20191025 還る場所(かえるところ)

――何度経験しても、身体が慣れない。
そもそも次元間を移動するという行為は、到底人間が成すべき事象ではないのだろう。
人間の肉体は、宇宙空間ですら適応できないのだ。
それでも人類は果てない夢に希望を抱いて、人々は無限の彼方へ想いを馳せた。
海馬は科学に不可能はないと考える。
すべてを可能とするという証は、今自分自身がこの大地を踏みしめている事実が何よりの証拠だった。
砂埃が舞い、海馬は口元を覆った。男の視界が金色に曇る。
初めてこの地に降り立った時の感情を、あの時の若い海馬瀬人は言語化できずにいた。
今ならその気持ちが判る。
海馬の魂の記憶は『郷愁』を感じていた。
この場所を知る筈がないのに、どこか懐かしいと思ったのだった。
自分の在るべき場所だと生命は悟る。
古の王――アテムの総べる国、太陽が輝く安寧の地。
この国は王の意思に相応しく、穏やかな時が流れている。
決して他の者に侵されない平和で静かな、安らぎの小さな楽園だ。
時代も月日も止めたままの永久(とわ)がここにはある。
だが海馬瀬人という異端分子によって、この地はわずかに、そして微かに変化を齎されていた。
「海馬!」
やけに明るい声がとおくから届いてくる。海馬の頭上に向かって、声の主は呼びかけていた。
王宮から覗く顔は、相変わらず幼いままだ。
開いた窓辺から身を乗り出しているアテムは、従者に肩を押さえられていた。
何をそんなにはしゃぐ必要があるのか。海馬は緩みそうになる口元を押さえて、手を振りかえしてやった。
始めは、あの頃の延長線上の関係だった。
目の前に対峙すれば互いに視線を交わし、闘うべき相手として向かい合う。好敵手として、あるいは戦友(とも)として。
思いが重なれば、時に語らい、時に感情を共有し合った。
これほどまでに魂が共鳴する相手はいるだろうか。
海馬には思いつかなかった。思いつきたくもなかった。
この世でもあの世でも、どの次元どの宇宙にも、これ以上の相手はたった一人アテムだけだと信じていた。
きっと互いにそう思ってしまったのだ。
そうなれば関係性は変化していく。
ただのライバルとも、宿敵とも呼べない。
友でも敵でもない。奇妙で不思議な、けれど、とても居心地のよい関係なのだった。
「海馬! きいてくれ!」
王の間についた海馬を待ちかねたと言わんばかりに目を輝かせたアテムが駆け寄ってくる。
「妙に気を昂ぶらせているな。そう急くな」
紅潮した頬がつやつやとしている。瑞々しい肌は発光しているかのように眩しい。
「とうとうオレにも初潮がきたぞ?」
「…………あ……?」
おおよそ予想だにしない単語を耳にし、海馬はものの見事に硬直した。そして瞬きも呼吸も思考も、あらゆる身体機能を停止させてしまった。
「おい、海馬?」
目の前で固まって動かない海馬を見上げながらアテムは顔を覗きこむ。
その腕にアテムの指先が触れれば、海馬は、はっとして困惑の表情にしていく。
「どうやら次元間移動の影響で聴力に異常をきたしているらしい」
今のは聞き間違いだと、海馬はそう決めつけた。
「この前、海馬が向こうに行ってる間にきて、つい昨日終わったんだぜ」
「きた……? 終わった……?」
海馬の言う事を気にも留めず、アテムは自分の話を続ける。
「最中は辛いって聞いてたけど、本当だったんだな!」
海馬は目が眩んだ。よもや視力にも異常が現れてきたのだと思い込む。
目の前で自分に話しかけてくるアテムは、以前と何ら変わりはない。
小さな体躯、それなりについている筋肉、細く長いしなやかな手足。
大きな瞳、ややふっくらしている唇。
平坦な胸板、細い腰。声は低く、自分の名前を呼んでいる。
男にしては華奢だと思うが、それはまだ彼が十六歳だからだろう。恵まれた体格の海馬と比べるのは酷だ。
「これでオレも一人前の女として、海馬と契りを結べるぜ!」
「……は……? え……? ああ……?」
海馬は一生に一度しかしないような顔をしていた。目を丸くさせて、半開きの口が閉じない。
契りを結ぶ――言葉の意味としては理解している。
約束を取り交わすことの意。それから二つ目の意味は、婚姻や義兄弟の縁を繋ぐということ。
「もしもこのまま、子どものままだったら……出来ないと思ってたぜ」
「……アテム」
海馬は喉から声を絞り出した。通常時よりも更に低音だ。
「どうした、海馬。妙な顔しているな」
アテムは初めて見る表情だった。笑っているとも、怒っているとも言えない。まさに混乱、困惑の眼をしている。
顔つきから心情が読めないのだが、おそらく海馬自身にも自分の心が理解できていないのだろう。
