社長は九分九厘不可能な恋をしている

今までだって多少は、親のコネクションに頼ったり容姿を武器にしてきたりしたけれど、それでも私がここで働けているのはそういうことなんだろう。

「ねえ、あなた」
呼びとめてきたのは、第一秘書課のなんとかさんという女性で、私は冴えない返事をしたのをすぐに後悔した。
「はあ」
「あなた、社長室付きの方よね」
「はい、そうですが」
空になった二つのカップをトレーに乗せて、私は給湯室に向かっている最中だった。
「社長のお相手の方は、どんな女性なのかしらね?」
こんな場所で噂話ができるほど、第一秘書課は暇なんだろうか、と私は失礼なことを考えながら立っていた。
「さあ……よく分かりませんねえ」
「今日はお客様はいらっしゃらないのよ。それなのに、どうして二つもカップがあるの?」
ナントカさんは、私の前に立ちはだかって、トレーのカップを指さしていた。
「これは社長が愛用されているものでしょう?」
流石、第一秘書課なだけはあるなあ、社長のカップも把握してるなんてすごいなあ。と半ば小馬鹿にしたような称賛を心の中で送る。
「社長は磯野さんとお茶してただけですよ」
嘘をつく必要も、作り話をでっちあげる意味もないと思った私は、現実に起きたことをそのままナントカさんにお伝えして差し上げた。お上品な口角が、ぐっと下がって表情が曇る。
「あなた、何を言ってるの?」
そりゃあ、そうだろうな、と私もナントカさんに同意したい気持ちでいっぱいだった。あの現場を目撃してなければ、海馬コーポレーションの全社員は、私の戯言だと思うに決まっている。
「こちらの白いカップは磯野さんがお使いになっているそうですよ。滅多に使う機会はありませんけど。では失礼します」
ナントカさんは、米国仕込みの流暢な英語で、小さく罵倒していた。誰に対して言ったのかは、私にはどうでもよかったのだ。


普通の会社だったら、きっと第一秘書課が社長の秘書になるのだろうけど、私は第二秘書課に所属している。
そもそも、海馬瀬人社長には秘書そのものが不必要であるらしい。なので私がすることと言えば社内においての雑用もろもろ、社長室の整理整頓、スケジュールの管理などなど、つまりほぼ社長とのやりとりは無い。
私が社長室付きの秘書に選ばれたのは、重役らのあらゆるテストに合格した、からだそうだ。
中途採用された際には、私には既に婚約者がいたし、結婚資金を溜めるために働いているようなものだ。幸い、給料がいいので目標貯金額にそろそろ届きそうだった。
新入社員の中には、社長が目的なのだという女性も少なくはないし、入社してからそれが動機になってしまう人もいるようだ。
メディアの向こう側から見ていた人と近くで接するようになり恋心を抱くようになってしまった、という話も珍しくはない。実際、目の前にすれば、誰だって見惚れてしまうだろう。
高い背、長い手足、整った顔立ち、自信に満ちた言動、それに伴う能力に才能、若い身空での成功。そして、薄らと彼に纏う暗い過去。
世の女性たちが彼を放っておくわけがなかった。その上、独身で恋人がいる様子はなし。完璧すぎて、私は架空の人物としか思えなかったのだった。バーチャルリアリティの中の妄想の権化なんじゃないか。そんな非現実的なスペックの持ち主が海馬社長だった。
実際、初めて会った時は「本当に実在している人間だったのだな」と謎の感動を覚えたものだ。
それから三年、社長付きの秘書は私ひとりだけになってしまった。どうやら、入れ替わりが激しいらしいと気付いたのはKCで働き始めて一年が経つ頃だった。

