指輪

海馬瀬人CEO(29)には浮いた噂がひとつも無い。


――十代という若さで海馬コーポレーションの社長に就き、十数年の月日が流れ、ますます活躍の場を広げておられます。
地位も名誉も財産も才能も、この世の全ての賛辞を受けるために生まれてきたかのような御方です。
結婚適齢年齢ともなれば、御婦人方の熱い視線が昨今はより強く感じられるものです。
所が、我が社長には噂も無ければ、そのような事実すらもありませんでした。
この二、三年の話ではありません。私が社長の元で働くようになって、十数年の余り。一度もありません。たったの一度もです。
社長の私生活にまで介入する権利は誰にもありませんでしたから、私を含め側近のものども海馬家の使用人どもも、ただ見守るだけでした。
ですが、何だか周りが騒がしくなってきたようなのでした。
それは先日、社長が「お戻り」になられてからのことです。――

その日、出社してきた若社長は普段と変わらぬ様相をしており、一見すればスーツ姿にこれといった変化もないように思えた。
ただ、たったひとつの違和感に社員一同は動揺するばかりであった。
装飾品の類いを一切身に着けない海馬瀬人の左手小指に、黄金に輝くリングがあったからだ。
事実は社内をかけめぐり、女子社員は半休を申請するものが続出し、重役どもは相手女性の予想を始める。男性社員らは、今まで人間味を感じなかった瀬人に、ようやく親近感を抱けるようになったのだった。

「一体あれはどういうつもりなんだろうか……」
「し、信じられない! 瀬人サマがついに誰かのものになるなんて……!」
「小指ってのが何か憎いよなあ……薬指じゃないのがなあ!」
「おい、誰か本人に聞いてみろよ」
「そんな度胸、誰があるんだよ」
「副社長なら、聞き出せるんじゃないのか?」
「モクバ様は来週までアメリカ出張だろ……」
「ああ、どこの誰なの……せめてどんな相手かは知りたいわ……じゃなきゃこの恨みをどこに向ければいいのよー!」
「まあ、大方どこぞのお金持ちの令嬢だろう。我が海馬コーポレーション社長に釣り合うような女性でなくてはな……」

磯野の耳には、その一日痛いくらいに瀬人に関するゴシップが入ってきた。磯野と顔見知りの社員は何とか詳しい事情を聞き出そうとして接触してきたのだが、磯野とてまだ今日は瀬人と顔を合わせてもいない。
そもそも、業務連絡以外の会話らしい会話などしない間柄なのだ。周りは何かと勘違いをしているようだが、磯野は瀬人と「仲が良い」わけではない。
瀬人は磯野を「信頼」している。それだけなのだ。
だが、それだけでいいと磯野は思っている。それが何より幸福だとも思っている。どれほどの社会的地位を得たとしても、超えられない価値が今の自分にはあるのだ。

数日間、会社を留守にしていた瀬人のデスクには、たんまりと書類の束が置かれていた。社内文書は出来るだけペーパーレス化してはいるものの、それでもまだまだ仕事上では重要な書類はある。
「……急ぎは送れと言ってあったんだがな」
時計型ほどに小型化されたデュエルディスクは、ネットワークに常時繋がっていて世界中どこにいても通信が可能だ。
書類に目を通しながら瀬人は、サインを書き込んでいく。大概が社長の承認を待つ類いだ。
「社長、お茶をお入れしましょうか」
「ああ、頼む」
若い女性の秘書が瀬人に声をかける。瀬人は書類に目を向けたまま返事をした。それから、しばらくして扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼します」
「……どうした?」
声で判断した瀬人は、顔を上げた。室内でもかけたままのサングラス姿の者がドアを開けて入ってくる。こちらから呼びつけなければ、磯野は滅多に社長室には来ない。
「瀬人さまが留守の間のご報告を……」
「何か問題でもあったのか」
「いえ、ございませんが」
社内外でトラブルがあれば、すぐに知らせるよう瀬人は磯野に命じている。それは瀬人があの世界に渡っている最中も、二十四時間体制で守られているのだ。


デュエルディメンションシステムが成功して、十二年が経過していた。幾度となく瀬人は次元の異なる世界へ旅立ち、生還を果たした。
それを奇跡だと言うものも居れば、精神病だとあざ笑う人もいた。一年が経つごとにシステムは進化し、それらが現実に起きていることなのだと瀬人は世の中に証明していく。
しかし十二年の時が経っても、その世界に足を踏み入れられるのは瀬人だけだった。
帰還する度、瀬人は不満を露わにする。けれども充実した日々が彼の中にはあった。決して完成することのない、人生をかける夢があの次元にはあった。