「ひとつ確認するが、貴様は…………女なのか?」
「そうだぜ!!」
実に明朗な返答であった。
「声が随分と低いと思うのだが」
「幼少期に、高熱病にかかって声が枯れて低くなったらしいぜ。オレはよく覚えていないけど」
「……自分のことをオレと言っているではないか」
「いけないのか?」
「いや……構わん」
海馬には、それ以外アテムを男だと断言できる部分が見当たらなかった。裸体を見たこともなければ、アテム自身の身分を証明する書類も確認した覚えもない。――たとえ、童実野町に身分証明書があったとて、あくまで武藤遊戯の肉体をかりていたのなら、その時のアテムは男性だったのだろう――
「…………性別くらい、これといって差し支えがあるわけがない……」
未だ脳内で処理しきれない問題ではあったが、海馬はかなり強引に自分を納得させようとした。
性別など人間を二種に分けるただの記号に過ぎない。
自分たちの関係がそれくらいで崩れるわけがない。
決闘者であること。そして、唯一無二の好敵手であること。
海馬が男だと思い込んでいただけで、目の前にいるアテムがアテムであることに変わりはないのだ。
「いささか考えをまとめるのに時間を要してしまったな。これも次元移動による身体機能の低下が原因だろう。まだまだ次元移動機を改良せねばならんようだ」
「なあ、海馬」
「……ああ」
海馬は今一度見上げてくるアテムと目を合わせる。同じ眼をして、同じ顔をしているではないか。
異様に動悸しているのも、珍しく驚いた所為だろうと自分に言い聞かせ続けている。
「これでオレはいつでも……お前の嫁にいけるんだぜ」
「……よ……め、だと!?」
「ああ。でもオレは王の立場だから、海馬がオレの婿になるって言い方が正しいのかな」
「い、入り婿だと!?」
「王家の血は絶えさせてはならないんだぜ!」
ここは冥界なのだぞ、と言いかけて海馬は言葉を飲み込む。
確かに冥界だが、冥界だからこそ現世の理は通用しないのだ。生命はこの国にも存在していて、たしかに誕生がある。
「海馬は、必ずここへ来てくれると信じていた。その時からオレの心は決まっていたんだ。あとはオレの体が……ちゃんと子を成せるよう、きちんと大人になれるかどうか、ずっと気がかりだったんだぜ」
途端に歓喜の波が押し寄せてきて、海馬は奥歯を噛み締める。
――このオレを待っていたのだと、アテムは告白した。
海馬自身がアテムを想うのと同じように、アテムもまた海馬を信じていた。
自分の気持ちや想いを、相手も等しく抱えていたのだと知れば、胸は震え、叫びだしたくなるほどの喜びがあった。
どうにか感情を発散させたくて、海馬は強く拳を握りしめた。
アテムを男だと思っていた海馬ならば、もしかしたらアテムを抱きしめていたかもしれない。アテムを女性だと認めた海馬には、容易に抱きしめられなかった。
「いや……しかしオレとお前が……契りを交わすなどとは」
若い男の脳内には、現実味のない幻想の強い情交の一場面が浮かぶ。海馬瀬人は二十歳を迎え、未だ清らな身であった。
故に生々しい想像が出来ずにいる。
「でも海馬、オレとの決闘の最中はいつもちんちん勃たせてるぜ」
「なっ! 何を言うか!」
自覚はほとんどなかった。しかし昂ぶる決闘の最中では、大抵海馬は完全に勃起していた。
それも、アテムとの決闘では必ずと言っていいほどだ。
しかしあくまで性的興奮によるものではない。
男性ならば気持ちが高まる場面、スポーツや仕事などでも起こり得る。決闘者ならば熱い決闘を行えば、身体的に昂奮してしまうのは致し方ないことであった。
「それってオレで……そういう気持ちになれるってこと、じゃないのか?」
少女のアテムには、そのような正常な男性機能の仕組みがいまいち分かっていない。
男性が勃起するのは、相手に性的興奮を覚えているからだと思っている。
それが自分と一対一で向き合い、決闘をしている間に起きているとなれば、アテムがそう結論づけるのも仕様がなかった。
「オレは貴様にそういった不埒な情欲なんぞ……ッ!」
持っていないと言えば、アテムがどんな顔をするかは流石に海馬にも想像がついた。
幼い少女は、好いた男の子を成したいと願っているのだ。その想いを無下にする一言を口に出してはならなかった。
海馬の中にある少年の初心さを隠したいだけでは、大事な人を傷つけていい理由にはならない。
「こんなことは軽率に言う事でも、思うことでもない!」
「ケーソツじゃないぜ。オレには今必要なんだ。海馬の気持ちを教えてほしい」
アテムは一歩近づいて、海馬に触れようとしてくる。海馬は思わず身構えて仁王立ちになった。