「そうだなぁ。なんといっても社長に無関心な所がいい。特別仕事がこなせるってわけでもないけど、やるべきことはやるし、仕事に私情も挟まんしなぁ」
「五年以内に結婚したいとも言ってます。学生時代から付き合っている人がいて、もう婚約しているそうだ。仕事を辞める気はあるのかと聞いたら、今は無い、と言ってましたよ。出来たら結婚後も居て欲しいもんだ」
「おしゃべりでもないし、こう言っちゃ悪いが、そんなに友人も多くない。SNSにも興味が無いようでな、それだったら彼女は適任だと思ったよ」
「秘密が漏れる心配がないし、社長に無害……若いのにおばあちゃんのような存在か! ハハハハ!」
童実野町外で行われた忘年会で、私が選ばれた理由を人事のグループの席で耳にしてしまった。おばあちゃん、と言われた点には正直腹が立ったが、他は納得した。なるほど、なんて呟いてしまったものだ。
私は確かに友人も少ないし、人に仕事の愚痴を言うようなタイプでもない。育てている観葉植物に話しかけはするけれど、恋人にすら仕事の話をすることはない。

私がKCに勤めていると知っているのは、恋人以外では幼馴染と家族くらいだった。
その幼馴染にも「世界中の女性が羨むような環境にいるのに、それでも変わらないあんたは大物だわ」と、呆れていた。久々に会った時にそんな話をした。
傍らには、ピープルとタイムが置かれ、そのどちらにもSeto Kaibaが表紙を飾っている。パーソン・オブ・ザ・イヤーとセクシエスト・マン・アライブに同時に選ばれた時の号だ。それもこれも彼が海馬瀬人だから成しえたものだ。
「多分、社長はどっちも全く興味ないだろうけどね……」
私は手に取って、その雑誌をめくってみた。いつの頃の写真なのだろう。SPに囲まれている姿は、何だか彼らしくない姿だった。機嫌の悪そうな目つきがおかしい。
「でも浮いた話が全くないって凄いね。外国でもこれだけ有名ならパパラッチされないほうが珍しいでしょう?」
「本当に無いからね。いつだったか、ヨーロッパでの海馬ランド建設の時かな……幼児愛好者だってゴシップは書かれてたけど」
「これだけイケメンでお金持ちだったらロリコンでもいい〜! って言われそうよね」
「まあ……そうだろうね。でもそれゴシップだからね」
私は社長の私生活は、おそらく何一つ知りはしないだろう。それでも侮辱されるのは悲しいし、根も葉もない噂は撤回したいと思ってしまう。これが愛社精神ってやつなんだろうか。
「分かってるって。子供にこんな笑顔してる人が、そんなわけないでしょ」
タイム誌を広げてみせた幼馴染が、見開きの中のごく小さな一枚の写真を指した。様々な人種の子どもたちが、社長の周りを囲んでいる。屈んで、子供ひとりひとりに応対しているらしい社長の顔は穏やかに微笑んでいるのだ。とてもいい写真だった。思わずカメラマンの名前を探してしまう程だった。
「有名税ってやつかなあ……国内はKCの力が強いからそういう記事は出ないけど、海外までは規制出来ないか」
「どんな有名人でも芸能人でも、名があればあるほど、そんな話はされるもんでしょ。それでご飯を食べてる人もいるんだしさ」
幼馴染は大人の見解で話す。正しい行いをしている人間に対してそんな悪い話を作り上げることで、得るものって一体なんなのだろう。私は釈然としなかった。
「よっぽどいい社長さんなのね」
「良い人か悪い人かって言われたら、よく分からないけど、たぶん良い人間なんだと思う」
「何それ」
幼馴染は、ぷっと吹き出して笑った。
「直接のやりとりってほとんど無いし、会話も業務内容しか無いから、性格がどうのとかは分からないし」
「ふうん、テレビで見る時は結構面白いお兄さんって感じもするけどね」
「いつもあんなテンションじゃないよ」
メディアに露出している時の社長は、よそ行きの姿だ。よく笑い、大げさな物言いをし、感情の起伏も激しい。デュエルにおいてもそうだ。どう観られているか、客がどう思うか、どうしたら楽しんでもらえるか、一瞬一瞬のうちに判断をして言葉を選び、態度を使い分ける。
「一人で仕事している時は静かよ。無口だし……職人っぽい? かな」
「へえ」
「あ、こんな話はあんただからするんだよ。よそで言わないでよ」
「はいはい、分かってますって」
軽くお酒を飲みながら、会話が弾んだ。


社内を騒然とさせた海馬瀬人のゴールドのリングは、数日もたたない内にマスメディアにも取り上げられた。
いつのまにそんな話になったのか知らないが、自称婚約者まで出てきて、――それも複数人も――社員の想像を超えた展開を迎える。
渦中の人物は不在であり、入れ替わるように副社長のモクバさんが帰国していた。
しかし、どの取材にもモクバ副社長はノーコメントを貫き、沈黙を決めていた。私は直感で、真実を知っていると思った。だからこそ、何も語らないのだと。
世界中が注目する。世界中が羨む。世界中が、嫉妬する。
その相手は誰だ?

