、モクバ」
使用人に鞄や上着を手渡し、モクバの出迎えに瀬人は応えた。
「ねえ、今日はどうだった?」
モクバが毎日楽しみに待っているのは、学内での決闘の結果だ。
「勝ったぞ」
「やった! やっぱり兄サマの新しいデッキは無敵だってことが証明されたぜい!」
飛び跳ねて喜ぶモクバの姿に、瀬人は微笑みを湛えた。そして、愛でるようにモクバの頭を撫でる。
「……へへ」
背の高い兄を見上げて、モクバは笑みを返す。
こんな穏やかな時間が過ごせるとは、かつての自分たちなら、想像も出来なかっただろう。兄弟は、ささやかな家族のひと時を大切に思っていた。
「だがな、油断は出来ないぞ。ヤツは負けた自分自身に怒っているはずだ。今日よりももっと知と力を蓄えてオレに挑んでくる。モクバ、夕食の後は作戦会議だ!」
「おおっ、兄サマも燃えてる!」
瀬人はシャツを脱ぎ、自室に備え付けられているシャワールームへ入った。外出後は軽く汗を流してから、食卓につくようにしている。
アテムとの決闘にはいつも強風がつきまとう。どこに居てもそうだった。
髪には砂埃が混じっていた。
「フ……ヤツめ、このオレがどれだけ痛めつけても、何度でも這い上がってくる。だが、その根性は気に入っているぞ」
口先では悪態をついても、瀬人の瞳は嘘はつかない。
光のある目は、生きる希望に照らされていた。それまでの失くした少年時代の目ではなかった。
年相応の夢を見る少年のもの。人生から切り取られてしまっていた子供の時間は、今まさに瀬人の中に戻りつつあった。
「……ん……?」
湯を頭から浴びていた瀬人は、体が火照るような感覚がした。温度が高すぎたのかと確かめたが、設定を変えた様子は無かった。
肌がやけに感じやすい。何か病の前触れかと不安に思った。
「……な、なんだ……?」
違和感は、下腹部にあった。形を変えつつある自身の性器が、軽く頭を擡げている。
「どういう……ことなんだ?」
思わず触れてみる。普段とは違う硬さ、形をしている。
以前、知識として得た覚えがあった。あまりに疲労が溜まると意思とは関係なく勃起してしまう症状があるのだと。
「これがそうなのか……」
瀬人は下腹を覗き込んで、成す術もなくシャワーを浴び続けていた。
湯が当たると、ひりついた痛みが局部に走った。どうにかして治めなければ、と対処しようとする。ろくに自慰もしたことがなかった瀬人は、珍しく混乱していた。
熱くなる肌を冷やすように額を壁のタイルに擦りつけ、息を深く吐いた。
ただじっと耐え、気分が落ち着くのを待つしかなった。
気分が萎える事柄を思い出しながら、瀬人はバスタブの縁に腰を掛けた。
先に頭から冷静になれた。自身の精神も肉体もコントロールする方法は心得ている。どんなトラブルも乗り越えてきただけの自信がある。瀬人は己の身体すらも、道具として客観視していた。
「くだらないな。このオレが、あのような低俗愚民と同じなわけがあるか」
沈静化した下腹を叱るように瀬人は体に言いつける。これはエラーだ。勘違いを起こしただけだ。
……何に? 一体、自身の体はどうして、そんな間違いをしてしまったのだろう。
瀬人は、まだ少年だったのだ。少年には、情愛の意味も軽蔑するような清廉な心しか無かったのだった。
着替えを済ませると、食堂には簡単な夕食が準備されている。モクバは部屋の壁一面に取り付けられたモニターに見入っていた。その画面には、今日の瀬人のカードとアテムの使用カードが映し出されている。
「兄サマ、さっき今日の分の録画、見ておいたよ」
瀬人は一決闘毎に、映像を記録させている。カメラは三機、瀬人側、アテム側、両者側から撮っている。大量のデータは全て本社に保存され、新たな開発に役立てている……というのが表面上の名目であり、単なる私用が殆どであった。
「モクバ、最初から通しで流せ」
「うん!」
リモコンを使い、モクバは再生ボタンを押した。
薄暗くさせた食堂の中で、モニターに映る二人の決闘の様子に、兄弟は意見を交わしていく。専門用語が飛び交い、周囲のメイドや使用人にはさっぱり意味が分からなかった。瀬人の側近である磯野は、二人の会話の解説を頼まれた。
「磯野さん、坊ちゃまたちは今は一体なんのお話をしているのですか?」
若いメイドの女性が声を潜めて尋ねた。
「ああ、あれは次のターン……つまり、瀬人さまの順番に、その時に伏せたトラップカード――、罠をしかける為の手に、返してくるアテムさん側の用意するカードについて予想しあってるんですよ」
「罠を仕掛ける手の返し……?」
「そうです。その先を更に読んで、対応策を考えておられるのです」