腕にわずかに触れた指先は、すぐに離れてアテムは首を持ち上げる。
「オレは、海馬と……えっち、したいぜ」
語尾はだんだんと小さくなって、海馬にしか届かなかった。
子を成したいと言うのは大層な大義名分で、今のが本心なのだろう。
魂の共鳴する相手、生命が続く限り道を共にすると誓う人。
たった一人の自分の運命の男。
そんな相手と肌を触れ合わせ、誰よりも深くつながりたいと願うのは、ごく普通の当たり前の感情だろう。
そう思うことも願うことも、ましてや叶えることは出来なかった身分だった。
少女の切なる想いすら、秘めておかねばならなかったのだ。
ここでならアテムの心も、身体も自由だ。
真に想うひとりに自分の心を打ち明けられるのは、少女にとってどれほどの幸福だろうか。
自らの愛する男に、正面から好きだと、自分の言葉で自分の口から告白が出来る。
現世でなら、何一つ許されない行いだった。
アテムは真っ直ぐに海馬を見ていた。ときめき、わずかな期待と不安、それから愛情が紫の眼に入り混じっている。
「オレも……貴様と、同じ思いに決まっている?」
王宮の天井まで貫くほどの声量が響く。
先を越されたのが、後になって海馬は悔しくなってしまった。アテムに言わせてしまったのが不甲斐なく思う。
「いいか、貴様が女だからオレが承知したと思うな! 貴様が男であっても、オレはアテム、お前を抱く! そして孕ませる!」
「男同士じゃ赤ちゃんはできないぜ」
「いいや! オレは絶対に成し遂げる! このオレの科学力を持ってすれば不可能など在り得ん! 貴様とて理解しているだろう!」
「確かに、海馬なら出来るかもしれないな」
「かもしれない、ではない! 成し遂げると言っている!」
「でもその必要はないだろう?」
「ぬうっ」
「オレ……大人の女になったんだし」
「ぬ……っぐ……!」
海馬は思わずたじろいでしまう。改めて女性であると意識すると少し緊張してしまう。
「フツーにすれば、できるとおもうぜ」
「普通とは何だ」
「ふつうは、ふつうだろ」
「一般的なという意味か」
「そうじゃないのか。オレ、したことないからよく分かんないけど」
古代生まれのアテムがどこまで性知識を持っているのかは、今の海馬には知り得ない。情報も伝聞がほとんどだ。王の立場ならば、神官らに教育されているのかもしれない。
「したことがない……」
海馬はアテムの言葉を続けて繰り返した。
この場で嘘をつく必要はない。言葉通り処女なのだ。
そして海馬自身も経験がない。ただ知識だけは蓄えている。何をどうするべきかは分かってはいる
「……海馬は?」
「オレが、何だ?」
「海馬はしたことあるのか」
アテムにとっての初めてが海馬であるなら、海馬にとっての初めてもアテムでありたいと、少女は望んでいる。
普段より多く瞬きを繰り返していた。
「…………ないぞ」
男なら恥ずべき事実だろうが、海馬は見栄も虚勢も無用と知っている。――そもそもアテムにそんな素振りをした所で何の意味もない――
「そうか……!」
明らかに安心したという顔をしてみせるアテムが、初めて女らしいと感じた。
こんな風に柔らかい笑みを浮かべることもあるのだ。
海馬の心臓の奥が、ずきんと痛む。
こんな時、衝動に走りたくなる。抱きしめたくなった。
この腕の中に閉じ込めたくなる。
誰にも見せたくない。自分だけのものにしたい。
そして海馬自身も、アテムだけのものになりたいと思うのだ。
「このオレを散々煽る言葉を言いおって。アテム、これだから貴様は」
「うん?」
目に宿していた不安は既にない。やや挑発的な色を含んだ視線をアテムは海馬に送っている。
「これだから」
抱き寄せるに至らない手は、アテムの二の腕を掴むとやんわりと自らへ近づかせる。
バランスを崩したアテムはそのまま海馬の胸へおさまる形となった。
「……だ」
頭上で呟かれた言葉は、アテムにだけ聴こえた。
――仕様の無い奴だ。
アテムには、どんな愛の囁きより嬉しく思えた。
その声色はとても優しく穏やかで、自分が相手にとってどれほど大切にされているか実感する音だった。
オレにはお前しかいないのだと、海馬はそう言っている。
アテムにとっても、海馬だけなのだ。
たったひとり、お前だけだと、この唇が、この手がすべてを語ってくれている。
それだけでアテムは充たされるのだ。



永久の国に新たな命が紡がれるのも、そう遠くはない未来だ。光が満ちる楽園に、彼らの幸せがある。



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