「……は?」
連日のようにメディアが海馬社長の動向を報道する日々の中。ある日の帰りがけに、私は突然見知らぬ中年男に腕を取られた。
「失礼、私はこういう者でして。駅まで向かう道のりだけで構わないんでね。お話を聞かせて貰えないかな」
名刺にある誌名は、私も知っていた。著名人のスキャンダルをどのマスコミからも早くキャッチすることで有名な大衆誌だ。名前は知っていても、一度も手に取ったことはない。
「おたくの会社の社長さんについて、ね」
男は煙草臭い息を潜めながら、にやついた顔をこちらに寄せる。
「しがない平社員です。あなたにお話するようなことなんてありませんよ」
「ハハハ、そうですか。でもKC内では、貴女が一番社長さんに近い人なんじゃないですか……第二秘書課、○田●●子さん」
ふいにフルネームで呼ばれ、私は立ち止まった。社員証をつけて社外を出歩いた記憶はないし、インターネット上にもそのような個人情報は載っていないはずだ。
「お時間は取らせませんよ。ほんの五分もあれば十分ですから」
男は私の鞄を持っている方の腕をしっかりと握っていた。丁度鞄の影になって、周りからは見えないようにしているのだ。
「人を呼びますよ……」
「どうして? お話をしているだけじゃないですか」
このような手口は慣れているのだろう。男は悪びれもせずに私の手首を掴んだままだった。会社からはそんなに離れていない。だったら、一度戻ったほうがいいかもしれない、と判断した時。
「●●子さん」
滅多に呼ばれることのない下の名前に、私は振り返った。そこには黒服に身を包んだ男が行く手を阻むように仁王立ちしていた。
「……ッ」
名前を口にしようとする私に、磯野さんは首を横に振った。私は口を噤み、頷いた。
「私の友人に何か用でもあるんでしょうか?」
磯野さんはサングラスをずらして、普段見せることのない冷血な表情を向け、男の耳元で何か囁いていた。そして男の胸ポケットに一枚の名刺らしいものを入れると、男は取り繕ったようなへらへらとした笑いを浮かべて去っていった。
「……最近、多いんですよ。ああいう連中が。気を付けて下さいね」
磯野さんはサングラスをかけ直し、私を安心させるように口元だけで笑みを作った。
「は、はい……」
「これを。社の警備員に直接繋がる番号です。遠慮なく使って構わない……と、社長からの伝言です」
渡された紙には、専用ダイヤルの番号が書かれている。手書きのようだ。筆跡からして社長のものだろう。なんて、恐れ多い……と私は受け取る手が微かに震えた。
「あの……でも」
断ろうとする私の手を、磯野さんは押しやった。
「社員を守るのも、私どもの務めです。○田さんに何かあっては、私が社長に叱られてしまいます。どうか受け取って下さい。これはあなたにご迷惑をかけるかもしれないと、社長が危惧し事前に用意されていたものです」
ますます恐縮してしまう。
「どうして、私なんかが」
自分を卑下にしているわけではない。本心から「私なんか」と出たのだった。
「……ここでお話するのも目立ちますね。最寄りまで送って行きましょう。さあ、どうぞ」
磯野さんは乗ってきた車を指した。黒いベンツだ。見た目のまま、と言ったら悪いだろうが、その人のイメージが損なわれない車に私は何故か安堵感を覚えていた。
「じゃあ、××駅まで」
車の前で問答でもしていたら、それこそ本当に警察が来てしまいそうで、余計な面倒事に巻き込んだらますます申し訳がない。なので、私は素直に車に乗り込んだ。
「はい」
磯野さんは後ろを確認してから発進させた。夕暮れの街並みは、混雑もなくスムーズに車が走っていく。