「は、はあ……」
メイドはクエスチョンマークを頭上に浮かべながら、磯野の説明を真剣に聞いた。
「そんなに難しく構える必要はありませんよ。あの映像をご覧になれば……どれだけ瀬人さま達が楽しんでおられるか、お分かりになるでしょう」
「ええ、本当に。私にも、それだけは分かりますわ。だからこそ、デュエルというものをきちんと知りたいと思いますもの」
映像の中でアップになる瀬人とアテムの表情は、ぎらぎらとした熱い視線に、微笑みを薄らと浮かべる唇。本気の眼には、お互いしか映していない。けれど、相手を睨むのではなく、しっかりと捉えているのだ。
目を逸らしたりしない。一瞬の隙も生まれない。心の機微を、見逃すものかという意思が表れている。
「本当に良かった」
磯野はしみじみと誰に語りかけるでもなく、吐息のように囁いた。サングラスの奥の目がとても優しく細められているのを、隣に立っているメイドだけが知る。
「そうですわね」
メイドの彼女も、二人の兄弟の並んだ後ろ姿を眺めて同意した。
どうかこの平穏が、この家の中にずっと流れてくれますように。――そんな願いを彼女は胸に抱いた。
「モクバ……もう眠いのだろう? そろそろ十二時だ」
夕食は既に食べ終え、瀬人はコーヒーを飲んでいた。談義に興じていたモクバも流石にうとうととし始める時刻だった。
「ん……まだ平気だぜ……い」
呂律が回っていない。瀬人は座ったまま船をこぎ始めたモクバを抱きかかえた。
「瀬人さま、私どもが」
磯野とメイドが手を出すが、瀬人は首を振った。
「いい。すぐそこだ。ああ、ドアの開閉は頼む」
「はい……」
磯野はすっかり感激しやすくなってしまった。ささいな変化や、兄弟の絆に触れる度に涙腺が緩む。最近では、年の所為だろうか、などと同僚に零したくらいだ。
「ありがとう」
ドアを開けると、瀬人はすれ違いざまに礼を述べた。あまりにも自然で、さりげなかったので、磯野は聞き逃してしまうところだった。
「いいえ……いいえ、瀬人さま。このくらいのこと」
廊下を歩いて行く瀬人の後ろ姿に磯野は頭を下げた。
メイドや他の使用人たちは、黙ってそのやりとりを見守っていた。
かつての主人が居た頃は、邸内は殺伐としていたのを、ここにいる人々は知っている。それが、この海馬家の日常だと、誰もが受け入れていたのだった。
今では、どうだろう。すっかり生まれ変わったふたりの兄弟は、お互いを思いやり支え合っている。皆は忘れかけていた家族というものの本来の姿を思い出せたのだった。
家族とは、そういう関係だったのだ。憎みあい、騙し合うものでは無いのだ。
モクバの寝室に着くと、瀬人はベッドに寝かしつけてやった。しっかり者とは言え、まだ小学生だ。寝顔は、年よりも幼く見える。
「おやすみ、モクバ」
長い前髪を分け、瀬人は親愛のキスを額に落とした。
小さい頃、記憶の曖昧なほどにずっと昔のことだ。かつて父や母がそうしてくれていたのを、瀬人は微かに思い出す。
「大切な子」「愛してるよ」「おやすみ、良い夢を見てね」「私たちのかわいい瀬人……」愛情に満ちた両親からの言葉たちが、今になって沁みる。
モクバは知らないのだ。子供ならば、無償に受け取るべきはずだった親からの愛も庇護も。
両親が居ないのならば、兄である自分がその役目を果たしてやろう。
瀬人はしばらくモクバの寝顔を見つめた。
「ぜったい……勝つぜ……い」
夢の中でも兄を応援しているのだろうか。モクバは寝言を口にしながら寝返った。めくれた布団をかけ直してやり、瀬人は寝室の電気を消して、部屋を出て行った。
モクバがまとめてくれたデータの入ったUSBメモリを手に、自室へと戻る。パソコンにデータを移してから、瀬人は静止画のアテムを眺めた。
目と目が合う。睡魔を吹き飛ばす闘気が瀬人の中に膨れ上がってくる。この手で奴の自信に光る顔を叩きつぶしてやりたい。自分自身が、最高の相手だと認めているからこそ、勝ちたいと望む。
そして、その思いは、相手も同じなのだと信じて疑わない。
燃え盛る熱意の核は、人々が想像するよりも遙かに純粋で、清らかな心から成り立っている。
他者には、決して穢されない崇高な意思が、瀬人の掲げる正義だった。
「また明日……明後日、オレたちには終わりは無い。今日、オレが勝者なら、明日は奴なのかもしれない。どうなるかは誰にも分からない。だから……」
瀬人は語り掛ける。今は目の前には居ない敵に、だが不思議と独り言ではないと感じる。
闘志を燃やせば、この街のどこかで奴が応えてくれている。
夜は、静かに朝を待つ。