「――以上です」
「そうか。ご苦労」
「では、私は」
「ああ、いや……待て。磯野」
秘書は別の部屋から淹れてきた紅茶をトレイに乗せて、運んできた。
「君、もう一杯持ってきてくれないか」
「は、はい!」
瀬人が命じると、運んできたカップを置いて、元来た道を秘書は急いで戻った。秘書にとってこんな要求は初めてだった。
「座ったらどうだ」
来客用の椅子に目を配る。磯野は左右を見渡した。
「磯野。オレとお前以外に他に誰がいるというのだ」
「あ……いえ、あの……?」
「オレはお前を茶に誘っているんだが」
「……え……ええッ!? 瀬人さま……どういう風の吹き回しで?」
思わず口を衝いて出た言葉が、失礼にあたらないか、などと考える余裕は磯野には無かった。
その様子を目にしても瀬人は喉仏を震わせ、クク、と低く笑うだけだった。機嫌が相当良い証拠であった。
「飲まないのか」
「で、では。頂きます」
主人を前にして、飲食をした覚えはほとんど無い。磯野は両手でティーカップを持ち、淹れたての熱い紅茶をすすった。
「……フ」
瀬人は、テーブルを挟んだ向かいに座り足を組んだ。そして、何かを思い出したかのように笑う。
「あちらで……何かあったんでしょうか?」
磯野は瀬人の様子の変化に気付き、問いかける。きっとあの世界での出来事が要因なのだろうと思う。
「流石だ。察しがいいな」
瀬人はほとんど無意識に左手を摩り、小指のリングを撫でる。その指先の動きは、どことなく意味を感じさせる。
「失礼します……」
戻ってきた秘書が、もう一杯のカップを運んできた。向かい合って座っている二人の姿に、彼女は目を丸くさせていた。
それもその筈だ。あの“海馬瀬人”が側近の男と和やかに談笑している……とは他の社員に話しても信じてはもらえないだろう。
「ああ、下がっていいぞ」
「はい」
秘書の戸惑いは磯野にもひしひしと伝わってきた。分かりますとも、と磯野は彼女に頷く。
「十二年だ。十二年……長かったぞ」
「そうですか……」
運ばれてきたばかりの紅茶のカップを持ち、瀬人は語る。そして一口飲み、カップをソーサーに置いた。
「オレは昨日、ようやくヤツを打ち負かした……!」
瀬人の目つきが、変わった。光を宿し、少年の時分の力の漲る色を見せる。
「それは……おめでとうございます……!」
どれほどにその勝利を渇望していたかは、磯野は間近で彼らの決闘を見てきたから分かっていた。初めて出会えた倒すべき相手なのだと、瀬人が磯野にも話したのだ。
それはとても昔のことにも思え、つい昨日のようにも思えた。瀬人は十七歳だった。あれから、十二年が過ぎたとは、信じられないものだ。
十七歳の少年の姿に戻った瀬人は、喜びを実に嬉しそうに口にする。ふと、十二年前の彼らの姿が磯野の脳裏をよぎった。あまりの懐かしさに磯野の目頭が熱くなる。
「その証が、これだ」
瀬人は左手をテーブルに置いた。小指に嵌められたリングは、恐らくサイズが合っていないのだろう。よく見ると指の根本までは収まっておらず、途中で止まっている。
「ヤツの手から奪い取ってきてやったわ……クク」
悪役のそれらしい笑みと言い方をしていたが、心底瀬人は楽しげであった。
「悲願達成、ということですね」
「いいや。これで終わりではないぞ」
瀬人はまた右手の指先でリングに触れている。瀬人の手元を視界の端で確認しつつも、磯野は会話を続けた。
「またお通いになられるのですか」
「ああ。システムも大分安定し、肉体への負荷も軽減されている。いずれは、どんな人間でも使用可能にしたい。それには実験を重ねるしかあるまい……それに」
いくらデュエルディメンションシステムが安全なものになろうとしていても、待つ側としては未知の世界へ行く瀬人を案じてしまう。瀬人を待つ人間は大勢いる。
「まだ一勝だ」
瀬人は笑った。磯野はすっかりぬるくなってしまったカップをいつまでも両手に抱えたままだった。
「まずは両の手の飾りから、次は耳飾りだな。ヤツは王だか何だかは知らんが、やたらと貴金属を身に着けているからな。勝つごとに奪い取ってやると宣言してきた」
「瀬人さま……それでは、まるで野球拳のようではないですか?」
「何だと? あんな下劣極まりないゲームと一緒にするな!」
「いえ、ですが……勝利の証にお相手様の装飾品を貰い受けるのでしょう?」
磯野は笑いを堪え、わずかに体を揺らした。口元を手で覆ったのだが、瀬人にはお見通しだったようだ。
「服まで脱がそうとはしていない! 磯野ォ、何を想像している!」
「いえ……申し訳ありません……ッ!」


海馬瀬人の左手小指には、金色のリングが嵌められている。
サイズの合わない、どこのものとも分からない不思議なデザインは、一流企業の社長が身に着けるにはそぐわないものだろう。
だが金色に輝く証は、瀬人のそばに彼の存在を強く感じさせた。
瀬人と彼を知る者達は、異国の地で、日本の地で、童実野町のどこかで、その光を目にして、また彼を思い出す。
今も道は続いている。『ボク達は、繋がっているんだ』……と。

いついかなる時にも、瀬人の指には太陽の輝きを集めた金色のリングはあった。
それを目にした誰もが、「エンゲージ」という言葉を思い浮かべることだろう。



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