「あの記者は、業界内では腕利きだと言われる一方、大変嫌われている方で、付きまとわれたらとてもしつこいようです。早くに止めに入れて良かった」
「……私が話せることなんて、何もないんですけどね……」
後部座席で、私は答えた。本当にそうだった。話すことなんて何もない。何も知らないのだから。
「……あなたが、婚約者の候補に上げられていても、ですか?」
「…………えっ!?」
俯いて靴先を眺めていた私は、あまりに突然の話に間の抜けた声を上げるしかなかった。バックミラー越しに目が合う。
「誰が、何ですって」
「○田さんが、社長の婚約者に、です」
私は脳内の整理が追い付かなくて、もう一度同じことを磯野さんに言わせてしまっていた。
磯野さんは嫌がらずに、丁寧にゆっくりと話してくれたので、私はようやく意味を噛み砕いた。
「はあ……? はあ……そうですか……ば、バカバカしいですね……」
肩が脱力してしまった。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。何でそんなことになるのだ。絶世の美女でも、大金持ちの令嬢でも、天才でも秀才でもない。ましてや最強のデュエリストでもないのだ。
「社長の周りにいる女性といったら、貴女くらいしか居ませんから」
「仕事ですよ」
「社長室付きの秘書が三年以上も同じ方なのは、瀬人さまが就任して以来初めてのことですからね。勘ぐる方もいるんでしょう」
そんなことは知らなかった。そんなの偶然だ。たまたまだ。ラッキーだったんだ。そうじゃなかったら、何だと言うんだ。好意? そんなものあるわけがない。
「社長は、きっと○田さんのことを気に入っていると思いますよ」
「……あ…………? ええ……ッ?」
磯野さんは何度私に無様な声を上げさせれば気が済むのだろう。その度に、磯野さんが肩を震わせているのを私は見逃していない。
「あの時……社長が私にお茶に誘ってくださった時……○田さんが淹れてくれましたよね」
「はい」
覚えている。きっと今後も忘れやしないだろう。あんなことは二度と無いかもしれないからだ。
「飲み終わった後、こんなこと仰ってたんです。……今の秘書が淹れる紅茶やコーヒーは、余計な雑念や情念が入っていなくて、常にニュートラルな味がする……と」
「何ですか、それ」
私にはさっぱり分からなかった。褒められているような、いないような。磯野さんは、何故かまた笑った。
「恐らく、○田さんのそういう所を社長はとても気に入ってらっしゃるんですよ……」

夕闇が迫ってくる。仕事を終えた人々が群れをなして帰路へと、もしくは食事へと向かっていく。短い渋滞に引っかかってしまい、しばらくの間進めなくなってしまった。
「もし、社長にお相手がいるのなら、私がそんな対象のひとりになっていること自体がご迷惑でしょう」
「社長は、放っておけと申されてますから、沈静化を待つしかない……ですかね」
人の噂も七十五日、とは言うけれど、本人の口から発表すれば事態は丸く収まるのではないか? 何か事情があるのは察しはつくが、こちらの身の危険があるかもしれないなら、きちんと対応してほしいものだ。
「リングを下さった方は、何を考えているのかしら……」
私は、ふいに独り言を零した。流されてもいい話だった。磯野さんは一呼吸置いてから、口を開いた。
「きっと、こんな騒ぎになるとは想像していないでしょうね。それに……社長がつけるとも思ってなかったじゃないでしょうか」
「あの社長がアクセサリーをつけるとは私も世間も思いもしなかったですけど……でも、だからこそ、それくらい社長が思っている御方という証拠じゃないですか……」
余程世間知らずな人なのかしら、と私はあらゆるセレブリティを想像してみた。けれど、たとえば金髪のナイスバティな美女でも、黒髪の着物が似合うお嬢様でも、どうにもしっくりこない。ありとあらゆるパターンを思い浮かべても隣に立つ女性はどれも不似合だった。
「そうですね……そう、なんですよね……」
磯野さんの語気がとたんに弱くなり、小さくなった。
「すみません。私……何かお気に障ることを言ってしまったんでしょうか……?」
こんなことを尋ねるのは、既に失礼な言動だと思っていたのだが、謝罪するしかない。
「いいえ。○田さんの仰る通りだと思って……そう思ったら、何だかとても……遣る瀬無い気持ちになってしまって」
磯野さんは訳の分からないことばかりを言う。私は詳しい事情を知らないので、疑問しかない。訊いても答えてくれそうにもない。そうなると、黙るしか術がない。
「社長からは、何も発表することはありませんし、この先も無いでしょう。ただ……○田さんの言う通りなだけです。あのリングを社長に下さった方は、社長にとって特別な相手であるということ」
「そうですか……」
私の自宅の最寄り駅に着いたのは、それからしばらく経ってからだった。磯野さんと話す前と後と、私が得た情報はほぼ変わり映えはしない。
ただ私は、初めて「海馬瀬人」という男に同情をしていたのだ。


全てを得た人間だったはずだ。
富、名誉、権力、地位、容姿、頭脳、才能、若さ、夢。世界中の羨望や憧憬を受ける側の人間だと思っていた。
あらゆる力を自らが手にしてきた男だからこそ、何かひとつ欠けなければならないとしたら。
それが「愛」だとしたら、神さまは実によく考えてこの男の人生を作ったものだ。呆れるぐらい、均衡を計算したのだろう。
なんて悲しくて切ないんだろう……。
私はその日、帰ってきた恋人を抱きしめて、自分や大事なひと以外の為に泣いた。
恋人は、「仕事で何かあったのか?」と優しく訊いてくれたので、ますます泣けてしまった。
誰にも話せない辛さだった。それに、誰にも理解できない切なさだったのだ。



あれから一年が経つ。
私は相変わらず海馬コーポレーション第二秘書課、社長室付きの秘書を務めている。
海馬瀬人社長は、先日三十歳を迎えた。社長の誕生日は、社員にとっても嬉しい日だ。全社員の休日でもあるからだ。
社長の左手小指には、金色のリングが眩しく輝きを放っている。だけど、もう誰も海馬社長の相手を勘ぐる話はしない。
私は先月ようやく入籍し、名字が変わった。最後まで私が社長の「婚約者」なんじゃないかと疑って、妙な記事を書いていた下品な大衆誌があったけれども、結局デマが発覚して、編集者は世間から笑われたものだ。
「君」
社長の日常も変わりなく、忙しい。一年の半分以上が海外出張だ。噂が噂だったのだと人々が認めるようになってから、また新たなアプローチをされるようになったらしい。それでも社長は、女性たちのお誘いを見事に躱していくのだった。
「はい」
社長室で仕事をされている時、数年前に比べると声をかけられることが増えたと思う。それでも仕事以外の話は一切しない。
「こういうものは、何か手入れをしたほうがいいんだろうか」
鍵つきの引き出しの中から、社長が小箱を取り出した。私は中身を覗くようにして背を丸めた。
「まあ……純金、ですか?」
手のひらに乗る大きさのピアスが並んでいた。アクセサリー入れと呼ぶには、色気のない箱に仕舞われた一対のピアスには細かな傷や汚れが目立つ。
「そのようだな……。女性ならこういったものの扱いに慣れていると思ったんだが」
「私も詳しいほうではないんですけど……専用のクロスで拭くとか、あと洗剤で洗うとキレイになるって言いますね」
「ふむ」
「傷は……専門で扱ってるお店に持って行った方がいいと思います」
「そうか。だが他人に触らせたくはない」
あまり見られたくないのか、早々と箱に蓋をしてしまった。もう一度引き出しが開けられる。視界の端でとらえたのは、似たような形状の箱がいくつか仕舞われているという事実だった。
「社長は器用ですから、技術を学ばれたらすぐにご自身で修復できるようになるのでは?」
私は半分は冗談のつもりで口にしたのだけど、社長の目の色が変わったのを確かめてしまった。
「それもそうだな。ありがとう、○田……いや、もう○川だったな。すまない」
あの海馬社長に、感謝と謝罪を一度に述べられた人間がこの世界にどれだけ居るだろうか? きっと私だけなんじゃないか。
「いいえ、では失礼します」
自分の仕事に戻るために、私は社長室を退出する。

海馬社長の左手小指には金の指輪があり、それは思いの強さの表れとして存在している。
今も海馬瀬人は、叶わぬ恋をしているのだ。



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